• 「ローマ法大全」まで読破して「ナポレオン法典」を制定した
    ナポレオン・ボナパルトは、
    流刑の船中でも勉強していたという。
    盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)は、音読してもらった6万冊の本を記憶し、
    死ぬ間際まで『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』や『史料』の編纂にあたった。
    こうした学ぶ意欲はどこから出てくるのか。
    どうすれば意欲を持てるのか。
    先進国のなかで学習意欲がきわめて低いといわれる
    日本の社会人、学生たちに向けて、「学ぶことの大切さ」を
    企業経営者から学長に転身した“哲人経営者”が語る。


第10回 タテヨコ算数の視点

               


■日本の先生はとっても大変

 日本の教育についてもうひとつ付け加えると、教員の問題があります。一部には教員がきちんと教えていないから、子どもたちの学力が向上しないのではないか、という批判があります。生徒の親たちのなかには、「教えるスキルが足りない」「教員の学力が低い」「教職は大手企業に就職ができそうになかった人のすべり止めにすぎない」と、強く批判する声が少なからずあることは事実です。
 しかしこれは、教員の資質やスキルの問題ではなく、学校が構造的に、いわばブラック労働化していることが原因だといえるでしょう。個々のエピソードではなく、全体のエビデンスをデータで見ないと、問題の本質は把握できません。
 たとえば、中学校の教員は、先進国でいちばん労働時間が長いにもかかわらず、授業など教育にかけている時間は比較的少ないというデータがあります。34ヵ国・地域に対してOECDが調査した国際教員指導環境調査(TALIS)によると、わが国の先生方は、1週間のうち仕事をした時間が53.9時間(1日あたり約10.8時間)と1位なのに対して、指導(授業)に使った時間はわずか17.7時間(1日あたり約3.5時間)で下から9番目でした。
 長く働いているのに何をしているのかというと、事務作業や学校運営業務への参画、そして課外活動の指導(部活動など)にあてられています。なかでも課外活動の指導に割かれている時間は7.7時間とダントツで、2位のマレーシア(4.9時間)以下とは比較にもならないほどです。ちなみに平均は2.1時間でした。

 

 

 この調査は中学校が対象ですが、小学校や高校でも同じ傾向でしょう。
 グローバルに見たら、部活の指導を教員がやっている国などありません。体育の先生が必ずしもサッカー部の監督に適しているわけではないでしょう。地域にサッカークラブがあればそこから指導に来てもらうとか、保護者のなかのサッカー経験者に依頼すればいいのです。

『ニューズウィーク』日本版に寄稿している冷泉彰彦さんは、『アメリカの部活動は、なぜ「ブラック化」しないのか』というコラム(2017年7月)のなかで次にように指摘しています。

「(アメリカでは)校内での部活動あるいは選択教科としての活動と、地域での校外活動の役割分担ができている。(中略)野球にしても、マシン打撃で速球に慣れるとか、バイオリンの音程や運弓が上手になるという「個人のスキル向上」の部分は、個人教授つまり民間に委ねられています。(中略)部員個人の技術向上のために顧問教諭が長時間の指導をしたり、指導スキルの訓練を受けていない上級生が無理に教えたりということはありません」

 また、野球部なら先輩の試合中は応援をし、先輩の練習中は球拾いといった生産性の低いアクティビティはやらないそうです。
 では、そういう体制にするには何が必要でしょうか。ボランティアの顧問の先生に任せるのではなく、よりスキルの高い人にお願いするために必要なのはお金です。その意味でも教育予算などの政策経費を増やせるように、財政再建を行うことは、喫緊の課題なのです。

 僕はいつも、物事を正確に分析するためには、「タテヨコ算数」で考えることが大切だと話しています。
 タテは歴史的な視点で、昔の人はどう考えたのかと思いをめぐらせること。世界中の脳学者は、人間の脳はこの1万年間、まったく進化していないと見ていますから、昔も今も判断力や喜怒哀楽は同じなので、タテで考えることはとても大事です。そしてヨコは世界の人がどう考えているかという視点を持つことです。
 部活についていうと、1958年の学習指導要領では「生徒の自発的な参加によって行われる活動」だったものが、中学校では1972年改訂の学習指導要領から「必修」となり、2002年改訂の学習指導要領で必修ではなくなったという経緯がありますが、「教職員の指導の下に」するものという定義は変わっていません。だから、部活の顧問をするために、先生たちは他国の教員よりも長時間働くことになるわけです。
 一方で世界に目を向けると、日本のやり方が非効率で少数派であることはすでに説明しました。そして、どちらのやり方が合理的で効果が上がっているかということは、次回で触れる予定の学習到達度調査(PISA)などの結果――つまり数字(エビデンスと言い換えてもいいですが)で判断しなければならないのです。
 日本人は、とくにヨコ、つまりグローバルに見る視点が不得意だと感じます。ベルトコンベアの先だけを見ていればよかった工場モデルの時代は、もうとっくに終わっています。いまは価値創出、アイデアで勝負する時代に入っているのですから、視野は広く高く持ちたいものです。

