INDEX

第1回 ボールペン市場、激震

第2回 傍流が生んだ画期的発明

第3回 奇跡の1週間

第4回 筆記具までの遠い道のり

第5回 千賀物語

第6回 メモリータイプの開発

第7回 筆記具への挑戦

第8回 3つの幸運

第9回  “消せるボールペン”、商品化へ

第10回  ヨーロッパ先行販売で大ヒット

第11回 消せるボールペンの系譜

第12回 伊東屋でのデモ販売

第13回 発売から8年、シリーズ累計10億本を売り上げる大ヒット商品に
著者プロフィール

ノンフィクション作家。ジャーナリスト。
著書に『IT起業家10人の10年』『開高健名言辞典〜漂えど沈ます』『ビッグコミック創刊物語』『長靴を履いた開高健』『電網創世記』『孫正義インターネット財閥経営』『シリコンバレーの日本人起業家たち』などがある。
日本ペンクラブ言論表現委員会委員。開高健記念会会員。


滝田誠一郎

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第10回  ヨーロッパ先行販売で大ヒット

マルセル・ランジャール
 2002年から2014年までパイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパS.A.(フランス)の社長兼CEOを務めたマルセル・ランジャールは、パイロット社内では「ヨーロッパの筆記具市場に最も精通している人物」として、その手腕がきわめて高く評価されていた。社外の評価も高く、人望も厚く、フランスの主要文具メーカー商社が加盟するUFIPA会長を務めたキャリアも持つ。

 写真で見るとアメリカの俳優リチャード・ギアを彷彿とさせる柔和な雰囲気の持ち主で、彼とつき合いのあった人たちからは見た目どおり気遣いが行き届いたジェントルマンだという評価が異口同音に聞かれる。海外営業畑が長く、ランジャールのことをよく知る伊藤秀(しゅう)(パイロットコーポレーション取締役海外営業本部長)は、その人物像を次のように語る。

「ひと言で言って超一流のセールスマンです。基本的には柔和で繊細で気のいい人間です。ビジネスに関する取り組みは真剣そのもので、主張すべきことは毅然と主張する。どういう商品を選ぶべきか。どの市場に、どのチャンネルで売るべきか。価格はどうあるべきか。販売促進はどうあるべきか。そんなことについてずいぶんふたりで真剣に議論したものです。ただ、彼は日本の会社の決定プロセスを理解しているし、日本人の物事の考え方もよく知っていますから、譲るところは譲る。そういう意味では非常にバランス感覚が優れた人物です」

2004年5月、パイロットコーポレーションがヨーロッパ市場向けに消せるボールペンの商品化を決定し、パイロットインキで商品化プロジェクトが動き出すのとほぼ同時に、パイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパにおいてはマルセル・ランジャールを中心に消せるボールペンの販売戦略の検討が始まった。


摩擦熱で消えるから「フリクション」
 若者をターゲットにすることは最初から決まっていた。フランスやドイツの学校ではノートをとるとき万年筆やボールペンを使うことになっているため、下は小学生から上は大学生まで、みんながみんな書き損じた文字を消したり、書き直したりするのに不便な思いをしていた。

 消せるボールペンならばその不便さを解消することができる。間違った箇所は専用の消しゴムできれいに消すことができるし、その上から書き直すことも容易にできて便利この上ない。児童も生徒も学生もこぞって消せるボールペンを使うはずであり、教育の場で大きな需要が見込める……若者をターゲットにしたのはそういう読みが、確信があったからだ。

 ならば、消せるボールペンを若者に売り込むためにはどうしたらいいか? それが販売戦略を考える上でのキーポイントだった。

 販売戦略上、重要な意味を持つ商品名も若者受けする“クール”なものが採用された。専用の消しゴムでこすったときの摩擦熱でインクが透明化する商品の特性を踏まえ、英語の「摩擦」を意味する[FRICTION] (フリクション)をベースにした造語[FRIXION]に決まった。ヨーロッパ出張中にネーミング会議に居合わせた大村宣公(現・パイロットコーポレーション海外第3営業部部長代理)によると、商品特性がはっきりしていることもあってこのネーミングはすんなり決まったという。

「パイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパでは定期的に欧州各国の販売会社の代表が集まる会議を開いているのですが、私が出張しているときにその会議があり、そのときのテーマが消せるボールペンのネーミングでした。フランス人、ドイツ人、イタリア人、スウェーデン人、デンマーク人など、いろんな国籍の人間が思いつくままにまずアイデアを出し、それをホワイトボードに書き出し、書き出したものをみんなで話し合いながら消去していくというやり方で、最終的に残ったのが[FRIXION]でした。その場でロゴマークも決まりました。それを本社に提案し、本社がアクセプトして正式に決定したという形です」(大村)

