第7回

前回までのあらすじ

ムーンヒルホテルは、俊太のアイディアによって大幅に予約数を増やし、見事に夏枯れを解消した。その功績が認められ、俊太は平社員から課長へ異例の三階級特進を果たす。異動を言い渡した社長の月岡は、自邸の女中、文枝に対する俊太の思いに気付き、彼女へ俊太との縁談を持ちかける。不安に苛まれる俊太に、文枝は思いもよらない返答をするのだった。

それからちょうど一年。ふたりは晴れの日を迎えた。

それは、ささやかな祝宴だった。

普段は会議や小さな宴会に使われるムーンヒルホテルの一室である。

中央に置かれた純白のクロスで覆われたテーブル。上座に並んで座る俊太と文枝を囲むように、小柴、澤井両家の家族が席につく。

もっとも、俊太の家族は母の民子だけだ。寛司はいまだハワイだし、入社した経緯が経緯である。同期はいないし、披露宴に呼ぶほど親しい同僚もいない。

それは文枝も同じで、東京に出てきて以来、ずっと月岡の家で住み込みの女中として働いてきたのだ。

もちろん、中学時代の同級生の中には、集団就職で上京した者も少なからずいたはずである。しかし、五年も経つと職場を離れ、連絡がつかなくなった者や、故郷に戻った、あるいは既に結婚し、子育てに追われている者さえいるという。

そして、こうもいった。

「私は、本当にいいところに奉公に上がった。東京はやっぱり怖いところなのね」

確かに『金の卵』と持て囃され、甘い言葉に大志を抱き、上京してみたところが想像とは大違い。劣悪、かつ過酷な労働環境に耐えられず、夜逃げ同然に姿を消す若者は少なくないらしい。

だとしてもだ。ひとりも呼べる人間がいないというのは奇妙に過ぎる。

花嫁衣装を身に纏う。それは、女性にとって、一世一代の晴れ姿だ。ひとりでも多くの人に見てもらいたい。それが女心というものだろう。

「なんぼでも、呼べるだけ呼んだらええがな。費用のことなら、どないでもなるさかい」

実際、仕事ひと筋できたせいで、俊太の手元にはまとまったカネがあった。

まして、式の費用は後払い。当面必要なのは手付け金だけで、祝儀を貰えば式の費用はそれでかなりの部分が賄える。そうも考えていた。

ところが、頑として文枝は、家族だけにしたいという。

ドヤとは違い、田舎では親戚縁者の繋がりは濃密だ。近隣のひとたちも呼ばねばなるまい。

だが、それも文枝にいわせると、

「お盆か正月に帰省した時に、改めてお膳を囲めばいいじゃない。第一、旅費に宿泊費をどうするの? 負担してもらうわけにはいかないし──」

ということになる。

おそらくは、俊太の側の出席者は母ひとりということを知って、文枝は自分の側もそれに極力近づけようと気を遣ったに違いない。

そんな心遣いをする文枝が、ますます愛おしくなる。

文枝の両親、祖父母、そしてふたりの弟。あわせて出席者七名の小さな宴だ。

仲人もいない。主賓もいないという、異例ずくめの披露宴である。

ホテル内の神殿で文金高島田に角隠し、豪華な打ち掛けを纏った文枝は、ことのほか美しかったが、自分で仕立てた淡いピンクのワンピースに着替えた姿もまた格別だ。

式がはじまる前には、ムーンヒルホテルの豪華さに、気圧されていた文枝の家族も、身内だけの宴の場に移ってからは、すっかりリラックスした様子である。

黒服のボーイが現れると、それぞれのグラスにシャンペンを注いだ。

未成年者なのでふたりの弟はジュースである。

「お義父さん、乾杯の音頭をお願いします」

俊太はすぐ傍に座る、義父となった庄一を促した。

庄一に会うのは、結婚の承諾を貰いに新潟の実家を訪ねて以来のことだ。

文枝は貧しい農家だといったが、実際に訪れてみると、大きな茅葺屋根の二階建ての旧家で、築年数こそ大分経っているものの、ドヤのあばら家で暮らしていた俊太からすれば、屋敷そのものだ。

新潟に向かう列車の中で聞いたのだが、「小柴と一緒にならないか」と月岡から話があったのは、昨年文枝が盆の帰省をする直前のことであったという。

「若旦那様から、縁談をいただいて──」

続いて俊太がどんな人間であるのか、どんな仕事をしているのか。全てを聞き終えた庄一は、

「若旦那様が、これぞと見込んでくださった男に間違いはあるまい。ありがたく、その話を受けたらいい」

と、背中を押したという。

盆休みを機に、しばらく俊太の部屋を訪れなくなったのは、決意を固めるための時間だったのだ。

もちろん、民子の下も訪れた。

「おかん、わし、今度この人と結婚することになってん」

文枝を紹介した時の母の喜びようったらない。

目を細めながら文枝を見つめ、

「まあ、こないええお嬢さんが、俊太の嫁にきてくれはるなんて……。信じられへんわ。あの、どうしようもない、俊太にこんな日が来るとは……」

滂沱の涙を流し、両手で顔を覆うと、その場で体を折って号泣した。

無理もない。勉強はそっちのけで、喧嘩に明け暮れ、就職先を早々に辞めると、日雇い稼業。挙句は当たり屋で小遣い稼ぎだ。

まさに、親の心子知らず。息子の将来を案ずる気持ちを忖度することもなく、悪行三昧の日々を送っていたのだ。

それが、一流ホテルの課長になり、そして文枝という立派な嫁を貰う日が来ようとは、想像だにしていなかったに違いない。

立ち上がった庄一は、グラスを手に持つと、

「俊太君、文枝……結婚おめでとう」

早くも感極まったように、声を詰まらせる。

焼けた肌。額に深く刻まれた皺。グラスを持つ指先は太く、特に親指の爪は異常に分厚く、全面に黒い汚れが染み付いている。四十六歳という年齢よりもふた回りは歳老いて見えるのは、長年肉体労働に従事してきた証である。

