第10回

これまでのあらすじ

ムーンヒルホテルで未払金の回収にあたっていた俊太は、結婚式専用の施設を作ることを立案する。目論見は的中し、俊太は子会社の社長として経営を任されることになった。そんな折、かつてドヤ街で荒んだ生活を送っていた俊太を引き上げてくれた幼馴染のカンちゃんが、赴任先のハワイから帰国することになった。無邪気に喜ぶ俊太だったが……。

「カンちゃん、紹介するわ。嫁の文枝や」

「はじめまして。文枝でございます」

光子と手をつなぎ、玄関に立った文枝が丁重に頭を下げた。

「麻生です。はじめまして」

寛司が満面の笑みを浮かべながらこたえると、「さ、どうぞ入って。引っ越しが済んでから間もなくてねえ。まだ片付けが完全に終わっていなくて申し訳ないんだけど」

部屋に入るよう勧める。

寛司が帰国してからふた月になる。

結婚と同時にハワイへの赴任である。家具はもちろん、生活に必要なものを全て現地で揃えた上に、子供もふたり生まれた。船便で送った家財道具が日本に到着するまではホテルで暮らし、その間には家探し、学校の手配もある。

海外駐在ともなると、国内での転勤とはわけが違う。生活環境を整え、ようやく俊太の家族を迎えることができるようになるまでには、これだけの期間を要したというわけだ。

「うわあ……ごつい部屋やなあ」

寛司の後に続いてリビングに入った瞬間、俊太は感嘆の声を上げた。

住まいは調布にあるマンションの三階である。二十畳は十分にある。広い窓から差し込む光の中に、整然と配置された家具は、デザインが洗練されている上に、サイズも一回り違う。まさに、アメリカ人の住まいだ。

「素敵だわあ──」

背後で文枝が息を飲む。「まるで外国に来たみたい……」

「日本に戻る時のことを考えて、小さいサイズのものを選んだつもりだったんだが、持ち帰ってみるとやっぱりでかくてな」

寛司は苦笑する。「こんなことなら、いっそ売っぱらってこっちで買い直した方がよかったんじゃねえかって後悔してんだ」

「そんなことないで。部屋かて十分広いし……なあ」

俊太は文枝に同意を求めた。

「そうですよ」

文枝は頷く。「こんな素敵な家具、日本で揃えようとしても売ってませんもの。取り寄せたら、いったいいくらかかるか」

「まあ、それでもこの物件に出合ったのはラッキーだったよ。何とか家具も入ったし、ここまで来ると家賃も都心に比べりゃ大分安い。それに、子供の学校のこともあったしね」

「お子さんの学校?」

「ふたりとも、向こうじゃ現地の学校に行ってたもんでね。英語忘れちゃもったいないだろ。それでインターナショナルスクールに通わせることにしたんだ」

寛司は近くにアメリカンスクール・イン・ジャパンという、在住アメリカ人の子供を対象にする学校があることを説明すると、「もっとも学費が高くてね。先が思いやられるよ」

冗談とは思えぬ口調で、軽く息をつく。

家具に続いて、英語にアメリカンスクール。中卒の俊太にとっては、全く想像もつかない別世界の話だ。どうやら、文枝も同じ思いを抱いたらしく、ただただ寛司の話に聞き入るばかりだ。

「小柴さん、お久しぶり」

その時、隣の部屋から真澄が現れた。

エプロン姿であるところを見ると、キッチンで料理をしていたらしい。「ごめんなさい。お迎えにも出なくて。ちょっと手が離せなかったの」

「あっ、上島さん。お久しぶりです」

真澄と会うのは結婚式以来で、思わず旧姓を口にしてしまったのはそのせいだ。

「いやあねえ、もうとっくに麻生よ」

「でしたねえ。つい……」

俊太は照れ笑いを浮かべると、「あっ、これわしの嫁です」

文枝を紹介した。

「文枝さんね。はじめまして」

「お初にお目にかかります。今日はお招きいただきまして、ありがとうございます」

「はじめてお会いした気がしないわ」

やはり長く海外で暮らした人間は違う。

花嫁姿も美しかったが、環境が人を変えるというのは本当のことだ。化粧のせいもあるだろう。着ている服のせいもあるだろうが、それだけではない。滲み出る雰囲気がかつてに比べて格段に洗練されているのだ。

