もう一つの石碑「金井沢碑」

 上野三碑(こうずけさんぴ)の一つである山上碑(やまのうえひ)が建立されたのが681年。それから45年ほどたった726年に、同じ地域でもう一つ石碑が建てられる。それが、上野三碑の一つである金井沢碑(かないざわひ)である。


金井沢碑(写真提供:高崎市教育委員会)


 神亀3年(726)銘をもつ金井沢碑は、高崎市山名(やまな)町金井沢に所在する。山間を流れる金井沢川にそった谷間から、ゆるい斜面をのぼった丘陵の中腹に南向きに建てられている。むかしの地名でいえば、上野国(こうずけのくに)多胡郡(たごぐん)山部郷(やまべごう)にあたる場所である。


 碑文の内容は、次の通りである。




〔碑文〕
上野国羣馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自(他田)君目(頬)刀自又児(加)
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次(若)蹄
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
  神亀三年丙寅二月廾九日




 やや難しい内容だが、これを現代語訳に直すと、次のようになる。


〔現代語訳〕
上野国群馬郡下賛郷高田里の三家子□が、七世父母と現在父母のために、現在侍る家刀自(=妻)の他田君目頬刀自、又児の加那刀自、孫の物部君午足、次に蹄刀自、次に若蹄刀自の合せて六口、また知識として結ぶところの三家毛人、次に知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合せて三口、このように知識を結んて天地誓願したてまつる石文。神亀三年丙寅二月二九日





 内容をよく読むと、三家子□という人が、「七世父母」と「現在父母」、つまり自分の先祖の供養を目的に建立した石碑のようである。さきにみた山上碑と同様に、石碑の建立にかかわった人物の系譜が書かれている。この系譜をどう解釈するかが、この碑文をどう評価するかという問題ともかかわってきて重要である。


 碑文中の系譜については古来さまざまな説が出されてきたが、近年は、供養者(すなわち石碑の建立者)を、「三家子□」とその妻の「他田君目頬刀自(おさだのきみのづらとじ)」ととらえ、系譜を次のように復元する説が有力である。




 これによると石碑を立てた人は、上野国群馬郡下賛郷高田里の「三家子□」とその妻ということになる。


まず注目したいのは、ここに出てくる地名である。群馬郡下賛郷は、「賛」を「さぬ」と読み、すなわち山上碑に出てくる「佐野三家」の故地であると考えられる。


 地名だけではない。「三家子□」という人名にみえる「三家」というウジ名も、佐野三家(ミヤケ)に由来するものであろう。つまり、佐野三家にかかわる一族ということである。これらの事実は何を意味するか。


 つまりこの金井沢碑もまた、山上碑と同様、佐野三家と関係の深い人物たちによって建立されたものと考えられるのである。大きくとらえれば、山上碑も金井沢碑も、ほぼ同じ地域の、同じ祖先をもつ人々によって作られたものといってよい。違いは、二つの碑の間には45年の開きがあるということである。