 正式決定を受けて、以後、消せるボールペンに使われているインクを「フリクションインキ」と呼ぶようになり、フリクションインキを使ったボールペンには「フリクションボール」(FRIXION BALL)の商品名がつくことになる。

タトゥー論議
 若者をターゲットにした販売戦略のなかで、日本人の感覚からするととりわけユニークな戦略と映るのがタトゥー(刺青)をモチーフにしたデザインをボールペンのボディーに施したことだ。教育現場で主に使われることを想定した筆記具にタトゥーをモチーフにしたデザインを採用するという感覚は日本人にはなかなか馴染めないものがあるが、そのあたりの感覚が日本とヨーロッパではだいぶ異なるようだ。

「フリクション発売時は若い世代をターゲットにしていたので、若者のあいだで流行っているタトゥーをモチーフにデザインしました。当時もいまもタトゥーは若い世代のひとつの象徴であり、実際問題として若いアーティストやスポーツマンでタトゥーをしていない人を探すのは困難だといってもいいくらいです」(ランジャール)

メタモカラーの説明をする“メタモカラーの申し子”千賀 2009年から2012年までフランスに駐在していた木橋庸二(きばし・ようじ)(パイロットコーポレーション海外第3営業部営業課)は自分の目で見てきたヨーロッパのタトゥー事情を次のように話す。

「サッカー人気が高く、サッカー選手のほとんどがタトゥーをしているので、小学生くらいの子供にとってもタトゥーは格好いいものであり、憧れにもなっている。高校生、大学生になるとかなりの若者が自分でもタトゥーをいれはじめ、そのことに対して親も学校の先生も悪いイメージは持っていない」(木橋)

 しかし、これはあくまでもヨーロッパでの話。パイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパがタトゥーをモチーフにしたデザインの採用を決めても、日本の本社(パイロットコーポレーション)がそれを是としなければ最終決定にはならない。タトゥーをタブー視する風潮がある日本人の心情を考慮して、本社サイドがこれを拒絶してもおかしくない。「タトゥーはやはりまずいのではないか」という意見もきっとあったのではないかと推察するが、本社サイドはパイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパの決定を尊重し、ゴーサインを出す。

 実はこれにはちょっとした裏話がある。フランスでの先行販売の準備が進んでいた当時、フリクションボールを日本国内で販売する予定はなかった。もし、日本でも販売する予定があったならば、タトゥーのデザインを採用することに本社サイドは賛成しなかったはずである。日本では反社会的イメージが色濃いタトゥーをデザインに採用したりすれば、下手をすればブランドイメージに傷がつくおそれもあるからだ。

 事実、2007年に日本でフリクションボールが発売される際には、ヨーロッパで好評を博したタトゥーをモチーフにしたデザインは採用されず、別のデザインに差し替えられている。日本で売るつもりのない“ヨーロッパ限定商品”のような位置づけであったからこそ、ネーミングやデザインをはじめとする販売戦略はパイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパの意向を最大限尊重するという方針で物事が進んだのである。

「いまここで発注書を書こうか?」
 販売チャンネルに関しても、従来の筆記具の販売ルートにとどまらず、若者の目に触れやすいようにより幅広く多様な販売チャンネルで販売する戦略が採られた。

「あらゆるタイプの流通経路をリサーチし、展示陳列方法を工夫して若者の目にできるだけ触れるようにした」(ランジャール)

 この販売戦略は、結果として若者に限らず多くの消費者の目にとまることになり、ヨーロッパにおけるパイロットブランドの認知度がそれまでに比べて飛躍的に向上するという副次効果ももたらすことになる。

 ヨーロッパでの発売に向けて現地で、そして日本でさまざまな準備が進む最中、伊藤はマルセル・ランジャールとのあいだで交わした会話をいまもよく覚えているという。

「フランスやドイツには万年筆やボールペンを修正液などで消して書き直す“消す文化”があるので、消せるボールペンは売れるはずだとマルセルさんが力説するので、じゃあどれくらい売れるんだという話になった。そうしたらマルセルさんは『800万本売れる』と言ったんですよ、年間に。

 私を含めてパイロットコーポレーションの人間は誰も信じなかった。本社のほうでは年間200万本くらいの見込みでしたし、パイロットインキのほうも200万本の生産体制をとっていた。それに対してマルセルさんは『だったらいまここで800万本の発注書を書こうか』と。そんなやりとりがあったのを覚えています。マルセルさんはそれだけ自信があったんですね。消せるボールペンはヨーロッパで絶対に売れると確信していた」(伊藤)

