広開土王碑をめぐる日本陸軍の思惑

 ところが広開土王碑はその存在が長らく忘れられ、ようやく近代に入り発見されるに至るのである。発見されるや否や、最初にこの碑に注目し、解読作業を進めたのは、日本の陸軍参謀本部であった。なぜ、日本の陸軍参謀本部がこの石碑に注目したのか。それは、この石碑に書かれている内容と深い関わりがある。


 広開土王碑文は、3段の内容で構成されている。まず第1段では、始祖・鄒牟(すうぼう)王(朱蒙(しゅもう))の建国神話と、広開土王碑を建てた由来について記している。次に第2段では、広開土王一代の武勲を年代記的に記している。この中に、後に紹介する、倭が高句麗と交戦したという記事が出てくるのである。そして第3段では、広開土王陵の守墓人330家の内訳と、彼らに対する禁令や罰則について記している。高句麗の建国神話に始まり、4世紀末から5世紀初めにかけての東アジアの国際情勢、さらには高句麗の異民族支配や国内の支配体制の様子などが、漢隷の書体をとどめた重厚な漢文によって、豊かに描き出されているのが、この広開土王碑なのである。




 広開土王碑は、1880年(明治13)頃に発見され、その後、日本の陸軍参謀本部によって広開土王碑の字を紙に写しとった墨本(ぼくほん)が持ち帰られ、解読作業が進められた。この墨本を持ち帰った人物が、当時陸軍参謀本部の密偵だった酒匂景信(さこうかげあき)であった。


 日本の陸軍参謀本部が広開土王碑に強い関心を寄せたのは、広開土王碑文の中に、次のような記述が見られるからである。


「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民。以六年丙申王躬率□軍討伐」(百残<百済の蔑称>・新羅はもとは<高句麗の>属民であり、高句麗に朝貢していた。ところが倭が辛卯の年<391年>に<海を>渡って来て百残を破り、東方では新羅を□して臣民としてしまった。そこで、六年丙申<396年>をもって王はみずから軍を率いて討伐した。)


 この箇所が、日本古代の大陸進出の歴史を物語る資料として注目された。近代日本の大陸進出を歴史的に正当化する意味で、広開土王碑文は大きな役割をはたしたのである。


 このことを示す象徴的な出来事がある。東京帝国大学教授だった東洋史学者の白鳥庫吉(くらきち)は、1904年(明治37)の日露戦争の後に、次のような講演を行っている。


「私は此碑文を日本に持て来て博物館なり、公園なりに建てるのは実に面白いことであると思ふ。英吉利とか、独乙とか、仏蘭西とかなら何万円かかっても必ず自分の国に持て来るに違いない。只此碑文に日本に面白くないことが書いてある。……ほんたうの所日本は高句麗に負けたらしいのである。此高句麗に敗れてから日本の勢力が振はなくなったのであるから、日本が大陸の戦争に負けたならば再び大陸に乗り出すことは容易ではない。現に今回の戦争などでも是非とも露国に勝たなければならぬ。若し負ければ今後の国勢上に容易ならざる影響を及ぼすべきことは古の歴史が証明して居るのである」(「満州地名談 附好太王の碑文について」初出1905年、『白鳥庫吉全集』5巻)


 「こんな事を書いた碑を私が持つて帰らうと申すと、或は面白からぬ事を云ふものだと考へる人があるかも知れませんが、併し私の考へでは斯様に敗を取った事をありのままに我後世に知らすならば、子孫の末に非常な印象を与へて憤慨心を持たす事が出来ると思ふ。それは敗を取った結果を知らしむるに利益があるからである」(「戦捷に誇る勿れ」1907年頃の講演、『白鳥庫吉全集』10巻)


 つまり広開土王碑文にみえる倭と高句麗の交戦を、日本とロシアの戦争になぞらえ、日露戦争後の情勢下にあって、これを国民に教訓として示す必要があるとする考えから、広開土王碑の日本への搬出を提案したのである。なんとも驚くべき提案である。実は軍部もこの計画を実行に移すべく検討を進めたが、最終的には実現しなかった。