「正直、文枝を東京に出すにあたっては、随分迷ったものです。でも、こんな素晴らしい婿さんに出会った……あのまま地元にいれば、俊太さんに出会うこともなかった。文枝……尽くさなければならねえぞ。俊太さん、不束者ですが、文枝をよろしくお願いします」

庄一は、文枝に呼びかけ、俊太に深々と頭を下げると、「学がねえもんで、うまいことはいえません。だから挨拶はこれくらいにして、新潟では、めでたい席では天神囃子を歌うのが決まりなもんで──」

咳払いをし、喉の調子を整えると、歌いはじめた。

「めでたきものは 大根種 大根種 花が咲きそろうて 実のやれば 俵かさなる──」

朗々と声を上げる庄一の目から涙が溢れる。「花が咲きそろうて 実のやれば 俵かさなる」

歌い終えた庄一は、涙を拭うと、

「というわけで、乾杯!」

グラスを翳した。

「乾杯!」

一同が一斉に声を上げ、飲み物を口にする。

瞬間、庄一が「ん」と微妙な表情を浮かべ、グラスに目をやる。

結婚式での乾杯の酒といえばシャンペンだが、それも都会での話だ。

庄一にとっては、はじめて口にする酒の味であったのだろう。

それは、義母の友子、祖父母、そして民子も同じで、みな一様に困惑を隠せない。

「すいません」

俊太は、すかさずボーイを呼ぶと、

「あの、ビールと日本酒をお願いします。大至急」

小声でいった。

「俊太さん、気を遣わなくていいのよ。お父さん、お酒入ると歌が止まらなくなるから」

「いいじゃないか。身内の集まりだ。賑やかにやろうよ」

「いまの歌だって、おめでたい席で歌うには違いないけれど、余興前の序盤にやるものなのよ。それに、中歌、最後には締めくくりの膳上げだってあるんだから」

「じゃあ、あと二回聞けるわけだ」

眉を顰めながらも、どこか嬉しそうにいう文枝に向かって、俊太は微笑みを返した。

やがて、ボーイが酒を運んでくる。

「さっ、お義父さん、おひとつ──」

庄一は待ってましたとばかりに、盃を受ける。

文枝の結婚を心底喜んでいることは間違いない。

庄一は実直な男である。朴訥で、口下手だが、優しい心根の持ち主だ。それは、文枝を見ているとよく分かる。

しかし、やはり父親というものは、娘を嫁に出すとなると一抹の寂しさを覚えるものなのだろう。

喜びと安堵、そして寂しさと、相反する感情の揺らぎを紛らわすのに酒は打ってつけだ。盃はいつの間にか、コップに変わり、庄一は杯を重ねていく。

今宵の料理は、ムーンヒルホテル自慢のフレンチのフルコースだ。

最初の一品が出てきた途端、一度洋食を経験している友子を除いては、はじめて口にするものだけに、フォークとナイフを前にしてすっかり困惑した態で固まってしまったが、酔いが回りはじめた庄一が、箸を使って口にいれ、

「おお! うまいなあ。こんなうまいものを食べるのは、はじめてだあ!」

と感嘆の声を上げるや、みな一様にそれに倣った。

それを機に、場は俄に盛り上がった。

家族だけの宴が幸いした。

誰もが、料理に舌鼓を打ち、よく食べ、よく呑み、よく話し、よく笑った。

「こんな機会でもなかったら、一生食べることはないと思ってフランス料理にしてもらったんだけど、みんなに喜んでもらえて、本当によかった」

文枝が耳元で囁いた。「でも、さすがねえ。前に、ご馳走になった時とまったく変わらない。宴会のお料理でも、味が同じなのねえ」

「うん。それなあ、わしもそない思うとったんや。カンちゃんの結婚式の時もフランス料理やったけど──」

庄一が突然立ち上がったのはその時だ。

「宴たけなわとなったところで、中歌をご披露させていただきます」

やんややんやの拍手が沸き起こる。

民子もすっかり打ち解けて、心底楽しそうだ。

「こないええお嬢さんが、俊太の嫁に来てくれはるなんて……」と、号泣した民子は、花嫁衣装姿の文江を見て、「ほんま綺麗やわあ」という言葉を何度も口にした。宴席の場で着用しているワンピースが、文江の手作りであることを知ると、「まあ、そないなことまでできはるんですか」と驚愕し、「ほんま、俊太にはもったいない。あんた、文江さんを大切にせなあかんで。絶対に幸せにしたらなあかんで」と、悪行三昧の日々を送っていた昔の姿を思い出したのか、真顔で念を押す。