「うちの人、おふたりが結婚なさるって知らせを受けた時には、そりゃあ喜んで。俊太さんが嫁をもらう。文枝さんっていうんだ。それも、社長のお家にいる方とって。お子さんが生まれた時も、そうだったの。自分の子供が生まれたみたいに」

真澄は続けていい、「こちらが、光子ちゃんね」

文枝の手を握る光子に視線をやった。

「小柴光子です」

はにかみながらも、光子ははっきりと名乗る。

「まあ、しっかりしてること」

真澄はぱっと顔を輝かせると、「お兄ちゃんたちと遊ぼうか。いま呼ぶわね」

ふたりの子供の名を呼んだ。

奥の部屋から、足音が聞こえてくる。

確か、八歳になるのが繁雄で、六歳の次男が真司だ。

「光子ちゃんっていうの。一緒に遊んであげなさい」

ふたりは真澄の言葉に頷くと、

「こんにちは」

俊太と文枝に向かって、はっきりとした声で挨拶をすると、「光子ちゃん。僕らの部屋に行こう」

早々に光子を連れて部屋に向かう。

「しっかりしたお子さんですねえ」

文枝も感心しきりだ。

「男の子ふたりは大変なのよ。それに、家も随分狭くなったし、気候も全然違うしね。友達も近所にはいないし、どうしても家の中にいる時間が多くなって」

「英語ができて、アメリカンスクールに行っていて、将来楽しみじゃありませんか」

普通なら、羨望が眼差しに宿りそうなものだが、ここまで違いを見せつけられればそんな気持ちも抱くまい。

文枝は、ただ目を細めて三人の後ろ姿に目をやった。

「光子ちゃんだって、楽しみじゃない。きっと素敵なお嬢さんになるわよ」

真澄はこたえると、「ゆっくりなさってて。支度が遅れてしまって、お食事ができるまで、もう少し時間がかかるの」

キッチンに戻ろうとする。

「私、お手伝いします」

文枝がいった。「社長の家でお世話になっていた頃は、台所仕事をしていましたから、何なりと──」

「じゃあ、お言葉に甘えようかなあ」

「おいおい、文枝ちゃんはお客さんだぞ。そんなことをさせちゃ──」

口を挟んだ寛司に向かって、

「そんなこと気になさらないで下さい。お料理を作るのだって、道具を片付けながら。台所仕事って、やることがいっぱいあって大変なんです。人手があるに越したことはないんですから」

文枝は歌うようにいい、真澄を促しキッチンに入っていく。

「すまんなあ、テン」

寛司は、眉尻を下げながら肩をすくめる。

「ええねん。文枝が台所仕事が得意やいうのは、ほんまの話やし。それより、カンちゃん、ビール買うてきてん」

俊太は手にしていた、紙袋をかざした。

「よし、じゃあ先に一杯やるか」

寛司はサイドボードの中からふたつのグラスを手にすると、俊太とともにソファに腰を下ろした。そして栓を抜くと、

「久しぶりだなあ、一緒に呑むのは──」

心底嬉しそうにいいながら、俊太のグラスにビールを注いだ。

「ほんまやなあ」

注ぎ終わったところで俊太は瓶を持つと、「あの頃のことを考えると、こないな日が来るなんて想像もできへんわ。なにもかも、カンちゃんのお陰や」

寛司のグラスにビールを注ぎながら、しみじみといった。

「いい嫁さんじゃないか」

「わしにはできすぎた嫁やと思います。カンちゃんが、わしをドヤから引きずり出してくれへんかったら、文枝と逢うこともなかったし、いま頃どないなっとんたんやろって……わし、時々怖ぁなるんや」

