第8回

これまでのあらすじ

ムーンヒルホテルで働く俊太は、社長の月岡の取り計らいで、意中の文枝と結婚することになった。披露宴の後、二人を呼び出した月岡は、お祝いに文枝の弟二人のために学費を援助し、大学に進学させてやると言う。身に余る提案を受け、俊太は「この人に一生ついて行く」と固く心に誓うのだった。

第四章

運気には波がある。

不運は連鎖するものだが、逆も真なり。幸運もまた続く。

「ブジゴウカクスフミヒコ」

文彦の合格を知らせる電報が届いたのは、文枝との生活がはじまった半年後のことだった。しかも新潟大学の医学部への合格である。

元より勉強に熱心に打ち込んでいた文彦であったが、やはり目標があるとなしでは大違いだ。大学への進学が可能になったと知るや、いままでにも増して勉強に熱が入った。

おそらく、文彦にとってそれまでの勉強とは、進学を当然と考えている学友たちへの己の能力の証明であり、経済力が許しさえすれば難関校の入試とて突破できる。つまり、意地の表れであったに違いない。

そして、思わぬ形で進学の道が開けたことは、これまで封印してきた己の夢を叶える最初にして最後のチャンスとなった。

それは医学への道である。

学費を支援するにあたって、月岡は「浪人は許さない」といったものの、国立、私立の条件は出さなかった。大学への進学の千載一遇のチャンスである。学士になれるか否かで今後の人生は大きく変わる。当然、合格間違いなし、無難な大学を受験するものと思っていたところが医学部、それも新潟大学一校に絞るという。

文彦とは結婚式以来、手紙でのやり取りとなっていたが、自分の夢をはじめて明かす文面からは、なみなみならぬ決意のほどが見て取れた。

曰く、

「人が存在する限り、病がなくなることはない。解決しなければならない病はこの世にたくさんある。そして、決して尽きることはない。終わりなき仕事だけれど、だからこそ課題もまた尽きることはない。終わりなきゴールを目指す仕事だけれど、だからこそやり甲斐がある。研究に治療に、真摯に取り組みながら、ひとりでも多くの人を救う人間になりたい」

新潟大学は国立の一期校だ。その中にあっても医学部は最難関。全国の俊英が集う場である。

「いくら何でも、それは……。それにお医者さんになったら、誰が家を継ぐの?」と、戸惑いを隠さなかった文枝であったが、それが見事合格である。

だから文枝の喜びようったらない。

跡取りへの懸念はどこへやら、

「文彦がお医者さんになる」と、合格の知らせを告げてきた電話口で号泣する。

報告を受けた月岡も、

「そうか、合格したか。さすがは文枝の弟だ!」

と、喜びを隠さない。

実は月岡には、もうひとつ報告をしなければならない慶事があった。

それを口にしかけた俊太だったが、すんでのところで思い止まった。

文枝の妊娠である。

子供ができたのを告げられたのは、ちょうど一週間前のことで、帰宅するなり、いつもは「俊太さん」と呼ぶ文枝が「お父さん」という。

違和感を覚えながらも聞き流していた俊太だったが、たび重なる呼びかけに、「なんや、そのお父さんいうのは。呼び方変えたん?」と問うたところ、「だって俊太さん、お父さんになるのよ」と文枝は顔を綻ばせる。

「えっ……。そしたら、子供できたん?」

「二ヶ月ですって」

「なんで、それをはよういわへんねん」

「だって、今日分かったんだもの」

妊娠には兆しがあることぐらいの知識はある。

自分が父親になるといわれても、実感はまったく湧かないし、喜びよりも戸惑いの方が先に立つ。だが、そんな想いとは裏腹に、俊太は浮き足立った。

「新潟のお父さん、お母さんには、知らせたん?」

「それは、まだ……。俊太さんに知らせてからと思って」

「すぐに電報打たな。お袋にも知らせんとあかんし、社長にも報告せんとな」

家族同然といってくれた文枝に子供ができたのだ。

月岡もさぞや喜ぶに違いない。

ところが文枝は、

「若旦那様には、まだいわないで」

という。

「なんでや」

「初産ですもの、何があるか分からないじゃない……。安定期に入ってからにした方がいいと思うの」

「安定期?」

どうやら、文枝は兆候には気がついて、すでにいろいろと知識を身につけていたとみえて、それからひとしきり妊娠についての講義を受けることになったのだが、聞けばもっともな話ではある。

