• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第4回 


 藤は己の肩口から(じょう)(はく)にかけてを遣る瀬ない目で追った。腕枕してあげたい。胸に抱きこみたい。だが、棄ててしまった子である。いっしょに魂が抜け落ちてしまって行くかのような溜息をついた。
 そんな藤を峯丸は得も言われぬ優しさをにじませて見あげる。もはや藤は周囲をかまわず(にじ)り寄りかねぬ風情である。峯丸も頰を紅潮させて思慕を隠さない。誰の目から見ても藤の様子から母であると直覚してしまったことがありありと悟られた。
 基宗が腰を屈め、そっと耳打ちした。なにを言ったのかはわからないが、峯丸は弱々しく頷き、藤から視線をそらした。きつく結んだ唇がなんとも切なげで、侍女のなかには目頭を押さえている者もある。
 そんななかで老女だけが冷徹であった。峯丸の姿は見事なる純であるが、見様によっては尋常ならざる不純が隠されているような気分にもなる。
 あげく老女は峯丸という鏡に己の不純があからさまに映っただけだと胸中で呟いてしまい、やや狼狽えた。もちろん峯丸の術中にはまってしまっているのではという疑念から生じた狼狽(ろうばい)である。
 一呼吸おいて老女は峯丸の仕種や眼差し、そして言葉によってあらわされる巧みかつ(したた)かな処世に内心呆れ気味に感心して、しかもそれを許容し、肯定してしまっていることがなんとも不可解で、あえて酸っぱい貌をつくった。
 虚実が判然としない子供ではあるが、父に対する遣り取りには真実がにじんでいる。それだけは確信できて、だからこそ許容してしまっているのだと胸中で頷いた。
 言葉をなくしていた藤が、躊躇(ためら)いがちに問いかけた。
「ひもじい思いなど、しておりませぬか」
「ひもじい──」
 母の言葉に、なんらかの根強い不安と不信を感じとった峯丸は、強く否定した。
「いいえ。父と二人で商う油の売り上げは、なかなかのものでございますがゆえ、衣食に不自由したことはございませぬ」
「なるほど。色艶もよいようですね」
 藤は母の眼差しで峯丸を観察していた。身なりは貧しいが清潔であり、肌も清浄にして疥癬(かいせん)や頑癬、白癬の類いもみられない。峯丸が言うことから判断すれば女手はないとのことだが、この年頃でここまで万端行き届いている子供はそうそういない。私が手塩にかけて育んだよりも健やかかもしれぬ。そんな若干の自己否定に沈んでいると、峯丸が一歩進みでて、藤の間近に立った。
「奥方様」
 そう声をかけた峯丸は、あきらかにすべてを()(しゃく)しきっている気配であった。藤が自身にとってどのような存在であるかを完全に把握しているのだ。幼いながらに肚も据わっていて、超然とした気配さえ漂っている。その悧発さは空恐ろしいくらいである。よくぞここまで育ってくれて──と声を喪っている藤に峯丸は言った。
「このたびの大火、御屋敷がこのような有様で、どのような言葉を用いてよいのかわかりませぬが、ひとつだけ」
「──はい」
「万が一御不幸にあわれた方がいらっしゃいましたならば、まことに不調法かつ不躾、申し訳ないことでございますが」
 藤と老女が揃って首を左右に振ると、峯丸は安堵のいろで瞳を輝かせ、続けた。
「どうやらこの御屋敷の皆様方、その御表情から察するに、ここにおられぬ御方も息災の御様子。浅学ゆえ不幸中の幸いがふさわしい言葉かどうか判じかねまするが、峯丸の率直かつ正直な言葉を口にすることを許していただければ、父と鴨の河原に逃げて見あげたあの巨大な龍のごとき凄まじき焰からすれば、御家中の方々が()(きず)であらせられたこと、なによりでございました」
 藤もだが、老女が目を瞠っていた。いよいよ空恐ろしい。淀みがないどころか絶妙の抑揚と間合いである。ある種芝居がかっているともいえるが、大人であってもこのように心のこもった言葉を吐くのは難しい。まして峯丸の美しくも切ない表情である。片付けの手を止めて耳を澄ましていた侍女たちも感に堪えぬといった面持ちである。まともに言葉を返せぬ藤にかわって老女がもともと曲がっている腰をさらに屈めて訊いた。
「幾つじゃ」
「七歳でございます」
「信じ難し」
 即座に峯丸は老女の表情を読んだ。
「父には、ときに小賢しいと叱責されます」
「小賢しいものか。大賢しいという言葉はないが、賢しらもここにまで至れば、いやはやなんとも途轍もない美童よ」
 すると峯丸は頰にすっと羞恥を泛べてみせたのである。すべてを見抜かれていることに対してとぼけるのではなく、あえて恥じらいをみせたこの瞬間に老女は骨抜きにされた。峯丸の顔から視線を引き剝がすようにして強い口調で基宗に尋ねる。
「来歴を。来し方を。隠し立てせず率直に述べよ」
「先祖代々、油売りにございます」
「よう言うた。たばかるのもほどほどにいたせ。北面の武士であったはず」
 あえて藤を見ず、ごく控えめに基宗は苦笑した。藤が自ら語ったのではあるまい。この家に嫁いでから老女の追及があったのだ。それにしても藤が産んだ子であると見抜かれてしまうのだから、まさに血は水よりも濃いのである。
 基宗が推察したとおり老女は老獪に外堀を埋めつつ言い逃れできぬようにしてから、別れた夫──基宗のことを藤から聞き出していた。だが藤の語った人物とは印象がまったく重ならない。一見優男だが、その節は──と藤に頭をさげて以降、徹頭徹尾、気持ちの揺れをあらわにしていない。
 老女のたった一人の息子は大の女好きである。けれど孕ませたことがない。ゆえに相良(さがら)家には跡継ぎができなかった。養子を迎えようと親族郎党のなかからあれこれ見繕いはしていたが、帯に短し襷に長しで老女は微妙に行き詰まっていた。
 風潮としては子ができなければ女のせいにすることが多いが、もはや藤のせいにしてすませられるほどの余裕もない。自分の目の黒いうちに相良の家の安泰をはかりたい。老女は油売りの強かさに賭ける決心をし、素早く思いを巡らせた。

 

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