• パックンこと、パトリック・ハーランです。
    ここに骨を埋めるつもりの僕が、愛する日本の未来のために、
    毎回「皆さんと一緒に考えたい問題」をひとつ提示します。
    難しい話はナシで、 ちょっとだけ「国内外両側からの視点」
    を知ってもらえたら嬉しいです。


第21回  国民による裁判は本当に国民のためになるのか

 

 今回のテーマは裁判員制度です。2009年5月のスタートから約9年がたちますが、読者の皆さんの中に、もう裁判員の経験をしたという方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。
 最高裁判所のデータによれば、2017年末までに裁判員を経験した方は全国で約6万人。日本経済新聞の試算によると、生涯を通して裁判員に選ばれる確率は112人に1人です。20歳以上の日本国民なら誰でも選ばれる可能性があります。

 

問題は、裁判員の負担の大きさ

 司法に対する国民の信頼向上につなげるため、国民の視点や感覚を裁判の内容に反映させるため…などの理由から、プロの裁判官だけでなく民間人も刑事事件の裁判に参加することになりました。
 僕も学生時代は模擬裁判を行ったりしていました(実は高校に「模擬裁判部」もありました!)。裁判は興味深いものだと思っていますし、重要性はよく理解しているつもりです。国籍がないから日本で裁判員になれないのを、ちょっと残念に思っているぐらい。だから、国民にもっと関心を持ってもらいたいという気持ちもよくわかります。

 でも、裁判での判決によって、被告や被害者の人生が大きく変わることも少なくありません。だから裁判員になった方の責任は相当大きなものだと思います。そして、それに伴う負担も大きい。

 まずは、物理的な負担です。平均審理日数は9.4日というから、働いている人はもちろん、介護や育児をしている人にもちょっと負担が大きいかもしれませんね。もちろん一生のうちで何度も経験するものではないけれど、実際のところ、原則として辞退は認められないとしながらも、2017年のデータでは66%もの人が何らかの理由で辞退しています。

 それから忘れてはいけないのが、精神的な負担。そもそも他人の一生が左右されるような判決を素人が決めるというだけでも大変ですよね。
 また日本の場合は、有罪か無罪かという判断に加え、被告の量刑も裁判員が決めます。ヨーロッパでも陪審員が量刑を判断していますが、ヨーロッパには死刑がほとんどありません(死刑制度廃止がEUの参加条件になっています)。でも日本には死刑があるし、裁判員裁判の対象になるのは重大な刑事事件であるため、「死刑か?無期懲役か?」という重い選択を民間人がしなくてはならないケースもあるのです。裁判員として死刑の判決を出した後に、深い罪悪感に見舞われて苦しむ人もいるそうです。

 

公平性が問われるアメリカの陪審制度

 裁判員の負担が大きいという問題の他に、裁判の公平性という面ではどうでしょうか。
 実は、日本で裁判員制度が導入されると聞いた時、僕は反対でした。“他の多くの国では裁判に直接国民が関わる制度が設けられていて、国民の司法への理解を深めている”と最高裁判所は説明していましたが、国民による裁判は、本当に国民のためになるのでしょうか? 法律の専門家ではない民間人が、その時の感情や個人の考え方で判断するのではなく、今まで通り法律の専門家が厳格に判断する方がいいんじゃないかと思ったのです。

 確かに、ヨーロッパやアメリカなど、陪審員として裁判に参加することが国民の義務になっている国は数多くあります。
 ただし、少なくともアメリカの陪審裁判では多くの問題が指摘されています。陪審員の人種構成や職業などによって、審議の結果が大きく左右されることがあるからです。たとえば、白人に対する求刑と黒人に対する求刑で、差が出ることもあります。