結局、文彦の合格を報告しただけで月岡の部屋を辞した俊太だったが、国立とはいえ、医学部の授業料はやはり高額だ。

さて、この恩をどうやって返したものか。

思いは自然とそこに行く。

「課長」

部下の中井が困り果てた様子で、話しかけてきたのは、そんな最中のことだ。「相談がありまして──」

未収入金の回収実績は、経理課の仕事の業務の中では珍しく個人の数字として表れる。

数字は冷徹なもので、曖昧さを一切排除する。管理職となってからも俊太の実績は群を抜いており、いまでは中井は忠実な部下だ。

丸山はすでにいない。

自分より年下の、しかも学もない俊太に仕えることになったのが我慢ならなかったのだ。実績は上がらず、かといって助けを乞うでもない。中井が着々と数字を上げはじめているのに、古株がさっぱりでは評価のしようがない。

人事評価を突きつけられる寸前で、「こんな会社にいられるか」という捨て台詞を吐いて会社を去ったのだ。

「どないしてん」

訊ねた俊太に向かって、

「実は、この案件なんですが──」

中井は一枚の紙を差し出してきた。

二ヶ月前に行われた結婚式の費用である。

「何度か電話で催促をしたんですが埒が明かなくて……。それで昨日、先方に出向いて直接交渉をしましたら、全然おカネがないというんです」

中井は声を落とす。

「なんでそないなことになってん?」

「以前から新郎が借金を抱えてまして。婿になって新婦の側に結婚式の費用を負担してもらう腹積もりだったらしいんですが、蓋を開けてびっくり。そっちにはもっと大きな借金があったというんです」

それか──。

俊太は内心でため息をついた。

結婚式にまつわる未収入金が発生する理由は様々だが、あてが外れたというのはよくあるケースだ。

「嫁さんの実家は何をやってんねん」

「中小企業の経営者です」

中井は即座にこたえた。「二代続いた会社で、新婦はひとり娘。新郎は会社を継ぐことを疑っていなかったんでしょうね。新婦の側も手塩にかけて育ててきたひとり娘の晴れの舞台です。跡取りの紹介を兼ねて、うちのホテルで盛大な披露宴をやって、門出を祝ってやりたいと思ったらしいんですが──」

「それ、おかしゅうないか?こんだけ大きな披露宴をやれば、祝儀もぎょうさん集まったやろ。まして、中小企業いうたかて、跡取りのお披露目もかねていうんやったら、同業者、取引先かて、祝儀を弾むやろ。なんでカネが残らへんのや」

「それがですね。祝儀を会社の支払いに回してしまったっていうんです。手形が落ちるかどうかの瀬戸際だったといって──」

「なんやそれ……」

俊太は呆れた声を上げた。「相手の懐をあてにすんのも大概やが、祝儀を会社の運転資金に回すって、そらないで」

結婚にまつわる費用を一切合切、すべて自分で賄った俊太である。世間には結婚は最後の親がかりという概念があるにせよ、一家を構えたからには、それから先の人生はふたりが手を取り合って切り開いていく。その覚悟なくして、どうするという思いを覚える。

「まあ、不渡り出したら大変なことになりますからね。一度目は許されるとはいっても会社の信用はガタ落ちです。二度目になれば、事実上の倒産に追い込まれるわけですから、そうなる前に債権者が一斉に回収に走るのは目に見えてます。そんなことになろうものなら、一文無しどころか、さらに大きな借金を抱えて路頭に迷うことになってしまうんですから」

「そやからって、うちに勘定払わんでもええって理屈は成り立たへんで。会場を使い、飲み食いした挙句、勘定を支払うカネがないって、無銭飲食そのもんやで」

「いや、その通りなんですが──」

中井は語尾を濁すと、「かといって、うちもムーンヒルホテルって看板を背負ってますし、まして客商売ですからね。カネ貸しみたいな強引な手段に打って出るわけにもいきませんし、ムーンヒルホテルは血も涙もない、なんて評判が立ったら大変ですから」

そこがホテル稼業の難しいところだ。

中井がいうように、ホテルにとってイメージは大切だ。心地よい宿泊、空間、特に結婚式は、新郎新婦の一世一代の晴れの舞台だ。いかにして、夢を叶えてやるか。二度と味わうことができない時間を過ごさせてやるか。そこに、ブライダルビジネスの成否がかかっている。

いや、それだけではない。

結婚記念日にはホテルを訪れ、レストランで夕食を取る夫婦は少なくないし、遠方からの出席者が上京した際にはムーンヒルホテルに宿泊する。あるいは、地方に出かける際には、その地にあるムーンヒルホテルの利用も期待できるのだ。

相手に落ち度があることが明白でも、あくまでも交渉は紳士的、かつ穏やかに。立場を思いやり、無理のない形で支払ってもらわなければならない。

「先方さんは、どないして暮らしてんねん」

そこで俊太は訊ねた。「カネがないいうても、生活してはんのや。すっからかんいうわけやないやろ」

「婿さんですからね。嫁さんの家に、親と同居ですから家賃はかかりませんし、食費もまとめて作るわけですから、別々よりも安くはつくでしょう。贅沢しているようには見えませんでしたから、カネがないというのは本当のようです」

