「死の古美術」トップページ > 自序 & 第1回 境界
自序

生前彼女は「末期癌を宣告された後、人生が充実した」と語っていた。

東日本大震災。店を時折手伝ってくれたAさんは、展示された弥生土器をしっかりと抱えて守った。お洒落で溌剌とした姿は健康な人と変わらなく見えたが、震災後に容体が急に悪化し、四か月後に三十八歳で息をひきとった。私は何かに突き上げられるように思い立ち、仲間の写真家二人と海に入り、百合の花を生けて撮影した。早朝の空も海も富士山も透き通るように美しかった。センチメンタリズムでもなければ、献花などという高尚な気持ちもなかった。「死」の生々しいエネルギーを受け、創作し、形あるものとして残したいと思った。「死の古美術」はこの頃から書きたいと考え始めた。

「美」に内包される「死」の存在を意識するようになったのは十五年前。私は半年間に二度の手術を経験した。それぞれが六時間に及ぶ手術だったが、本人は全身麻酔で眠っていたので記憶がない。麻酔が覚めて思ったのは、「死ぬ」ことと「死」は違うということだった。人は生まれたときに死ぬことを宣告され、いつからかそのことを理解するようになり「死」に悩まされる。生きて考える「死」は人生を脅かし、心配させ、死後の世界を想像させる。しかし、それはフィクションで、自身がつくったお化けのようなものだ。

退院後、さまざまな美術品を見るときに、「死」のお化けが手を振るようになった。それは奇抜な発想や、驚くような集中力やエネルギーを発し、時代性とともに作品に反映される。「死」の存在は発掘品や仏教美術のみならず、茶、花、書、芸能や現代美術に関連したものにも及び、自然や文学と絡み合いながら「美」を昇華させる。美の隙間から見えるのは、紀元前から現代まで、時代を超えた普遍的な「ヒト」の姿だ。

気がつけば、人生の半分以上を古美術商として過ごし、写真や花などによる表現の作品をつくり始めてから十年が経過した。

その間に出会った人たちや出来事を交えて、さまざまなジャンルの古美術と「死」について書いていく。

「美」は永遠を願う「生」の象徴であり、「死」を内包する。

「死」がなければ、人はこれほどまでに「美」を追求しなかったのではないだろうか。

第1回境界
埴輪
武人埴輪顔(部分) 古墳時代 五世紀 人物の埴輪の中で武人の埴輪は、集団としてつくられることが多かった。その大半はあどけない少年の顔に見えるものが多い。ベンガラによる赤色の着色がされている。ほとんどが腰に剣をつけて、頭部には兜をつけ、鎧をまとっている。

ビートルズの「レット・イット・ビー」が流れていた。

大小の土器、人物や円筒形の埴輪、壺などが並ぶ。

読経も讃美歌もない市民葬儀施設の一室は、開け放たれた窓から入る、やわらかな光に包まれていた。

その日、知ったことがある。

Kがいつも奥様を「ヘーアン」と呼んでいたのは「平安」の意味であること。

「な、女房……平安時代の女性みたいだろう?」。ふと、Kの声が聞こえたような気がした。

黒髪を中央で分けた、十二単が似合いそうな奥様の横に、Kによく似た長身の息子が二人。兄は強いまなざしを前へ向け、弟は時折、母の様子を案じながらうつむいていた。

「息子が小学生の頃、縄文土器の模様は、手が滑らないためにある、と言ったのには驚いたよ」と笑ったKの顔を思い出す。家族とごく親しい友人たち、生前蒐集した古美術品と大好きだった曲に見送られ、Kは旅立った。

会社勤めのKは五十代半ば。癌の宣告を受けてから三年という年月は、生きるには短く、死を待つには長すぎたであろう。あるとき、Kは「俺、死ぬなら秋がいいなあ」とつぶやいた。理由を聞くと「棺の中はコスモスがいい。妹はワレモコウが好きだった。妹のときはちょうど時季でよかったよ」と寂しそうに言った。

葬儀の最後、コスモスを手に、棺の中をのぞいたとき、Kはすでに消えていた。空洞になった肉体だけがふわりと横たわっているように感じた。まるで、魂が肉体から離れて天の遠くへ去ってしまったかのようだ。

年月が過ぎたある日、私は入手したばかりの埴輪の目をのぞき込みながら、Kの葬儀を思い出していた。そういえばあの日、Kを見送った埴輪は、このような少年の武人であっただろうか。うろ覚えな記憶の中で、印象に残っているのは、逆光に淡々とした様子で並ぶ、埴輪や土器のシルエットと、葬儀場から出た瞬間に感じた、太陽のまぶしさだった。

木々は育ち、花は散り、人は去っていく。太陽は変わらずに、太古から見送るものと見送られるものたちを照らしてきた。魂はどこへ行くのだろうか。肉体が終わると消えてしまうのか。人々は疑問を投げかけ、祈り、見えない何かを形あるものに託してきた。