 有名なのが「ロドニー・キング事件」。1991年、スピード違反で現行犯逮捕された黒人のロドニー・キング氏が20人ほどの白人警察官らによって車から引きずり出され、無抵抗にもかかわらず、警棒などで殴られたり蹴られたりして大怪我を負った事件です。後に、その場を撮影していたアマチュアカメラマンのビデオテープに映っていて身許が確認できた4人の警官(白人警官3人とヒスパニック系警官1人)が起訴され、陪審員による裁判が行われましたが、陪審員たちの評決はすべて無罪。実は、陪審員のほとんどが白人で、黒人は1人もいなかったのです。人種差別を浮き彫りにした裁判だと黒人たちは怒り、結果的にロサンゼルス暴動に発展しました。

 陪審員の人種以外に、職業による偏りも見られます。陪審員に選ばれた人は原則として裁判に出なければいけませんが、医療関係者や法曹関係者や政治家、そして自分が仕事に出られないことで「経済的に支障が出る」ことを証明できる人は免除されるので、企業経営者や高い地位に就くホワイトカラーは免除されることも多いです。一方、戸籍制度がないアメリカでは運転免許の登録などが陪審員の抽選に使われたりすることから、運転しない人は最初から呼ばれないことがあったりもする。さらに、裁判が始まる前に弁護士や検察が抽選にあたった候補から陪審員を選べるため、それぞれ立場で「やりやすい」と判断された人が残るようになっています。つまり、結局は「主観」が決め手です。結果として、陪審員は社会全体の構成をちゃんと反映していないのではないか、そしてこの偏りが裁判結果に影響を与えているのではないか、と指摘されています。

 

国民に開かれた裁判を目指すなら、もっと情報を開示すべき

 アメリカではこのような陪審員の偏りが懸念されている中で、陪審員と裁判官との間で生じる「判決の格差」も注目されています。大まかな傾向として、陪審員が判決を下す裁判は、より高い確率で有罪になるのです。
 ある連邦裁判で行われた7万5000もの判決を調べた調査では、裁判員が84%の確率で有罪判決を下したのに対し、裁判官の場合は55%にとどまりました。被告にとって人生がかかっている裁判の結果にこんな差があることは、大きな心配材料になりますね。
  日本でも似たような傾向があります。裁判員による裁判は、裁判官による裁判よりも被告に厳しい量刑となることが多いと言われています。検察の求刑以上に重い量刑が下されることもあります。
 たとえば、2010年に大阪府で起きた幼女虐待死亡事件の裁判員裁判では、「児童虐待は大きな社会問題であり、今まで以上に厳しい刑罰を科すべき」として、その両親には、検察による求刑の1.5倍に当たる懲役刑が科されました。しかし裁判官による最高裁では、「量刑不当」としてその判決が破棄されました。
 当時1歳だった子どもを日常的に虐待し、暴行を加え、死にいたらしめるのは、もちろん非道な行為です。実際に裁判で生々しい発言を聞いたら、幼くして亡くなった被害者に対して、憐憫の情が涌くのは当然のことでしょう。ひどいことをした親たちを許せないと思い、「罰したい」という気持ちも強くなるかもしれません。
 その結果として、裁判員による判決が従来の求刑や検察の求刑を大幅に超えるものになったのでしょう(欧米でも、裁判中に犯行を生々しく描写したり、残酷さを伝えるエグい証拠写真を見せたりする場合に 有罪判決の割合が上がる傾向が見られます)。
 でも、過去の判例や裁判官による裁判とのバランスをどうとるのかも大事ですし、裁判員たちの感情で量刑が変わってくるとしたら、公平性に問題が出てきます。でも、めったに裁判に参加しない一般人が感情や思い込みに惑わされないで冷静に判断するのは、やはり難しいこと。だからプロの裁判官に任せるべきであろうと、裁判員制度が導入時に僕は思いました。