「よし、そしたらこないしよう」

俊太は即断した。「無理のない金額をなんぼでもええ、月々きちんと支払ってもらう。もちろん金利はなしや。とにかく払う気はあるちゅうところを見せてくれ。そういうたらええわ」

「しかし、それでは未収入金が長期に亘って残ることになりますが?」

「耳揃えて払ってくれいうても、無理な話なんやし、しゃあないやろ。飯食うカネがあるんやったら、支払いに回せなんて無茶はいえへんし。なんぼかでも、払ってもらえるようになれば、塵も積もれば何とやらや。完済の日はいずれ来るわけやし、先方さんかて恩義に感ずるやろ。会社の経営が上向けば、残金耳を揃えて返してくれはるやろし、何かの時にはまたうちを使おういう気にもなるんと違うやろか」

「分割払いというわけですね」

中井はそれで構わないのかとばかりに念を押す。

「ある時払いの催促なしちゅうわけにはいかへんからな。しゃあないで」

「分かりました。ではそのように──」

その言葉に頷いた中井に向かって、

「そやけどなあ。未収入金の中に占める結婚式関連の件数はそれほど多くはないいうても、一件あたりの金額がでかいからなあ。なんとかせんと、えらいことになるで。なんせ、もうすぐ戦後のベビーブームに生まれた世代が、結婚適齢期に入ってくるんやさかいな」

「ですよね──」

肯定する中井も、思いやられるとばかりに眉を曇らせる。「かといって、こればっかりは、式が終わってみないと、追加の料金がいくら発生するか請求額は確定しませんからね」

「追加の料金なんて、式の費用に比べたら誤差みたいなもんやで。会場、料理、貸衣装に花代は、見積もりの段階で確定してんねん。なにも、式が終わるまで支払いを待ってもらう必要なんかないんとちゃうか」

「いや、それはどうですかね」

中井は首を傾げる。「祝儀を費用の足しにって考えてる人だって大勢いるでしょうし、うちを使おうっていう気になるのも、五万円の申し込み金を払うだけで済むからであって──」

「申し込み金が安すぎるとちゃうんかな」

俊太は中井の言葉が終わらぬうちにいった。「せやろ?二百五十万からかかる宴会を引き受けるのにやね、たった五万円って、安すぎんで。それに、なんぼなんでも費用の全額を祝儀でなんて考えてる人はそうおらへんと思うねん。せめてその半額でも先にもらっておけば、未収入金がゼロになるわけではないにせよ、激減すんのとちゃうかな」

思いつくままでいった言葉だが、筋が通った話だと俊太は思った。

そうや、せめて半額でも先に収めてもらうっちゅうのはありやで。

こら、検討してもらう価値があるかもしれん。

「費用の半分を先に収めてもらう?」

俊太の提案を聞いた途端、荒木久は片眉を吊り上げ、声を裏返らせた。

荒木は営業部営業三課の課長だ。

ムーンヒルホテルでは、宴会、婚礼商品の開発を担当するのは販売企画、実際に客と応対するのは三課となっている。

「冗談じゃない。そんなことやったら、申し込み件数が激減するどころか、誰も寄りつかなくなるに決まってるよ。なにを馬鹿なことをいってんだ」

荒木は四十を少し超えたばかりの年齢だ。

ポマードで固めた頭髪、細面の顔。黒縁メガネのレンズは、汚れひとつなく磨き抜かれ、淡い朱鷺色のネクタイに黒の上下のスーツと一分の隙もなく整えた身なりは、いかにも接客を仕事とする部署の管理職者だ。

荒木は、顔の前に人差し指を突き立てると、

「第一、他所はどこも五万円の申し込み金で引き受けてんだ。それを半額に上げたら客はどう思う?そんなに信用できないのか。だったら結構ってことになるのは目に見えてんだろうが」

話にならないとばかりに鼻を鳴らす。

「ですがねえ、荒木さん。現実問題として、結婚式関連の未収入金は、毎年一定の割合で発生しとんのです。代金を頂戴してはじめて成り立つのが商売です。焦げついてもうたら、本末転倒ちゅうもんやないですか」

「僕らが宴席を獲得するのに、どれほど苦労しているのか、君は知ってるのかね。日曜日、祝祭日の宴会場が埋まるかどうかで、会社の業績は大きく変わる。まして、結婚式は利幅の大きい商売だ。厳しいノルマを課されて、達成すんのに必死なんだぞ、こっちは」

