• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第5回 

前回までのあらすじ

北面の武士の職を失い、妻にも逃げられた松波基宗は、油売りをしながら、まだ乳呑み児だった息子の峯丸(斎藤道三の幼名)を男手ひとつで育ててきた。7歳になり、賢く美しく成長した峯丸は、明応の大火の焼け跡で、自分を捨てた母・藤と再会を果たす。母は相良正豊という武士の奥方に収まっていた。跡継ぎのいない相良家の養子にと願う正豊の老母に誘われ、峯丸は相良のもとで武芸を習い始める。

 

   09

 

 粗樫(あらかし)の巨木の森である。庭木ならば樫は徹底的に剪定される。天辺をとことん刈りこんで伸びを抑制し、枝々を呆れるほどに間引いてちょうどよいくらいなのだが、東山は(にょ)()(たけ)山麓の自然木である。鬱蒼と茂って樹下は薄暗い。
 あたり一面に落ちているどんぐりを踏むと草鞋(わらじ)をとおして足裏にぐりぐりと円やかな凹凸が伝わる。ぴーょ、と山肌を伝い落ちてくる口笛に似た響きは鹿の声だ。
 秋風に樫の葉がいっせいに揺れる。あたりは晩秋の気配に充ちていて、葉擦れの音は季節の移ろいを孕み、なんとも寂しげだ。峯丸(みねまる)相良(さがら)政豊(まさとよ)に持たされた槍の先端に視線を凝らす。
 六尺ほどか、政豊の頭にもうひとつ頭をのせたくらいの長さの手槍である。槍としては短いものだが、峯丸にとっては充分に立派な槍だ。ただし先端に穂はついていない。粗樫の森にむかう前、鹿(しし)(たに)の山荘で政豊はどこか愉しげに穂先を抜いてしまい、かわりに五寸釘を挿しいれた。
 青光りする穂先ではなく赤錆びた五寸釘が先端に鎮座している姿は、黒漆塗りの艶めいた柄との釣り合いがまったくとれておらず、とにかく見てくれが冴えない。こんなところで子供扱いされたくないと峯丸は顔にはださねど、内心は不満であった。
 とりわけ太く茂った粗樫のもとで、政豊は永楽銭を取りだすと、その四角い穴に絹糸をとおした。峯丸に木登りを命じ、どの枝にするか細かく指図し、絹糸を結びつけさせ、地上にむけて永楽銭をさげさせる。
 なにをするのか、させられるのかは判然としないが、作業の完璧を期す峯丸は、太い枝に腹這いになって絹糸の結び目を(たし)かめ、地上を見おろす。
 永楽銭が揺れる眼下はぬかるみで、ハの字にひらいた足跡が無数に刻印されている。ハの字を追いかけるように副蹄の跡も目立つから鹿の類いではない。猪だ。どんぐりを食べにきたついでに泥濘に転がって軀についた虫を落としたようだ。政豊が峯丸を見あげ、その視線を追い、呟くように言った。
「どんぐりをたらふく食った猪はよき香りがするものよ。じつに旨い」
「猪はどんぐりが好きなのですか」
「ん。どんぐりや椎の実。大好きなんだ」
 峯丸は枝に腹這いになったまま、四肢をだらんとさげて脱力する。政豊はそんな峯丸を見あげたまま続ける。
「鹿は緑の新芽を食べて脂を程よくまとった夏鹿がいちばん旨い。猪は秋にどんぐりをたっぷり食って脂がのった冬の猪がいちばん旨い」
 樹上で峯丸が頷く。政豊が付け加える。
「ま、香りだな。鹿も猪も、いちばんの違いは香りだ」
「獣は、食べる物によって味と香りが変わるということですね」
「ん。人だっておなじだ」
「食べたことがあるのですか」
「いまのところ、ない」
 しばし見つめ合い、政豊も峯丸も笑みを(うか)べる。脱力したまま枝の周囲を円を描くようにして峯丸は落下し、空中にて体勢を整えて地に至る。
 いくら猪がどんぐりを食べても、粗樫の巨木の群れは無限といっていいほどにどんぐりを落とす。いまも峯丸の眼前にぽとんと落ちた。まるでいたずら好きの侏儒だ。イベリコ豚は、どんぐりを食べさせたものと飼料で育てたものが厳然と区別される。どんぐりを食べて育った味と香りが最上のものは、全流通量の一割にも充たない。京都出町の改進亭という肉屋では、冬になると猪が入荷する。どんぐりをはじめとする秋の実りをたらふく食べた得も言われぬ甘みと渋みのある香り高き猪肉は、まさに絶品だ。
 それはさておき、適当に落下したようにみえて巧みにぬかるみを避けて着地した峯丸をぐいと抱き寄せ、いとおしげに政豊は頰擦りする。ときどき発作的に頰擦りしてくるのだが、無精髭が峯丸の柔肌を烈しくこすり、摩擦熱をもち、肌が香るほどだ。肌と肌のこすれる温かな生き物の匂いは峯丸にとっても好ましいものだが、尖った髭の痛みはなかなかだ。満面の笑みで逃げる峯丸の頰に、とどめのひと擦りを加える。
