INDEX

第1回 ボールペン市場、激震

第2回 傍流が生んだ画期的発明

第3回 奇跡の1週間

第4回 筆記具までの遠い道のり

第5回 千賀物語

第6回 メモリータイプの開発

第7回 筆記具への挑戦

第8回 3つの幸運

第9回  “消せるボールペン”、商品化へ

第10回  ヨーロッパ先行販売で大ヒット

第11回 消せるボールペンの系譜

第12回 伊東屋でのデモ販売

第13回 発売から8年、シリーズ累計10億本を売り上げる大ヒット商品に
著者プロフィール

ノンフィクション作家。ジャーナリスト。
著書に『IT起業家10人の10年』『開高健名言辞典〜漂えど沈ます』『ビッグコミック創刊物語』『長靴を履いた開高健』『電網創世記』『孫正義インターネット財閥経営』『シリコンバレーの日本人起業家たち』などがある。
日本ペンクラブ言論表現委員会委員。開高健記念会会員。


滝田誠一郎

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第7回 筆記具への挑戦

不夜城
 発色して字が書ける状態、あるいは透明化して色が消える状態を記憶するという新しい機能を持つメモリータイプのメタモカラーが1988年に本格的に実用化されて以来、メタモカラーの用途が格段に広がったことは前述したとおり。しかし、それはあくまでも色材(顔料・塗料・印刷インクなどの総称)としての用途であり、2000年ごろまではメタモカラーを筆記具に応用、実用化しようという考えは研究開発者たちの頭の中になかった。研究開発の主要メンバーのひとり、千賀邦行は次のように振り返る。

「私自身のことで言えば、メタモカラーの研究開発と同時に、海外の玩具メーカーや国内のさまざまなメーカーと共同開発をしていろいろな商品化に取り組んでいて、それがすごく楽しくてしょうがなかったので、この当時は筆記具をやりたいという気持ちは正直あまりなかった」(千賀)

 筆記具用インクへの応用が現実味を帯びてくるのは2000年以降のことである。色材としてのさらなる用途開発を目指してマイクロカプセルの小型化、変色温度幅の拡大に辛抱強く取り組んだ結果、1990年ごろには5〜10マイクロメートル(μm)であったマイクロカプセルの直径を、2001年に5分の1──2〜3μmにまで小さくしても耐久性のある、発色のいいマイクロカプセルを作ることに成功する。これによって筆記具への応用が一気に現実味を帯びてくるのである。

 ちなみに人間の髪の毛の直径が80〜100μmだから、2〜3ミクロンのマイクロカプセルとは髪の毛の約40分の1ほどの大きさということになる。その中に発色剤、顕色剤、変色温度調整剤が封入されているのだから、パイロットインキが誇る極微細加工技術のレベルの高さが容易に想像できるというものだ。

「マイクロカプセルを小さくしようとすればするほどカプセルの膜は薄くなり、耐久性が落ちるのが道理ですが、耐久性を落とすわけにはいかない。耐久性が落ちて膜が破れたり溶けたりして筆記具のインクの成分(十数種類の溶剤や添加剤など)と接触すれば色が思うように消えたり現れたりしなくなるということにもなりかねませんから。そのためマイクロカプセルの膜材の研究開発と、2〜3μmの微細なカプセルの製造法の確立には非常に多くの時間を割くことになった」(千賀)

 メタモカラーのさらなる進化を図るための基礎的な研究開発を地道に繰り返す一方で、“いついつまでに……”と期限の定められた商品化プロジェクトが同時並行でいくつも動いていたため、メタモカラーを担当する第2開発部の研究開発陣は多忙を極めた。毎日夜遅くまで電気がついている第2開発部の研究室は社内で“不夜城”と呼ばれていた。


ついに筆記具に応用できた。でも……
 その甲斐あって2001年に筆記具に応用できる2〜3μmの超微細なマイクロカプセルの開発に成功するのだが、しかし、筆記具に応用するにはもうひとつ大きなハードルを越えなければならなかった。変色温度幅のさらなる拡大である。メモリータイプが本格的に実用化された1988年当時の変色温度幅は20度程度とまだ広いものではなかった。放っておくとの少しの温度差で色が消えたり現れたりするようなものだった。その後の研究開発で新たな変色温度調整剤が次々と生み出された結果、2001年当時には変色温度幅は40度くらいにまで広がったが、これではまだ筆記具に応用するには不十分だった。40度程度の温度差だと、たとえば季節による寒暖の差、北国と南国というような地域による温度差、さらに使用環境や保存環境によって、意図せずに色が消えたり現れたりすることが容易に想像できたからだ。

 筆跡がいつまでも変わらずに残るのが“いい筆記具”だという常識からすれば、このように不安定なメタモカラーはまだまだ筆記具には適さない代物だった。
 にもかかわらず、メタモカラーを使った筆記具の開発プロジェクトがスタートする。メタモカラーの生みの親であり、2001年当時パイロットインキ取締役第2開発部長の役職にあった中筋憲一の意向を強く反映し、その情熱が突き動かしたプロジェクトだ。

「メモリータイプが開発され、以後さまざまな商品化が図られましたが、その一環として“よし、次は筆記具だ……”というようなことはぜんぜん思っていなかった。ただ、正直に言って“やれるものならばやってみたい”という気持ちはずっとあった。2001年に筆記具への応用も可能な極微細なマイクロカプセルの開発に成功したので、“だったらやってみよう――”ということで筆記具への応用に取り組んだ」(中筋)

