INDEX

第1回 ボールペン市場、激震

第2回 傍流が生んだ画期的発明

第3回 奇跡の1週間

第4回 筆記具までの遠い道のり

第5回 千賀物語

第6回 メモリータイプの開発

第7回 筆記具への挑戦

第8回 3つの幸運

第9回  “消せるボールペン”、商品化へ

第10回  ヨーロッパ先行販売で大ヒット

第11回 消せるボールペンの系譜

第12回 伊東屋でのデモ販売

第13回 発売から8年、シリーズ累計10億本を売り上げる大ヒット商品に
著者プロフィール

ノンフィクション作家。ジャーナリスト。
著書に『IT起業家10人の10年』『開高健名言辞典〜漂えど沈ます』『ビッグコミック創刊物語』『長靴を履いた開高健』『電網創世記』『孫正義インターネット財閥経営』『シリコンバレーの日本人起業家たち』などがある。
日本ペンクラブ言論表現委員会委員。開高健記念会会員。


滝田誠一郎

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第11回 消せるボールペンの系譜

フリクション前夜
 2006年のヨーロッパ先行発売から8年強で販売本数がシリーズ累計10億本を突破した『フリクションボール』は、いまや消せるボールペンの代名詞と言っていいほどに市場を席巻している。消せるボールペンというコンセプトどおりに、しっかり書けてきれいに消せる機能が世界中の多くの人に支持され、受け入れられた結果である。

 じつは消せるボールペンというコンセプト自体は目新しいものではない。『フリクションボール』以前にも商品化されたものがいくつも存在する。しかし、いずれも“しっかり書けてきれいに消せる”という肝心の機能が不十分だったため、消費者に受け入れられず、市場に根付くことがなかった。

 世界初の消せるボールペンは、『フリクションボール』の登場から遡ることおよそ四半世紀、1980年ごろにすでに商品化されていた。アメリカの文具メーカーPaperMate(ペーパーメイト)社が1979年に発売した『Eraser Mate』(イレーザー・メイト)がそれだ。世界初の消せるボールペンである。日本では翌1980年に三菱鉛筆が『ケルボ』の愛称をつけて販売を開始している。“消せるボールペン”を略して『ケルボ』である。

『Eraser Mate』『ケルボ』に使われていたのはイレーザブルインク(erasable ink=消すことができるインク)という名の油性インクで、インクの粒子が大きいために書いてすぐには紙の繊維の中にまでインクが染み込まず、紙の表面に残る。紙の表面に残っているインクであれば鉛筆と同じように専用の消しゴムでこすれば物理的に消すことができるわけだ(市販の消しゴムでも消せる)。

 ただし、書いてから5〜30分以内ならばきれいに消せるが、時間が経つにつれてインクの粒子が紙の繊維の中にまで染み込んでしまうため、24時間以上経つと消しゴムでいくらこすっても消すことはできない。また、筆圧が強いと書いたそばからインクが紙の繊維の中に染み込んでしまうため、書いた直後であっても消すのに苦労する。

 三菱鉛筆が売り出した『ケルボ』はやがて姿を消すことになるが、Paper Mate社イレーザブルインクを用いた消せるボールペンは現在でも販売されている。『EraserMate』の後継商品である『Eraser.max』(イレイザー・ドット・マックス)を改名した『Replay MAX』(リプレイ・マックス)がそれだ。ちなみに、現在『Replay MAX』を販売している文具のネット通販サイトに、時間が経つと消えなくなる欠点を逆手にとった次のような宣伝文句を見つけ、なるほどこれはこれで長所なのかもしれないと思わされた。

《イレーザブルインクを使用。書いた後に消しゴムで消せて、また書き直しができる。(時間が経つと消せなくなります)。 【特長】時間が経てばインクが定着するので、数年後の自分へ、家族へ、友人へ伝えたい「心からの言葉」をコミュニケーションしていくボールペンです。》


未完の“消せるボールペン”
 三菱鉛筆の『ケルボ』から少し遅れて、パイロットからも消せるボールペンが発売される。名付けて『KESSEL』(ケッセル)。消しゴムで消せるボールペンだから『ケッセル』としゃれたわけだ。消せる仕組みは『ケルボ』と同じであり、『ケルボ』同様これも市場には受け入れられなかった。『ケルボ』と『ケッセル』の販売不振が影響したのだろう、これ以降ほぼ20年近くにもわたって各社とも消せるボールペンの商品化は行っていない。

 消せるボールペンが再び商品化されるのは21世紀に入ってからのこと。最初に仕掛けたのはパイロットで、2001年に『D-ink』(ディーインキ)を発売する。当時のプレスリリースにはその商品概要が次のように記されている。
《世界で初めて消しゴムで消せる「D-ink」。筆跡が裏写りしないので、辞書・教科書・地図などへの書き込みができ、数年経ても消去することが可能です(紙質・保存条件により消去可能時間は異なります)。もちろんゲルインキならではのにじみの少ないクリアーな筆跡。全12色の豊富なカラーバリエーションは、色鉛筆に代わる筆記具としても活用頂けます。インキは、省資源を考慮したレフィル交換式です。「D-ink」は、インキの常識を打ち破る新しい筆記アイテムです。》

