• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第6回 

 

「逃げて当然でございます。度し難い阿呆ゆえに、たいそう苦しめてしまいました。私は臆病なくせに傲慢で、引きこもったまま逼迫になんの手立ても打たなかったのです。出奔のみが妻の生き抜く唯一の手段でございました。あのまま膝を抱えておりましたら、妻も私も倅も、皆、餓えて息絶えておったことでしょう。(まつ)(なみ)の家は途絶えてしまったはずです。いよいよ死するしかないという雨の晩、傘張りの手内職の荏胡麻(えごま)の油が残っていることに思い至り、それを舐めて私と倅はなんとか生き(ながら)えました。相良の家に御世話になっている前妻とこうして相まみえ、初様の御配慮で奈良屋様とこうして御対面できたことも、また不思議な巡り合わせでございます。私のような者が生かされていること、それ自体に御仏の意思のようなものを感じておりますると口にするのは、傲岸不遜ではありましょうが──」
 口調こそ穏やかだが、生き死にの端境を包み隠さずに告げる基宗を、奈良屋の娘が凝視していた。きつく結んだ唇から血の色が失せているのが(けな)()であった。やや目が大きすぎる気もしたが、澄んだ黒目に基宗が映っていた。娘の目のなかの基宗は、静かに頰笑んでいた。
 きつく淺茅と契ったばかりなのに、奈良屋の娘に兆すものがあった。奈良屋の娘を慾しているのは、衆から抽んでたいという男の慾と込みである気がした。不純である。だが基宗はそれを平然と受け容れていた。奈良屋が娘をせっついた。首を竦めるようにして娘がか細い震え声で名乗った。
結實(ゆい)ともうします」
 あわせて基宗が名乗ると、知っておりますと羞恥に顔をそむけた。結實は当然のこととして、基宗の様子も満更でもないと読んだのだろう、奈良屋が安堵の息をついた。それを見てとった基宗は、あえて率直に言った。
「奈良屋様も、親莫迦でございますな」
「基宗殿もそうであろうが」
「然様。倅のためならば命も惜しくありませぬ」
 奈良屋が基宗を見据えて、小さな握り拳を固めた。
「判紙祝儀の会合が目当てでも、奈良屋の身代に引かれておったとしてもかまわぬ。基宗殿のことはとことん調べ抜いた。油の商いはじめ、非の打ちどころがなかった。初様からも強く薦められた。なによりも昨年の(みょう)(かく)()域にて執り行われた京の油売りの会合にて結實が基宗殿を見初めて、以来夜も日も明けぬ有様でな。ま、どのみち婿を迎えねばならぬので、ならば結實の思いにそうてやろうと決めた次第」
「はい。ここに誘われた当初は、仰有(おっしゃ)るとおり打算が働いておりました」
「いまは」
「打算が消えたわけではございませぬが、結實殿を拝して──」
「言え。言ってくれ」
「ときめくもの、が、ございました」
 小さな小さな母が安堵に首をがっくり折って盛んに溜息をついた。奈良屋も薄く目を閉じて感慨に耽り、満足げに首を左右に振っている。結實はといえば、両頰を(てのひら)ではさみこんで蕩けた眼差しを基宗に注いでいる。
 峯丸ほどではないにせよ、女人を引きつける貌をしているという自覚はある。小柄で幼い結實は、まさに基宗の外貌に胸ときめかせて父母をせっついたのであろう。
 基宗は自身の娘のような年頃の結實に穏やかに包みこむ視線を投げた。その優しげな眼差しは幾許(いくばく)かの下駄を履かせたものではあったが、基宗の胸中にいとおしさがじわりと拡がった。早く孫が見たい──と小さな小さな母が虚脱気味な眼差しで呟いた。

 

   11

 