荒木は、上目遣いにじろりと俊太を睨む。

厳しいノルマというなら、こっちかて同じや。

俊太は、そう返したくなるのをこらえて、

「それ、おかしいんと違いますか」

すかさず反論に出た。「料理屋や、なんたら会館いうところで結婚式を挙げる人がまだまだ多い時代に、うちのホテルを選ぶからには、ほとんどが祝儀なんぞあてにせんでも、式を挙げるくらいのカネを持ってる人が大半やと思うんです。そら、料理屋かて支払いは式が済んでからいうのは一緒ですが、そこでカネがありませんなんちゅうことになったら一大事。うちは宿泊もあれば、結婚式以外にも宴会はありますよって、未払いが発生してもなんとでもなりますが、小ちゃなとこなら、潰れてまうんと──」

荒木は皆まで聞かずに俊太の言葉を遮ると、

「まるで、僕らが支払いのことは知ったこっちゃない。ノルマさえ達成すればそれでいい。会社の規模に甘えてるっていってるようないい草じゃないか」

あからさまに不愉快な顔をする。

その通りや。

商売はもらうものをもらって、はじめて成り立つんや。

代金を焦げつかせるような客をつかんだところで意味はない。いや、そもそもがそんなものは客とはいえへんやろ。

「荒木さん」

俊太はいった。「うちで結婚式を挙げよういう人は、一流ホテルの豪華な雰囲気の中でええ衣装を着て、美味しい料理に酒、最高のサービスと、それこそ映画の主人公になったような夢の時間を過ごしたい。新生活の門出を飾りたい。そないな気持ちを抱いて選んでくださんのとちゃいますやろか」

「その通りだが、だとしたらなんだってんだ」

「わし、半年前にここで式を挙げましてん。惚れて一緒になった女房です。一生の思い出になるような式にしたい。そやし、ここを選んだんです。もちろん、社員でっさかい、他所でっちゅうわけにはいかへんいうのもありましたけど……」

荒木は、それがどうしたとばかりに、口をへの字に結んで押し黙る。

俊太は続けた。

「全部で九人いう小さな式でしたが、正直勘定を見てびっくりしました。やっぱり一流どころの料金はちゃう。夢を叶えてやるためには、高っかいカネがかかるもんなんや。そない思いました。衣装、花、料理かて、選ぶのはお客さんです。その時点で見積もりも出ます。そんだけかかるいうのを承知で、申し込んでくださるわけです。しかも、数あるホテルの中から、それでもええと、うちを選んでくださんのでっせ。その理由はひとつしかあらしません。結婚式を担当する皆さんが、ムーンヒルホテルは料金に見合う素晴らしいサービスを提供してくれるということを信じてくださっているからやないですか。お客さんがそこに価値を見出しているのなら、半金を前払いにしても──」

「客が来るってか?」

荒木は眉を吊り上げながら、俊太の言葉を先回りすると、「それはないね。いや、危険だね」

話にならないとばかりに首を振る。

「危険?」

「だからいっただろうが。それじゃ、客を信じてないっていってるようなもんだ。君も結婚したばかりなら分かるだろうが、式の前には、いろいろと出費が嵩む。新生活を送るために揃えなきゃならない物の支払いは待ったなし。支払いを無事に済ましたものの、祝儀を式代に当て込んでいた人だってごまんといるんだ。それを半金とはいえ、先払いしなきゃならないとなりゃ、無理だって客が続出するに決まってるよ」

「ですがね、荒木さん」

「あのな……」

荒木は押し殺した声とともに、俊太を睨みつけると、「確かにうちの結婚式は評判がいい。新郎新婦の友達が、列席者の身内が、式を挙げるならムーンヒルホテルでって来てくださる。だがね、式を挙げたいが、あそこは事前に纏まったカネを用意しないと受け付けてくれないなんて悪評が立ってみろ。客をつかむのは大変だが、離れた客を取り戻すのはもっと大変なんだ。お前は、それを分かっていていっているのか?」

ついにお前呼ばわりする。

離れた客を取り戻すのは、もっと難しい。

そこを突かれると、営業経験がない俊太には返す言葉がない。

「どうした?その程度の考えで、こんな話をもちかけてきたのか?」

荒木は小馬鹿にするようにいう。「夏のキャンペーンを考え出した大功労者にしたら、随分お粗末な話じゃねえか。ええっ?」

挑戦的なものいいに、思わず視線を上げた俊太に向かって、荒木はさらに続けた。

「あのな、ひとつ教えてやる。仕事のやり方を変えろっていうのは簡単なんだよ。だがな、マイナス要因があるって時には、それを補って余りある効果を生む、つまりマイナス要因を補って余りあるプラスの効果ってもんを提示して見せなきゃ話にならねえんだよ。思いつきで物申すのは馬鹿でもできる。代案もねえで、あれこれいうのは能無しのやるこった」

