• 古く蝮をくちばみといった。毒を持つその長虫は、親の腹を食い破って生まれてくるという。戦国時代、非情なまでの下剋上を成し遂げ、「美濃の蝮」と恐れられた乱世の巨魁・斎藤道三。その血と策謀の生涯を、父子の宿命とともに描き出す、花村萬月渾身の新時代小説。


第6回 


 峯丸は言葉にはしなかったが、父といっしょに油を売るのは今日が最後であることを悟っていた。どのような行く末が待っているのかは皆目見当もつかないが、峯丸はすべてを父にまかせきっていた。
 その信頼がじわりと伝わって、永楽銭を(つま)むようにもつ父は、俯き加減できつく唇を咬みしめ、密かに落涙に耐えた。
 実利とはなんら無縁な峯丸の技であり、芸であったが、客が群れ、たちまち油桶が空になってしまった。父は客たちに深々と一礼して空の桶の天秤棒を担いだ。いつもの空の桶にも(いや)()して、なんとも心許ないほどに軽く感じられた。峯丸が長らくの御愛顧云々と口上を述べ、それを傍らで聞いていた父は、やはり峯丸はすべてを悟っているのだと去来するものに胸をつかれ、俯いた。
 父と子は黙って歩きはじめた。柄杓を高く掲げていたせいで峯丸は腕に(しこ)りを覚え、左手で右腕を揉んでいる。それを横目で見ながら基宗は今出川小川にむかった。
 (めい)(おう)の大火で焼け落ちた鳥屋が仮店舗で営業しているのを父は知っていた。鳥屋の前で父は子に、先ほどまで客寄せに使っていた永楽銭を渡した。峯丸が目を輝かせて父を見あげた。
 父は頷き、峯丸に焼いた(きじ)肉を見繕うよう促した。当然ながら代金として鳥屋の手に渡った永楽銭に、油で濡れたあとなどは一切なく、ただ雉肉を見繕っているときにきつく峯丸が握りしめていたので、掌の汗でしっとりしていた。
 包んでもらった雉の焼き物を峯丸に持たせて、河原にでた。父と子は平たい石を選んで並んで座った。ちょうど(ひる)だった。春爛漫である。川面に爆ぜて白銀に燦めく日射しがまぶしい。父と子は同時に顔を顰めるかのように目を細めた。
「父上」
「うん」
(かも)で雉を食べるのですね」
 基宗は俯き加減で笑いだした。笑いはそのままくぐもった、啜りあげるような声に変わった。けれど峯丸は、父が泣いているとは思ってもいなかった。乾ききった川石の上に黒い不規則な染みができていくのを見てとった峯丸は、黙って基宗の腕をとり、小さな懐にきつく抱きこんだ。
「会えなくなるわけでは、ない」
「はい」
「だが」
「はい」
「当分、いっしょに眠れなくなる」
「──はい」
「父はな」
「はい」
「油商いがてら、美濃に足がかりをつくろうと窃かに思案している」
「美濃、ですか」
「美濃だ」
 基宗が塩した雉肉を抓み、峯丸に差しだした。勢い込んでかじった峯丸が、眉間に子供らしくない縦皺を刻んだ。
「どうした」
「──辛い」
 どれ、と基宗が雉肉を見てやると、真っ二つに割れた小さな粒の片割れが覗けていた。峯丸が歯で断ち割ったのだろう。「鳥屋も奮発したものだ。これは()(しょう)というものだ。かなり高価である。香りと辛みをつけるものだが、峯丸は大当たりだな」
 胡枡つまり香辛料のコショウである。まだ痺れに似た気配に支配された舌先に指先で触れ、峯丸は微妙な顔つきだ。
「遠い昔、()(さん)(じょう)天皇は焼き鯖に胡枡したものを好んで食べたとのことだ」
 ならば峯丸も──と残った粒を口に入れようとしたのを奪い、基宗は奥歯で嚙みつぶした。しばし間をおいて、峯丸と顔を見合わせて控えめな笑い声をあげた。
「肉といっしょに食べるべきであるな」
 峯丸が大きく頷く。芳香はすばらしいが、胡枡のみを囓るのはなにかの罰のようなものである。父と子はしばし黙々と雉肉を()(しゃく)した。父はさりげなく峯丸に大きく艶やかな雉肉を与え、子は父に程よい色あいに焦げた雉肉を食べてもらおうと気を配る。