だが、論より証拠だ。

一流ホテルの豪華な内装。黒服に蝶ネクタイを着用したボーイ。見るからに高価な食器に、磨き抜かれ、銀色の眩い光を放つフォークやナイフ。おそらくは、映画の中でしか見たことのない世界の中に身を置き、最上等の料理を食し、美味い酒を呑んでいる。しかも、ここは俊太の職場であり、課長を任されているのだ。

念を押したのも、母親ならではの心情の表れというもので、民子も改めて我が子の望外の出世ぶりに安堵したに違いない。

それは、ふたりの弟たちも同じである。

宴がはじまると同時に、相次いで俊太の席に酒を注ぎにやってきた。

高校三年の長男は文彦、中学二年の次男は武彦といったが、文江の仕送りがなければ、ふたりとも進学は叶わなかったほど貧しい家である。姉の晴れ舞台だというのに、袖口の繊維がほつれ、肘も抜けそうに弛緩した学生服姿を着用していたが、それを恥じ入る素振りは微塵もない。

「俊太さん、よろしくお願いいたします」

丁重に頭を下げ、両手で徳利を持ち、酒を注ぐ。

文彦に至っては、

「姉ちゃんのお陰で、もうすぐ卒業だ。まだ、みんな元気だし、俺、卒業したら働くから。姉ちゃんに代わって、武彦の学費は俺がみるから。幸せになってな。これまでありがとう、姉ちゃん」

と、文江に向かって祝いの言葉と共に決意を述べた。

「だが子でござる めめがよい めめがよい 蕎麦の種だやら角がある 人の子でする 種だやら角がある 人の子でする──」

ボーイが近づいてきたのは、中歌が終わった直後のことだ。

「電報が届いております」

二通の電報を差し出してきた。

一通は、英文が記されたもので、一目見てそれが寛司からのものであることが分かった。

「カンちゃんや。祝電くれはったんや」

しかし、祝いの言葉が書いてあることに違いはなくても、英語とあっては何が書いてあるのか皆目見当がつかない。「そやけど、わし、英語分からへん……。文枝ちゃん、分かるか?」

受け取った文枝は、文面に目を走らせると、

「俊太さん、これ、ローマ字よ」

くすりと笑った。

ローマ字かて同じこっちゃ。

顔が熱くなるのを感じながら、俊太は、

「何て書いてあるん?」

さりげなく訊いた。

「テン、結婚おめでとう。心からお祝いするよ。あの町でくすぶっていたお前が、こんな日を迎えるなんて、嬉しくてしかたがない。式に出られないのが、本当に残念だ。いつか、日本に帰ったら、嫁さんと一緒に飯を食おう。そこで、改めてお祝いしよう。テン、本当におめでとう」

寛司の優しさが心に染みる。

あの時、寛司に出会わなかったら。寛司が拾ってくれなかったら。いまの自分はない。文枝という伴侶を得ることもなかったのだ。

そこに思いが至ると、俊太の胸中は、寛司への感謝の念でいっぱいになる。

目頭が熱くなるのを覚えながら、俊太は二通目の電報に目をやった。

『ヒロウエンガオワリシダイフタリデ八〇七ゴウシツニコラレタシ ツキ』

ツキって誰や。

小首を傾げた俊太だったが、ツキがつく名前といえば、月岡以外に思いつかない。それに、文枝を連れて八〇七号室に来いというのだ。絶対に間違いない。

なんやろ──。

文枝を家族同然とまでいった月岡だが、さすがに臨席を仰ぐのははばかられた。平からいきなり課長に。異例の昇格を遂げたのも、月岡の命があればこそ。そんな人間の結婚式に出席すれば、他の社員にどう思われるか分かったものではない。