 プレスリリースに添えられた宣伝用写真には次のようなコピーが躍っている。《世界初 インキえんぴつ、けしゴムで消せる。D-ink ゲルインキボールペン ディーインキ》

 1980年代に『ケルボ』や『ケッセル』といった消せるボールペンがあったにもかかわらず、『ディーインキ』が“世界初”をうたい文句にしているのはなぜか? それは『ケルボ』や『ケッセル』には油性インクが使われていたの対して、『ディーインキ』にはゲルインクが使われていたからにほかならない。すなわち、ゲルインクを使った消せるボールペンとしては世界初という意味である。ちなみに『ディーインキ』の“D”は消す、削除するという意味の英語[delete]の頭文字からとったものだ。

 ゲルインクと油性インクなどについてはのちほど説明するが、ゲルと油性の違いはあるものの、『ディーインキ』が消える仕組みも基本的には『イレーサー・メイト』『ケルボ』と同じだと言っていいだろう。顔料の粒子を大きくすることで水分だけが紙の繊維に染み込み、顔料は紙の表面に固着するようにしたのが『ディーインキ』であり、消しゴムでこすれば表面に固着した顔料が物理的に削り落ちて筆跡が消える仕組みだ。

パイロットインキ内の競争
 2001年度のグッドデザイン賞を受賞した『ディーインキ』は女子中高生中心に人気を博し、初年度は2000万本を売るヒット商品になった。が、人気は長続きしなかった。その最大の理由は、消しゴムを使わなくても、指でこすっただけで筆跡が消えてしまうことだ。消せるボールペンは便利だが、消すつもりがないのに書いたものが消えてしまったのでは不便で仕方がない。筆記具としてはとても使い物にならないというもの。女子中高生は興味本位で飛びついたものの、市場に定着しなかったのは致し方ないところだろう。

 パイロットが『ディーインキ』を発売した翌2002年、追いかけるようにして三菱鉛筆もゲルインクを使った消せるボールペン『ユニボール シグノ イレイサブル』を発売する。筆記具業界の熾烈な商品化競争の一端が見て取れるというものだ。

『ディーインキ』の発売から4年後の2005年9月、パイロットは『ディーインキ』に改良を加えて、より書き味がなめらかで、きれいに消すことができるゲルインクボールペン『e-GEL』(イーゲル、8色、税別120円)を発売する。しかし、指でこすっただけで消えてしまう『ディーインキ』の改良に努めた結果、『イーゲル』はすぐにインクが詰まってしまったり、筆跡がかすれてしまったり、きれいに消せなかったりという新たな問題が浮上し、それもあって市場に定着することはなかった。

 ここでひとつ興味深いのは『イーゲル』が発売された2005年は、フリクションインキが誕生したまさにその年にあたるということだ。パイロットインキで筆記具開発をメインで担当する第1開発部が『ディーインキ』と『イーゲル』を開発・商品化していた時期に、メタモカラーの基礎技術開発およびそれを応用した商品化を担当する第2開発部ではフリクションインキを開発し、まさに『フリクションボール』の商品化に取り組もうとしていたのである。

 このタイミングからして、『ディーインキ』や『イーゲル』の動向が『フリクションボール』の商品化に大きな影響を与えるだろうことは容易に想像がつく。もし『ディーインキ』や『イーゲル』の販売が極端に振るわないようであれば、消せるボールペンの市場性そのものに疑問符がつき、『フリクションボール』の商品化にも暗雲がたれこめることになる。逆にもし『ディーインキ』や『イーゲル』がヒットし、市場に定着すれば、もろに競合する『フリクションボール』の商品化は発売時期も含めて見直される可能性も出てくる。いずれにしても第2開発部にしてみれば機先を制された格好で、開発者たちの心中はおだやかでなかったのではと想像される。

『フリクションボール』の商品化リーダーを務めた千賀邦行にこの点を質問してみると、次のような答えが返ってきた。

「第1開発部がメタモカラーとは別の仕組みで消せるボールペンの商品化に取り組んでいたことは前から知ってましたので、実際に商品化されたときも“やっとできたんだ”と思った程度で、それによってフリクションインキを使った筆記具開発の道が閉ざされるとは思いませんでした。同じ消せるボールペンといってもシステムが違うので」(千賀)

 開発者に与える心理的影響はあまりなかったようだが、しかし、『フリクションボール』に少なからぬ影響があったことは事実である。『ディーインキ』が初年度2000万本のヒットを記録したことから、消せるボールペンに対するニーズがあることを確信することができたのはいい影響だった。半面、そのヒットが一過性に終わった反省から、『フリクションボール』の商品化、販売戦略にも大きな影響を与えることになる。これについては別途触れることにする。

