• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第2回

 

 結果、基宗の姿は、朝餉夕餉に事欠いているばかりか、峯丸に与える乳の出さえ心許なくなっているというのに、ひたすら日々を無為に過ごし、横柄かつ怠惰であることを恥じることさえない最低最悪の夫であると藤の目には映じたことであろう。とことん甘えかかっているくせに、まともに甘えることもできないという悪循環である。
 真の意味で甘えかかれば、率直に己の葛藤を告げさえすれば、藤の対処もまた別のものとなったであろうに、陳腐にして強固かつ頑迷な自尊の心が、己の弱さを妻に悟られてはならぬと過剰な障壁を(こしら)えてしまっていたのである。
 己を鼓舞し、あらためて院中警固の任に就かせてくれと地面に額を擦りつけて頼みこもうと決心したことも一度や二度ではない。けれど臆病故に遠回しに探りを入れれば、同役だった者たちは基宗のことなど鼻にもかけぬばかりか、その名を聞いたとたんに渋面をつくる始末であった。のこのこやってきたら門番以下に叩き落としてやり、嘲笑してやると息巻く者もあったという。
 だが、それは北面の武士として院中警固の任にあったときから受けてきた仕打ちであった。そしてその当時も自尊の心が邪魔をし、底意地の悪いことをされればされるほど、それを凌駕する居丈高さで対処してきた。どこ吹く風といった面差しを、必死でつくっていたのだ。しかも自分より立場の弱い者に対しては、過剰なまでの傲慢が炸裂してしまうことも多々あった。それは思い出したくもないくらいにひりついた、張り詰めたものであった。永遠に治癒の望みのない膿み爛れた傷であった。
「よくよく顧みれば、俺が奴らを心の底で軽んじ、侮っていたからこそ、そして奴らが思い通りにならぬ事に苛立っていたからこそ嫌われ、疎んじられ、嫌がらせを受けていたのだがな」
 受けた仕打ちのすべてが納得できるわけではないが、すべての遠因が己にあることを、いま悟らされていた。
 己の小ささ故にあれこれ呑みこむことができずに、いちいち過剰に反応して事を大きくしてしまっていた。常に心の奥底ではこういう対処の仕方ではより悪い方向に流れていってしまうと焦りつつ、そしてそれを恐れつつも騒ぎ立てずにはいられなかった。まったくもって対人とは基宗の人生においてもっとも辛苦を伴うものであった。
 だが、もう、堕ちるところまで堕ちた。底の底に転げ落ちたのだから、あとは這いあがるだけだ。
「さらに求不(ぐふ)(とく)()。慾しいものを手に入れられぬ苦しみだ。雨漏りだらけの荒ら屋で俺は()(もだ)えしたものよ。金。位階。栄誉。賞賛。崇敬。あるいは友愛。なぜ、なぜ、なぜ、手に入らぬのか──。なぜ諸々が我が手をすり抜けていくのか、と」
 いま基宗は己に護るべき財産も名誉も地位もないことを率直に受け容れ、それどころかそれに解放感を覚えていた。己ではなく、我が子とはいえ峯丸という他者のために生きればよいのである。極限まで追い詰められて、基宗は期せずして安っぽい自我や自尊を棄てることができていたのであった。
「峯丸よ。すべてを喪ってもおまえがいる。おまえがいてくれる。あれこれおまえに重みをかけてしまいかねぬが、俺はせいぜいおまえがつまらぬ自尊の心をもたぬよう案配しよう。自尊は、たいがいが自信のなさと表裏であるからな──」
 やれやれと自身を省みて苦笑気味に息をつく。雨に濡れていた周囲の川石から(ほの)かに(もや)が立ち昇りはじめたが、日射しの強さのせいだろう、すぐに視界が明るくなった。
「それにしても腹が空いたな。油では腹にたまらぬわい。やれやれ、これぞ()(うん)(じょう)()。峯丸よ、手の甲を(つね)れば痛いであろう。この世は暑くて寒くて、痛くて、じっとしていても腹が減る。否応なしに感じてしまう苦痛。あまりに身近すぎて、まるで(ともがら)のようにさえ感じさせられる人の生の根っこの苦しみ」
