輪島塗で知られる石川県輪島。
その昔、輪島の名産だった意外な品とは?

 山形県酒田市の亀ヶ崎城跡から出土した木簡群は、戦国時代から江戸時代初めにかけての、権力者の贈答の実態を知る、またとない資料群であることがだんだんとわかってきた。そこには、いまの私たちにもなじみのある「砂糖」のような贈答品も登場するが、そうではなく、いまの私たちにはあまりなじみのない贈答品も登場する。


 「輪嶋さうめん」と書かれた荷札木簡が、その例である。


 その木簡は、木簡の上端に左右から切り込みの入った、典型的な荷札木簡の形である。木簡の両面にわたって、次のような文字が書かれていた。


・「>輪嶋さうめん一□□□」
・七月□七日小まつ□



 荷札木簡のオモテ面には、はっきりと「輪嶋さうめん」と書かれている。「さうめん」とは「そうめん」、すなわち「索麺」のことである。



 ここでまた、無知な私があれこれと考える。輪嶋というのは、輪島塗で有名な、石川県の輪島のことであろうか。しかし、輪島の特産品が漆器であることはよく知っているが、索麺(素麺)というのは聞いたことがない。


 刊行されている『輪島市史』を見ると、その答えはすぐ見つかった。輪島素麺とは、漆器にとってかわられるまでの、輪島における特産品であったのである。


 天正15年(1587)の「索麺御印写」によると、中世には索麺座が置かれていた。また、前田利家によって、「十楽たるべし」となり、自由営業許可となった(『輪島市史』、豊田武著作集<第1巻>『座の研究』1982年)。


輪島市河井町の市姫社(写真:三上喜孝)

輪島市鳳至町・住吉神社境内の市姫社(写真:三上喜孝)

輪島市内の神社の石塔の中には、そうめんの材料である小麦粉を挽いた石臼が使われているものがある

 輪島素麺は、当該期における贈答品として広く知られていた。だが、その評判はあまりかんばしいものではなかったらしい。『蔭涼軒日録』 長享元年(1487)5月21日条には、次のような記述がある。


  邸主曰く、「この麺はなはだ細し。定めて嫌うべし。これ能登より出でたるものなり。遊佐加賀守これを恵すと云々。はなはだ細くはなはだ黒し。その味もまた不可なり。遠来を賞するのみ」


 なんともひどい言われようである。「能登の特産品だといって、遊佐加賀守が贈ってくれたが、麺は細いし黒いしで、好みではない。ただ遠くから来たということでありがたく思うだけである」というのである。どうもこのころ、京都では、三輪素麺のような太い素麺が好まれていて、能登の麺は細く、しかも麦皮などの不純物が混じっていて黒っぽいということで、品質が悪いと思われていたようなのである(盛本昌弘「日本中世の粉食」『雑穀U』 青木書店、2006 年)。


 ただ、贈答品としての輪島素麺は、当時の文献史料にいくつもみえている。


@『私心記』(蓮如上人の末子実従の日記) 「天文八年八月六日の昼に、北殿のところに能登の『ワジマサウメン』が下された」


A『石山本願寺日記』 「帰牧斎から、輪島麺 二箱〈代五百計〉が来た」(天文22年〈1553〉10月25日条) 「三好筑前へ綿十把と輪島索麺二箱を遣わした」(同年12月27日条)


B『伊勢貞助雑記』(伊勢貞助は足利将軍家の近臣で、天文末ごろから弘治・永禄に至る人) 「能登から輪島索麺 を箱に入れて畠山氏が進上した」


C『御ゆとのの上日記』 「のとよりのほりたるとて……りんたうそめん一はこまゐる(能登より来たといって、「りんとうそうめん」一箱をいただいた)」(永禄5年〈1562〉11月13日)


D「京都御所東山御文庫記録」(甲七十六雑々)(永禄ごろの記録) 「此の輪島索麺は名物と申して能州から到来しましたので、失礼の至りとは存じますが進上いたします」


 これらを見ると、輪島索麺は室町時代後期、京都の上流社会の間において、贈答品としてもたらされていたことがわかる。この中で、Cの『御ゆとのの上日記』に輪島素麺を「りんたうそめん」と読んでいることは注目される。「輪島」を「りんとう」と音読みしてしまっているわけだが、おそらく御所に仕える女官は、贈られてきた素麺に「輪島素麺」をどう読んでいいかわからず、「りんとう」と音読してしまったのではないだろうか。都では「輪島素麺」がブランドとしてあまり認識されていなかったことを示しているように思えて、おもしろい。