式の日取りが決まった時点で、

「身内だけの式にしようと決めまして」

そう告げたのは文枝だったが、どうやら月岡も同じ気持ちであったらしい。

「そうか」

とひと言いっただけで、それ以上は何もいわなかったという。

そうはいったものの、やはり月岡は直接文枝に祝いの言葉を述べたかったのだ。宴席に出ることはできないまでも、晴れの門出を祝ってやりたいのだ。

「文枝ちゃん、これ──」

俊太は電報を差し出した。

受け取った文枝は電文に目を走らせると、

「これ、若旦那様ね」

はっとしたように、目を向けてきた。

「あかん。しこたま呑んでもうた。酔いを醒ましておかな──」

俊太は目の前に置かれたグラスを手に取ると、一気に飲み干し、「すんません、水のお代わりを下さい」

ボーイに向かって告げた。

宴は庄一の膳上げの歌で終わった。

今夜は全員がムーンヒルホテルに宿泊だ。

双方の家族を見送ったふたりは、そのまま八〇七号室に向かった。

既に時刻は午後七時を回っている。

社長に就任以来、月岡は遊びをぴたりと止めた。

日曜日にはゴルフに出かけることもあるらしいが、それも仕事がらみで、ほとんどは休日返上で、現場の視察に出向くのを常としていると聞く。

ムーンヒルホテルの勢いは増すばかりで、日本各地の基幹都市、観光地で建設計画が目白押し。その視察のために、忙殺されているらしい。

今日は土曜日で仕事は昼までだが、ふたりのためにこんな時間になるまでホテルに残っているのだ。

部屋の前に立ったふたりは、どちらからともなく顔を見合わせた。

文枝が緊張した面持ちで頷く。

俊太は呼び鈴を押した。

「おう、入れ。鍵は開いてるぞ」

果たして月岡の声がこたえた。

「失礼いたします」

俊太はそういいながら、ドアを開いた。

部屋はツインルームで、窓際に小さなテーブルとふたつの椅子が、他に鏡台の前にひとつ椅子がある。

窓際の席に座る月岡が、俊太の姿を見るなり噴き出した。

「テン、お前──」

タキシードを着るのははじめてだ。

姿見に映った己の姿を見た時の違和感ったらない。

一世一代の晴れ姿どころか、まるで盆踊りの仮装行列のように様にならない。繁華街を練り歩く、サンドイッチマンの方が着慣れているだけに、まだマシだ。

「しゃ、社長……そない笑わんでも──」

俊太は、恥ずかしさのあまり下を向いた。

「悪い、悪い。そんなつもりじゃないんだが──」

笑いの余韻を引きずりながら、そういう月岡だったが、「ほう」

次の瞬間、感嘆の声を上げる。

俊太は思わず顔を上げた。

月岡は、嬉しそうに背後に立つ文枝を目を細めて見ている。

「文枝、綺麗だぞ」

月岡は、しみじみとした口調でいう。「それに幸せそうだ」

「はい──」

文枝が、短くこたえた。

「さあ、そんなところに立ってないで、こっちへ来い」

月岡は立ち上がると、自らふたつの椅子を並べ、「そこに、座れ」

と命じた。

ふたりが並んで座ったところで、

「披露宴が終わったばかりだってのに、呼び出してすまなかったな」

月岡はいった。

「いえ、そんな──」

俊太は慌てて首を振った。

「家族同然の文枝の門出だ。一緒に祝ってやりたかったんだが、俺とお前は社長と課長だ。他の社員の手前もあってな」

「十分承知しております」

「だがな、そうはいうものの、やっぱり祝いのひと言をいいたくてな。それで、あんな電報を打ったんだ」

月岡はそういうと、「テン、文枝、おめでとう。これから先は、ふたり手を携えて、幸せな家庭を築き上げていくんだぞ」

優しい眼差しで、ふたりを見た。

「ありがとうございます」

俊太と文枝が同時に頭を下げると、

「さて、そこでだ」

どうやら、ここからが本題らしい。

月岡はふたりの顔を交互に見ながら、

「新居も決まった。家財道具も式の費用も、一切合切テンが用意したと文枝から聞かされたが、何か足りないものはないのか?」

と訊ねてきた。

「いや、当面生活に必要なものは全部揃うてます。運転手やってた頃から、社長の家に住まわせてもろうたおかげで、家賃はずっとただでしたし、暇な時は本を読んでましたし、社長に養われていたも同然やったもんで……。それに、正社員にしてもろうた上に、課長になってからは、給料が格段に上がりまして、貯金が貯まる一方で──」

「貯金は貯まる一方か……」

月岡は苦笑すると、「文枝、お前はどうなんだ。テンにはねだることはできねえが、こんなのがあったらいいなあと思っているものはないのか? 服でもなんでもいい。この際だ、あるならいってみろよ」

穏やかな声で促した。

「いいえ、何も──」

文枝は滅相もないとばかりに首を振る。「奉公に上がって四年間の間に、いろいろ習い事をさせていただいたおかげで、大抵のことは自分でできるようになりました。ほら、このワンピースだって、自分で仕立てたんですよ。若旦那様にお祝いの言葉をいただけただけで十分です」

「やれやれ、出来が良すぎるのも困ったもんだな」

月岡は眉を上げ、頭髪を掻き揚げると、「しかしなあ、それじゃあ困るんだ。文枝は月岡の家から嫁に出す。支度は一切合切、こちらで揃えてやる。そうお袋とも話してたんだ。俺たちの出る幕がねえじゃねえか」

一転して真顔でいった。

「はあ……」

若い夫婦の新所帯に必要なものなど知れたものだ。何を望んだところで、月岡にとっては、出費のうちにも入らぬ額だろう。

だが、所帯を持つからには、すべてのものは自分の甲斐性で賄う。

それが、男の矜持だと俊太は考えていた。

「社長。そないなお心遣いをいただけただけでも、わしらには十分すぎます。それに、欲しいものがないいうのはほんまのことで──」

「欲のねえやつらだな。俺が、こんなことをいうのは、これっきりだぞ」

「いや、そないいわれましても……」

俊太は困り果てて、思わず文枝と顔を見合わせた。「なあ──」

文枝もその通りだとばかりに頷く。

「そうか、欲しいものはない、か──」

月岡はそこで少しの間を置くと、「文枝、お前には、弟がふたりいたよな」

唐突に訊ねてきた。

「はい」

「お前、うちに奉公に上がったのは、弟たちを高校に行かせてやるためだったんだよな」

「はい」

「上は何年生だ」

「高三です」

「下は?」

「中二です」

文枝は問われるがままにこたえる。

「上は高三か……」

月岡は足を組むと、「上の弟はもうすぐだが、下はまだまだあるな。学費はどうすんだ?」

背もたれに身を預けた。

「わしが払います」

俊太はすかさず返した。

文彦は文枝に代わって武彦の学費の面倒をみるといったが、元よりふたりにそんなことをさせるつもりはない。

賄い付きの住み込みで、寝食に困らないとはいえ、女中の給料ではひとり分の学費を仕送りすれば、手元に残るカネは知れたものだが、それでも下の弟を高校にやるだけの蓄えはあると文枝はいった。