荒木の言葉が胸に突き刺さる。

しかし、的を射ているだけに反論はできない。

猛烈な屈辱感を覚えながら、俊太は唇を固く噛んだ。

「おお、文枝によく似ている。可愛い子じゃないか」

文枝が女の子を出産したのは、その年の十一月初旬のことだった。

名前はすぐに決まった。

光子である。

もちろん由来は決まっている。月岡光隆の名前の一文字をとったのだ。

産院の廊下で聞いた光子の産声は、いまでも鮮明に耳に焼きついている。

分娩室のドアが開き助産婦が顔を覗かせると、

「産まれましたよ。元気な女の子ですよ」

泣き声が一際高く聞こえた。

嬉しさと同時に、なんだか切なくなった。

この世に生を受けた喜びか。あるいは何かを訴えているのか。

自然と涙がこみ上げてきた。

「さあ、どうぞ」

助産婦に促されるまま、俊太は分娩室に入った。

分娩台に横たわる文枝の傍らで、白い布に包まれた赤子の顔が見えた。

出産という一大事を終えた直後だというのに、文枝は心底愛おしそうな目で、子供の顔を見つめている。

濡れた頭髪。皺だらけの顔を真っ赤にしながら、小さな口をぽっかりと開け力いっぱい泣く我が子。

文枝が満足そうに微笑む。

涙を拭う俊太に向かって、

「抱いてあげなさい」

と産婆が小さな体を持ち上げる。

壊れ物を扱うように、慎重に腕の中に入れてみた。

家族がひとり増えた。それがなんだか不思議でならない。

だが、我が子を抱いた瞬間、俊太が覚えたのは、命の重み、これから先、ふたりの家族を養っていかねばならぬ、責任感と決意である。

よう生まれてきてくれたなあ。おとうちゃん、一生懸命働くで。

俊太は、また目頭が熱くなるのを覚えながら、胸の中で呟いた。

「文枝、おおきに。ほんま、おおきに──」

俊太は、鼻を啜りながら、文枝に向かって頭を下げた。

それからおよそふた月。

正月も三日を過ぎると、月岡家への来客も少なくなる。

子供が生まれたことを報告した際に、

「だったら、正月にでも子供を見せに来いよ。お袋も喜ぶ」

と月岡はいった。

訪問にあたっては、日頃月岡が使っているベンツが用意されるという気の使いようだ。そしていま、光子は月岡の腕の中にいる。

「ほんと、フミちゃんにそっくり。私にも抱かせて」

傍から敦子が手を伸ばす。

「文枝もお母さんか」

月岡は敦子の腕の中に収まった光子から目を転ずると、感慨深げにいった。

「弟のことも含めて、こんな幸せな日を過ごせるのも、すべては若旦那様、奥様のおかげです。本当になんと、お礼を申し上げていいのか──」

文枝は改めて頭を下げた。

「文彦君からも、折にふれ手紙をいただいているよ。頑張ってるようじゃないか」

「当たり前です。若旦那様のご支援を頂戴できなければ大学、まして医学部なんて絶対に進学できなかったんですから。ご期待に背くようなことがあっては恩を仇で返すことになってしまいます」

「まあ、そんなにムキになるな」

月岡は苦笑する。「医者は人を相手にするんだ。頭はいいが世の中を知らねえ、人間の機微ってもんが分からん医者ほど性質が悪いもんはねえからな。ほら、よくいうだろ?よく学び、よく遊べって。遊びの中にも学ぶものはたくさんあるんだ」

「そんな、遊びだなんて──」

「いや、冗談でいってるんじゃないんだ」

月岡は一転して真顔になった。「医者といっても様々だ。大学に残り、研究の道を歩めば、講師、助教授、果ては教授だ。後進を育てる立場になるわけだが、教鞭を執る一方で、医局の運営もしなけりゃならない。これは経営と同じだ。大学病院ってところは、教授の権力は絶大でな。異を唱えることなんか許されない。それどころか教授回診となりゃ、患者を目隠しするところだってあるんだぜ。そんな医者に診てもらって、患者が嬉しいと思うか?」

「患者が目隠しって──」

文枝はきょとんとした顔をして訊ね返す。

「大先生の顔を患者ごときが見るのは無礼なんだとよ」

「まさか」

「いや、本当の話なんだ」

月岡は首を振った。「病気を治療するのが医者の役目だ。学があり、知識、技術を身につけた人だけが許される行為だ。だからといって医者が偉いわけじゃない。俺はなあ、文枝。文彦君には、そんな医者になって欲しくはないんだ。そのためには、世の中にはどんな人間がいるのか。なにを望んでいるのか。世間てものを知っておく必要がある。世俗にまみれ、出鱈目や失敗を繰り返す。一見無駄な行為だが、それをやることによって、本質ってもんが見えてくる。それに、いい歳になって遊びを覚えることほど性質が悪いもんはねえからな。周りだって学生のうちなら、周りも多少のことは大目に見てくれる。耐性をつけるのはいまのうちだ」

