武田信玄ゆかりの「黒川金山」。そこで著者が遭遇したものとは?

 なぜ私は、古い文字を解読するという迷宮に入りこんでしまったのか。

 その原体験をたどると、どうやら大学生のときの体験に行き着く。


 大学時代、考古学研究会というサークルに入っていた私は、大学1年と2年の夏休み、山梨県塩山市(現、甲州市)の黒川金山(くろかわきんざん)の学術調査に参加した。軽い気持ちで参加した調査だったが、それがとんでもないことだったことに気づくのには時間がかからなかった。初日、塩山駅を降りて、そこから車に乗せられて、山道を延々と登っていき、「あそこが私たちのベースキャンプですよ」と、山深い場所にある小さな山小屋を指さして教えられたときには、もう引き返せない状況に置かれていたのである。


 黒川金山とは、甲斐国を治めた戦国大名・武田信玄の隠し金山といわれた金山遺跡である。武田信玄は、領国である甲斐国内の金山の開発に力を入れ、採掘された金をもとに、貨幣制度を整備した。いわゆる甲州金と呼ばれるものがそれである。のちに江戸幕府は、甲州金を範として幕府の貨幣制度を整備したといわれている。


図:編集部作成(三上喜孝監修)

 さて、隠し金山のいわれのとおり、黒川金山遺跡は多摩川の水源近くの山奥深くに存在していた。私たちは山の中にテントを張り、そこから毎日片道30分もの山道を登ったところの発掘現場へ行き、1ヵ月近く調査を行った。電気もガスも水道もない、過酷な現場であった。発掘調査も初めての経験だが、山中でのテント生活も初めての経験である。上は博士課程の大学院生から、下は大学1年生まで、共同生活をしながらの発掘調査だった。


 黒川金山遺跡は、標高1350-1400メートルの鶏冠山という山の一帯に広がる遺跡である。そこには、金の採掘のために集められた金山労働者たちの生活の場が広がっており、彼らの生活の場は黒川千軒と呼ばれていた。「千軒」とよばれるがごとく、いまから400年ほど前には、この山奥に賑やかな鉱山街が広がっていたのである。


 効率的に調査を進めるためには、グループごとに発掘現場の担当を決める必要がある。私たちのサークルが担当した発掘現場は、黒川千軒そのものではなく、そこからやや離れた、同じ山の中腹にある「寺屋敷」と伝承されている平場だった。


 金山での採掘が過酷な労働であったことは想像に難くなく、多くの犠牲者が出たであろうことも容易に想像できる。常に危険と隣り合わせの金山労働者たちにとって、信仰の対象や弔いの場としてお寺の存在は必要不可欠なものだったろう。


 「寺屋敷」と伝承されていたくらいだから、何か寺院らしきものがここに存在したのではないかと期待は膨らんだが、調査期間が限られていたこともあり、残念ながらそれらしき建物跡を発見することはできなかった。その代わり、発掘していくと、江戸時代のものと思われる、お経の一文字を書いた石を積み上げた礫石経塚(れきせききょうづか)が発見された。


 礫石経塚とは、手のひらにのるくらいの小さな石に、墨で経典の一字を書き、それを塚状に積み上げたものである。礫石経は一字一石経(いちじいっせききょう)ともいう。経典に使われている文字を一字書くことが、功徳につながるのであろう。


図:編集部作成(三上喜孝監修)

 もともと経塚とは、平安時代中期の末法思想の流行にともない、お釈迦様の教えを後世に残すために作られたものだった。


 末法思想とは、釈迦の教えが時代を経るにつれて次第に失われていき、ついには修行も悟りも得られなくなる末法の世に至るという仏教の歴史観のことをいう。日本では、平安時代の永承7年(1052)が末法元年と考えられ、この頃から盛んに経塚が作られるようになった。


 経塚とは、紙の経典を巻物の形にして銅製や陶製の経筒に収め、霊験あらたかな山の上に埋めたものをいう。釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒が現れ、悟りを開き、人々を救済すると考えられており、それまでの間、釈迦の教えを保存しておく必要があることから、経典を地中に埋める行為が行われたのである。いってみれば仏の教えを未来に伝えるための「タイムカプセル」が、経塚なのである。


 年代のわかる最古の経塚が、平安時代の貴族、藤原道長が寛弘4年(1007)に造営した金峯山(きんぷせん)経塚である。現在の奈良県吉野郡天川村の大峰山山上ヶ岳は「金峯山」と呼ばれ、その頂上に経塚が作られたのである。標高1719メートルの険しい山道を藤原道長自身が登り、お経を入れた経筒を頂上に埋納した様子は、彼自身の日記である『御堂関白記』にも記されている。金峯山からは道長がそのときに埋納した銅製経筒が見つかっており、国宝に指定され、現在京都国立博物館に寄託されている。


 江戸時代になると、追善供養などの目的で、手軽な石に経典の字を一字ずつ墨書して塚を築くという礫石経塚が全国各地で作られるようになり、経塚は様変わりする。庶民の信仰の一つとして変化するのである。