それは紛れもない俊太の本心だった。

定職にも就かず、当たり屋をやって小遣いを稼いでいたドヤでの日々。

ドブ、吐瀉物、糞便の臭いが漂う中で、昼から酔いつぶれ路上に寝転び、あるいは、日がな一日博打にうつつをぬかし、僅かなカネを毟り合う日雇い労働者たち。

先も見えない、絶望的な日々を過ごしながら、いまに至っていても不思議ではなかったのだ。

それがどうだ。

いまや、ムーンヒル・ウエディングパレスの社長、一国一城の主だ。

「お互い、よくここまで来たもんだな……」

「カンちゃんは別やで。わしと違うて立派な大学を出てんのやし」

「学なんてあるには越したこたあねえが、絶対的なもんじゃねえよ。それを証明してみせたのがお前じゃねえか」

寛司にそういわれるのが、何よりも嬉しい。

思わず笑みを浮かべた俊太に向かって、

「よく頑張ったな、テン……。乾杯しようじゃないか」

寛司は、優しい眼差しを向けながらグラスを掲げる。

ふたつのグラスが硬い音を立てて触れ合う。

冷えたビールが喉を滑り落ちていく。

「かーっ。美味いなあ。今日のビールは格別や」

俊太は一気に呑み干すと、顔をくしゃくしゃにして唸った。

寛司のグラスも空だ。

すかさず俊太は瓶に手を伸ばす。

「ところでな、テン。俺、もうひとつ事業を任されることになってな」

寛司はビールを受けながらいった。

「新しい仕事って、海外事業の他に?」

「ああ」

「何やねん」

「レストランだ」

「レストランって……、そんなんうち何軒も持ってるやん」

寛司はグラスを置くと、

「新しい形のレストランだ」

そう前置くと、改めて切り出した。「ハワイに赴任中、俺、一度も帰国しなかっただろ? それには理由があってな、休暇を利用してアメリカ本土に渡って、商売のネタを探していたんだ」

「さすがやなあ。カンちゃんそないなことやってたんか」

「俺が、ここまで昇進できたのも、社長のお陰だ。ハワイに出してもらって、家族の将来も大きく変わった。もちろんいい方にな。ムーンヒルホテルの事業がこれから先も、どんどん大きくなるのは間違いないんだが、一生ついていくと決めたんだ。社長がどこまで大きくなるのか、見てみたいと思ってな」

その気持ちはよく分かる。

入社の経緯、それから歩んだ社内でのキャリアは、寛司が優秀であったからには違いないが、それを早くに見抜き、チャンスを与えたのは月岡である。

「アメリカってところにはさ、面白い商売のネタがごろごろ転がってんだよ」

寛司は続ける。「なんせ基本、田舎だからな。何をするにしたって、車がねえと何にもできねえ」

「田舎って……アメリカは日本よりはるかに進んだ国とちゃうん?」

「そりゃあ、ロスアンゼルスとかニューヨークのような大都市の話だ。それだって、郊外に出りゃだだっ広い庭を持つ住宅があっちにひとつ、こっちにひとつって固まって建ってるだけで、日本のように商店街があって、歩いて買い物に行けるってわけじゃねえんだよ」

そうはいわれても、ピンとこない。

そんな俊太の気配を見て取ったのか、

「外食するのも同じでな、家族揃ってとなると当然車ってことになる」

説明をするのも面倒だとばかりに話を先に進める。「日本でいうなら国道、県道に相当する道路沿いには、駐車場を備えたレストランが並んでてさ、それもチェーン店で大層な繁盛ぶりなんだ」

「チェーン店って、どこへ行っても同じ値段。同じ味なんやろ? せっかく外食すんのに、そないなところ行ってもしゃあないんちゃうん」

「それは逆だ」

寛司は断言する。「どこへ行っても同じ味、値段も変わらない。それが客の安心感に繋がってるんだな」

「安心感ねえ」

そういえば、と俊太は思った。

日本にアメリカのハンバーガーチェーン店が進出したが、どこで食べても同じ味、同じ値段であるにもかかわらず、客足は落ちるどころか伸びる一方だ。

どうやら、それと同じ現象がレストランでも起きるといいたいらしい。

「日本だって長距離のトラックの運ちゃんは、馴染みのドライブインで食事を摂るだろ? それは、味も値段も分かっているからだ。家族連れだって同じさ。外食はたまの贅沢だ。味よし、値段よし、メニューも豊富に揃ってるとなりゃ、家族連れだって安心して来れんだろうが」

「車は贅沢品いう時代やないしな。今晩は外食にしよか、ドライブの帰りに飯食って帰ろかいうことになったら、気軽に入れるところへっちゅうことになるかもしれへんな」

寛司はぐいとビールを飲み干すと、手酌でグラスを満たし、

「お前、ウエディングパレスで出す料理、ホテルからのケータリングにすればいいって提案したんだってな」

上目遣いに俊太を見た。

「けーたりんぐって何のこと?」

「お前、知らんのか?」

寛司は、呆れた顔をして両眉を上げた。「早い話が出前のことだ。パレスで客に出す料理は、ホテルの厨房でこしらえて、会場で温めて出す。こんなアイデアをどうやって考えついたんだ」

