• 「ローマ法大全」まで読破して「ナポレオン法典」を制定した
    ナポレオン・ボナパルトは、
    流刑の船中でも勉強していたという。
    盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)は、音読してもらった6万冊の本を記憶し、
    死ぬ間際まで『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』や『史料』の編纂にあたった。
    こうした学ぶ意欲はどこから出てくるのか。
    どうすれば意欲を持てるのか。
    先進国のなかで学習意欲がきわめて低いといわれる
    日本の社会人、学生たちに向けて、「学ぶことの大切さ」を
    企業経営者から学長に転身した“哲人経営者”が語る。


第7回 日本の教育システムからジョブズは生まれない

        

■考える力が育たなかったのは「工場モデル」のせい

 前回は「さまざまな知識×考える力」こそが教養であり、リテラシーであり、「おいしい生活」に直結する、と述べました。ただ、残念ながら、知識を蓄えず、考える力を養っていない日本人が少なくないと思います。それはこの四半世紀のGDP成長率が欧米先進国と比べて明らかに低いことからも明らかでしょう。
 なぜ考える力が育たなかったのかというと、日本はいまだに、戦後うまくいった製造業の「工場モデル」――大量生産、大量消費を前提とした社会システムの延長線上で物事を考えてしまっているからです。
 戦後、アメリカへのキャッチアップを目指して、工業立国として復興を行っていくなかで、日本は素直に働く協調性のある人を評価して大量に採用してきました。日本が独立を回復した1954年から、1991年にバブルがピークをつけるまで、平均7%弱の成長が続き、「黙って働けば10年で所得がほぼ倍になる」時代が続いたのです。
 たとえばカラーテレビをつくる工場では、我慢強くて、上司の言うことを黙って聞き、長時間労働も辞さず、仲間と協調して、明るく淡々と働く人が評価されました。

イラスト:吉田しんこ   

 ところがこの生産ラインに、アップルコンピュータの創業者である故スティーブ・ジョブズを立たせたらどうなるでしょう。きっと、彼はすぐには仕事に取りかからず、腕組みをしてあれこれ考えて、工程のひとつひとつに注文をつけていくに違いありません。美しい生産ラインはできるかもしれませんが、たちまちテレビの生産は滞り、業績ががた落ちすることは目に見えています。
 しかし、GDPに占める製造業のシェアが4分の1を割り込んだ現在、これまでと同じことをしていたら、成長が望めないのは当たり前。かつてのような工場モデルではなく、新しい仕事をクリエイトしていくジョブズ的な発想がますます重要になってきています。
 ジョブズを生んだアメリカでは、卒業生はなんのためらいもなくベンチャー企業やNPO、NGOに就職します。ヨーロッパでは「ノブレス・オブリージュ」(※)といわれるように、自発的に社会問題を解決していこうという考えを持った層の人たちがいて、大企業ではなく、小さくとも自己実現ができる組織を目指す傾向にあります。
 しかし、工場モデルが常識となっている日本では、いまだに多くの人が右にならえで大企業を目指します。大企業への就職が経済的安定を意味する途上国ならいざ知らず、先進国でみんなが既存の大企業を目指している国は、日本くらいなものではないでしょうか。

※ノブレス・オブリージュ――高い地位に伴う道徳的・精神的義務(広辞苑)

 

■現在の「義務教育」からは希望は生まれない

 いまの日本の義務教育を真面目に受けていても、ジョブズ的な「知識と考える力」はなかなか身につかないでしょう。「みんなで決めたことを守りましょう」といった考え方が基本にあり、個性は必ずしも大事にされません。「人はみな違っている」というファクトはあまり重要視されず、依然として工場モデルに最適な、協調性の高い素直な人材を量産するための教育が行われているような気がします。これは、海外の先進国の教育とは根本的に異なっています。
 たとえば連合王国(イギリス)の幼稚園では、まず最初に「みんな違っている」ことを勉強します。クラスの全員と1対1で向き合わせることを繰り返し、同じ顔の人はいないことを、まず確認するのです。そして次に先生は、「では、みんなが考えていることは同じだと思いますか」と尋ねます。すると、ほとんどの子どもは「顔が違うんだから考えてることも違う」と答えます。
 先生は、さらに続けます。
「そうですよね。人は一人ひとり違うのだから、自分の感じたことや思っていることを伝えなければ相手にはわかりませんよね」
 これはとても大事なことです。みんな違うのだから、伝える努力をしなければ何ひとつわかってもらないのです。考え方が違う人たちが社会を作っているのだから、チケットを買うときには順に並ぶなどのルールを守らなければなりません。個性を前提にして、その公約数を決まりにした連合王国の「ルール」と、違いを許さないためにある日本の学校の「決まり」とはまったく違うものです。
 海外では幼稚園から学ぶ「人はすべて違う」という人間社会の基本を、中学生になっても勉強しないような義務教育を続けてければ、いつまでたっても日本にジョブズは現れないでしょう。