古墳時代には死者に対して「魂振(たまふ)り」と「魂鎮(たましずめ)」の儀式が行われた。死体の頭は、石枕にのせられ、「魂振り」では立花(りっか)と呼ばれる飾りを立てて、魂が生き返るように呼びかけた。勾玉は縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にわたってつくられたが、立花は二つの勾玉を合わせて紐でくくったような、特有な形をしている。立花というからには花の意味があったのだろう。「たちばな」と読み、つまり「橘」で、常緑樹の生気や不老長寿をあらわしたと想像する。「魂鎮」ではこれらの飾りを刀子(とうす)形に変えて、魂が荒ぶるのを鎮めようとした。肉体やこの世と縁を切るための刃物であったのか。現代でも死人の棺桶の上に小刀を置くことがある。縄文時代からの死霊崇拝はシャーマニズムとともに、古墳時代の原始神道に息づいていた。用途や形式は違うが「魂振り」「魂鎮」は今も宮中や神社神道に受け継がれ、行われている。

魂が存在するとしたら、生と死の領域は曖昧なものになる。人々は地面を掘り、死人のための領域を求めた。権力者が亡くなると、膨大な労力や時間をかけて墓をつくり、手厚く葬った。武具や動物などの器や刀などの実用品と、鏡や勾玉などの呪術的なもの、祭祀のための装飾須恵器などが納められた。

死体を埋葬した石室には、壁画が施された。六世紀、九州の日岡(ひのおか)古墳の石室には大胆な円文と三角や蕨(わらび)のような文様が描かれており、それらが何をあらわすのか、想像が膨らむばかりだ。六世紀末から七世紀前半、茨城の虎塚(とらづか)古墳には白色の粘土を塗った上に鮮やかなベンガラで三角や渦、中心が空いた丸形の環状文とともに、武具や装飾品、馬具などの実用品もあらわされている。白色粘土は絵画を定着させ、際立たせるために施されたのであろう。七世紀、九州の珍敷塚(めずらしつか)古墳では、鳥に導かれ、人が舟に乗って旅立つ風景が描かれている。古墳時代終末期七世紀から八世紀、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳の壁には四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)や人物、動物の葬送の列が見られる。時代の流れでは、抽象から具象へ、象徴から物語性へと、混在しながら変化する傾向があり、これらを見ると、近現代に通じる絵画の表現は、すでにあらわされていたことがわかる。中国や朝鮮半島の大陸文化は弥生時代に伝わったとされ、高松塚古墳の人物や四神は、絵画のみならず思想としても、明らかに大陸の影響を受けたものと思われる。

しかし、影響ばかりとはいえないものもある。たとえば、人間が太陽などの、共通の自然対象に感じるイメージを、線によってあらわすと、似た円文になる可能性は高い。大陸文化から受け学び、それ以前の土着文化と混在しながら、新たに日本特有のものが生まれるという、日本美術の特徴が、これらの壁画からも見て取れる。

日本以外の壁画として、古くはフランスのラスコーなどの洞窟壁画が思い浮かぶ。それらの絵が描かれた壁面は、聖なる境界をあらわした、とされている。古墳の石室も、実際には存在しない石の向こうの空間を見つめ、小さな石室を無限の中心としてとらえている。人々は壁画を描くことによって、死後の世界をあらわそうと試みた。

一方、外部には古墳を囲むように、境界として、円筒形埴輪が立てられた。加えて、剣を腰につけた武人や勾玉を首から下げた巫女、鹿や馬、鳥などの動物や靫(ゆき)や盾などの埴輪も祀られた。それらはいずれも空洞で、肉体を失った魂が宿る拠り所を想像させる。外界の敵から墓を守るために立てられたのか、それとも亡くなった霊を封じるため、もしくは霊力に守護を求めたのかもしれない。

境界に立てられたと聞くと、険しい形相をイメージするが、多くの武人や巫女、動物の埴輪の顔は、童顔で穏やかだ。装飾須恵器の上の鳥や人物、石室の壁画に描かれた象形的な絵も稚拙とさえ思える。しかし、技術が未熟なのではない。埴輪の下部には繊細な線が描かれており、人物の表情など、神経の行き届いたつくりが随所に見られる。その姿は純粋で強く、無表情と思える中に哀しみを秘めている。「土に還る」という言葉が思い浮かぶ。古墳の上に太陽が昇り、やがて沈むのを見るとき、人々は来世への心象風景を、広がるその景色に重ねあわせたのではないか。

石枕
石枕(部分) 古墳時代 四世紀から五世紀 蛇紋岩(じゃもんがん)でつくられた石枕は、三段の直弧文(ちょっこもん/直線と弧線を組み合わせた文様)が施され、巡らされた穴には立花や刀子の飾りが立てられた。