「わしが考えたんやないねん」

そもそもの発案者は京都の貸衣装屋のオヤジであったこと。彼がお茶屋遊びで供される料理にヒントを得たことを話して聞かせた。

「それでも、そこからホテルの厨房をセントラルキッチンにするってとこに持ってきたのは大したもんだ」

「セントラルキッチン?」

横文字の言葉が次々に出てくる。

己の浅学を思い知るのはこうした時だ。

「日本語でいえば中央厨房。要は複数店の料理を一括して作る調理場ってことだ」

寛司はこたえ、「アメリカのレストランチェーン店が人気を博している最大の理由は、料理の質、味が値段の割にはいいってことにある。なんでそんなことができるのかといえば、基本的な調理はセントラルキッチンで行い、店舗では温めて出す。サラダだって、下準備を終えたものを盛りつけるだけ。ほとんどプロの調理人を置いておかずに済むからだ」

と、続ける。

「なるほどなあ。食材を一から店で料理してたんじゃ、手間も時間もかかれば、コックかて雇わなならんしな。食材かて、店舗分を一括して仕入れれば、量にものいわして納品価格を下げることもできるっちゅうわけか」

「うちのコックに料理を監修させれば、味は折り紙付きだ。そんな代物が、手軽に食えるとなったらどうなるよ」

「さすがカンちゃんや。こら、でかい商売になるで」

胸の中に熱い塊が湧き上がってくるのを覚えながら、俊太は唸った。

「それだけじゃない。ホテルとレストラン、食材の調達先を一本化すれば、グループ全体の仕入れ値が下がる。もちろん、ホテルとレストランは食材の質が違うが、物をいうのは量だからな」

それは、ウエディングパレスで供する料理の原価も違ってくるということだ。いや、料理ばかりではない。飲み物だってグループ全体が一括して仕入れるとなれば、納品価格は格段に下がることは間違いない。

ただただ感心するばかりの俊太に向かって、

「ところでな、テン」

寛司は口調を改めると、話題を転じた。「お前、これからパレスをどうやっていくつもりなんだ」

「どうやってって……。業績は絶好調やし、結婚年齢を迎えた若い世代もぎょうさんおるし、パレスの事業拡大に努めよう思うてるけど?」

それ以外に何がある。

俊太は怪訝な気持ちを抱きながら、すかさず返した。

「確かに業績はいい。社長も大変な喜びようだ」

寛司は手にしていたグラスをテーブルの上に置く。「だがな、いまのパレスと同じ規模のものを次々に建てていくだけってのも芸がないと思うんだ」

「どういうことなん?」

ますます、寛司が何をいわんとしているか分からなくなる。

俊太は問い返した。

「まあ、なんでもアメリカに倣えってわけじゃないんだが、あの国は面白いところでな。結婚、離婚も州によって法律が違うんだ」

「州によって法律が違うたら、境を越えてもうたら犯罪も犯罪でのうなるっちゅうこと?」

「まあ、それについては改めて話してやるが、まずは仕事の話だ」

俊太は頷き、話に聞き入ることにした。

「カリフォルニアにタホって湖がある」

寛司はいう。「ネバダとの州境でな、道路のセンターラインを越せばもうそこはネバダだ。そして、ネバダ側の道路沿いには教会がずらりと並んでんだ。カリフォルニア側には一つもねえのにだぜ」

「教会がぎょうさんあって、どないすんねん? そのネバダいうところの人は、そない信心深いんか」

「そうじゃねえよ」

寛司は苦笑する。「結婚が簡単にできるんだよ。車で乗りつけて、申し込めばすぐ式だ。神父や牧師さんの前で誓いの言葉を述べて、証明書にサインしてもらって、役所に提出すれば晴れて夫婦だ。ところが道路のこっち側、カリフォルニアではそうはいかねえ。結婚するにもいろいろ面倒な手続きがあるんだな」

「日本は、そのネバダいうところより、もっと簡単やんか。教会なんかに行かへんでも、ふたりでハンコついて役所に婚姻届を出せば──」

「理屈の上ではそうだが、実際にそれで済ませる夫婦が世の中にどんだけいるんだよ」

寛司は目を瞑りながら首を振ると、「俺がいいたいのはな、神父のサインがねえと成立しないこともあるが、たったふたりきりでも、新たな人生の門出だ。やっぱり形は整えておきたい。特に女性は、派手な披露宴は望まねえが、せめて花嫁衣装ぐらいは着たいって考えてる人たちがごまんといるんじゃねえのかってことだ」

