これまでぼくはヨットで数多くのクルーズを経験してきた。時化に見舞われて怖い思いをしたこともあれば、陸上では決して味わえない極上の風景をプレゼントされたこともある。海はそのときどきの状況で、実に様々な顔を見せてくれる。ほほ笑むときもあれば、怒るときもある。水平線に沈む夕日は、陸で見るよりもはるかに大きく、荘厳で、美しいけれど、時化て曇天の夜の海は、底無しの闇を暗示して不気味だ。両方の顔を持つからこそ、海の魅力はより大きくなる。

 美しさという点で、忘れられないのは、三年前の航海である。午前に鹿児島県の指宿を出て、佐多岬をかわすと、われわれは高知県の足摺に針路を向けた。都井岬を過ぎたあたりから暗くなり、空にはぽつぽつと星が瞬き始め、やがて、周囲は満天の星空に覆われていった。うしろからのそよ風を受けて、べた凪である。これ以上ないほどのコンディションの中、夜空をまたぐ天の川が平らな海面に映って、あたかも星々の川を漕ぎゆくのかのよう……。まちがいなく、これまでに経験した最高のナイトクルーズであった。

 美しさを提供する一方で、天体は、鳥肌のたつほどに怪異で、神秘的な現象をもたらす。雷、オーロラ、流星、月食、日食……。特に皆既日食は、天体の運行に理解が及ばなかった古代より、人々にとって畏怖の対象であった。

 日食とは、月の軌道と太陽の軌道が重なって、月が太陽を隠してしまう現象を言い、太陽の全体を覆ってしまうのが皆既日食である。

 今年七月二十二日、実に四十六年ぶりに日本で皆既日食が観測される。場所は、屋久島の南から奄美大島北部までのおよそ二百キロの幅を持つ皆既帯と呼ばれる区域に限定される。その中央部分に位置するトカラ列島、特に悪石島で、最長の食が観測される。

 皆既帯は、トカラ列島を除いてほとんどが海域である。おまけに、日本最後の秘境と呼ばれるトカラ列島に行く交通手段は少ない。なんという皮肉だろう。四十六年ぶりに皆既日食が見られるというのに、その場所は、全国で一番交通の便の悪いところときた。こうなれば、トカラ列島沖を目指す航海を計画するほかない。当然のごとくわれわれは、皆既日食観測のクルーズ企画を立ち上げ、これに「ダイヤモンドリング・プロジェクト」と命名した。

 名前だけは仰々しいが、中身はいたって単純、熱海沖の初島を母港とするぼくのヨット(ミカ3世号。三正三十七フィートのセイリング・クルーザー)で、淡路島、洲本のサントピアマリーナまで航海し、そこで友人のヨット、「マリヅル号」にクルーとして乗り組み、悪石島まで遠征して皆既日食を見ようというだけだ。前半はともかく、後半は他人のふんどしで相撲を取るも同然、たまにはちょっと楽をしようか、というわけである。

 これまで、ぼくは自分の船でトカラ海域まで五回行ったことがあるが、たまに人の船に乗り組むのも趣が変わっていい。なにしろ、「マリヅル号」は八十二フィートという大きさを誇る。個人所有のセイリング・クルーザーとしては、たぶん日本最大ではないだろうか。より大きなヨットでクルーズするのは、ヨット乗りの憧れなのだ。

 

 六月十五日、われわれは東京を出発して初島に渡り、「ミカ号」を出港させて、下田、御前崎経由で鳥羽に向かった。初島から下田(三十マイル)、下田から御前崎(三十五マイル)、御前崎から鳥羽 (七十マイル)と、ここまではオーバーナイト抜きのディクルーズで、海は荒れることなく、風もほどほど、連日快適な航海となった。特に御前崎、鳥羽間はうしろからの風を受けて最速十ノットでとばし、予定より早く、三時半の入港となった。

 われわれは、鳥羽国際ホテルの桟橋に船を着けると、一旦のチームを解散して、東京に戻ることにした。ぼくの場合、月末と月初は仕事が忙しく、船の上に滞在することができないからだ。

七月五日、集中して仕事を片付け、態勢を整えた上で、われわれは鳥羽に再集結した。いよいよ航海も本番である。伊勢志摩、那智勝浦、田辺、和歌山に寄りながら、徳島から小豆島まで足を延ばして、十三日に最初の目的地である洲本のサントピアマリーナに入港することができた。

天気はずっと良好で、一度も危ない目に遭わなかった。ニュースでは連日、大雨の被害を伝えてばかりいた。東京から連絡を受けるたび、「大雨で大変でしょう」と心配されたが、海の上で雨に降られることは、あまりない。海を渡った空気が陸にぶつかってできるのが雲であり、陸地は雨でも、海の上は晴れていることが多い。

 さて、淡路島、洲本のサントピアマリーナに船を入れると、一際大きなヨットが桟橋に着いているのが見えた。マリヅル号……、約一年ぶりの再会である。

 ぼくが初めてマリヅル号と出会ったのは四年前の小笠原であった。ヨットを父島の岸壁に着けようとしたところ、日本では滅多に見かけないタイプの、巨大なケッチ(二本マストのヨット)が着岸されているのが見えた。船を止めるとすぐ、オーナーに挨拶に出かけ、以降、付き合いが続いているというわけである。昨年は、奄美大島までのクルーズに同行させていただいた。

 三日後にはこのマリヅル号で南に下り、皆既日食を見る……、逸る心を抑え、しばし、洲本でエネルギー充填である。

後編へつづく

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プロフィール
鈴木光司(ずずき・こうじ)

1957年5月13日生まれ。静岡県出身。デビュー作「楽園」で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。「リング」「らせん」は映画化され大ヒット。またアメリカでも「ザ・リング」としてリメイクされジャパニーズ・ホラー・ブームを巻き起こす。その他映画化された作品多数。2008年に長編「エッジ」を刊行。最近はトイレットペーパーにホラー小説を書き下ろすというアイデア商品もヒット。