• 大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、日本三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。 戦後日本の高度成長を支えた労働者たちが住み着いたかつての山谷は、男たちの熱気に溢れかえっていた。そもそもなぜこの場所がドヤ街になったのか? 山谷に魅せられたノンフィクションライターが突撃取材を続けるうちに辿り着いたのは、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちだった。


第一回 時代が交錯する街

 

日雇い労働者の街から福祉の街に

 

 帰山さんは、城北旅館組合の広報担当でもあり、メディアの取材依頼があった際にはいつも対応している。山谷の取材に着手する時、私も最初に連絡を取ったのが帰山さんだった。以来、水先案内人となって興味深い情報を提供してくれた。気さくな人柄で、生活保護受給者など海千山千のバックグラウンドを持つ宿泊客を相手にしてきただけあって、多少のことでは動じない。
 城北旅館組合とは、南千住駅から300メートルほど南下した泪橋交差点を中心とした下町に点在する、簡易宿泊施設の同業組合である。台東区と荒川区にまたがる広さ1・66㎢の地域に、加盟施設約140軒がひしめき合うように建っている。「旅館●●」「ビジネスホテル●●」などの屋号が掲げられた古民家やタイル張りのビルがそれだ。約140軒ある宿泊施設のうち、8割は生活保護受給者が対象で、一泊の料金は1700〜2200百円。残りが外国人や一般の観光客を対象にした高層マンションを改装した造りで、一泊2700〜3600円と少し値上がりする。

 

簡易宿所の屋号が散見される山谷の町並み(撮影:水谷竹秀)

 

 街では真っ昼間からカップ酒や缶ビールを手にしながら立ち話をするおっちゃん、酔いつぶれてひっくり返って寝ているおっちゃん、人目も(はばか)らずいきなり立ち小便をするおっちゃんたちの姿をそこかしこで見掛ける。警察官による職務質問や補導も日常茶飯事で、その光景が山谷に馴染(なじ)んでいるのが、この街の懐を感じさせる。
 帰山さんは山谷の魅力をこう語る。

「よそ者に寛容な街。歴史的にみてもそう言えます。戦前は旅芸人や行商人が木賃宿に泊まり、戦後は戦争罹災者の居場所となり、高度経済成長期には全国から日雇い労働者が集まりました」

 かつては日雇い労働者の街として知られ、昭和39年の東京オリンピック開催に向けて進められた都市基盤の建設・整備には、山谷の日雇い労働者たちが現場に出向いた。その頃には約220軒の宿泊施設に15000人が暮らしていた。
 ところが時期を同じくして労働者による暴動が繰り返されることになる。「警察官の取り扱いが不当だ」と訴える労働者の群れが通称「マンモス交番」に押し寄せ、投石や暴行を働いたのだ。集まった労働者は多い時で3000人に達した。
 マンモス交番の正式名称は、「浅草警察署山谷警部補派出所」。昭和35年3月に完成した。鉄筋コンクリート3階建てで、定員は約60人。日本では「最大規模」と言われた。
 当時、小学生だった帰山さんは、その様子について記憶をたぐりよせながら語ってくれた。

「僕は危ないから遠巻きに見ていましたが、すごい人の群れで、板切れでも何でも投げていました。歩道にあった石畳を壊し、交番に向かって投石もしていましたね。火が飛び交っている様子も見ました。あの暴動で山谷には負のイメージが定着してしまったんです」

 暴動を抑えるため、労働問題や生活保護、児童福祉などの相談を行う生活相談所や労働センターが相次いで設立された。ところが思惑通りに暴動が沈静化することはなく、労働者にも警察官にも多数の負傷者が出た。
 40年代後半になるとオイルショックなどの影響で日本経済が低迷し、宿泊施設に暮らしていた労働者の数は1万人程度に減少。さらにバブル崩壊によって労働需要は急減し、建設現場では作業の機械化も進んだため、労働者の減少傾向に拍車が掛かった。この結果、阪神淡路大震災が起きた1995年には約6000人へと落ち込み、高齢化も相まって現在は約4100人と、ピーク時の3分の1を下回っている。
 その9割が現在、生活保護受給者で占められているのだ。仕事がない上、高齢化で働けなくなったためで、これが山谷を「福祉の街」と言わしめる所以である。残りは、日雇い労働者と一般の観光客に大別される。労働者たちは毎朝、城北労働・福祉センター、もしくはハローワークの玉姫労働出張所に集まり、土木関係や公園清掃などの現場で汗を流し、日銭を稼いでいる。

 

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