「いまから七、八年前といったところか」
 先ほどから頭上を(とび)が舞っている。雉肉を狙っているのである。気付いた峯丸は父の口に残りの雉肉すべてを押し込んだ。
「鴨の鳶はなかなか獰猛(どうもう)ですがゆえ」
 人が物を食っているのを狙って急降下し、奪い去ろうとするのだが、ときに流血を引き起こすほどである。基宗は口いっぱいに肉を頰張ってしばらく顎を動かし、すべてを胃の腑に送りこんでから、雉の脂で艶やかな峯丸の手指を口に含んで舐めあげて、あらためて明応()の政変について語りはじめた。
「第十代将軍、足利(よし)()が家臣である細川政元(ほそかわまさもと)の手で将軍の座を追われたのだ」
「将軍が家臣の()(ほん)で」
「うむ。この政変以前から幕府は弱体となっていたが、これによって幕府はほとんどまともに働かなくなった。峯丸も知っているだろう。あちこちに関所が濫立していることを」
「あれは、幕府の抑えがきかないせいなのですね」
「関所以外にも、抜け殻となってしまった幕府の無力から、あれこれ弊害があらわれてしまっている。落ちぶれた権威というものはじつに悲惨。結果、いままでは幕府の顔色を窺っていた地方の有力な守護などが領地の治安から経済までを掌握し、一国の王のごとく振る舞うようになってきた」
 世情と無縁だった基宗だが、奈良屋に婿入りが決まってから美濃をはじめ各地の有り様を調べ、政治経済のことまで徹底的に学んでいた。
「されど守護というものは中央の権威の後ろ盾で成り立っていたものだ。能力のない碌でなしであっても世襲等々でのほほんとやってきたような輩も多い。ま、幕府が弱体となって好き勝手しはじめたはいいが、実質が伴わぬばかりか、幕府という後ろ盾も喪ってしまったというわけだ。日本国中、不安定の極致にあるのが現状である。こんなとき、なにが起こると思う」
「──将軍が家臣に追われたように、下位であっても実力をもつ者がのしあがる」
「そうだ。)(こく)(じょう)の時代である」
「下克上」
「うむ。伊豆国を奪取した伊勢新九郎殿のような御方の時代である」
 基宗が草屋を構えていた西(にしの)(おか)に縁の深い伊勢新九郎、後に初の戦国大名と称されることとなる北条早雲の名を口にするとき、基宗の声は気負いのせいで幽かに震えていた。
「乱世である」
 峯丸の唇が、乱世と動く。基宗は大きく頷き、胸の裡に秘めた野望を子に語った。
「残念ながら冷徹に己を見据えれば、俺に伊勢新九郎殿のような抽んでた才覚があるかどうかは怪しい。なによりも、長い年月を無為に過ごしすぎた。得た教訓は、己を買い被らぬということに尽きる。さりとてまったく役に立たぬというわけでもない」
 父の決意の眼差しに感応して、峯丸の黒目が黄金とも紫ともつかぬ複雑な色を帯びる。瞬きをしない。
「このたびの奈良屋婿入り、松波()の家の名をふたたび興す絶妙にして最良の機会。だが本音はもはや家名などどうでもよい。おまえには新たな一家を成してほしい」
 峯丸の眉間を刺すがごとく、人差指で指し示し、呟くように言う。
「なあ、峯丸。俺は美濃に目を付けている」 先ほど父から、油商いがてら美濃に足がかりをつくろうと思案している──と聞いていた。峯丸は父の手首をきつく握って揺れる眼差しで先を促す。基宗は美濃という土地の詳細を語る。豊かな土地であり、京の都に対して絶妙の位置にあることに峯丸が納得したのを見てとってから、言葉を続けた。

 

 

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