 

■アメリカの大学は歴史が違う

 ヨコの視点を持つ練習の一貫として、アメリカの教育予算に目を向けてみましょう。
 トランプ大統領が、先端研究の予算や教育予算を軒並み大幅削減したことが話題になりましたが、伝統的な大学は自己資金を潤沢に持っています。たとえばハーバード大学の自己資金は4兆円もあります。これだけ持っていれば、ローリスクの国債で運用していても多額の収入が得られることになります。
 現在、米国債の利回りは2%を超えていますから、あちこちの企業を駆け回って共同研究などを持ちかけなくても、年間800億円を自由に使うことができるのです。
 一方、日本の大学の自己資金は、多いところでも数百億円程度。国債で運用したとしても利回りはほとんど期待できない状況なので、ハーバード大学とはまったく比較にならないのです。
 これほど大きな差が付いた理由は、何よりも歴史の長さにあります。
 清教徒(ピューリタン・カルヴァン派)であるピルグリム・ファーザーズが、連合王国からアメリカに渡ったのは1620年のことでした。それからたったの16年で最初の高等教育機関であるハーバード大学が創立されています。
 ピルグリム・ファーザーズは、カルヴァン派ですから教育には熱心です(詳しく知りたい方は『プロテスタンティズムと資本主義の精神』[岩波文庫]をお読みください)。だから、まず大学をつくり、それ以来300年以上にわたって資金を蓄積してきたのです。
 一方、日本で最初の近代的高等教育機関である東京大学は、1877(明治10)年に欧米にキャッチアップするために、国立大学としてつくられました。ハーバード大学とは約150年もの差があるうえに、建学の精神も大きく異なります。
 そういう創立時の差や、それまでのストックを無視して、「アメリカの大学は一所懸命企業や卒業生からお金を集めているのだから同じことをしろ」といわれても、前提条件が違いすぎます。
 そのように考えると、「ハーバード大学などに比べると、日本の大学はなっていない」というような議論が、いかに歴史的なパースペクティブを欠いた、表層的な意見かということがよくわかるでしょう。

 歴史という意味では、アメリカはたかだか200~300年の歴史しかない国であり、1300年も続いている日本(日本という国号の初出は701年です)が負けるわけがないという意見もあります。しかし、近代の日本という国は、実質的に1868年の明治維新から始まっているのです。この島国に定住した人の歴史が、日本となってから1300年あるというだけのこと。
 こういった根拠なき空疎な精神論ほど国を危ぶむものはありません。
 もちろん、日本は素晴らしい国だと思います。でも、思い込みやイデオロギーではなくて歴史的な経緯と、世界中のことをよく調べて、データで裏付けて判断しなければなりません。「1300年の歴史」と胸を張るのは、サイダーを飲んだときのように、一瞬すっとするだけの話です。

 

PISAのデータから見えてくること

 OECDは国際的な学習到達度調査(PISA)を発表しています。これは3年に1回、15歳児を対象に、科学的リテラシー、読解力、数学的リテラシーの3分野について調査するものです。2015年は世界72ヵ国・地域(OECD加盟35ヵ国、非加盟37ヵ国・地域)、約54万人を調査した結果が出ています。
 2000年の第1回調査以来、日本はいずれの分野でも上位に入っていて、2015年の調査では科学的リテラシーが第2位、読解力が第8位、数学的リテラシーが第6位となっています。最近ではシンガポール、上海、香港、台湾、韓国などのアジア勢が上位を独占している感があります。
 これは中国(上海)に象徴されるように、アジア各国は着実に経済力をつけており、社会全体として優秀な子どもを育てようと努力をしている現れでしょう。
 日本が1位になっていないことは、別に大きな問題ではありません。平均で見れば、日本は優れた成果を示しています。日本の問題はむしろ大学などの高等教育にあるのです。
 その結果に一喜一憂して、短期的な対策を講じるより、これまで述べてきたように、子どもの貧困や大学の基礎研究の予算について真剣に議論することのほうが、よっぽど大事だと思います。
 幼児期の教育がいちばん重要だということは証明された事実なので、子どもの貧困に目をつぶっていてはなりません。大学は日本の未来に直結するので、諸外国に先行したいのであれば、基礎研究をしっかりできる環境を整えなければいけません。そういう当たり前のことを、教育界は議論するべきだと思います。
 そういった全体像が見えていない、言い換えればグランドデザインを描ける人がいないというのが、日本の教育界の問題なのです。

