• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第3回

前回までのあらすじ

峯丸(斎藤道三の幼名)の父・松波基宗は、代々北面の武士だった血筋を誇るも、人に嫌われ、職を失い、極貧の生活を送っていた。妻にも逃げられた基宗は、残された乳呑み児の峯丸に一旦は手をかけるが思いとどまり、我が子のために生きる決心をする。それまでの横柄さから一変、恥も外聞も捨て、油桶を担いで行商に出る。そんな子連れの油売りが京の街で評判を呼ぶ頃、世は戦乱の時代へと動き始めていた。

 

   06

 

 五月五日の端午の節供は盛夏とはいえど、(ばい)()──梅雨のさなかであるから高温多湿の陰鬱な日であることが多い。峯丸(みねまる)が数えで三歳の端午も雨こそ降っていなかったが、どんより重い灰色の雲が低く垂れ込めて、肌がべとつく()(だる)い日だった。
 旧暦で世界が動いていたこの頃の端午の節供は男児の無病息災を祈ることよりも、菖蒲と蓬で屋根を葺いた小屋に女たちが忌みごもりする五月忌みの日であり、京の男たちはといえば、暑気払いというわけでもないだろうが(いん)()(うつつ)を抜かす腥風(せいふう)吹きすさぶ危うい節供であった。抜けるような青空に鯉のぼり、そして健やかな男児といった健康的な印象は新暦のものなのだ。
 詳述すれば、中国から伝わった農暦五月五日の端午は、田植月にして虫害や伝染病などが蔓延(はびこ)りやすい悪月である五月の物忌み、邪気を払う我が国古来の習俗である(くすり)(がり)と重ねあわされて、葉や根から漂う芳香により物の怪を祓う力があるとされる菖蒲を軒につるすといったことが行われていた。それが武家の台頭と共に菖蒲は尚武に通ずるという語呂合せだけではないだろうが、なにやら武張ったものに変質していき、徐々に男の節供になっていったのだ。
 峯丸は麗しき稚児として京の女房たちの覚えもめでたく、基宗(もとむね)の油は引きも切らずといった有様で暮らし向きも安定し、洛中の商いのしやすさを考慮して西(にしの)(おか)(あば)ら屋を引き払い、油座の手引きで今道(いまみち)の下口近く、芸能に携わる者が多く住む(しょう)(もん)()村の一角に落ち着いていた。
 母のない子は父にいつもぴたりと寄り添って、最近はとてもよく歩く。ほとんどおぶわずに一日を過ごせるようになって基宗にかかっていた負担もずいぶん少なくなった。しかも溺愛のせいで甘えん坊ではあるが、我儘は言わない子であった。この日もすっかり板についた『お油宜敷(よろしゅ)うー、油で御座いー』の売り声で流していた基宗だが、端午の節供ゆえの微妙に張り詰めた気配に五感を研ぎ澄まして路地をゆく。
 辻を折れると、餓鬼共が菖蒲の葉で叩きあっていた。菖蒲の葉といっても平たく三つ打に編んだ棒状の代物だ。菖蒲打は本来菖蒲の葉を地面に叩きつけて悪い気を追い出す行事であり、先に切れたほうが負けとする遊びであったが、二手にわかれた餓鬼共は殺伐とした眼差しにして完全に喧嘩腰で、編んだ菖蒲を刀代わりに地面ではなくお互いを打ち合っている。子供の遊戯のはずが相当に険悪である。葉で切れたのか、すうっと頬が裂けて血を流している子供もいた。峯丸が怯える前に基宗はさりげなく油桶を盾となるような位置に動かし、万が一にも峯丸が打たれることのないように気配りし、脇によけて路地を抜けた。
 殺気ばしった餓鬼が峯丸に気づいて追ってきたが、基宗が顔だけ動かして静かに一瞥すると子供らしくない舌打ちを残して走り去った。じつに厭な目つきだった。 
 基宗が肩から力を抜いたそのとき、いしつぶてが飛んできた。基宗と峯丸を狙ったものではなく、いわば流れ弾だが、餓鬼共は菖蒲の刀で叩きあうのに飽き足らず、石塊を投げはじめたようだ。
 子供とはいえ多勢に無勢、いっせいに石を投げつけられて峯丸に当たりでもすれば唯事ではすまない。基宗は短く溜息をつき、足早に万里までの小路こうじを上がり、三条坊門の小路にぶつかったところで左に折れる。三条八幡の奥まった鳥居が視野に入ったあたりでようやく肩から力を抜いた。父の脱力を見てとった峯丸が呟く。
「石、飛んできた」
湛海坊(たんかいぼう)の真似事だ」
「その方は」
「義経記に曰く、我が身は聞ゆる印地の大将なり──とな」
「いんじのたいしょう」
 繰り返す峯丸に、額の汗を拭いつつ教え諭す。