 販売時期にも影響が出た。『フリクションボール』が2006年にヨーロッパで先行販売され、日本国内での販売開始が2007年に先送りされたのは、『イーゲル』との競合を避けるべきだという経営判断が働いたからにほかならない。

『フリクションボール』の登場によって消せるボールペンはひとつの完成形を見たと言ってもいいし、消せるボールペンという市場が確立されたと言ってもいいだろう。当然、ライバル会社が『フリクションボール』のヒットを手をこまぬいて見ているはずもなく、2010年に三菱鉛筆から『ユニボールファントム』(税別200円)が発売される。『フリクションボール』と同じく書いた文字を摩擦熱で消せるゲルインクボールペンだ。

 この『ユニボールファントム』が『フリクションボール』の特許を侵害しているとして2011年2月、パイロットは裁判を起こした。当時、共同通信が配信した記事を引用すると―。

《書き損じをこすって消せるボールペンの特許を侵害されたとして、パイロットコーポレーション(東京)が三菱鉛筆(同)に対象商品の製造販売や輸出の差し止めなどを求め東京地裁に提訴したことが21日、分かった。(中略)パイロット社側は「本体の摩擦部分に違いはあるが、筆記具の基本構造は共通している。フリクションが市場で好評を得るや特許を侵害した製品を登場させた」と主張している。三菱鉛筆側は「特許侵害の事実はなく、はなはだ心外な訴えだ」と反論している。》(共同通信 2011年2月21日20:10)

 この裁判は、勝訴も敗訴もないままに幕を閉じることになるが、市場における勝敗は明白だと言っていいだろう。

油性、水性、ゲルに次ぐ第4のインク
 ところで、ここまでに油性インク、ゲルインクという言葉が出てきたので、ここでボールペンに使われているインクの基礎知識をおさえておくことにする。

 ボールペンに使われているインクは油性インク、水性インク、そしてゲルインクの3種類がある。染料や顔料を油で溶き、樹脂を加えたのが油性インクで、ボールペンのインクとしては最も歴史が古い。染料や顔料を水で溶いたのが水性インクで、ときに水性染料インク、水性顔料インクと細かく分類することもある。

メタモカラーの説明をする“メタモカラーの申し子”千賀 ちなみに染料とは水や油、アルコールなどに溶ける性質がある物質で、液体全体に色がついていて繊維の中に浸透して発色するものであり、顔料は水や油に溶けきらずに発色するものである。藍染めなどに用いられる草木の液汁が染料であり、泥絵の具や岩絵の具が顔料といえばイメージしやすいだろうか。

 3つの中で最も歴史が浅いのが1980年代後半になって登場したゲルインクで、染料を水で溶いてゲル化剤を加えたものを水性染料ゲルインク、顔料を水で溶いてゲル化剤を加えたものを水性顔料ゲルインクという。ゲル化剤とは液体をゲル化して固化する化学物質。ゲルとは平たく言えば固体と液体の中間的な性質を持つ物質のことで、ゼリー状の食品やジェルタイプの化粧品、整髪料を思い浮かべればわかりやすい。

 それぞれのインクを使ったボールペンの特徴は以下のとおりである。

●油性ボールペン

・耐水性がある
・揮発・乾燥に強く筆跡が変質しにくい
・にじまない
・筆記距離が長い(長く書けるということ)
・スピーディな筆記ができるので速記に適している
・(伝票等の)複写に適している
・ボテ(インクの塊が紙についてしまう現象)が出やすい
・水性インクに比べるとやや書き味が重い

●水性ボールペン

・なめらかな書き味
・色調があざやかで濃い
・ボテが出ない
・油性インクに比べて筆記距離が短い(インクの消費量が多い)
・油性インクに比べてにじみやすい
・(伝票等の)複写に適さない

●ゲルインクボールペン

・にじみにくい
・なめらかな書き味
・色調が濃く鮮やか
・書き出しがスムーズで最後まで薄くならない

 ちなみに経済産業省の『経済産業省生産動態統計』をはじめ、日本筆記具工業会の統計などでもゲルインクボールペンは水性インクボールペンに含まれている。つまり『フリクションボール』は分類の仕方によって水性ボールペンに入ったり、ゲルインクボールペンに分けられたりするということだ。もっともパイロットでは、『フリクションボール』に使われているフリクションインキを油性インク、水性インク、ゲルインクに次ぐ“第4のインク”と位置づけている。パイロットコーポレーションの渡辺広基社長は次のように言う。

「フランスで『フリクションボール』を先行販売したとき、私は営業企画部長(取締役)でしたが、そのときに思ったのはフリクションインキを第4のインキのカテゴリーにしたいということでした。当時、雑誌のインタビューに答えて“新たなカテゴリーを創出したい”という夢を語ったことを覚えています。その夢が実現したと思っている。

 フリクションは油性、水性、ゲルに並ぶ第4のインキになったと確信している」(渡辺)