「あなたがいうと、説得力あるわね」

敦子が光子の顔を覗き込みながら、茶化すように口を挟んだ。「実際、あなたは散々そうした日々を送ったんだものね」

返す言葉がないとばかりに眉を上げ、ふっと小さく笑う月岡に向かって、

「そんな、文彦が教授になれるなんて、あり得ませんよ」

文枝はいった。

「だったら、尚更だ。患者は客だ。診てもらうなら、腕はもちろん、気分よく診てもらえる医者にかかった方がいい。患者は誰しもそう考える。流行らねえ医者ほどつぶしが利かねえ仕事はねえぞ」

そういうと、月岡は呵々と笑い声を上げた。

光子がむずがりはじめたのはその時だ。

「あっ、おっぱいの時間だわ」

「じゃあ、仏間を使いなさい」

敦子は立ち上がると、「フミちゃんにお祝いを用意してあるの。それも見てちょうだい」

先に立って、居間を出て行く。

ふたりの姿を見送りながら、

「お袋、文枝に子供が生まれたことをたいそう喜んでな。お祝いは何がいいかって、そりゃあ熱心に『主婦の友』を読みまくってさ」

どこかしみじみとした口調でいった。

俊太は、喉まででかかった長年の疑問をすんでのところで飲み込んだ。

それは、月岡の結婚である。

地位もある。経済力もある。まして、月岡家にとっては唯一の跡取りだ。月岡が子供を儲けなければ、代を継ぐ者が途絶えてしまう。それは、月岡家にとっては深刻な問題であるはずだ。

なのに、月岡に結婚する気配はない。

もっとも、これだけの家である。好いた惚れただけでは結婚もできないのは、想像に難くはないが、縁談には苦労しないのは明らかだ。

「すんません。奥様にまで、お気遣いをいただきまして──」

俊太は、深く頭を下げた。

「改まって礼をいわれるほどのもんじゃない。どうせ、お前らのことだ。必要なものは全部自分たちで揃えちまってんだろうから、ベビー服を少しまとめて用意しただけだ」

そこで、月岡は少しの間を置くと、「お陰で、お袋もお婆ちゃん気分を味わえた。なんせ、家族同然と思っていた文枝の子供だからな。俺に当分結婚する気はねえってことは先刻承知だし。自分の孫を抱けるかどうかすら、怪しいからな──」

かねてからの俊太の疑問を自ら口にした。

「当分、結婚する気はないって……。なんでですのん」

「いろいろあってな──」

珍しく、口籠る月岡だったが、「お前は長いことうちに住んでたんだ。親父が妾を囲ってたことは知ってんだろ?」

と訊ねてきた。

「はい」

「男が全部そうだとはいわねえが、カネができれば遊びを覚える。カネを使う男のところには女が寄ってくる。ただでさえ女房は面白くねえってのに、外に子供を作ったとなりゃ尚更だ」

「えっ……そしたら──」

はじめて明かされた月岡家の秘密に俊太は心底仰天し、絶句した。

「まだ大学生だがな。妾とは籍こそ入れちゃいないが、親父は子供を認知した。当然、そいつには相続の権利が発生する。お袋は、世間でいうところの糟糠の妻ってやつだ。親父が一代で事業をここまでにできたのも、自分の存在があってこそって自負の念を抱いている。それを親父のやつ──」

月岡は、苦々しげな表情を浮かべ、語尾を濁した。

龍太郎が倒れたあの日、救急車に一緒に乗り込んだ敦子が取り乱す様子もなかった理由が、亡くなった知らせを受けた月岡が慌てる素振りも見せなかった理由が、いま分かった。

「血は争えねえもんでな」

月岡はいう。「事業に対する欲はひと一倍。その一方で、お前も知ってる通り、女好きもひと一倍だ。こっちの方は所帯を持ったってそう収まるもんじゃねえ。もちろん、外に女をこしらえても気にしねえってやつを女房にすりゃあいいって考えもある。だがな、それは他に目当てがあるってこった。それはそれで寂しい話だろ?」

月岡がなにをいわんとしているかはよく分かる。

相手の家の懐をあてにして結婚式を挙げたものの、蓋を開けてみれば、双方ともにすっからかん。結婚は好いた惚れたばかりではなく、家柄、財力、将来性と様々な思惑の下に成立するものだ。