「印地打。飛礫つぶて、石打ともいう。元々は正月の行事であったらしい。どう関白かんぱくと称され、栄華権勢を誇った藤原道長ふじわらのみちながの一行が叡山えいざんにて派手に飛礫を打たれたことがあったそうな。これを天狗礫というが、峯丸も耳にしたことがあろう。もちろん打ったのは天狗でも物の怪でもなく、あくまでも人だ。叡山である。だからまちがいなく山僧の類いの仕業だ。だが、それが三宝の所為──御仏の仕業ということで、飛礫を禁ずればきんが起きるという京の雑人ぞうにんたちの声高に押されてなんとなく見過ごされてきたが」
 いったん言葉を呑む。基宗が幼い頃、両親からさんざん語って聞かされた饑饉に思いを馳せる。饑饉が起きると脅されて、それを迷信と打ち遣ることのできる者など京の都には誰一人としていない。凝視している峯丸に我に返り、ふたたび語りはじめる。
「その昔、(しょう)(こく)()における盂蘭(うら)(ぼん)施餓鬼(せがき)供養にて喝食(かっしき)共の印地打が行われ、なんと印地見物をしていた室町殿の烏帽子に石が当たって、以来、若干締め付けがきつくなったらしいが──」
 要領を得ない基宗の喋りに、峯丸が小首を傾げる。室町殿の烏帽子云々は、将軍足利義持(あしかがよしもち)の頭に飛礫が当たったということである。自ら見物していたこともあり、また誰が打った飛礫かも判然とせぬことから、喝食たちは散会させられただけですんだというが、そもそも天皇や法皇と直結した武力として印地の者たちが重用された過去があり、無下に取り締まるわけにもいかず、それに乗じて下賤とされる者たちが己の要求を通したいときに天狗や仏の仕業として権力者に飛礫を投げつけるという構図である。
 仏を持ちだされると、権力者自体が仏の教えを利用して統治していることもあって、なんとなく取り締まりに力が入らぬというか、下々の鬱憤や不満の()け口としてある程度印地を認めるばかりか、偶然烏帽子に飛礫が当たった室町殿はともかく、藤原道長が打たれたように標的にされてはたまらないので黙認までいかぬにせよ、自然発生的な印地に対してはわりと頰被りしてとぼけているといったあたりなのだが、こういったことを三歳児に説明するのは難しい。ぽんと峯丸の頭を叩いて八幡脇に腰をおろす。峯丸を膝のくぼみに安置する。
「印地とは、石礫の投げ合いだ。二手にわかれて石打の合戦をする。当初は豊凶を占う正月の年占として、やがて正月に限らず祭礼の折に石を投げ合うようになり、いまではずいぶんとおとなしくなったといわれるが、とりわけ()(おん)()の印地打は尋常でなく、京の者と白川の者が印地にて争うようになってな。赤山の東海坊と称される湛海(たんかい)は、白川の印地の者の大将として名を馳せた」
 陰陽師である()一法眼(いちほうげん)の娘婿で北白川(きたしらかわ)天神宮に仕えていた湛海は職業的な石打であり、飛礫の達人だった。京の北、鴨川以東にして東山とのあいだの白川には花崗岩の巨大な塊から成る瓜生山(うりゅうやま)があり、平安京造営からはじまって、京の建築に用いる石材のほとんどは白川から切りだされたものであった。現在でも瓜生山の登山道を行けば、おそらくは大建築の柱の基礎になるはずだったと思われる正円に削りだされた途轍もない巨石などが放置されている。
 つまり白川のあたりは元々、石に関係が深く、男のほとんどは石工であった。向飛礫の輩と称される組織立った印地の党が成立した所以(ゆえん)である。そもそも印地は清めを職能とする下層の者たちと密接であり、基宗の言うとおり、年占として印地打に勝った地域は豊作になるとされて飛礫を投げ合ったのだが、湛海のような下級宗教武装集団の示威行為として過激化していき、実際的な武器として石礫を投げる技が磨かれていった。
 たとえば木曽義仲が後白河法皇を襲った(ほう)(じゅう)()合戦のとき、迎え撃つ法皇が官兵として用いたのが飛礫の印地()(じゃ)であった。白川の印地は天皇や法皇直属の兵力として重用されていた過去があるのだ。このときに北面の武士も法皇を護るために動員されていたので、基宗の先祖は印地の者たちと一緒に戦った仲であるといえる。熟達者が扱えばたかが石ころと侮れぬ威力があり、合戦にも用いられていたわけである。
