• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第6回 

前回までのあらすじ

 職を失い、妻にも逃げられた松波基宗は、油売りをしながら、息子の峯丸(斎藤道三の幼名)を男手ひとつで育ててきた。7歳になった峯丸は、相良正豊という武士の妻となった母・藤と再会を果たす。跡継ぎのいない相良家の養子にと願う正豊の老母・初に誘われ、峯丸は武芸を習うため相良のもとに通い始める。基宗もまた初に洛中油商の大立者・奈良屋を紹介され、人生の転機を迎えようとしていた。

 

   10 〈承前〉

   *

 奥の間に案内されて(もと)(むね)は居住まいを正しはしたが、侍女との交わりがすぎて背筋に力が入らない。心地好い()(だる)さのなかにあって余韻を心(ひそ)かに愉しんでいた。
 その店名からきたわけでもあるまいが、奈良屋の外観は大和(やまと)(むね)の抑制のきいたものであった。けれど奥の間の書院造りの金のかかり方は尋常ではない。
 拭き漆の違い棚の上段より盃、肩衝(かたつき)、香炉と定石通りの並びで飾られている。基宗は幽かに()きこめられた(びゃく)(だん)らしき香に揺蕩(たゆた)いつつ先ほどから漠然とそれらを見つめていた。そのすべてが、知識はあっても実際には目の当たりにしたことがない基宗から見ても途轍もない逸品であることが悟られ、若干気圧され気味であった。
 ──なんの、草屋には草屋のよさがある。
 薄く目を閉じる。隙間風が容赦なく抜ける草屋に身を横たえた(あさ)()(ほの)かに熱をもった肌がよみがえる。白檀よりも淺茅の匂いだ。基宗は人中の無精髭に沁みついた淺茅の残り香に、うっとりと目を細める。
 淺茅は奥の間に上がることを許されなかった。一緒にいたいと念じる淺茅の艶やかな上目遣いを振りきって、ひとりぽつねんと座する基宗であった。淺茅以上に依存の心が育ってしまって、基宗は片時も離れたくないという思いをもてあましさえしていた。
 (ふじ)には基宗に対する敬愛がなかった。仕打ちを(おもんぱか)れば当然のことではあるが、自分と峯丸(みねまる)を棄てた女である。
 比して淺茅には基宗に対する崇敬がある。情愛がある。加えて、生々しいことではあるが、淺茅の軀には藤にはなかったねっとり絡みつくもの、優しく締めあげて基宗を慰撫する女の絡繰りが隠されていた。
 基宗自身の仕掛けとの相性もあるのであろうが、淺茅の女の仕組みは(ぬき)んでている。幾度も男のものとも思えぬ呻きをあげ、()(もだ)痙攣(けいれん)してしまった悦楽は、女を抱いたのが久々であるからということからもたらされたものだけではない。
 茶菓が用意されたきり人の気配がしない。用意されていた(はく)(せきの)()(しゃ)を模したと思われる火鉢の熱を頰に感じつつ、反り返る淺茅の最奥に、最初に精を放った瞬間を基宗は反芻(はんすう)していた。完全なる合一であった。以降は()れたというべきか、お互いに技巧を用いもしたが、それとて藤との媾合(こうごう)ではありえぬ(こま)やかなものであった。
 やがて女人の追憶の昂ぶりに、じわりと現実的なもうひとつの(なまぐさ)い思いが忍び入ってきた。(はつ)が絡んでいるのだから、対応さえ過たなければ判紙祝儀の会合にて許可状と印券を戴けるであろう。いまのいままで逼塞(ひっそく)していたとは思っていなかった。だが、顧みれば相当に不自由であった。峯丸のためにも、なによりも自身のためにも、現状を打開せねばならぬ。
 男には二つの抑えがたき慾がある。女人に対する慾。そして衆から抽んでる慾である。基宗は峯丸一筋で、それらをひたすら封印してきた。それが淺茅と契ったことで解かれてしまった。基宗の心は淺茅の肌から、新加神人(じにん)放札注文の認可を得て油司に成りあがることに移った。
 油司で終わるつもりなどない──。
 心の奥底に棲みついていて、けれど、いまだかつて朧な影は見せどもその尻尾の先さえあらわさなかった願望が、窃かに基宗の唇を動かしていた。もちろんその願望という名の生き物は、基宗に声にださせぬだけの抑制と(したた)かさがあった。けれど基宗は意識してしまった。いま現在の生活の延長を続けて小忠実(こまめ)に働いて一廉(ひとかど)の油商人になったところでなにになる。武士の血が騒ぐ。男の野望が()りあがる。