妻に娶った女性が夫の女遊びを黙認するということは、愛情以外の思惑を抱いている。いや、むしろその他の要素に魅せられて一緒になることに同意したということだ。

かといって、愛情で結ばれたものなら、夫が外に女を作ったとなれば平静でいられるわけがない。敦子同様、嫉妬と怒りにかられ、家庭が滅茶苦茶になるのは目に見えている。

「正月早々つまんねえ話をしちまったな」

しばしの沈黙の後に月岡はぽんと膝を叩くと、「あっちへいって一杯やるか」

おもむろに立ち上がった。

「そ、そんな……。社長と一緒にお酒やなんて──」

俊太は滅相もないとばかりに首を振った。

月岡の家に足を踏み入れるのは、龍太郎が倒れたあの日以来だが、それも電話がある玄関までだ。居間に通されただけでも、身にあまる待遇だというのに、酒なんてとんでもない。

「この時間に来いといったのはそのためだ。光子ちゃんにはじめて会う目出度い日だ。第一、これから家に帰って晩飯をどうする。文枝だってあの通り子供の世話で大変なんだ。まさか、文枝に支度させるってわけにはいかねえだろ?」

「それは、そうですが──」

「だったら、つべこべいわずに、さっさとこっちに来い」

月岡は有無をいわさぬ口調で命じると、先に立って次の間へと歩きはじめながら、「おトキさん。ビールを用意してくれ」

女中に向かって告げた。

月岡邸には家族専用のものと、来客がある際に使われるものと、食堂がふたつあることは文枝から聞いていた。新年の宴席を持つのは一階の広間である。

どうやら通されたのは、椅子が六つしか置かれていないところを見ると、家族専用のものであるらしい。一見簡素なようにも思えるが、テーブルはぶ厚い無垢材が用いられ、椅子もまた重厚な造りである。

上座に腰を下ろした月岡は、

「そこへ座れ」

と傍らの席を勧めた。

俊太が座ると同時に、女中の『おトキさん』がビールを持って現れた。

すでに、三段重ねのお節と、取り皿が用意されているところを見ると、月岡は本当に最初から夕食の席を囲むつもりであったらしい。

「まずは、乾杯といこうじゃないか」

おトキさんが、ふたりのグラスにビールを注いだところで月岡はいった。「光子ちゃんの誕生に、新年に、どっちもおめでとうだ」

「ありがとうございます」

すっかり恐縮した俊太は、深々と頭を下げた。

冷えたビールが胃の腑に染みる。

月岡は、一気にビールを飲み干すと、

「ところで、テン。新年早々、仕事の話も野暮だが、未収入金の発生は後を絶たずだ。なんとかならんのか。事業が拡大している割には増えこそしないものの、恒常的に発生しているってのは困ったもんだぞ」

俊太の酌を受けながら訊ねてきた。

ムーンヒルホテルの業績は絶好調。特に月岡が社長に就任してから手掛けた、湘南のプールと新潟のスキー場は、シーズン中は連日満室。想像をはるかに超える繁盛ぶりである。それに都市部のホテルも俊太が提案した夏のキャンペーンをはじめて以来、連日満室。その勢いを駆って、地方への進出が相次いでいた。

「客室関連の個人利用分については、大分減ってはいるんです。それに、長期的に見れば、限りなくゼロに近づくと思うとります。なんせ、クレジットカードいうもんを使うてくれはるお客さんもちらほら現れてますさかい」

「クレジットカードか。手数料がかかるのは面白くねえが、クレジットカード会社が客の与信を保証してくれんだ。焦げついてもうちが迷惑を被るわけじゃない。こいつが世の中に普及して、持つのが当たり前って時代になれば、確かに個人客の代金が焦げつくことはなくなるな」

「問題は、いまのところ件数こそ多くありませんが、旅行会社の未払いが出てきていることです。特に地方の客室の稼働率を高めるためには、旅行客の獲得が絶対に必要ですが、中小の旅行会社の中には、資金繰りに苦労してはる先もありまっさかい」

「旅行会社か──」

月岡は、グラスを置きなが暫し考え込むと、「観光目的で地方に行く客は、旅行会社主催のツアーに申し込んだ方が割安だし、移動手段も全部お膳立てしてくれるから面倒はない。これから先、そうした客の占める割合が高くなってくるのは目に見えてるからな」

「月末締めの手形払い。それも三ヶ月ですからね。規模が小そうなればなるほど、ツアーの内容を魅力的なものにせな客は寄り付きません。当然、利幅は小さくなるわけですから、思うように客が集まらなんだら、手形が落ちへんいうことになってしまうんですわ」

「まとまった客が見込めるだけに、うちとしても切るに切れん。だが、それだけに飛ばれた時に発生する未収入金の額も大きくなるというわけか」

月岡は、お節が入った重箱を自ら広げながら、「しかし、不渡りは二回出せば倒産だ。もっとも、それは理屈の上での話で、一度でも落ちなきゃ誰も取引なんかするわけがない。終わったも同然だ」