 プロジェクト始動から1年後の2002年、メタモカラーを使った最初の筆記具『イリュージョン』(限定販売/0.7ミリ/1本税別150円)が発売される。書いたときは黒かった筆跡が、キャップ頭部についている専用ラバーでこすると色がカラフルに変化するボールペンで、黒→レッド、黒→ピンク、黒→バイオレット、黒→ライトブルー、黒→グリーンと変化する5種類の商品が売り出された(直後にイエローとオレンジが加わり、ライトブルーはブルーに改められる)。ついたキャッチフレーズが“こすると色が変わる不思議なボールペン”。

 ここでひとつ技術面での補足説明をしておく必要があるだろう。温度変化によって色が消えたり現れたりするのがメタモカラーのはずなのに、なぜ『イリュージョン』は消しゴムでこすると筆跡が消えるのではなく、黒い筆跡がレッドになったりバイオレットになったりするのか?

「技術的な観点から言うと基本的にメタモカラーというのは色が透明化する素材です。そこに色が消えない一般の染料、顔料を混ぜるとカラー・トゥ・カラーに変化させることができる。たとえば緑のメタモカラーに赤の一般色を混ぜると筆跡が黒になって、こするとメタモの緑が透明化するので赤になるという変化なんです」(千賀)

成功には遠かったが、蓄積はできた
 千賀の説明を理解するためには色材の三原色についての知識が不可欠になる。光の三原色はよく知られているように赤、緑、青だが、印刷などに使われる色材の三原色はあまり知られてはいないがシアン(C/明るい青)、マゼンタ(M/明るい赤紫色)、イエロー(Y/黄色)の3色。この3色を混ぜることでいろいろな色を合成することができる。C+Y=緑色、M+Y=赤といった具合だ。C+M+Yすべてが混ざると黒になる(実際には完璧な黒にはならず、灰色がかった黒)。

 色が消えない一般的な赤いインクに、緑色のロイコ染料を封入したメタモカラーのマイクロカプセルを加える。この場合、常温の状態では赤(M+Y)と緑(C+Y)が混ざり合って黒く発色する(C+M+Y)。ところが専用ラバーでこすって、摩擦である一定の温度まで上昇すると、メタモカラーに含まれる変色温度調整剤の働きによって緑色(C+Y)が消えて赤だけが残る。これが黒い筆跡が専用ラバーでこすると赤く変色する仕組みだ。



 ちなみに、『イリュージョン』がなぜ限定販売だったのかと言えば、先にも書いたとおり当時のメモリータイプの変色温度幅が40度程度と狭かったからである。

「『イリュージョン』の温度設定は零度〜40度くらいで、40度以上になると変色し、零度以下になると元の色に戻る。そうすると夏の暑い時期に上市すると、輸送している間に色が変わってしまう事態が続出することが容易に想像されたので、それで限定品ということにしたのです。言ってみれば苦肉の策です」(千賀)

“こすると色が変わる不思議なボールペン”というコンセプトで、主に女子中高生をターゲットに販売された『イリュージョン』だが、残念ながら結果はあまりかんばしくはなかった。予定していた数量はなんとか売り切ったが、さほど話題になることもなく、静かに姿を消すことになる。

「メタモカラーは本来、カラーからカラーレス(透明)なのだが、『イリュージョン』はそこへわざわざ染料とか顔料を入れて、黒から赤とか、黒から緑というようにカラーからカラーに変化させるというコンセプトで開発した。そうしたら社内でも『しょせんオモチャだね』と言われたりして、筆記具としては見てもらえなかった。メタモカラーをようやく筆記具に応用することができたが、でも主流にはなれなかった。まだまだ傍流でしたね」(中筋)

「色が変わるという目新しさで子供向けに作られたおもしろグッズみたいな商品で、たしかに色が変わって面白いんですけどとりたてて使い道がない。オモチャと言われても仕方がないようなものでした」(千賀)

 ここで注目すべきことはふたつある。ひとつは販売面では大きな成果を出せなかったものの、生産面では大きな一歩を記したということだ。

「メタモカラーを使った筆記具の大量生産はこれが最初だったので、生産の過程でいろいろな問題に直面し、それを克服することで多くのことを学び、蓄積することができた。具体的なことは言えないがマイクロカプセル化のノウハウとか、実際にインク化するときのノウハウを蓄積することができた。その意味では『イリュージョン』は営業的には、利益という面ではそれほど成果を上げられませんでしたが、開発面、生産面では『フリクションボール』につながる非常に大きな成果をもたらしたと言える」(千賀)

 注目すべきもうひとつのポイント、それは『イリュージョン』を発売した2002年の時点でもまだ、パイロット内部に“消せるボールペン”というコンセプトが確立されていなかったということだ。“消せるボールペン”というコンセプトが誕生するためには、中筋の言葉を借りればあるセレンディピティ(思いもよらずに起きた幸運な出来事)を待たなければならなかった。

 消せるボールペン『フリクションボール』誕生のきっかけとなるセレンディピティ、それはヨーロッパ・パイロットコーポレーションのマルセル・ランジャール代表取締役社長兼CEO(当時)の発した一言だった。