 当時、海外向けの商品企画を担当していて、フリクションボールの企画にも携わっていた大村宣公も「800万本はいくらなんでも無理だ」と思っていた。

「海外向け商品というのは市場に浸透するまでにけっこう時間がかかるものなんです。いくら消耗品とはいえ800万本というのはすごい数字ですから、初年度からそんなに売るのは無理だろうと思いました」(大村)

 ちなみに、ボールペンの場合、ヨーロッパ市場全体で1ヵ月の販売本数が100万本、年間で1000万を越えると大型のヒット商品とみなされるそうだ。大村が言うように海外向け商品は浸透するまでに時間がかかるので、発売後3年、4年でこの数字をクリアすることができれば大成功ということになる。初年度から800万本というランジャールの読みがいかに常識外れ、ケタ外れなものであったかがわかるだろう。本社の人間が誰ひとりその言葉を信用しなかったのもうなずけるというものだ。消せるボールペンというこれまでにない商品だということを考えると、初年度200万本でも成功だと考えた本社の判断は妥当なものだといえる。

いきなりフル生産体制に
 当初の生産体制は実は200万本ではなく100万本だったという証言もある。実際に三重県津市の工場で工業化の陣頭指揮に当たっていた千賀邦行の証言なので信憑性(しんぴょうせい)が高い。

「正直言って『そんなに売れるかなぁ……』という声が社内にあり、最初は年間100万本の生産体制でした。創立55周年記念商品として期待はかけていたのは事実ですが、数百万本を狙ういくという雰囲気ではなかった
ですから会社としてもそんなに大々的にやっていくという雰囲気ではなかった」(千賀)

 2005年に津工場から製品の出荷が始まり、実際にフリクションボールがヨーロッパの文具店その他の店頭に並んだのは翌2006年1月のこと。定価は1本2.5ユーロ(当時の為替レートで約350円)。1本1ユーロ前後で売られているボールペンがたくさんあるなかでけっして安くはないが、いざ蓋を開けてみるとフリクションボールは爆発的な売れ行きを示した。授業で万年筆やボールペンを使わなければならないために、間違った箇所の修正や書き直しの際に不自由な思いをしていた生徒や学生たちが一斉にフリクションボールに飛びついた。そのニーズを的確に把握していたマルセル・ランジャールの読みどおりであり、日本サイドの常識的な読みをはるかに超える売れ行きだった。

 このため、生産現場では嬉しい悲鳴が昼夜を問わず24時間響き渡ることとなる。

「年間100万本体制で生産、出荷していましたが、すぐに上方修正され、それから3ヵ月間は厳しかったですね。とにかく人海戦術で工場は休みなしのフル稼働状態。その一方で生産設備の増設に取り組むということで、工場の人たちはヨーロッパからの出荷要請に応えるのに大変だった」(千賀)

 年間100万本の供給を前提にした生産設備を人海戦術で1日2交代制にして年間200万本、それでも足りずに1日3交代24時間フル操業体制にして年間300万本、まだまだ足りずに新たに生産設備の増設にすぐに取り組んだ。増産につぐ増産という大ヒット商品につながり、フリクションボールの開発プロジェクトリーダーであった千賀はその功を認められて、翌年社長賞を授与されている。

 結果的に、フリクションボールは2006年1年間でヨーロッパだけで約750万本という爆発的販売本数を記録する。大ヒットだ。とくにフランスやドイツでの普及、浸透ぶりは目覚ましく、フリクションボールは瞬く間にありとあらゆる学校で、すべての教室で、圧倒的に支持される筆記具になった。1本のボールペンが、フランスとドイツ両国の教育現場における伝統を変えてしまったといってもけっして過言ではないほどだ。

 2014年6月末にパイロットコーポレーション・オブ・ヨーロッパの社長兼CEOを退任したマルセル・ランジャールから、退任する1週間前に次のようなメールが届いた。「フリクションボールが大ヒットしたのは、その前提としてパイロット製品のクオリティの高さがヨーロッパの消費者から非常に高い信頼を得ていたからだと思います。だからこそ、フリクションボールは単なる“gadget”(ガジェット=目新しい道具、面白い小物)とみなされず、筆記具として認知され、普及したのだと思っています。多くの消費者に非常に喜んでいただけましたし、競合他社はかなり嫉妬していましたよ」(ランジャール)

 してやったりと微笑むリチャード・ギアの顔が文面から浮かび上がってくるようだ。