 もうひとつ、日本の義務教育の大きな問題点は、「公平性」を取り違えていることです。たとえば能力別にクラス分けを行おうとすると、「差別だ」「公立の学校にはそぐわない」などと大問題になったりします。
 しかし、能力別にクラスを編成したほうが有効であることは疑いの余地がありません。もしも水泳教室で、泳ぎが得意な子と、かなづちの子をいっしょに指導したらどうなるでしょうか。泳ぎが得意な子は「もっといろいろな泳ぎ方を教えてほしい」と思うでしょうし、不得意な子は「じっくり練習させてほしい」と感じるでしょう。つまり、全員が不幸になってしまいます。
 それと同じことが、学科の授業でもいえるのではないでしょうか。
 能力別にすると「差別だ」という声が上がるのは、「成績のいい子が偉い」という価値観に縛られているからです。学科の成績と人間性はまったく別物です。勉強ができるからといって、人間的に優れているとは限らないし、将来、大成するとも限らないのです。
 たとえば、トーマス・エジソンは小学校を中退しているし、ヴァージン・グループの創設者であるリチャード・ブランソンも高校を中退しています。
 水泳教室では、速く泳げる子は速く泳げる子同士で練習するほうがいいし、かなづちの子はかなづちの子同士で特訓するほうが指導の効果が上がります。それと同じことを全教科でやるべきだと僕は思います。
 それは教育の効果を上げるためには当然のことであり、差別でもなんでもありません。むしろ、「差をつけてはいけない」というのは、人間性の無視といってもいいでしょう。人間にはだれでも能力に差があるので、できないことをやらされることほど不幸なことはありません。リレーで女生徒が「キャー!」といってくれる快感がなかったら、僕は陸上部には入っていなかったと思います。
 わが国の問題は、戦後の画一教育に対する批判が、個や多様性の尊重には向かわず、ともすればアナクロニズムに近い戦前回帰の傾向を取ることにあります。

 学校の「決まり」や校則も同じです。日本のある小学校がブランドものの制服を導入して話題になりましたが、制服の値段を云々する前に、そもそも制服自体が必要なのかどうかから議論しなければならないと思います。
 髪の毛の長さや髪型、染髪などについて細々とルール化している学校が多いと思いますが、なぜそういうルールになっているか、その決まりは本当に必要なのかを、数字・ファクト・ロジックで一つずつ考えていくべきです。
 そして、根拠のないものは、即刻廃止をする勇気を持つことです。根拠のない校則を生徒に押しつけることは、パワハラそのものです。
 僕が通っていた学校にも校則はありましたが、生徒手帳を読んだことはなかったので、おそらく勝手に破っていたと思います。授業が面白くない先生が、テストで変な問題を出したら、「こんな問題、意味ないで」と書いて提出したりしていました。内申点がどうなるかというようなことは、考えたこともなかったです。
 ですから、先生とは頻繁に喧嘩をしていました。面白くないときは、授業中でもクラブ室に行って本を読んでいたりしましたね。
 親も、何回か学校側から呼び出されて注意を受けていたようです。でも、うちの親は放任主義だったので、「ええかげんにしておけや」くらいはいわれましたが、それ以上のことをいわれた記憶はありません。
 いま、振り返ってみれば、「なんてアホな子どもだったんだろう。先生は苦労しただろうな。申し訳なかったな」と思います。とはいえ、もしもいまそういう生徒がいたら、先生はルールを押しつけるのではなく、放っておけばいい。成長したら、いずれはわかるものです。生徒がうしろを向いていれば、「自分の授業が面白くないのかな」と、教える側も、それぐらいにゆったりと構えておけばいいのではないでしょうか。

 

※ この連載は、毎月10日、25日ごろ更新します。
 第8回は10月10日ごろに公開する予定です。
 

コメントは受け付けていません。