• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第1回

 

 

 甲斐性の欠片もない基宗がなにかというと峯丸を抱きあげて己が成し遂げられなかったあれこれを峯丸に託す文言を呟くのを横目で見つつ、乳もでぬくせに──と苦々しく吐き棄てる藤であったが、その藤自身が滋養の足りぬことからいよいよ乳の出が悪くなってきて、すると腹をすかせた峯丸が泣き騒ぐ。峯丸が泣くと、おろおろしたあげくになんとかしろと基宗が居丈高に藤を叱咤する。俯き加減でしばし怺えはするが、理不尽な基宗の態度に藤が破裂して、基宗を罵倒する。気位が高いということの裏にあるのは劣等感であるから基宗は暴発して藤に手をだす。父と母の大喧嘩に腹をすかせて過敏になっている子がさらに烈しく引きつけをおこして泣き騒ぐ。貧困による父母子の絶望的な悪循環のできあがりである。
 梅雨の只中の薄曇り、やたら蒸し蒸しする午後に、いつにもまして烈しく遣り合った基宗と藤であった。怒りに熱くなって打ち震えるばかりで言葉もでなくなった基宗に──腑甲斐ないあなたが稼がぬから、食うものがない。それがすべての根差。乳も満足に出ぬから峯丸もすっかり痩せ細ってしまい、これ、このとおり。一家の主としての矜恃があるならば、とっくにこのようなどん底、片が付いておることでございましょうに──と冷たい眼差しで理路整然と言い放ち、基宗を睨み据えると藤は薄笑いを泛べて荒ら屋を出てしまった。
 藤とて実際に四条町の辻に立ったことなどあろうはずもない。ただ四条町の辻には春を鬻ぐ女がたくさん立っていて、それを求める男が夜毎群れ集まってくると噂に聞いただけである。
 傘張りなどまともな銭にならぬ。投げだしてしまった基宗の気持ちもわからぬでもないが、ならばなおのこと無為無策の日々を送ることが許せない。とにかくなにか食わねば乳もでない。さて自分は男に身をまかせて銭を手に入れたとして、基宗と峯丸のもとにもどるのだろうか。
 母性が峯丸を育てねばと強い調子で囁いてくる一方で、基宗の顔など二度と見たくないという怒りを抑えることができない。揺れる気持ちに囚われていたせいもあり、しばらくは()叮嚀(ていねい)に弓なりに彎曲する桂川に沿って北上していた。それではあまりに大廻りであるとようやく気付き、北に向けて真っ直ぐに掘られた用水を目安に歩きはじめた。
 四条町の辻まで、ざっと五里弱ほどもあろうか。暗くなるころには辿り着けるだろうから、ちょうどいいと泣き顔で独りごち、湿気はひどいが降りもせず、陽射しが雲でさえぎられていることが救いだと自身に言い聞かせはしたが、ふと気付けば空腹に腹を押さえてよろめきながら歩む始末、先に見える鳥居に誘いこまれて向日(むこう)明神に踏み入れた。
 七、八十年前に建てられたという流造(ながれづくり)の社殿を一瞥し、どこか賀茂御(かもみ)(おや)神社に似ていると漠然と思い、思ったとたんに肝心の賀茂御祖神社の社殿の姿が脳裏にまったく泛ばず、ちいさく途方に暮れる。
 基宗は藤を差し置いて残り少ない食物を平然とすべて平らげるような男である。空腹の限界が藤の頭のはたらきを完全に()(がい)してしまっているのだ。まさに神も仏もない。ゆえに柏手など打つ気になれるはずもなく脇にそれ、鎮守の森に這入りかけたとき、男の視線に気付いた。
 旅の途中だろう、質素ではあるがしっかりした身なりの武士であった。腰の太刀の金具が西日に黄金色に光った。藤の美貌に目を瞠っている。
 男と藤の視線が絡む。
 藤の瞳の奥の無言の訴えを即座に悟った男が玉砂利を軋ませて鷹揚に近づいてきた。このような男はすべてにおいて躊躇いがなく、慾しいものは必ず手に入れることが直覚された。
 尋常でない威圧に藤は顔を背けかけたが、委細構わず男が腕を伸ばして顎に手をかけてきた。弓の弦を引くあたりだろうか、分厚い肉刺のできた手でぐいと顔を持ちあげられ、吟味された。
(やつ)れきってはおるが、たいした美相」
 藤は苦笑いを泛べたくなった。基宗も自分も周辺では評判の美相である。だからこそ峯丸が生まれたのである。けれどさしあたり美相では飯が食えぬ。とりわけ男の美相などなんの意味もない。されど、自分は、こうして身を寄せれば──。
「まずは飯。そして銭」
 藤も追い詰められ、肚が据わっている。睨みつけるように要求を口にすると、男は森の奥にむけて顎をしゃくった。附き従うと男は樫の巨木に寄りかかって腰の包みをひらき、なにやら差しだしてきた。稗と米を炊き込んで味噌をたっぷり練り込んで雑につぶした団子のようなものだったが、その香りだけで藤は目眩がした。
 もうひとつどうだ、と目で訊かれたので大きくかぶりを振る。唇を汚した味噌を舐めまわしたいところだが、かろうじて怺え、手の甲で拭う。舌にはまだ稗のつぶつぶの感触が残っている。玄米のねっとりした歯応えに食うということ、噛むということのよろこびが顎から喉にかけて拡がっていた。なによりも味噌の旨味に恍惚としていた。
 男は痛ましげに包みごと藤にわたしてくれた。とたんに藤は烈しい羞恥につつみこまれて俯いた。同情は、されるほうにとっては、じつにきついものだ。空腹に勢い込んで食べたから胃の腑がしくしく痛んだ。
「食わぬのか」
「──妙なところで」
「なんだ」
「自尊の心が」
「ん。なんとなく、わかる」
「わかるか」
「わかるとも。施されるほうの悲哀だ」
「──もらいっぱなしではなく、礼はする」
「ん。が、こんな味噌団子ひとつでおまえを抱けるというのも釣り合いがとれておらぬような」
わらわが慾しておるとすれば」
「ん。ならば問題なしだな」
 藤は手首を掴まれてさらに森の奥に連れていかれた。雲が切れたのか、木洩れ日が射して濃緑の下生えが浮かびあがった。
 押し倒されたのか、自ら倒れこんだのか、微妙なところであった。男は藤を見おろして獅子鼻の脇をしつこくこすっている。昂ぶったときの癖らしい。
 睨むように見据えていると、男が膝をついた。そこから先はじつに慌ただしかった。基宗のようにしつこくあれこれ手管を用いるのではなく、呆れかえるほどの一直線である。が、それが心地好かった。技巧の無粋さというものを思い知らされてもいた。
 感極まって男の背に爪を立てたとたんに、男が痙攣し、藤よりもよほど大きな呻きをあげて(くずお)れてきた。甘やかな痺れに朦朧としながら何気なく首をねじ曲げると、黒く大きな蟻が藤の眼前でどちらに進むべきか思案して触角を細かく動かしていた。
 この日以来、藤は松波の家にもどらなかった。