 ただし、裁判員裁判が始まってから10年も経っていません。まだ試行錯誤の段階です。今後どうなっていくのか、もう少し長い目で見守ってもいいのかもしれません。民間人が司法のプロセスに参加するメリットも大きいはず。裁判員の負担や公平性の課題をクリアできれば、被告にとっても、被害者にとっても、国にとっても、いい制度に成長していく可能性も十分あるでしょう。

 そのためにも、今の時点でもう少し改善してもいいんじゃないかなと思う点を一つあげてみます。それは裁判員制度における守秘義務です。日本では、裁判員は自分がかかわった裁判について、一生、守秘義務を負います。さらに評決に至るまでの評議の中身も非公開です。裁判員たちがどのように考えて、その判決を下したのか、何が争点になったのかという経緯は伝わってきません。
 “国民に開かれた裁判”を目指すのであれば、評議録の公開を目指してもいいかもしれません。もちろん匿名にし、被害者が特定されて二次被害が起きないようなプライバシーや人権への配慮は必要です。無罪になった被告も他の証言者も守られる権利があります。でも、これもバランスを取り、制度の改善、そして今後、裁判員になりうる国民の教育のために、出せるだけの情報と評議内容を出してもらうべきだと考えています。

 

開かれた司法のためには、取り調べの可視化こそ急務

 さらに言えば、僕は裁判そのものよりも、開かれた司法を目指す方が急務なんじゃないかと思っています。つまり、警察の取り調べの可視化です。今、冤罪を生む大きな要因になっているのは、強要による虚偽の自白、目撃者の証言の誤りなどです。そうしたものをなくすために、尋問はすべて録画して公開するとか、弁護士を同伴させて可視化するべきではないかと思うのです。

 2016年にも大阪府警による任意の取り調べで自白の強要をされた過去の事件が明るみに出ましたが、警察による自白強要は、僕が日本に来てから何回も問題になっていると記憶しています。表に出てこないものはもっとあるかもしれません。最近は冤罪も問題視されていますが、本当に冤罪をなくしたいなら、取り調べの仕組の見直しや可視化が近道ではないでしょうか。

 もちろん、日本の警察にはいいところもたくさんありますよ。この四半世紀で何度か警察にお世話になっていますが、いつも丁寧だし、僕が受けた扱いや待遇にはまったく文句はありません。アメリカの警察官だと、たとえば交通違反の切符を切る時も、片手を常に銃に置きながら、まぶしい懐中電灯でこっちを照らして強硬な態度をとる。筋肉ムキムキだしね! 銃社会ですから、警察官もリスクが大きいんですね。それに比べて、日本では暴力を振るわれたり、ましてや打ち殺されたりする危険性はほぼゼロだから、安心して警察と接することができます。

 そして、特に素晴らしいと思うのは「交番」です。交番は、犯罪を抑止するという役割を果たしているだけでなく、住民とコミュニケーションをとりながら地域の安全を守っています。道に迷ったら気軽に行って道案内をしてもらえるし、優しく接してくれる警察官も多い。お巡りさんは、身近で頼れる存在です。
 実はこの交番、世界的にも注目されていることをご存知ですか? アメリカやラテンアメリカ諸国、アジア諸国などで、日本の交番をお手本にした「KОBAN」が取り入れられています。24時間体制で警察官が駐在して、地域のパトロールや相談窓口、事件や事故への対応などを行うシステムです。
 日本は世界でも指折りの治安のいい国ですが、交番やお巡りさんもそれに大きく貢献しているんじゃないかな。最近は都会で無人交番が増えているようですが、もったいないよね。

 話は少しずれたけど、国民にとって裁判員制度や司法のあり方はとても大事な問題です。裁判沙汰はごめんだけど、裁判員としても、そしていつ何時、当事者として法廷に立つ日が来ないとは限りません。もしもの時の備えとして、裁判員制度も含めた裁判の在り方について、当事者意識を持って考えておきたいよね。

 

次回、第22回  進まない地方創生、どうしたらいい?(前編)は、8月10日(金)公開予定です。

 

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