瞼を開き、鋭い眼光を向けてきた。

「そらそうやろけど、どないしろっちゅうねん」

「お前が作ったパレスは、披露宴の規模に応じて部屋も選べるようにできちゃいるが、最低でも何十人って人を集めなきゃなんねえだろ。それに式だけでいいってわけにもいかねえんだろ」

「当たり前やがな。披露宴に比べりゃ、式で上がる利益なんて知れたもんや」

「そうかな? それじゃ、昔からあるなんたら会館と、料理をケータリングで済ませるようにしたってこと以外、何も変わりゃしねえじゃねえか」

寛司の言葉が胸に突き刺さった。

考えてみれば、パレスにしても、ケータリングにしても、自分が考えたものではない。浜島の親戚、京都の貸衣装屋のオヤジが発案したものだ。

俊太は返す言葉が見つからず、視線を落とし黙るしかない。

「ネバダ形式を取り入れたら、面白いことになると思うがなあ」

寛司の言葉が頭上から聞こえた。「結婚式だけでもOKってことにすりゃあ、式そのものの時間なんて知れたもんだ。いったい一日に何件のカップルをこなせるよ。衣装を着たいっていうなら、貸衣装を世話してやりゃあいい。式場代に貸衣装代。それこそ右から左。朝から晩まで式だけを繰り返せば、いい商売になるんじゃねえか? 考えても見ろよ、式に特化すれば、こっちの仕事は神父、神主、それに着付けの従業員だけで済むんだぞ。他に用意するもんなんか、何もねえんだぞ」

脳天をぶん殴られたような衝撃を覚えた。

やっぱ、カンちゃんは凄いわ……。わしなんか、とても歯が立たへん──。

同時に、この目の覚めるようなアイデアを、自分に与えようとする寛司の思いに、俊太は感動を覚えた。

恩があるのは、社長ばかりやない。カンちゃんも同じや。わし、このふたりは何があっても裏切られへん。一生かけて恩に報いなあかん。

「カンちゃん……わし──」

感謝の言葉を口にしようとしたが続かない。

口にすれば、涙が溢れるのが分かっていたからだ。

「お待たせしました。お料理ができたわよ。文枝さん、とても手際がよくて、助かったわあ」

真澄がキッチンから現れたのはその時だ。「子供たちには、ハワイアン風のハンバーグを用意したの。さっ、みんな席について」

真澄の言葉に、

「まあ、つまんねえ俺の思いつきだが、何かの足しになればいいと思ってさ」

寛司は、白い歯を見せて立ち上がると、「さあ、改めて祝杯を挙げようぜ」

俊太を食卓に誘った。

「どうぞ、こちらでございます」

女将が廊下に跪き、襖を開けた。

懐かしい場所だった。

六畳の客室の中央に置かれた黒塗りの卓。

床の間を背にした席にひとつ置かれた座椅子。それを挟む形でふたつの座椅子が置かれている。

朱色の布が貼られた座布団と、黒光りする机とのコントラストが鮮やかだ。浅葱色の畳が発する藺草の匂いに、女将の着物に薫き込められた白檀の香りが混じる。

床の間に活けられた梅が、春の訪れが近いことを告げている。

俊太が入ってすぐのところに設けられた席に座った途端、

「俊太さん。立派におなりになって」

女将が感慨深げにいいながら、眩しいものを見るように目を細めた。

『川霧』に足を踏み入れるのは、下足番を辞めて以来だ。

女将も代替わりしており、いまその役目を担っているのは、柏原という当時仲居として働いていた女性だ。

「柏原さんも女将さんになったんやなあ。時の流れっちゅうもんは、振り返ってみると早いもんや。あっという間やで」

俊太の口調もしみじみとしたものになる。「しかし、ここはあの頃とちいとも変わってへん。変わったもんいうたら、下足番がおらへんようになったことぐらいか」

「茂さん、お亡くなりになったのよ」

「亡くなった? いつ?」

「もう五年になりますか……。私も人伝に聞いたので、はっきりとは分からないんだけど、あれからしばらくして、茂さん、体を壊して店を辞めたのよ。ほら、茂さん、煙管タバコをやってたでしょ。肺を壊したみたいでね。それで、娘さんのところに厄介になってたらしいんだけど、寝たきりになってしまって、ついに──」

