• 大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、日本三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。 戦後日本の高度成長を支えた労働者たちが住み着いたかつての山谷は、男たちの熱気に溢れかえっていた。そもそもなぜこの場所がドヤ街になったのか? 山谷に魅せられたノンフィクションライターが突撃取材を続けるうちに辿り着いたのは、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちだった。


第二回 ルーツは相撲取り

 

半世紀前のカセットテープ

 その男の世間でのイメージとは概ね次のようなものだった。
「日雇い労働者を相手に簡易宿所を経営し、儲けた金で豪邸に住んでいる」
 決して肯定的とは言えない。その男とは、(さん)()の戦後復興で中心的な役割を担い、簡易宿所を10軒以上経営していたヤマ王こと()(やま)(じん)()(すけ)である。
 べっ甲製の眼鏡を掛け、太鼓腹で恰幅がよい。きりっとした表情を浮かべ、ある種の威厳すら感じさせる。結婚した20代前半の頃の写真を見ると、太い眉にぱっちりとした目で、鼻筋が通り、実に端整な顔立ちをしている。美男子、と言っても過言ではないだろう。
「世間のイメージとは裏腹に、威張るタイプではありません。子煩悩で真面目でした。宴会で芸者を冷やかすようなことはしない。仲間内でキャバクラに行き、1人だけ小説を読んでいたという話を聞いたことがあります。心臓を悪くして入院をしていた時、お見舞いに週刊誌を何冊か持っていったら、卑猥なページが含まれていたので叱られました。シャイなんです」
 父親の印象についてこう語るのは、息子の帰山哲男さん(67)だ。現在は、城北旅館組合の広報担当を務め、私が常宿にしている「エコノミーホテルほていや」の経営者でもある。
 ある時、哲男さんから1本のカセットテープを渡された。白いラベルには鉛筆で、
「山谷とキヤマ・ジンノスケ」
とタイトルが書かれている。

 

哲男さんが保管していた半世紀前のテープ

 

 このテープは、哲男さんが学生の頃、自宅の倉庫で見つけ、以来、ずっと保管していた。今から半世紀近く前の昭和45(1970)年暮れ、浅草ロータリークラブで開かれた例会で、仁之助がスピーチをした時の肉声が収録されている。哲男さんに似て甲高(かんだか)い声で、冒頭は次のように始まる。
「ただいまご紹介頂きました帰山仁之助でございます。今から7〜8年前に山谷でもって、夏になりますと騒ぎが起きまして。その当時、私の名前が新聞に出たり、テレビやラジオなんかで報道されたことがありまして、ご承知の方もだいぶおありかと思います。私もその頃まで組合長なんかをやっておりました関係上、まあ責任ある立場から、私の名前が出ましたが、もうすでに組合長を退きまして」
 組合長とは城北旅館組合の代表だ。同組合は、(みなみ)千住(せんじゅ)駅近くの(なみだ)(ばし)交差点を中心とした一帯に点在する、宿泊施設の同業組合である。広さは台東区側が0.69㎢、荒川区側が0.97㎢の計1.66㎢で、現在はここに簡易宿所135軒がひしめいている。仁之助が組合長だった昭和30年代半ばは、200軒を超えていた。
 戦後の組合長は現在(上野雅宏組合長)も含めると12人。仁之助が第5代目を務めた頃は、「所得倍増計画」を打ち出した池田内閣の時代だった。東京オリンピックを目前に控えた高度成長期のまっただ中で、公共事業の建設ラッシュによる労働需要が高まっていた。この影響で山谷の街には日雇い労働者が溢れ、その数はピーク時には約1万5千人に達した。作業着に地下足袋を履いた中高年の男たちが、目抜き通りの旧都電通りに群がり、その人いきれが伝わるモノクロ写真が、今も残されている。
 昭和37(1962)年夏からは毎年のように暴動が繰り返された。「マンモス交番」と呼ばれる浅草警察署山谷警部補派出所の周辺に、数千人規模の労働者が結集し、「警察官の取り扱いが不当だ」と訴えて投石や暴行を働いたのだ。
 仁之助がスピーチの中で言及した「騒ぎ」とはこのことで、矛先は時に、「宿賃を不当につり上げやがって!」などとして簡易宿所の経営者らにも向けられた。つまり、山谷史上最も激動の時代に、組合長という立場で表舞台に立たされてきたのだ。暴動が起きるたび、新聞や雑誌などでコメントを求められていたことから、「帰山仁之助」の名はたちどころに知られることとなった。
 例会でのスピーチは次のように続く。
「今日の題は、山谷の問題なんかということになりますると、浅草地区にとっても名誉な存在ではありませんので、あまり華々しくお話できる問題ではございません。が、何と申しましても、何か起きますると全国に名前が知れるような地区でございますので、誠に浅草地区のみなさまには本当に申し訳ないと思っています」
 謝罪には意味がある。
 それは山谷の戦後復興の音頭を取り、中心的な存在として携わってきた結果、暴動の街と化したことへの自責の念からだった。同じように回想する姿は、自宅の中でも見られたという。当時を思い出しながら、息子の哲男さんが語った。
「小学生の頃、洗面所で歯を磨いていると、風呂に入っている親父が今までやってきた取り組みに対して、ああすればよかった、こうすればよかったと独り言を口にしていたのを何度も耳にしています。子供心に親父は大変なんだなあと思いました」

 

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