幸い、ふたりともずば抜けて優秀で、上の弟は地元では最優等の公立高校に進学し、弟もまた同じ高校に合格するのはまず間違いないという。

課長クラスになれば、高校生の子供を持つ社員も少なくない。公立高校ならばいまの給料から学費を捻出するのは十分可能だ。

「それも甲斐性のうちや。それに、これからはわしの稼いだカネで、生活してかなならんねん。財布は全部預けるさかい、文枝ちゃんがうまいことやってくれたらそれでええやん」

そういって、文枝を納得させたのだ。

「そうか、テンが面倒見るのか」

月岡はひとりごちるようにいうと、「しかし、ふたり分となったら、どうなんだ?」

月岡は改めて訊ねてきた。

「ふたり分といわはりますと?」

意味が分からない。

思わず問い返した俊太だったが、それを無視して、

「文枝、お前の弟の成績はどうなんだ」

月岡は文枝に視線を転じた。

「学年でもトップクラスだと聞きます」

「確か、弟さんは、地元の最優等の高校に進んだんだったよな」

「はい……」

「大学に進ませてやりたいとは思わないのか」

「さすがにそれは──」

文枝は困惑した態で首を振る。

「テン、お前はどうなんだ?」

「いや……その──」

高校にすら行っていないのに、大学なんて考えもしなかった。

第一、文枝の口からも、大学のだの字すら聞いたことがない。

こたえに詰まった俊太に代わって、

「あの……上の弟は、跡取りなんです。長男は家を継ぐものと、決まっていて──」

文枝がこたえた。

「別に大学を出たからって、家を継げないわけじゃないだろ? 何をやるにしたって学は邪魔にはならないぞ。それに、ご両親はまだまだお元気なんだろ? 農業をするにも、人手がなくて困ってるってわけじゃないんだろ?」

「それはそうですが……」

「だったら行かせてやれよ」

「でも……」

「学費のことなら心配するな。俺が面倒を見てやる」

「えっ!」

俊太と文枝は同時に声を上げた。

「大学に進めないと分かっていながら、手を抜くこともなく勉強に励むなんてことは、誰にでもできることじゃない。きっと大学で学びたい。弟たちだってそう思っているに違いないんだ」

「でも……」

「それになあ、文枝。さっきもいったが、俺は、お前をうちから嫁に出そうと思ってたんだ。家財道具一式、衣装も揃え、布団も誂え、結納返しだなんだってやってたら、大変なカネがかかるんだぞ。それをお前らときたら、ぜ~んぶ自分たちで済ませた上に、式だって身内だけのこぢんまりとしたもんにしちまった。それじゃあ、俺の出る幕がねえじゃねえか」

文枝は黙った。

俊太もまた、なんと返していいものか言葉が見つからない。

月岡の申し出を受けるか否かは、文枝が判断することだし、大学に行かせてやりたくとも、そこまでの甲斐性はないこともあった。

と同時に、月岡がなにゆえ今日ここにふたりを呼び出したのか。

その目的がなんであったのかが、いま分かった。

月岡は、端から決めていたのだ。

ふたりの弟への学費の支援。

それに勝る祝いはないと──。

同時に、かつて川霧の靴磨きから、月岡の運転手になった時、寛司からいわれた言葉が脳裏に浮かんだ。

──中学を卒業した半分以上が高校には進めない。大学にいたっては、同年代の中でたった百人に八人だ。大学を卒業すれば学士様なんていわれるが、誰もが立派な会社に就職できるかっていえば、そんなことはない。世の中には、人を色眼鏡で見る連中がたくさんいてな──

そして、靴を磨いた挙句に頭を殴られ、それにも懲りず再度靴を磨いた自分を、なぜ月岡が専属運転手に登用したのか。その理由をこう解説した。

──磨いてくれることを願っていただろうね。根性見せてみろともね。そして、お前は磨いてみせた。自分のやってることは絶対に正しい。信念を貫き通したんだ。だから、こいつは見どころがある。使えるやつだと思ったんだ──

状況こそ違うものの、俊太はそこに月岡の思いを垣間見た気がした。

大学への進学は叶わぬことを知りながら、勉強を怠らない。ふたりの弟は、姉が遂げられなかった高校進学への夢を託されていることを、そしてそれが文枝の仕送りがあって、可能になったことを十分すぎるくらいに知っている。姉の思いにこたえなければならない。その一心で勉強に励んでいることを──。

不憫だと思ったのではない。

月岡は、そこにふたりの弟の可能性を見たのだ。

「なあ、文枝」

月岡は優しく呼びかけた。

「はい……」

「お前をうちで預かることにしたのはな、実はお母さんの作る飯がことのほか美味かったからなんだ」

「母のご飯がですか?」

「スキー場の飯なんて、高くて不味いってのが相場だが、お母さんのは別物だ。こういう仕事をする人の娘なら、間違いはない。そう思ったんだよ。なんせ、うちのお袋は、家事の方はさっぱりだし、全部人任せだからな」