 この頃は正月その他の印地打はさほど盛んではなくなり、かわりに洛中では端午の節供に一気に()ぜるといった様相であった。西岡に棲んでいた基宗は実際に印地打に出会ったことはないが、洛中にて非道い目に遭ったという噂はさんざん聞かされている。実際に、今日は油を(あがな)う誰もが首を(すく)めるようにしてぴりぴりしていた。基宗が四囲に気配りして商いしていた理由である。
 ともあれ峯丸も漠然とではあるが石投げの達人集団があることを理解し、小石を拾ってぎこちない手つきで投げて遊びだした。しばらく見守り、端午の節供の殺伐とした不穏のわりに商いもうまくいったし、西日の時刻になってきたので峯丸を促し、帰途につくことにした。
 立ちあがって歩きはじめても、帰りの道筋を決めていなかった。峯丸は適当な小石を見繕うために蛇行している。暮れかけたころ、ふと灯油が切れていることに気付いた女房から声をかけられて油が売れることも多い。帰り道は案外、おろそかにできないのだ。ここのところ歩いていない通りはどこか。思案しつつとりあえず三条坊門小路を西に行く。油売りなのだから油小路がいいか──と独りごちる。応仁の乱で荒れ果てて四条以南は物騒な小路のまま放置されており、子連れであることもあって避けてきたが、北上するぶんにはだいじょうぶだろう。
 油小路に入ってたいして行かぬうちに、路肩に赤茶けた色に変色した(どく)()が転がっていた。眼窩から都草がのびて黄色い蝶のような可憐な花を咲かせている。髑髏を掴みあげようとした峯丸を柔らかく制し、小声で語って聞かせる。
「俺が生まれた年の話だ。じつはな、俺の生まれた年は、初春から天気がおかしく、皆の不安をたいそう搔きたてたとのことだが、それに加えて九月には尋常でない()(わき)に襲われたそうでな、鴨の流れが途方もない出水をおこしたそうな」
 峯丸は髑髏と父を見較べる。
「たくさん流されて、無数の者が溺れ死んだという。それだけでなく、水損のあとに付きものなのが饑饉だ。翌年、さらに翌々年が非道かった」
 峯丸が髑髏に視線をもどした。基宗は頷いた。
「洛中にて飢え死にした者、八万余。語り継ぐ者の言葉によれば、京の都は死臭立ちこめる一大葬地と化したそうな。もちろん、これがそのときの髑髏とは思えぬが、そっとしておいてやるにしくはない」
(とと)は」
「生き残った。だから、こうして峯丸の手をとって──」
「父」
 見あげる峯丸に基宗は柔らかく笑んだ。油桶がほぼ空になっているので、歩きはじめても天秤棒は軋み音をたてず、相変わらず天は重く沈んでいるが、父と子は得も言われぬ一体感の充足につつみこまれていた。
 基宗が生まれた年に大被害をもたらした台風と洪水の惨禍が京とその周辺の農地に壊滅的な打撃を与え、いよいよ饑饉が本格的になったのはその二年後であった。この(かん)(しょう)の饑饉においては市中が飢えた流人で覆い尽くされ、十万ほどの人口であった京の八割以上が餓死するという凄まじいものだった。台風をはじめとする幾年も続いた異常気象は、南太平洋メラネシアの海底火山の大爆発によるものとされている。地球規模で旱魃が続発したのだ。だが(まつりごと)を疎む将軍足利義政(よしまさ)日野(ひの)(とみ)()らに政治をまかせて、この饑饉のさなかも遊び暮らし、応仁の乱の遠因となった。
 もちろん基宗に饑饉の記憶などあろうはずもないが、山積する屍体が鴨川の流れを堰きとめてしまったという大饑饉を潜りぬけて、こうして生き延びているのである。(けな)()に寄り添う峯丸に視線を投げ、生きていてよかったと胸中にて呟いた瞬間であった。
 びょう──。
 風が()き、大気が裂け、基宗の眼前の土塀が爆ぜて崩れて黄土色の土煙があがり、きな臭くなった。
 唐突さに凝固したが、それでも反射的に峯丸を油桶の陰にやり、あたりを窺う。 
 静かだ。
 あらためて土塀を見やると、信じ難いことだが拳ほどもある石がめり込んでいた。見守っているうちに自体の重みで石は地面に落ちた。呆れるような高所を飛んできたと思われるが、先ほどの子供の石投げと同様、流れ弾であろう。
 背に冷たい汗が流れるのを意識しつつ、生唾を飲む。鳥の声さえしない。地虫の類いも息を潜めている。ただ頭上の青葉だけがかさかさと秘めやかな囁きをたてていて、静穏は剣呑の前触れであることが直覚できた。息を詰め、腰を低くして油断なく構えていると、妙に陽気なさんざめく気配が()の方角から流れてきた。

 

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