 腰から背骨に力が張り詰め、(みなぎ)った。油司で終わるつもりはないが、さしあたりどのような無理難題を突きつけられても油司に成りあがる。許可状および印券を手にすれば、(せき)()(りょう)免除の特権を獲得し、関所に関銭を払わずに自由に行き来できるようになる。じつに大きな第一歩である。
 嗚呼(ああ)──と胸中にて声が洩れる。
 東は不破(ふわ)の関から西は(はり)()()()国まで関銭を払わずに自在に移動できるようになるのである。期せずして基宗は、伊勢(いせ)(しん)()(ろう)こと後の(ほう)(じょう)早雲(そううん)伊豆(いず)国に武威を示したことを脳裏に描いていた。
 西はなんとなく想像がついてしまうが、東は未知の世界である。伊豆国はともかく自在に動けるようになったら東に行ってみたい。都防備のために設えられた三関の一、美濃(みの)は不破の関を越えることができるならば、ほとんど京に閉じ込められているといっていい己の世界がどれだけ拡がることか。
 散所(さんじょ)の暮らしに不満はない。峯丸にとっても、中途半端に町衆に溶けるよりもよほど世界を学ぶことができる。なによりも峯丸に感応したありすけ大夫(だゆう)をはじめとする(しょう)(もん)()村の人々の支えは何物にも代えがたい。
 だが峯丸が相良(さがら)政豊(まさとよ)のもとに通うようになり、基宗は一抹の(せき)(りょう)と多大なる解放感に浸っていた。それが淺茅との媾合にて一息に束縛から離れ、自身のなかに抑えこんでいた男の本性が露出してきた。
 なんら裏付けはないのだが、基宗は不破の関を越えられるということに()(くるめ)く自由感を覚えていた。感じているものは幻想といってよいほどの曖昧模糊の不明瞭で、実体はなにかと己に問いかけてもなんら答えらしい答えは得られない。だが、とにかく強烈な自在感が迫りきて胸の高鳴りは尋常でない。
 都に住んでいるだけに目も覆わんばかりの幕府の弱体ぶりが常々伝わってきている。戦乱の気配がじわじわと押し寄せてきている。世情に敏感な者曰く──美濃を制する者は天下を制する──とのことである。
 部外者は無責任にあれこれ口にし煽るものだが、油司に成りあがれば不破の関を越えられると気付いた瞬間に、美濃という名しか知らぬ土地が基宗の心にじわり大きく根を張ってしまった。
 元来、美濃の国には(こく)()領、皇室領、摂関家領などの直接の経済的基盤をなす荘園公領が規模広大にして濃密に在った。寺社領荘園も並立してはいたが、国家基盤を支える土地としては卓越していた。
 遠い昔は王朝国家公領ゆえ御野(みの)と表記されていたほど地味豊かにして人丸く実直、加えて京に近すぎず遠からず、ゆえに目端の利く者は東山道(とうさんどう)に属する大国である美濃を完全に支配すべし。さすれば先々覇権に手をかけることができる──と、油売りのさなかにしたり顔で判じてみせた者がいた。
 もちろん無責任な町衆の噂話に毛の生えた程度のものだが、基宗の心は昂ぶりに揺れていた。いままで笑みを(うか)べて聞き流してきたことが、なにやら俄然現実味をまして迫ってきたのである。
 聞くところによれば奈良屋は美濃に専売的な販路をもち、その独占により多大なる利益を上げているという。そういった、いままでは自身となんの関係もなく、気にとめることもなかった事柄が、いきなり符合してしまったというべきか。奈良屋の名がでたとたんにすべてが美濃に結びついてしまった。
 うまく奈良屋に食い込めば、自ずと美濃への(みち)も拓けよう。声聞師村にて峯丸との暮らしに充足し、あえてすべてを閉じてきたせいで、美濃の守護が土岐(とき)氏であり、しかも国内が乱れに乱れていることさえも知らぬ基宗であったが、湧きあがる夢想に勢いを増した鼓動を抑えることができず、そっと左胸の上を押さえた。

 

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