イラスト/赤池佳江子
青沼陽一郎
侵略する豚
〜日本の食肉とTPP〜
牛肉であれば産地にこだわるのが日本人。では豚はいかがか。
肉食が根付いたのは明治期とされるが、江戸期にも好んで食した人々がおり、ときにそれは争いの種となった。
明治維新から150年、いまや圧倒的な量の豚肉や牛肉が太平洋を行き交い日本海を渡っている。安くておいしいのはありがたいが、本当にそれでよいのか。農を守れという前に、自らの食を忘れてはいないか。
世界各地に目を向け、過去と現代を往来する本格ノンフィクション。
開国か攘夷かで揺れる幕末をスタートに、アメリカ、日本、中国を巡った旅は終わりへと向かう。
第50回 大阪万博からすべてがはじまった
米国の首都ワシントンD.C.の高級ステーキ店。店頭に陳列されているように、肉の熟成が味の決め手/撮影著者

 「きっかけは、大阪万博だった」
 応接と会議室を兼ね備えた空間の巨大なテーブルを挟んで座った白人の男性が言った。髪は短く、顎の張ったしっかりとした顔立ちをしている。後で知るのだが、彼は柔道の黒帯を持つ日本通でもあり、体型もがっしりしている。あえて日本人の知る米国人のタイプに分類するのであれば、どこかクリント・イーストウッドを連想させる。
 東京・虎ノ門。そのオフィスビルのワンフロアに米国食肉輸出連合会(USMEF=U.S.MEAT EXPORT FEDERATION)」の東京事務所がある。そこで会長兼CEOのフリップ・M・セング(Philip M. Seng)に会ったのは、まだ残暑が厳しい9月のことだった。いま彼は私の前に座って、時折、日本語の専門用語を交えながら、日本の市場開拓のあらましを話していく。
 米国コロラド州デンバーに本部を置くこの組織は、米国における個人の肉牛・肉豚生産者、肥育業者から、飼料に必要な穀物生産者、「カーギル(Cargill)」などの穀物メジャー、ミートパッカー、加工業者、輸出業者、農業関連サービスおよび産業、流通業者、それにビーフ・ボードやポーク・ボードなどの農業団体が会員となって、まず組合を立ち上げる。そこに米国政府からも資金が供出され、専門スタッフに運営を委ねた半官半民の組織として、1976年に設立された。世界中に支部を持つその主な任務は、ひと言で言えば米国産食肉輸出のインテリジェンスだ。その上に、地域に密着した販売促進活動、広報宣伝、消費者活動、畜産情報の提供、貿易事務上のコンサルティング、業界と政府機関のパイプ役を担う。米国の食肉戦略の要だ。
 その会長兼CEOのいう大阪万博──。

 いまでは“うどん県”を自称するほど、日本中に知れ渡り、商品化されている香川県名産の「讃岐うどん」だが、その登場は1970年の大阪万博だった。
 四国の香川県では、昔から二毛作が盛んで、まずは小麦を収穫してから田圃に水を引く。その小麦を使って、田植えの手伝いで集まる近隣の人たちに、休憩の合間にうどんを振る舞っていた。
 地元では古くから伝わる「うどん」だったが、万博に出品しようとしたところで、ただの「うどん」では全国どこへ行ってもいっしょで、差別化ができない。そこで「讃岐」を付けて売り出した。すると、そのコシの強さが評判を呼び、最初のブームとなった。ここから「讃岐うどん」の歴史がはじまる。
 この大阪万博で、もうひとつ日本の食の歴史に革命的な基点となる出来事があった。
 6421万人が来場し、アポロ12号が持ち帰ったアメリカ館の「月の石」の前には、約4時間待ちの行列ができたことで話題になった万博だが、外国人の入場者だけでも約170万人とされる。
 その中に、米国で牛肉を生産する牧場の関係者たちも太平洋を渡って遙々やって来ていた。
 そこで、あることに気付く。
「なんだ、これは……!」
 米国では当たり前のステーキを日本で食べようと思ったら、あまりにも値段が高い。しかも薄い。小さい。そのギャップにまず驚かされる。
 だが、待てよ……。
 牛肉の生産者たちは考えた。これだったら、俺たちの牛肉を売り込んだら、売れるんじゃないのか!? 日本と米国では牛肉の価格に格差がありすぎる。俺たちなら、もっと価格の安くて、厚い肉を提供できる。価格競争の余地はある!
 帰国した彼らは、そこから戦略を練る。日本へ牛肉を売り込むにはどうしたらよいか。
 そこでまず接触を試みるようになったのが、日本の運輸省(現・国土交通省)だった。
 当時の日本は、牛肉の輸入は認められていない。だが、例外的に外国産牛肉の輸入と提供が認められている場所があった。それが当時でいうところの「西洋向けホテル」だった。来日する外国人観光客に提供するステーキ肉は輸入で賄うことが許されていた。これが牛肉の「ホテル枠」と呼ばれ、旅行業を管轄する運輸省の範疇だったのだ。
 このホテル枠を広げる。ここにアクセスすれば、牛肉輸入を拡大することはできないだろうか……?
 大阪万博と運輸省が日本の牛肉市場を切り開く原点となっていく。

