• 大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、日本三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。 戦後日本の高度成長を支えた労働者たちが住み着いたかつての山谷は、男たちの熱気に溢れかえっていた。そもそもなぜこの場所がドヤ街になったのか? 山谷に魅せられたノンフィクションライターが突撃取材を続けるうちに辿り着いたのは、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちだった。


第三回 「昭和の歌姫」と山谷

 

あの有名画家に大手企業も

 

 美空ひばり以外にも実は、山谷に関係する著名人はいる。ちぎり絵で有名な日本の画家、山下清がそうだ。大正11(1922)年、東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤)に生まれた。自伝「山下清放浪日記」(日本図書センター1999年刊)で、著者の山下清は生まれた地を「浅草区の田中町90番地だ」と述べている。そこは現在の地図でいうと、台東区日本堤2丁目に属し、(なみだ)(ばし)交差点から西に約200メートルの、明治通り沿いの一帯を指す。日雇い労働者への仕事を紹介する城北労働・福祉センターから徒歩数分で、周辺には簡易宿所も建ち並ぶ。センター周辺は早朝から、日雇い労働者が職を求めて待機し、あるいは路上に座り込んでカップ酒を飲む姿が見られ、この混沌とした場所からあの「天才放浪画家」が誕生したのは感慨深い。

(城北労働・福祉センターの周りには毎朝、日雇い労働者が集まる 撮影:水谷竹秀)

 

 田中町で生まれ育った山下清は、1歳の時に関東大震災で家が焼失。父親の故郷、新潟県へ移り住み、4歳の時に再び浅草に戻った。現存する台東区清川の石浜小学校に入学したが、間もなく、同じ清川の正徳小学校(跡地は現在特別養護老人ホーム)へ転校する。幼い頃から言語障害を患っていたことからいじめに遭って孤立、傷害事件を起こしてしまう。一般の学校通いを諦めた母の勧めで12歳の時、千葉県市川市にある知的障害児施設に入園し、そこで絵の才能が花開いた。のちに「日本のゴッホ」とまで称されるようになり、その波乱に満ちた人生は映画やテレビドラマにもなった。
 関東地方を中心に166店舗を展開する「イトーヨーカ堂」発祥の地がここ山谷であることも、実はあまり知られていない。 
 イトーヨーカ堂は大正9(1920)年に創業した。同社の広報によると、住所地は「浅草区山谷3丁目」(現・台東区清川2丁目)。創業時は「めうがや洋品店」としてスタートしたが、それが後に「羊華堂洋品店」となる。「羊華堂」の「羊」は、創業者、吉川敏雄の干支が未年だったためで、「華」はその当時に繁盛していた銀座の「日華堂」にあやかったという。
 戦前の写真を見ると、1兆2千億円の売上高を誇る巨大企業の出発点とは思えないほどこぢんまりした店舗である。2階部分に「●品チェーン羊華堂」(●は隠れて見えない)という横文字の看板が掲げられ、大きなサイコロのオブジェが、宙に浮いたように取り付けられている。歩道に立つ広告塔のような柱には、「御一名様 一ヶ年分 必要品 サイコロ大セール」と大書され、店の入り口の商品ケースにはかばんのようなものがいくつも見える。その隣に建つのは旧安田銀行(現・みずほ銀行)。柱にみられるモダンな造りがその特徴を示しており、当時の地籍台帳からも明らかだった。
 羊華堂の店舗は戦争で焼け、戦後になって千住(現・東京都足立区)に移ったが、旧安田銀行の建物は現存したまま。つまり、その隣がかつての羊華堂洋品店の跡地のはずで、私の常宿「ほていや」から目と鼻の先の吉野通り沿いにある。そこは今、「バール・アルテ」という洒落たイタリア料理店に様変わりしている。

 

(開業時の羊華堂洋品店と旧安田銀行の写真、そして現在の姿 撮影:水谷竹秀)

 

 バール・アルテのオーナーシェフ、相越進さん(51)は、両親からイトーヨーカ堂発祥の地であるらしいという話は聞かされていたが、数年前にそれが確実になったという。
「会社の足跡を辿っていたOBの方々が店に来たんです。それでイトーヨーカ堂の社史が書かれた資料と当時の写真を頂きました。1兆円企業まで上り詰めた会社のルーツが戦前、ここにあったんだなあと」

 

 

〈次回は11月9日(金)頃に更新予定です。〉

 

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