INDEX

第1回 ボールペン市場、激震

第2回 傍流が生んだ画期的発明

第3回 奇跡の1週間

第4回 筆記具までの遠い道のり

第5回 千賀物語

第6回 メモリータイプの開発

第7回 筆記具への挑戦

第8回 3つの幸運

第9回  “消せるボールペン”、商品化へ

第10回  ヨーロッパ先行販売で大ヒット

第11回 消せるボールペンの系譜

第12回 伊東屋でのデモ販売

第13回 発売から8年、シリーズ累計10億本を売り上げる大ヒット商品に
著者プロフィール

ノンフィクション作家。ジャーナリスト。
著書に『IT起業家10人の10年』『開高健名言辞典〜漂えど沈ます』『ビッグコミック創刊物語』『長靴を履いた開高健』『電網創世記』『孫正義インターネット財閥経営』『シリコンバレーの日本人起業家たち』などがある。
日本ペンクラブ言論表現委員会委員。開高健記念会会員。


滝田誠一郎

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第5回 千賀物語

メタモカラーがやりたくて、パイロットインキに入社
 のちに消せるボールペン『フリクションボール』の開発リーダーを務めることになる千賀邦行(せんが・くにゆき/パイロットコーポレーション湘南開発センター名古屋分室インキ開発グループ部長、パイロットインキ第一開発部長。1963年岐阜県生まれ)がパイロットインキに入社するのは1986年のこと。会社案内に載っていたメタモカラーに魅せられ、メタモカラーの研究開発をやりたくてパイロットインキに入社した千賀は、“メタモカラーの申し子”ともいえる人物だ。

メタモカラーの説明をする“メタモカラーの申し子”千賀
 高校時代、化学の授業を通して有機化学に興味を持った千賀は、静岡大学工学部合成化学科(現物質工学科)へ進学する。大学ではさまざまな反応経路でビタミンEを工業的に作り出す実験に明け暮れた。その千賀が就職に際して第一志望企業として選んだのがパイロットインキだった。

 パイロットインキは、パイロット萬年筆株式会社(1989年に株式会社パイロットに改称。現パイロットコーポレーション)がインク需要の増大に対応するために1948年に開設した名古屋インキ工場をルーツとし、1950年にパイロットインキ株式会社として分社、設立された会社である。インクメーカーとして誕生し、急成長を遂げた同社は、その後ボールペンやマーカー、サインペンなどの筆記用具の開発・生産や玩具事業などにも乗り出して事業を拡大。2002年の持ち株会社化でパイロットコーポレーションの完全子会社となり、現在に至っている。

「同じ研究室の2年先輩の院生の友だちがパイロットインキに勤めていて、その先輩を通してパイロットは若い研究者でも思い通りの研究が自由にできるという話を聞いてパイロットという会社に興味を持ったのが最初です。それでパイロットの入社案内を見てみたんですが、そのときに理由はよくわからないのですがメタモカラーがものすごく心に残ったんですね。当時は、これから事業を拡大していこうという時期で、冷たい飲み物を入れると絵が浮かび上がる紙コップとか、寒さで色が変わるスキーの手袋などが紹介されていたことを記憶しています。その入社案内を見た瞬間、なぜか自分もメタモカラーの研究開発をやってみたいと思いました」(千賀)

 時代は1985年のプラザ合意に端を発する円高不況からバブル景気(1986年12月ごろから1991年2月ごろ)へと向かう端境期だったが、教授の推薦があればほぼ希望通りの企業に就職できる時代でもあった。ところが──。

「教授の推薦で入社できるのは1大学1人だったのですが、パイロットインキの志願者が私の他にもう1人いた。教授からは『1人しか推薦できないから2人でよく話し合いなさい』と言われ、話し合った結果、もう1人の学生が別の会社に鞍替えしてくれた。おかげで私は自分の希望を押し通すことができたわけです。メタモカラーをやりたいという熱意、地元(岐阜)に近い名古屋の会社に就職したいという気持ちが、彼の志望動機に勝ったのかもしれません」(千賀)

 千賀と同じ1986年入社組は二十数人。そのうち大学で化学を専攻した学生が千賀を含めて3人いた。当時パイロットインキには第1から第4まで4つの研究室があり、第1から第3研究室までが筆記具の研究開発を、第4研究室が主にメタモカラーの研究を行っていた。化学を専攻した3人の新入社員のうち1人は第1研究室に、千賀は第4研究室に、そして残る1人は特許関係を扱う特許室にそれぞれ配属になった。千賀にしてみれば希望が叶ったわけだが、見方を変えれば入社早々から会社の主流である筆記具の研究開発からは外れた傍流の部署へ飛び込んだ格好だ。