「そんな……田舎料理ですから……」

月岡は、それにこたえず続けていう。

「お前が、うちに来てからは、毎年実家から米を送ってくれてるよな?」

「はい……」

「美味いんだ、これが。ピカイチだ。たかが米、されど米だ。土地柄、水、味の決め手は様々だが、ほら、歌にもあるだろ? 八十八たびの手がかかるってさ。手を抜かず、丹精込めて作っている。それがよく分かるんだ」

「……」

「日頃のお前の働きぶりを見るたびに、飯を食うたびに、なるほどと思ったよ。お前の家族がどんな人たちなのか、どんな育てられ方をしたのっかってな」

文枝はますます身の置きどころに困るとばかりに、身を小さくする。

「世の中は学がすべてじゃない。実際、うちの親父にしたって、尋常小学校出だったんだ。才を生かせば、のし上がるチャンスは幾らでも転がっている。それが社会だ」

月岡は淡々という。「だがな、文枝。学がなけりゃ就けない仕事も世の中にはごまんとあるんだ。さらにいえば、学があっても認められなければ就けない仕事も幾らでもある。つまり、学、それも高い学を身につければ、人生の選択肢は限りなく広がっていく。だから、身につけておくに越したことはないんだ」

「それは分かります。ですが……本当に良くしていただいた上に、そんなことまでしてもらったら、どうやってご恩を返せばいいのか──」

文枝の心が揺らいでいるのが手に取るように分かる。

月岡のいうことに間違いはない。

文枝にしたところで、弟たちを大学にやりたいのは山々であったろうが、自分の蓄え、俊太の給料ではとても学費は捻出できない。大学への進学なんて、夢のまた夢と考えていたのが、まったく予期しなかった形で実現しようとしているのだ。

「恩か」

月岡はすっと身を起こすと、「じゃあ、こうしよう。ふたりとも、大学進学のチャンスは一回だけ。つまり浪人は許さない。現役で合格するのを条件とする。落ちれば長男は家を継ぐ。次男の場合は、合否が決まる頃には就職しようにも募集は終わっちまってる。その時には、うちで働け」

「しゃ、社長。ふたりとも、えらいできがええんでっせ。両方合格してもうたら、文枝ちゃんがいうように、それこそどうやってご恩を──」

「その時は、テン、お前が返せばいいじゃねえか」

月岡はいとも簡単にいいながら、ニヤリと笑った。「可愛い女房の弟の恩だ。義兄が返す。つまり、いままでにも増して、ムーンヒルホテルのために、俺のために身を粉にして働けってこった」

なるほどそうきたか。

ふたりは家族になったのだ。女房の恩は亭主の恩。亭主が恩を返すべく、仕事に邁進できるのも、家庭を支える女房の働きがあればこそ。ふたり手を携えて円満な家庭を築いていけと月岡はいっているのだ。

「それにな、テン」

月岡は続ける。「お前は、去年の夏は大変な数の予約を獲得してくれた。今年は営業部が規模を拡大して全面展開した結果、連日大入り満室だ。誰も解決できなかった夏枯れって問題を、お前は解決してみせたんだ。あのアイデアを思いついたのは、文枝の言葉がきっかけだったっていっただろ?」

「はい……」

「だったら、文枝にも功がある。あれが、うちにどれだけの利益をもたらしたか。それを考えれば、ふたりの学費なんて安いもんだ」

月岡の思いが身に染みる。

ありがたさに胸がいっぱいになり、視界が霞む。

突然、文枝が顔を覆うと嗚咽を漏らした。

それが、文枝のこたえだ。

「社長! ありがとうございます! このご恩、わし、一生かかっても返せるかどうか分からへんけど、一生懸命働きますさかい、ありがたく──」

それ以上、言葉が続かない。

俊太は、タキシードの袖で、ついに溢れ出した涙を拭うと、深く頭を下げた。

なにがなんでも、恩に報いなあかん。

わしは、この人に一生ついて行く。

俊太は固く心に誓った。

ひゃあ。ほんま、結婚は一世一代の大事業やな。身内だけの式でも、ごついカネがかかんのや。

式場を借り、家族で会食をしただけだというのに、請求書を前にした俊太は、改めてその金額に驚いた。

式を挙げるにあたっては、当然見積もりを取っており、追加の料金は会食時の酒代程度のものだ。それに、社員がムーンヒルホテルで式を挙げる際には、少しばかりだが割引もある。まして、部屋の使用料も半ドンの土曜日と、日曜日では違いがある。利用者の少ない土曜日はさらに安くなるのだ。式の開始を午後四時としたのは、この時間なら文枝の家族は当日の早朝新潟を出れば、式に間に合うし、宴席でしこたま酒を飲んでもホテルへの宿泊は、当日の一泊だけで済む。ふたりで話し合って、節約に務めたわけだが、耳を揃えて支払う段になると、やはり高い。

「そしたら、明日支払いに来ますさかい。ほんま、お世話になりました」

俊太は請求書を背広の内ポケットの中に入れながらいった。「しっかし、結婚式ちゅうのは、ごついカネがかかるもんやね。これじゃあ、勘定払えんようになる人が出てくるわけですわ。当てにしとった通りに祝儀が入らなんだら、手元にカネは残っとらへんやろし、万歳するしかないもんなあ」