「それと同時に、業務用卸業者や大手ホテルに食肉を納品する人たちとコンタクトをとるようになった。そこでどういう商品が欲しいのか、話し合うようにもなった。将来の輸入枠の拡大を見越してのことだ」
 彼は当時を振り返るように話を続けた。
 経済発展と同時に食肉消費が伸びていくことは世界の趨勢である。
 日本も食肉の需要が伸びる時代にあった。
 万博から3年後の1973年には、貿易の自由化を目指したガット(GATT)の多国間多角的貿易交渉「東京ラウンド」がはじまる。ここから、農水省の外郭団体である畜産振興事業団(当時)が運営店約3000店を指定して、条件付きながらオーストラリア産牛肉の販売を一部認めることになった。ついに外国産牛肉輸入の門戸が開く。
 80年代になると、その輸入枠も広がっていくのだが、ここで新たな問題が生じてくる。牛肉輸入の条件というのが、畜産振興事業団によるひと月に1回の入札によるものだった。日本に入ってくる牛肉は、すべて同事業団を通し、指定業者が入札によって買い付けていくことになる。そうなると、価格だけが落札の動向を左右し、どこの業者に商品が流れるかわからない。買い手の側でも、欲しい品が確実に手に入らない。
「それでは我々売り手が困る。我々はいいもの、特徴のあるものを売りたい。それも業務用のスペックとして、要望のあるものを売りたいのに、思うようにいかない。そこで日本の取引業者ともいっしょに別の方法を考えた」
 そこで登場してきたのが「売買同時入札制度(SBS)」だった。いまでこそ、コメの輸入に「SBS米」として用いられている制度だが、そもそもの最初は輸入牛肉対策だった。
 これは、ごく簡単に言ってしまえば、輸入業者と卸業者があらかじめ相談して、売る価格と買う価格を決め、両者が連名で入札する制度だ。これを政府が認可して取引が成立する。換言すれば、国内の市場価格に影響を与えないための、国がお墨付きを与えた体のいい“談合”だった。
 ここに日本車が火種となった同年代の日米貿易摩擦が絡み、やがて91年の牛肉・オレンジの輸入自由化につながっていく。
「日本国内の需要による内圧があった。外圧ばかりが有名だけれどね」
 彼は皮肉交じりに言ったが、それも事実だった。外食産業も伸びていく時代で、輸入拡大の必要性に迫られてもいた。それに対して、日本は生産者保護を構えるだけで、増える国内の需要を満たす手立てを講じてこなかった。一方で米国側は、業者と連携して、必要な商品の開発に着手する。
「日本の客から、こういう商品はできないか、という問い合わせがきて、いわゆる“東京スペック”の開発をいっしょに手掛けてきた。日本が作り上げた商品が成功すると、それが他のマーケットでも成功する。日本は厳しいことは言うが、とってもいい先生になっている」

※引用は現代かなづかいを原則としました。 ※一部、著者の判断で加筆した部分があります。 ※引用・参考文献一覧は連載最終回に掲載します。
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