 十二月十三日、秘密の神事である判紙祝儀の会合が、山崎の社司らの手によって古式に(のっと)って執り行われた。廟に参拝し、社座を開き、基宗に許可状と印券が与えられた。
 明けて二月、黄道吉日に基宗は奈良屋に婿入りすることとなった。峯丸は基宗の境遇の変化を敏感に感じとっていたが、一切気持ちを乱すこともなく相良の家に通って武芸の鍛錬に励んでいた。
 すっかり春めいて日射しのぬくもりも心地好い婿入りの前日、久々に基宗は峯丸を油売りに誘った。峯丸はたいそう嬉しそうで、笑みを抑えるのに苦労している気配であった。基宗が満足げに頷くと、峯丸は爪先立って勢い込んで言った。
「引きというのですか。御客様を引き寄せる方策があるのです。槍の修行にて、油売りにもってこいの秘策を得ました」
 基宗は愉快そうに笑う。どのような秘策かと問うと、それは実際に御客様の眼前にてとはぐらかす。基宗は一回り背丈も厚みも増した我が子を、やや腰を引いて眺めやる。油桶の天秤を担ぐ。以前と違ってあちこちに気をとられて蛇行することもなく、基宗の傍らを姿勢正しく歩む峯丸だった。それでも、そっと基宗が窺うと、なんとも愉しげである。
 父と子でやってくるのは久々だと、さっそく声がかかった。馴染みの遊び人であった。(かかあ)に油を買うてこい──と升を投げ渡されて足早に父と子を追ってきたのである。峯丸がいささか大仰に口上を述べた。
「じつは商いを極めるため、若輩ながらこの峯丸、修行の日々でございました」
「おっ、大きくでたな」
「斯様に御客様は仰有りますが、峯丸の油売りの技を目の当たりにされたならば、以後、他の油売りから油を購うのが退屈至極と相成ることでございましょう」
 どこかいたずらっぽい眼差しで峯丸が見あげてきた。基宗には委細がわからぬから、すべて峯丸の指図に従うつもりである。
「さ、御客様。御持参の油升、この峯丸の背丈にあわせて低く、低く、地べたぎりぎりに構えてくださいませ」
 客が膝を折ってしゃがみ込み、地面に触れんばかりの位置に升をもった。峯丸は基宗に永楽銭を一枚と芝居がかった口調で所望し、真顔で続けた。
「さすれば、その永楽銭、升のど真ん中にくるように御願い致します」
 峯丸は柄杓に荏胡麻油を汲むと、爪先立った。じつは今日は油売りに付き合えと伝えて以降、峯丸は幾度となく爪先立っていた。できうる限り背伸びをしていた。客は升、基宗は永楽銭、それぞれ保持して身を縮こめるようにしてしゃがんでいる。
 精一杯背伸びした峯丸が()(しゃく)を中空高く掲げた。わずかに手首が動いた。峯丸がなにをしようとしているのかを察した父は、緊張で喉仏を大きくぎこちなく動かしながらも拇指(おやゆび)と中指で支えた永楽銭を微動だにせぬよう、気を集中した。
 つつつ──と荏胡麻油が天から細い糸となって落ちてきた。客も基宗も仰ぎ見ていると、陽光を背後から浴びた荏胡麻油の細糸が淡い緑色に輝いた。透明な緑の美しい綾が一筋音もなく落ちてくる。
 油は四角い穴に一切触れることなしに永楽銭を抜けていき、じわじわと升を充たしていく。逆光に荏胡麻の油が薄緑をまとった黄金色に(きら)めく。
 見あげる客は感嘆のあまり(まばた)きも忘れて透き徹った緑の糸を凝視している。基宗は自分が永楽銭を動かし、揺らしでもしたらすべてを台無しにしてしまうと緊張の極みで、ほとんど凝固して銭を保持していた。
 すべて垂らしきるまで、ひたすら基宗は息を詰めていた。
 柄杓をもつ右手首がすっかり返った峯丸が満面の笑みを泛べて、もう柄杓から一滴もこぼれませぬ──と客に告げたとき、基宗はその場で腰砕けになって(しり)をついてしまいそうだった。
 客は升を地面に置き、峯丸の周囲をくるくる回り、派手に手を叩き、囃したてる。なにごとかと道行く者は足を止め、格子戸をひらいて顔を覗かせる。
 これが後世、油売りだったころの斎藤道三(さいとうどうさん)が柄杓からの油を一文銭の四角い穴を通して垂らすのを売りにして商いしたという伝承の原点である。じつは、この技は、槍の先に仕込んだ五寸釘で永楽銭の穴を突きとおす鍛錬を応用したものであった。
 充分な人だかりができてから、峯丸は、こんどは父に永楽銭を前後左右に動かしてくれと頼みこんだ。それは無理だろうと人垣から声があがり、我先に油の升が差しだされた。もちろん峯丸はこの難しい技も軽々とやってのけた。
 美少年の美技に割れんばかりの喝采がおきた。もちろん峯丸にしてみれば、永楽銭を前後左右に動かす父と完全に息があっていることを確信し、父のすべてを信頼しきっているからこそ成せる技であり、基宗も我が子の技を欠片も疑うことなく自在に永楽銭を操ったのであった。

 

 

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