「小柴課長にはご苦労をおかけしています」

そうこたえたのは、宴会を担当する部署の若い女子社員だ。胸の名札には北野とある。

「式の前に、新居を用意せなならんやろ。家具に寝具、家電製品も揃えなならん。それ、全部現金と引き換えの納品やもんね。そんなんやっとったら、式当日までにはカネなんか手元になんぼも残らへんようになってしまいますわな」

「まあ、その通りなんですが、やっぱり結婚式は一世一代の晴れ舞台ですからね。みなさん、どうしても背伸びをしたくなるんですね」

二十二、三歳といったところか。北野はいかにも接客のプロらしい、穏やかな笑みを口元に宿す。

「そらな、テーブルの上に飾る花にしても、千円単位で見栄えがどんどんようなって行くんやもん。カタログ見せられて、どれにしましょういわれたら、ワンランク高いほうがええ。そう決めた途端に、もうワンランク上の花に目が行ってまうのが人間や。料理かて同じやろし、気がつけば予算オーバー。まさに、祭りの後、いや後の祭りっちゅうことになるわけや」

「それが売り上げの向上につながるわけですから、会社にとっては悪い話ではないと思いますが?」

つまり、値段に応じていくつもの選択肢を用意しているのは、式を挙げる当事者の、よりいいものをという心理を掻き立てるためといいたいらしい。

「実際、ご相談をさせていただいているとよく分かるんですが、披露宴の内容の主導権を握るのは、まず百パーセントご新婦さんなんです。披露宴の主役は花嫁さんですからね。花嫁衣装を着るのも、女性にとっては最初で最後。一世一代の晴れ舞台なんですから、金額を理由に、この花でいいじゃないか、衣装だってこれでいいなんて、新郎さんはいえませんよ」

なるほどなあ、と俊太は思った。

というのも、未収入金が発生する部門は様々だが、結婚式関連のものが少なからずあるからだ。

当然、当事者と会って支払いを催促するわけだが、その時に大半が口にするのが、「手元にカネがない」ということだ。

新婚生活をはじめるにあたって、必要なものはすべて現金と引き換えだが、式、披露宴の支払いは違う。申し込み金として五万円を納めるだけで済む。

ムーンヒルホテルで行われる式、披露宴の平均費用はおよそ二百五十万円。未納が十五組発生すれば、年間三千七百五十万円。俊太はもちろん、ムーンヒルホテルにとっても、頭の痛い問題である。

もっとも、いかにして式の単価を上げるか。カタログで格差を見せつけることで、客の見栄と欲望を掻き立てるのが結婚式商売のミソだ。毛頭否定する気はないが、それにしてもだ──。

「結婚式って、えらい儲かる商売なんやろね」

自腹を切ってはじめて分かった。俊太は素直な感想を口にした。「それにうまいこと値づけしてはるわ。タキシードにしても、花嫁衣装にしても、着るのは式、披露宴で一度きり。二度と着るもんやないしね。自分で買うてもうたら箪笥の肥やしになるだけや。そら、借りて済まそういう気になりますわな。そやけど、たった一度、それもなんぼも着いへんのに、高い服を仕立てられるくらいの料金取るんやもの」

「確かに、貸衣装は貴重な収益源です」

北野は頷く。「一生に一度しか着ないものに、大金を使う人はそうはいませんからね。でも、それは言葉を換えると、自前ではとても着ることができない高価な衣装を着られる。夢が叶うってことでもあるんです。だから、こんな値段でもみなさん借りてくださるんです。それに、新婦の親にしてみれば、娘の晴れ舞台ですからね。少しでも、いい衣装を着せてやりたい。そう思うのが親心ってものじゃないですか。花嫁さんが、この程度でいいっていってるのに、お母様の方が、一ランク、二ランク上の衣装をお選びになるケースも少なくないんですよ」

いわれてみればというやつだ。

婚礼にまつわる費用の一切合切を、俊太はすべて自分の蓄えで賄ったが、それは、双方の家に経済的余力がなかったからだ。

母の民子は、相変わらず賄い婦の仕事で生計を立てており、援助こそ必要としないものの、自分の生活を支えるのがやっとといったところだ。澤井の家にしたって、文枝の仕送りがなければふたりの弟を高校にやれないのだ。

しかし、ホテルで式を挙げるような人間は違う。

なにしろ、男性は二十五歳前後。女性は、それよりも若く、二十一、二歳が結婚の平均年齢だ。社会に出てさほど時が経っていないわけで、蓄えなど知れたもの。結婚は最後の親掛かりというのが、世間では当たり前なのだ。

費用の未納が、まま発生するのも、そこに原因がある。

見合い、恋愛、いずれにせよ、結婚は本人同士の合意なくしては成立しないが、家同士が繋がることを意味する。特に、当事者の親にとっては、相手の家がどんな家庭か、家柄や資産状況までをも気にするものだ。

もちろん、面と向かってそんなことを口にする親はいまい。特にカネのについてはなおさらだ。だから時として計算違いが発生する。

相手が裕福な家だと思っていたところが大違い。逆に借金を抱えていて、にっちもさっちもいかない。ひどい時には、双方の家が同じ状態にあるという場合もある。

祝儀は相場があるが、出席者にしたって新郎、新婦と同年代が多数を占める。相場通りの祝儀を包めぬ人も出てくるわけで、かくして、式場の費用、貸衣装代、花代、ホテルへの支払いが焦げ付いてしまうということになる。