 解放された峯丸が見つめていると、政豊は唐突に照れて曖昧に視線をそらす。そんな政豊を上目遣いで見つめて、言う。
「決まりが悪いのは峯丸のほうです」
「ん。相済まん」
 峯丸は髭で擦られて幽かに赤らんだ頰を(てのひら)でこすりつつ、穂のかわりに五寸釘を挿した手槍を一瞥する。政豊は頷き、草鞋を脱ぐと手槍をもち、ぬかるみに歩をすすめた。
「足場がよくありません」
「ん。道場のような整った場所で踊っても意味がない」
 政豊は首を棙じまげて峯丸を見やる。峯丸の瞳の奥を見つめながら、左手で摑んだ手槍を、すっと真横に突きだす。
 峯丸が目を瞠る。政豊は峯丸を見ているはずなのに、つまり余所見をしていたのに、永楽銭の四角い穴に槍の穂がわりの五寸釘が突きとおっていた。
「的は永楽銭の穴ですか」
「ん」
「脇見をしていたのに」
「ん。目の端でちゃんと穴を捉えておる」
「永楽銭が微動だにしておりませぬ」
「ん。五寸釘は永楽銭には一切触れておらぬからな」
 政豊は槍をくいと動かして永楽銭から五寸釘をはずし、峯丸を促した。草鞋を脱いで政豊に寄り添う。実際に立つと思っていたよりもひどいぬかるみで、傾斜がついていることもあり、気を抜いて動くと簡単に足を滑らせてしまう。
「峯丸は脇見せずともよい。真正面から的を射貫け」
「槍のかたちを教えてもらっておりませぬ」
「ん。かたちを教えたら、的を貫けるか」
「──わかりません」
「ん。ならば己で錯誤せよ」
「錯誤してよいのでございますか」
「師範よりかたちを教われば、慥かに早い」
「錯誤してよいのですね」
「ん。錯誤せよ」
 あえてなにも考えずに、峯丸は手槍を構えた。政豊が余所見をしつつ槍を繰りだしたので型を真似ることもできぬからである。つまり峯丸の構えは完全に我流であった。こうなると右足が前か後ろかといったことさえわからない。槍も右手を穂の側にするのかどうかもわからない。
 わからない尽しで峯丸は永楽銭の四角い穴を狙う。じっと睨みつけて集中していると(まばた)きが不足して涙が湧いて、四角い穴がにじんで歪んでしまった。ままよ、と力まぬことだけを意識して手槍を繰りだす。
 ちん──思いのほか澄んだ音がした。
 音に反して永楽銭は前後左右に烈しく揺れる。すっと政豊が手をのばして手槍を奪い、こんどは右手で突きだした。五寸釘は四角い穴に刺さっていて、暴れまわっていた永楽銭は絹糸を若干たるませて中空で静止した。峯丸は目を瞠り、しばし思案した。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ん。なんなりと」
「政豊様はそれぞれ片手で扱われたが、左手は甲の側を下に、右手は甲が上にきておりました」
「ん。両手で構えるときも同様である」
「峯丸は力が足りませぬから、両手で構えてもかまいませぬか」
「ん。好きにしろ」
 政豊が槍を引くと永楽銭は落下し、中空でくるくる回転しはじめた。峯丸は政豊の右手左手を反芻はんすう)して手槍を保持した。
「斯様に構えると、左足が前にきます」
「ん。そうか」
 回る永楽銭を見つめ、気負わずに突きだした。先ほどよりも、さらに派手に永楽銭が踊った。気負っていないつもりだったので、峯丸は奥歯を嚙みしめた。
 政豊は(ひる)(ふくら)(はぎ)に吸いついて吸血し、見るみるうちに赤黒く膨らんでいくのを眺め、充分に血を吸わせると千切るように(つま)んで口の中に抛り込み、丹念に()(しゃく)した。その間も峯丸は無数に繰りだし、すべて失敗した。
「峯丸も食え」
「蛭」
「ん」
「──食わねばなりませぬか」
「ん。食え」
「なぜ」
「吸われた血を己のなかにもどす」
 なるほどと童らしくない苦笑をかえし、峯丸は手槍を突きだした。ちん、と相も変わらず(はじ)いただけだった。当たるだけまし──と政豊が笑う。ちいさな屈辱を覚える。
 たいした動きをしていないのに、息が乱れている。峯丸は呼吸を整えた。足には五匹ほど蛭が()いついている。それを一瞥して槍を操った。滑った。転がった。
「余所に気をとられると、死ぬ」
 吸われた血を己のなかにもどす──といった調子で、政豊に暗示をかけられてしまったからこそ蛭に視線を投げてしまったのだ。一瞬、蛭に意識が行ってしまったからこそ滑ったのだ。それに気付いた峯丸は、両手の泥と槍の柄の泥を丹念に落とすと、もう政豊には目もくれない。もちろん蛭も消え去った。

 

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