「そうかあ……」

複雑な思いに駆られた。

川俣が亡くなったと聞いたこともあるが、人の一生というものは、どうしてこうも違うものなのか。それは何によって決まるものなのか。

そんな思いを抱いたからだ。

ここで下足番をしていた頃、川俣は自分の上司だった。上下が明確になっていたわけではないが、事実上そうした関係にあったことは間違いない。もちろん、川俣は当時すでに十分な歳ではあった。しかし、下足番で終わった川俣と、子会社とはいえ、ムーンヒルホテルの一角を担う子会社の社長になった己との違い──。

それが運命というものだ、といってしまえばそれまでだ。何を以て幸せと思うかは人によって違いもするだろう。だが、ここで働いていたあの頃、川俣と自分は同じ位置に立っていたことは確かである。川俣が歩んできた人生を、己が辿ることになっていたとしても、不思議ではなかったのだ。

「これも時代の流れなのねえ。いまどき下足番のなり手はいなくて……。それで茂さんが辞めてから、お客さんの靴は仲居が預かることになったのよ」

「柏原さんも仕事が増えて大変やったね。下足番もあれで、なかなか大変な仕事なんやで」

「俊太さんのように、靴を磨いて差し上げることはできませんけどね」

柏原が、くすりと笑ったその時、

「失礼いたします。お連れ様がお見えになりました」

廊下から仲居の声と共に襖が開き、寛司が入ってきた。

「おう、テン。早かったな」

寛司は床の間を横切り、正面の席に座る。

「いや、わしもいま来たところやねん」

「あの……お茶でもお持ちしましょうか?」

すかさず訊ねる柏原に向かって、寛司はちらりと腕時計に目をやると、

「いや、社長が来るまでこのまま待つよ。最初の一杯は喉が渇いていた方が美味いからね」

あぐらをかきながらこたえた。

「では、そのように……」

柏木が下がったところで、

「社長がわしらふたりを呼び出すって、何の用事やろ」

俊太はいった。

「川霧で社長がお会いしたいとおっしゃっております」

秘書を通じて、打診があったのは三日前のことだが、目的は知らされてはいない。

「さあな」

小首を傾げた寛司だったが、

「まあ、悪い話じゃねえだろ。お前のとこだって、業績絶好調なんだし」

嬉しそうに目元を緩ませた。

「カンちゃんのおかげや。結婚式だけでもOKなんちゅう商売、わしにはどう逆立ちしても思いつかへんかったわ。投資額も安うつくし、人件費もかからん。ビルのワンフロアー借りて和式、洋式、ふたつの式場作って、神主、神父を用意すりゃ右から左や。ごつう儲けさしてもろうとるわ」

「しかし、それだけで済ませなかったのはさすがだ。式だけっていっても、人は集まる。式が終われば、はい解散ってわけにはいかねえだろってところに目をつけて、外のレストランと提携して利鞘を稼ぐってのは俺も思いつかなかったな。ほんと、いつになってもお前は悪知恵がよく働くよ」

「悪知恵やなんて、人聞き悪いこといわんといて。ただでさえ無い知恵を絞りに絞ってんやさかい」

ふたりは顔を見合わせると、どちらからともなく大声で笑い出した。

寛司が発案した式に特化した式場は、想像以上の反響を呼んだ。

ホテルもパレスも休日は結婚式の予約で埋まり、事業を拡大することに頭が行って気がつかなかったのだが、これも時代の流れというものか、結婚式への考え方がかつてとは様変わりしていたのである。

いや様変わりしたというよりも、ニーズが多様化しているといった方が当たっているかもしれない。

ムーンヒルホテルは、式、披露宴がセットでなければ受け付けない。当然、多額の費用がかかるわけで、客はどうしてもそれなりの財力を持っている層となる。そこで客層を広げるために、ホテルよりも安い費用で済むウエディングパレスをはじめたわけだが、こちらもまた、式と披露宴がセットであることに変わりはない。