「それに、結婚式は大抵休日に行われますでしょう」

北野は続ける。「宴会や会議は平日に集中しますから、もし結婚式がなかったら、宴会場は開店休業。一年のうち、五十二日、プラス祝日分が遊んでしまうことになるんです。もちろん、調理場だって満室、フル稼働に対応できるよう、設備も人員も調えているわけですから、大変な損出になるんです。その点からいっても、結婚式はホテルにとっては、大切なビジネスなんですよ」

「しっかし、調理場も大変やろね。大きな式になれば、何百人いうのもあるやろに、頃合いを見計らって、出来立ての料理を出さなならんのやもんな。みんな、こない美味いもんははじめて食うたいうて、大感激してはりましたで」

「小柴さんの場合は、宴会のお料理とはちょっと違ったでしょうから、なおさらでしょうね」

ところが北野は、意外なことをいう。

「宴会の料理と違うって……それ、どういうことなん?」

「土曜日は、ほとんど結婚式はありません。それに、出席者数も九名様でしたから、日頃レストランでお出しするお料理とまったく変わらない手順で調理したんじゃないかと」

「そしたら、普通は──」

「何百名様分のお料理をひとつひとつ作ってたら、とても時間内にお出しすることなんてできませんよ。温め直してお出しするだけってところまで事前に仕上げておくんです。そうすれば、あとは流れ作業。片っ端から盛り付けをしていけばいいんですから」

それでか……。

寛司の披露宴は盛大なもので、百名近くの列席者がいた。

あの時の料理に比べて、昨夜の料理に違いがあるように感じたのは、気のせいではなかったのだ。

「原価率も違ってくるんやろね」

俊太は訊ねた。

「そりゃそうですよ」

北野は即座にこたえる。「宴会にせよ、披露宴にせよ、大分先から予約をいただいてるんです。食材だって大量に仕入れるんですから、納入価格の交渉だってできますし、コックさんだって、ひとりで何十人分って料理をまとめて作れますからね。ところがレストランはそうはいきません。お客様全員が同じお料理を注文するとは限りませんし、食材だってメニューに載せた限りは、すべての注文に対応できるよう、あらかじめ準備しておかなければならないんです。無駄になるものだって、少なからず出てくるわけですから」

「まさに、結婚式様々ってやつやなあ」

俊太は、腕組みをしながら唸ると、「そやけど、給仕の人はどないしてはんの? 日によって宴会も、結婚式も件数や規模はまちまちやろし、人のやりくりが大変なんと違いますのん?」

ふと、思いつくままに問うた。

「アルバイトを使ってるんです」

「アルバイト?」

俊太は驚いて訊ね返した。「そんなんで、給仕の仕事ができますのん?」

「できますよお」

北野はくすりと笑った。「運ばれてきたお料理を並べて、お酒を注いで回るだけですもの。アルバイトはほとんど大学生なんですが、毎日仕事に出なきゃいけないわけじゃありません。それでいて、ちょっとした小遣い程度にはなるので人集めには苦労しないんです」

「なるほどなあ。そないな仕組みになってるんや」

「大抵は、就職活動が間近になるまではやってくれますから、要領を覚えてくれた以降は手間はあまりかかりません。宴会、式の規模は随分前から分かっていますから、それに応じてアルバイトを必要数手配しておけば、人の過不足も生じないんです」

「ほんま、よくできてはんのやなあ」

俊太は感嘆の声を上げた。「必要なだけ人の数を調節できるなら、人件費は常に一定やもんな。まして、料理の原価率も規模が大きゅうなればなるほど低うなる。それに貸衣装に花や。ひょっとして、本業の宿泊よりも利益率は高いんとちゃいますのん」

「だから社長からも、宴会、結婚式に力を入れろって、発破がかかってるんです」

北野は真顔でいった。「戦後のベビーブームに生まれた世代が、結婚適齢期に入ろうって時代ですからね。それに、松下電器が週休二日制を取り入れましたでしょう? それが当たり前になる時代が必ずやってくる。そうなれば、結婚式の市場は倍になる。その時に備えて、式を挙げるならムーンヒルホテルでといわれるように、絶対に評判を落とすなって──」

松下電器が週休二日制を取り入れたのは、オリンピックのあった翌年の昭和四十年と、つい最近のことだ。

欧米では当たり前。「半日休みを増やす代わりに、仕事の効率を上げよ」。「一日は休養、一日は教養に充てよ」。一代で松下電器を大会社に育て上げた、創業者の松下幸之助の断によるものだが、いまのところそれに続く企業は寡聞にして知らない。

そんな時代が、ほんまに来んのやろうか──。

そう思う一方で、もし、本当になるのなら、結婚式はホテルに大変な収益をもたらす一大事業になると、俊太は背筋に粟立つような興奮を覚えた。

同時に、「戦後のベビーブームに生まれた世代が、結婚適齢期に入ろうって時代ですからね」という北野の言葉が気になった。

千客万来、商売繁盛は何よりだが、未払金が増える一方では困る。

いや、そもそもが、未払金が発生すること自体、あってはならないことなのだ。

こら、なんとか根本的な解決策を考えなあかんで──。

俊太は、そう思いながら席を立つと、

「ほんま、今回はお世話になりました。いろいろありがとう」

北野に向かって頭を下げた。

〈次号は1月20日(金)に更新予定です〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。