 

■肩車の発想からall supporting all

 さて、PISA学習到達度調査で、アジア諸国とともに目立つのがフィンランド、ノルウェーなどの北欧諸国、そしてそのすぐお隣のエストニアです。バルト3国(ラトビア、エストニア、リトアニア)の一角であるエストニアは、人口が130万人余りの小国ながら、2015年の調査では、3分野のいずれもベスト10入りしており、とくに科学的リテラシーではシンガポール、日本に次ぐ3位に食い込んでいます。
 1991年に旧ソ連から独立したエストニアは、経済の自由度やITへの集中投資などを背景に急成長。IMF(国際通貨基金)調べでは、1993年に169ヵ国中94位(1151ドル)だった1人あたり名目GDPは、2017年には191ヵ国中42位(1万9840ドル)まで急上昇しています。
 インターネット電話サービス「スカイプ」を生んだ国でもあるエストニアは、世界に先駆けて電子投票の仕組みを構築。勤務先からでも、自宅でも国政選挙などへの投票が可能になっているほか、99%の行政手続がオンラインで完結するそうです。
 どの国の経済でも、強くなるために必要なのは「人口×生産性」です。人口が少ない国は、一人ひとりの能力を上げていかなければなりません。
 フィンランドやノルウェーなどの北欧諸国は、その点を強く意識しています。数百万人の人口で、フランスやドイツなど6000万~8000万人もの人口を抱える大国に対抗していくためには、1人当たりの生産性で勝らなければ話になりません。だから教育に非常に力を入れており、エストニアにも同じことがいえるのです。

 そう考えると、今後人口が減少すると予想されている日本では、一人ひとりの生産性を上げていくことが急務だ、という結論になります。
 すでに連載第3回で述べたように、生産性を上げる必要があることは間違いありません。G7で最低の労働生産性を引き上げることが、経済成長の唯一の道だからです。
 現在の日本は「肩車社会」に近づきつつある、といわれています。これは、生産年齢に達した人が高齢者を支えなければならない、という考え方に立脚した物の見方です。内閣府の『2017年版高齢社会白書』によると、2016年10月1日現在の生産年齢人口(15~64歳)は7656万人、65歳以上の高齢者は3459万人ですから、「騎馬戦以下肩車未満」が正確なところですが、趨勢としては肩車に近づいていくことは間違いありません。
 しかし「肩車」という表現は「young supporting old」――若者が高齢者の面倒を見るという考え方を当然視しています。これに対して僕は、「肩車」という考え方自体を捨て去るべきだと思っています。そもそも、「young supporting old」は正しい考え方なのか、大いに疑問です。
 人間は動物です。動物の親が子どもの面倒を見るのは当たり前ですが、子どもが親の面倒を見ることはあり得ません。ということは、「young supporting old」という仕組みは、自然に反していることになります。いわば、働いている人間から所得税でお金を集めて、住民票で年齢チェックをして、高齢者に敬老パスを配るという世界は、けっして普遍的ではないのです。
 少子化が先に進んだヨーロッパではかなり以前からこの考えを捨てていて、「all supporting all」の世界になっています。消費税を前提に、年齢フリーでみんなが社会を支えて、シングルマザーや貧困世帯に集中して給付を行っているのです。その際、マイナンバーが威力を発揮しています。
 これからは日本も、「all supporting all」の社会に変えていかなければなりません。直間比率を大きく見直して消費税を上げていく必要があるし、マイナンバーを活用して、本当に援助が必要な人に給付が届けられる体制を整えなければならないのです。「マイナンバーを登録したら、情報がすべて政府に把握されるからいやだ」などと言っている場合ではありません。
 どんな計算をしても、日本で少子高齢化が進むことは避けられません。「肩車の時代がやってくるぞ!」と闇雲に警報を鳴らすのではなく、現実を正確に把握して、適切な対策を講じることこそが大切なのです。

 
※ この連載は、毎月10日、25日ごろ更新します。
 第11回は11月25日ごろに公開する予定です。