食えとばかりに目で促す。

見たこともない豪勢な料理の数々がびっしり詰まっている。

俊太は箸を持ちたくなる気持ちを抑えていった。

「倒産した会社から債権を回収するのは、個人相手よりも難しいんです。不渡り出した途端に、債権者がぎょうさん押し寄せてきますし、全額回収はまず不可能です。それを防ぐためには、やっぱり業者を選ばなならんと思うんです」

月岡は当然考えがあるんだろうとばかりに、黙って田づくりを箸で摘みあげた。

俊太は続けた。

「営業の皆さんはノルマを達成するのに必死です。新しいホテルが開業するたびに、達成せなならん数字はどんどん上がっていくわけでっさかい、中小の旅行会社にも営業をかけなならんのです。そやけど、商売ちゅうもんは、代金をきっちりいただいて成立するものと考えるとですね──」

「なるほど、確かにお前のいう通りだ」

月岡は田づくりを口に入れると、ビールを飲んだ。「で、そのためにはどうする」

「与信管理が必要やと思います」

俊太はこたえた。「宿泊客は個人が大半でっさかい、与信枠を設けようにもできしませんが、旅行会社は違う思うんです。業績調査を専門にしてる興信所が経営状況を逐一つかんでますから、危ないいう先は事前に把握することは可能です。個人の与信かて、これからクレジットカードが普及していけば、心配のうなるいうのに、大口をそのままにしておくのはおかしい思うんです」

「なるほどな。いわれてみればってやつだな」

月岡は感心した態で頷いた。

「与信管理が徹底すれば、未払い金の発生が解消できるのは旅行会社に限ったことではありません。企業さんの宴会かて、相手の懐具合が事前に分かれば事前に断ることもできるんやないでしょうか」

「そうなったら、テン。お前の仕事はなくなっちまうじゃねえか」

月岡は、真顔でいった。

「そ、それは……」

そうか……。そうなるよな──。

俊太は言葉に詰まって視線を落とした。

「あっはっはっは」

突然、月岡が大口を開けて笑い出した。「どうすんだ、テン。正社員になって以来、未収入金の回収しかやってこなかったお前が、なにか他にできることがあんのか?」

答えは決まっている。

経理課とはいっても、帳簿が読めるわけでもない。他の仕事を与えられても、一から学ばなければならない。それでは、課長どころか新入社員も同然だ。

恩を返すどころの話やないで。そないなことになってもうたら、会社のお荷物になってまうやないか。

それに、光子が生まれたばっかりやいうのに、稼ぎが落ちたら生活が成り立たへんようになってまうがな──。

「まあ、なくなるのはまだまだ先の話だ」

がっくりと肩を落とした俊太に向かって、月岡はいった。「だがな、与信管理が徹底し、クレジットカードが世に普及していけば、お前の仕事は格段に少なくなる。ならば、お前は社内に仕事を見つけなければならない」

「いや、そやけど、わしは──」

「他にできる仕事がねえってか?」

月岡は、また田づくりを摘み上げると、「だったら、作りゃいいじゃねえか」

眉を吊り上げながら口に入れた。

「作る?」

「お前、いつまで未収入金の回収なんて後ろ向きの仕事してるつもりだ?」

月岡はニヤリと笑った。「夏枯れを解消してみせたんだ。知恵を絞りゃ、まだうちが手がけたことのねえ商売のひとつやふたつ、考えつくんじゃねえのか?第一、あの時とはお前が置かれた立場は全然違うんだぞ。文枝と光子ちゃん。ふたりの家族を養っていかなきゃなんねえんだ。小ちゃな城を手にして満足してんのか?家族にもっといい暮らしをさせてやりたいとは思わねえのか?」

月岡の言葉が胸に突き刺さる。

忘れていた──。

課長を拝命したあの時、月岡は「お前は小さいながらも一国一城の主になるんだ」といった。そしてこうもいった。「小さな出城だ。だがな、城は城だ。そして、この城はお前の手腕ひとつで、いくらでも大きくすることができるんだ」と。

あの時、もっと大きな城を手に入れるのは、もはや夢ではない。己の才覚次第で実現できる目標になった。そう思ったはずではなかったか。

それが、このざまはなんだ。

日々の仕事に、生活にどっぷりと浸かり、野心などどこへやら。

こんな調子でやってたら、城を大きくするどころか、いつまで経っても月岡に恩を返せる日などやってくるわけがない。

忸怩たる思いに駆られた。

俊太は、ぎゅっと唇を噛み、膝の上に置いた拳を握りしめた。

〈次号は2月20日(月)に更新予定です〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。