 

 

 

   02

 

 たとえば、このころの女の座るかたちは立て膝が当たり前であった。立居振舞からして泰平な江戸時代とはずいぶん趣がちがうわけだが、なによりも差異が目立つのは心情だ。
 説話性が強く微妙な部分もあるが、胎中天皇──応神天皇の十五年に伝わったと日本書紀にあるから、儒教の伝来は思いのほか古いわけだが、天皇のおわす我が国である。天の思想を保持し、易姓革命を受け容れなかったこともあって儒教精神は微妙に変質し、支配階級はともかく下々に対してはたいした力を持ち得なかった。
 まして戦国の世である。支配体制が強固に固まって、その下支えとして利された江戸時代とちがって儒教的精神に侵されておらぬから、男女問わず性に関しても奔放であり、主体的であった。耐えに耐えた藤のほうが例外であったとさえいえるのである。
 その藤は行方知れずとなったが、哀れなのは残された峯丸である。藤が乳房を絞るようにして与えていた乳も吸うことができなくなった。藤が出奔したその晩、間抜けな基宗は空腹のあまり泣き騒ぐ峯丸をもてあましたあげく、痩せさらばえた己の胸にそっと手を伸ばして乳首を(つま)み、あろうことかきつく押してなにやら絞る仕種をしかけて、その痛みに目が覚めたのだろう、苦く、弱く笑った。
 乳のでぬ男という性は、母が消えれば育児に関してはお手上げである。泣き疲れて虚脱しつつある我が子に、乳が無理ならなにを与えればよいのか。
 それがわからずにおろおろし、落ち着け落ち着けと呟きつつ揺れる膝頭をきつく押さえつけて黙考し、あれこれ思案し狼狽える必然さえもないことに唐突に思い至る。なにせ基宗自身が口にするものさえ欠片もないからである。
 思いあまって小指の先をそっと峯丸の口に挿しいれる。峯丸は夢中になって基宗の小指を吸う。けれど小指の先から乳がでるわけもなく、やがて峯丸はぴたりと吸うのをやめ、じっと父を見つめる。
 基宗はふたたび峯丸が泣き騒ぐであろうと身構えた。
 けれど峯丸はじっと父を見あげるばかりで鎮まっている。その幼い瞳は吸いこまれそうなくらいに深い。
 哀切である。
 これは、応えた。
 がくりと首を折り、小声で呟く。

「泣いてくれたほうが、よほど気が楽だ」

 過敏にして鈍感な基宗であるが、今回ばかりは直覚していた。藤がもどらぬであろうことを──。
 片隅に立てかけてある刀に視線を投げる。最後に抜いたのはいつか。もはや思い出すこともできない。
 手をのばした。じつに軽薄な感触だ。所詮は御借刀を私物化したものにすぎぬ。記憶を手繰れば、異様な反りがついていたことがぼんやり泛ぶ。雑な焼き入れで過剰に曲がってしまった結果と思われる。まるで唐物の刀のごとく彎曲した無様な刀だった。
 (つか)に手をかけ、力んだ。

 

 

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