「多胡碑」に記された歴史上の大物

 上野三碑(こうずけさんぴ)のうち、山上(やまのうえ)碑と金井沢(かないざわ)碑に注目すると、古代の地域社会が律令制を導入した様相が見てとれる。そしてそれは、日本の歴史におけるジェンダーの形成とも、深く結びついているのではないか。


 上野三碑の中のもう一つの石碑、多胡(たご)碑(711年)も、群馬県のこの地域に律令制が導入されたことを示す石碑である。


多胡碑(写真提供:高崎市教育委員会)


〔碑文〕
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

〔現代語訳〕
弁官が命ずる。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良(かんら)郡、3郡のうち300戸をあわせて郡となし、羊に給い、多胡郡となせ。和銅4年3月9日甲寅(きのえとら)に命ずる。左中弁・正五位下多治比真人(たじひのまひと)、太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊(みこと)、右太臣・正二位藤原尊。


 当時の朝廷が、上野国(今の群馬県)に命じて、多胡郡という郡を建郡することを命じたとする内容である。冒頭の「弁官符(おお)す」とは、弁官が命令するという意味で、この石碑は、律令で定められた公文書の書式を意識してつくられたものである。


 石碑の最後には、その当時の朝廷の「閣僚」の名前が記されている。「太政官二品穂積親王」は天武天皇の皇子で、このとき知太政官事という職にあった穂積親王(ほづみしんのう)、「左太臣正二位石上尊」は、左大臣石上麻呂(いそのかみのまろ)、「右太臣正二位藤原尊」は右大臣藤原不比等(ふじわらのふひと)をそれぞれさしている。


 そして、奇しくもここに名前のある「藤原不比等」こそが、701年に施行された大宝律令を編纂した人物である。





律令制の本質とは何か?

 701年に大宝律令が制定・施行されて以降、日本は律令制を軸とする政治体制に大きくシフトしていくことになる。


 律令制の本質とは、ひと言で言えば高度な官僚制である。では、官僚制の本質は何か?それは、簡単に言えば、税金を集めてそれを分配する仕組みをつくることである。つまり税制を整備することが、律令制の導入により始まったのである。




 もう一つ、律令制の導入で重視されたのが、軍隊の創出である。指揮系統を一本化する軍隊を創出することが、当時の東アジアの中で強靱な国家をつくることを意味した。


 税の徴収、軍隊の創出という二つの大きな目的を達成するために注目された労働力が、成人男子であった。租・調・庸という税のうち、中央の財源となる調と庸は、成人男性にのみ課された税で、女性には課されなかった。このほかに雑徭(ぞうよう)と呼ばれる労働負担も定められているが、これもまた成人男性に課される負担である。さらに軍団を構成する兵士たちも、成人男性から徴発されたのである。


 こうして、中国から導入した律令制により、成人男性の労働力を軸とする制度設計が行われたのである。


 戸籍や計帳といった、人民一人ひとりを把握するための帳簿も、そのためにつくられた。一つの戸に、税金を徴収することができ、兵士として活躍できる成人男性が何人いるかが、古代国家のもっぱらの関心事となったのである。戸籍の上で、男女の別、さらには年齢までを事細かに書き分けているのはそのためである。


 こうして、律令制を導入した古代の国家は、成人男性を労働力の中心に据えた国家となった。私たちが学ぶ歴史の教科書にも、租・調・庸の税制や、軍団兵士制といった記述が並び、あたかもこの時代、男性に大きな社会的役割が与えられていた、と思ってしまいがちである。