 第4研究室の研究開発をリードしていたのは、いうまでもなくメタモカラーの生みの親であり、“メタモカラーの神様”などとも称される中筋憲一その人である。当時の役職は課長だった。千賀が入社してから数年後、第1、第2、第3研究室が統合されて第1開発部に、第4研究室が第2開発部へと組織変更が行われ、第2開発部は中筋が部長に昇格することになる。その中筋の薫陶を受けながら、ときに叱咤激励されつつ、千賀はメタモカラーの研究開発に邁進していくことになる。

「技術を止めるな」
 千賀がパイロットインキに入社した1986年は、中筋がメタモカラーの基本原理を発見した1971年から数えてちょうど15年目にあたる。この間、中筋をリーダーに発色剤、顕色剤、変色温度調整剤の3つの物質を封じ込めたカプセルの小型化、耐久性の向上を図るための研究開発が地道に続けられていたが、メタモカラーを多方面で実用化するためにはまだカプセルは大きすぎたし、耐久性も十分ではなかった。ちなみに千賀が入社した頃のカプセルの大きさは10〜15マイクロメーター(μm)ほどあり、これを5〜6μm、さらには2〜3μm程度まで小さくしても耐久性のある、発色のいいマイクロカプセルにすることがその頃の当面の目標になっていた。

「カプセルの径の大きさや耐久性などがネックになって、当時のメタモカラーは紙コップやグラス、玩具類など、簡単に印刷ができる分野でしか本格的な実用化が図れていなかった。グラビア印刷やオフセット印刷に使うためにはもっとカプセルの径を小さくしなければならないし、濃くしなければならない。プラスチックに練り込みたいと思ったら200度くらいの熱に耐えうるカプセルにしなければいけない。そういう具体的な実用化の狙いを定めて、それに向かってカプセルの径を小さくする、耐久性を上げるということに取り組んでいた。まだ筆記用具に応用できるレベルではなかったので、それはちょっとこっちへ置いといて、それとは別の路線で事業を少しずつ大きくしている時期でした」(千賀)

 入社直後の千賀にもカプセルの膜材の研究がテーマとして与えられた。膜材に適していると思われるプラスチック原料を取り寄せ、異なる原料をフラスコの中で混ぜ合わせたり反応させたり自分なりのアレンジを加えてカプセル化する。できあがったカプセルを顕微鏡で調べ、分析装置を使って子細に分析し、カプセル化の可否、カプセルの強度や耐久性を調べる研究だ。基礎的な研究方法は直属の上司である係長が教えてくれたそうだが、そこから先は自分で考えながら、論文や専門書などを読みあさりながら、失敗しながら、係長に「バカだな……」などと言われながら、毎日朝から晩まで研究を繰り返した。

 そのときは結果的にものにならず、「ほとんど失敗の連続でしたが、専門書を読みあさっていろんな原料の特性を知ることができたし、失敗したときの対応の仕方なども経験を積むことができたり、学ぶことがたくさんあっておもしろかったです」(千賀)

 研究自体はおもしろかったが、同時に“傍流”の悲哀みたいなものもまた千賀は入社直後から感じ取っていたという。

「筆記具の研究開発をしている部署は自由で楽しそうな雰囲気でしたが、筆記具の会社でありながら筆記具のことをやらずにメタモカラーだけをやっている我々の部署はやはりちょっと雰囲気が違いました。研究自体はおもしろいんですが、まだメタモカラーが発展途上で、これをなんとか大きな事業として育てなければいけない、自分たちの食い扶持を大きくしなければいけないというギリギリのところで必死にもがいているような状態でしたから。入社したばかりでもその厳しさは肌で感じていました」(千賀)

 入社から十数年後、一貫してメタモカラーの研究開発に取り組んできた千賀は、消せるボールペン『フリクションボール』の開発責任者として一躍脚光を浴びることになる。その千賀を、メタモカラーの神様・中筋憲一は「きちっと物事を詰めることができる研究者」だと評価する。当初は誰も想像していなかったメタモカラーの筆記具への応用を現実のものにすることができたのも、きちっと物事を詰めることができる千賀だからこそだ、と。
 メタモカラーの申し子、千賀の耳の奥には中筋が口を酸っぱくして繰り返していた言葉がいまもこびりついている。

《技術を止めるな。絶対これで完成ではないのだ》

 中筋のこの言葉を忠実に実践したからこそ、千賀はメタモカラーの研究をきちっと詰めることができたのかもしれない。