 傍らに生えている草を何気なく千切る。基宗の手の中で無数に寄り集まった淡い小さな黄色い花が可憐に揺れる。
「生、老、病、死。愛別離苦。怨憎会苦。求不得苦。五蘊盛苦──。これが四苦八苦よ。なあ、峯丸。この世は四苦八苦でつくりあげられておるのだ。俺はずっとそれを認めたくなかったようなのだ。とっとと認めて、それに対する克己の心を涵養すべきところを、世が俺を受け容れぬのはおかしいと、藤が俺を尊ばぬのはおかしいと、己を棚に上げて呪い暮らしてきた」
 峯丸をあやすかのごとく黄色い小さな花をその眼前でくるくるまわす。それを追う峯丸の黒目もぎこちないながらに円を描き、基宗はその得も言われぬ表情に目を細め、嘆息気味に続ける。
「俺は誰かに尽くしたか。誰かのために骨身を削ったことがあるか。一切削ったこともないくせに、他人にはそれを求めた。俺のために身を削れと。まったくもって図々しいが、それは峯丸、いまのおまえといっしょだ」
 もう日焼けしたのか、色白の峯丸の鼻の頭が赤らんでいる。回転させている黄色い花で峯丸の鼻をくすぐる。
「赤子は無力だ。他人に骨身を削ってもらわねば死するであろう。だからこそ子は親が骨身を削ることを疑わず、こうして身をまかせる。親は我が身を削ることを(いと)わず、必死に子を育てる」
 峯丸は花瓣(はなびら)の愛撫に目を細めている。
「が、俺はこの歳になっても相も変わらず子供のままで、だから俺のために誰かが身を削るのが当たり前であると信じ込んで疑いもしなかったというわけだ。まったくもって度し難い。息をするのも嫌になる。が、俺は息をすることを己に課した。いかに苦しくとも、息をせねばならぬ。峯丸よ。俺が我が身を削らねば、おまえは死するからだ」
 ほとんど意識せずまわしていた黄色い花に視線を据える。
「まてよ」
 口をすぼめて思いを巡らす。
「これは春の七草に入っていなかったか」
 小首を傾げて朧な記憶をたぐる。
「たしか()(ぎょう)といったか。藤は母子草と言っていた」
 ()めつ(すが)めつして呟く。
「すっかり育ってしまったが、まちがいなく母子草だ」
 父と子は母子草の群生のほぼ真ん中に座していた。基宗は思案して、花をもがれた茎に手をのばし、葉を幾枚か(つま)み取り、口に放り込む。葉の裏はまだ濡れていて雨の香りがした。丹念に()(しゃく)する。青臭くはあるが、たいした味もしない。味らしい味がないというのは基宗にとっては微妙だが、苦みやえぐみがないのは峯丸にとってよいことだと判じ、緑色のどろどろができあがるまでよく噛みしめて、そっと峯丸に顔を近づける。
 唇が触れて、峯丸は怪訝そうに目を見開いた。さすがに七草のころよりは筋張っているというべきか、季節柄繊維が強靱になっているが、基宗がひたすら噛みしめたあげくの、唾液によって緑色の流動物となった母子草をそっと舌先で押し入れるようにしてやると、峯丸は我に返ったかの勢いでそれを吸いはじめた。
 峯丸が飽くまで母子草を吸わせ、それから基宗は塩気がほしいと思いつつ存分に母子草を()んだ。周辺に大量に群生しているので食べ尽くす心配もない。なにやら生に対する保障を得たかの心持ちになった。もっとも(とう)が立った母子草を食する者もそうそういないだろう。いい加減、顎に(だる)さを覚え、基宗は蟀谷(こめかみ)に指先を添えて虚脱気味に頰笑んだ。
「母子草──」
 ふたたび藤の面影が泛ぶ。
 よくも、まあ、季節外れの母子草など食されます──と、脳裏の藤は小首を傾げて苦笑気味である。
 とたんに基宗の目頭が熱くなった。
 けれどこんどは躊躇わず強く首を左右に振ったので、若干の未練と裏腹に藤の(かお)は脳裏からすっと消え去った。
 よし、と己に言い聞かせるように声をあげて基宗は峯丸をおぶいなおし、大山崎(おおやまざき)油座の神人(じにん)のもとにむかう。

 

 

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