第14回 穢れ
新死相
噉相
九相図巻(くそうずかん)新死相、噉相 鎌倉時代 九州国立博物館蔵 撮影/山ア信一 「九相図」は人の死体が朽ちてゆく過程を、九つの段階で描いた絵画。絵巻方式のこの九相図巻は、掛け軸にあらわされた「人道不浄相」(聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)蔵「六道絵(ろくどうえ)」のうちの一つ)とほぼ同じ図像だが、巻頭に、衣装をまとった女性の「生前相」が描かれている点が異なる。図版は死後すぐでまだ生きているかのような状態の「新死相」と、野犬、鳥や獣(けもの)などが死肉を貪る「噉相(たんそう)」の場面。

「父の言うことは絶対ですからね。まして、遺言だから仕方がないですよ」

F氏は、亡き父の遺骨をガンジス川に散骨するため、ひとりインドへ旅立った。

一週間後、彼は初めての海外旅行から無事に戻り、友人たちの集まりに出席した。

本来は土産話を聞きたいところだったが、散骨の件に触れる者はいなかった。なぜならば、生前の父と彼の確執や、嫌々インドに行くはめになったことを、気の毒に感じていたからだ。ワンマンな創業者と後継ぎの彼は、世間からも比較されることが多かった。

宴会半ば、「うまく言えないけれど、死はすごいよ」とF氏が唐突に話を切り出したので、友人たちは耳をかたむけた。

彼は常々、父から「もっと、強く男らしく生きろ」などと言われ続け、心の中で反発を感じていた。旅の最中も、ガンジス川への散骨などという、わがままな思いつきで、インドまで来させた父に怒りを覚えつつ、死後も逆らうことができない自身にいら立っていた。

聖なる川を前にして、彼は想像を絶する光景に出会い、衝撃を受けた。目にしたのは、川で沐浴(もくよく)する人々と、その横に浮かぶ遺体だった。生焼けの状態、黒く膨らんでいる場合もあった。動物のうなり声が聞こえたので振り向くと、死体を食いちぎる犬と、その隙を見て、肉をついばもうとする鳥がいた。

以前、父がインド旅行から帰ってきたときに、「人生は短い。一瞬だよ。おまえにも見せたい」と言った言葉を思い出した。彼はこの場所に立つことで、強い父のイメージが遠のいていくのを感じた。目に見えない暖かいものに包まれるような心地よさを感じ、涙が止まらなかったと言う。

ガンジス川の話を聞き、「九相図(くそうず)」を思い浮かべていた。鎌倉時代に絵巻として制作された「九相図巻」(九州国立博物館蔵)は、仏教論書『摩訶止観(まかしかん)』に拠(よ)るもので、美しい女性の遺体が腐乱し、動物がその肉を食いちぎり、しだいに白骨化する様子が描かれている。不浄観という修行の際に、僧たちが肉体への執着を断ち切るために用いたらしい。死体を九段階に分けて観想するために、体がガスで膨張する「脹相(ちょうそう)」、皮膚が破れる「壊相(えそう)」、血液や体液が滲(にじ)み出す「血塗相(けちずそう)」、腐乱する「膿爛相(のうらんそう)」、青黒くミイラ化する「青瘀相(しょうおそう)」、鳥獣に食べられる「噉相(たんそう)」、体の部位が散乱する「散相(さんそう)」、骨になる「骨相(こつそう)」、灰となる「焼相(しょうそう)」の九場面が描かれた。

現代は火葬が当たり前で、亡くなると、最初の「脹相」からすべて省略されて「焼相」になるが、古代から中世の日本では、身分の高い人、貴族以外の人々は火葬されることなく葬られたので、実際に腐敗していく状況も目にすることがあった。まさに死体を見て描いたのではないかと思えるほど、内臓なども精緻に描かれ、悪臭やグロテスクな質感が伝わってくる。

男ではなく女体が描かれるのは、修行僧が男であるから「性」としての煩悩を絶つ意味で女体とした説がある。実際にそのようにも使われたのかもしれないが、「性」への煩悩よりも、むしろ古代から脈々と日本人の宗教観や社会の中に流れている「穢(けが)れ」の存在によるものではないかと思う。
「死」そのものが穢れととらえられるとともに、「女体」は、妊娠や月経、出産の流血への恐怖心や汚れから、穢れとしてとらえられてきた。さらに鳥獣に襲われる穢れも合わせて、まさに穢れた不浄とされてきたものの集まりが「九相図」として描かれた。人はみな、母の肉体から生まれ出るのに、女体を穢れとするのには矛盾があるように思われる。おそらく、穢れは道徳や個々の存在にかかわらず、視覚、聴覚、臭覚が覚える不快なものを原始的にとらえたものだったのではないか。その後、道徳や法が加わっても、「穢れ」の思想は宗教的、政治的背景の中で生き続け「差別」の土壌を築いた。

この作品などが描かれた時期は「厭離穢土(えんりえど)」の浄土信仰の盛期とも重なり、穢れを不浄なものとして見ることで、浄土をより美化する意味合いもあった。目をそむけたくなるものを直視する修行は、穢れを不浄と受け止める不浄な心を改めずに、無常を悟ろうとしたのであろうか。穢れとされてきたものを、あるがままに受け止め、不浄としない。そのような、死と向き合う悟りもあったのではないだろうか、と思いたい。