目論見通り客層が広がったのは確かだ。しかし世間には、それでもまだ手が届かないという人間が多く存在したのだ。

式は疎かにはしたくない。親戚縁者、友人知人の列席の下、きちんとした場で挙げたい。しかし、披露宴の経費は抑えたい。

寛司が発案した式専用の施設は、そうしたニーズに見事にマッチしたのだ。

そして、『ムーンヒル・ウエディング』と名付けたこのビジネスをはじめるに当たって、俊太はひとつの策を講じた。

人を集めて式を挙げて、それで終わりいうことはないやろ。祝杯を挙げ、みんなに祝うてもらう場を、どこぞに設けるんとちゃうやろか。

そこで、近辺のレストランと提携し、料金の一定額を割り戻してもらうことを条件に、宴会、二次会の場所を斡旋してやることにしたのだ。

折しも、週休二日制が日本社会に広く定着してきた頃である。

週末の客をいかに確保するかに頭を痛めていた飲食店は、この話に飛びついてきた。式を挙げる当事者にしても、ホテルやパレスを使うより格段に安い料金で済む上に、会場探しの手間も省ける。自分たちで探すというならそれもよし。式だけでも構わない。この縛りのないシステムが大評判となったのだ。

そして三年目を迎えたいま、ムーンヒル・パレスはすでに都内に十二店を数えるまでになり、中部、関西に進出しようという勢いだ。

「業績絶好調いうなら、カンちゃんかて同じやん」

俊太はいった。「レストラン、大評判やんか。セントラルキッチンももうすぐ完成するし、破竹の勢いやないか」

「おかげで、こっちは大忙しだ。海外展開にレストラン。しかも、店舗を一気に全国に展開しろってのが社長命令だ。となると、まずはセントラルキッチンからだ。用地、店舗の選定、やらなきゃならないことが山ほどあってな。体がいくつあっても足りねえよ」

寛司は、瞳をくりっと回すと大げさに肩で息をする。「まあ、自分で蒔いた種だし、ビジネスがうまくいってるのは何よりの薬だ。贅沢いっちゃ罰が当たるがな」

「ほんまやで」

俊太はいった。「商売がうまくいかなんだら、なんとかせなならんいうて駆けずり回らなならんようになんねんで。同じ忙しゅうすんなら、うまくいってる方が何百倍もマシっちゅうもんや」 

寛司がふたつの事業の陣頭指揮を執っているのは、いずれもムーンヒルホテルがはじめて手がけるものであるからだ。どちらも多額の資金が必要になる事業である。まして、月岡は信賞必罰、功には厚く報いるが、その分失敗した時には容赦ない。だから、新規事業を自ら進んで提案してくる人間はまずいない。結果、寛司に仕事が集中してしまうということになるのだが、それも月岡がいかに高く買っているかの表れだ。

「失礼いたします。社長がお見えになりました」

廊下から柏原の声が聞こえた。

俊太と寛司は姿勢を正し、座布団の上に正座した。

襖が開くと、

「おう、待たせたな」

月岡が部屋に入ってくると、上座に座るなり、「女将、ビールだ」

柏原に命じた。

「はい、こちらに」

何を所望するかは先刻承知であったと見えて、返事と共に仲居が瓶ビールを盆に載せて運んでくる。

満足そうに頷く月岡の前に、ついでふたりの前にグラスが置かれた。

柏原がすかさずビールを注ぐ。

「女将、料理は任せる」

「かしこまりました。では、ごゆっくり──」

柏原は丁重に頭を下げると、部屋を出た。

「とりあえず、乾杯といくか」

月岡の音頭で三人は、グラスを翳した。

冷えたビールが喉を滑り落ちていく。

月岡のグラスは早くも空だ。

俊太はすかさず瓶を手にすると、両手で月岡のグラスにビールを注いだ。

「麻生、テン、ふたりとも本当によくやった。お前たち、ふたりのおかげで、会社には新たな柱となる事業がふたつも育った」

月岡は満足そうに、目元を緩ませた。

「はっ……」

寛司がグラスを卓の上に置き、居住まいを正して軽く頭を下げた。

「社長、前にも申し上げましたが、ウエディングパレスは、京都の貸衣装屋が考えたもんやし、ムーンヒル・ウエディングかてカン、いや麻生さんが──」

「アイデアを出したのは他人でも、柱になるビジネスにしたのはお前だ。苗木が立派でも、葉を繁らせ、実がなるまでに育て上げるのは、並大抵のことじゃない。お前も本当によくやっているよ」

月岡は再びグラスを一気に空けると、寛司に視線を向け、

「で、麻生」

改まった声でいった。

「はい」

「次の役員人事で、お前を専務に昇格させる」

「えっ! 私を専務に?」 

驚くのも無理はない。

寛司が取締役に就任してから僅か三年。役員の中では年齢だって最も若い。まさに異例の出世である。

果たして、寛司の顔には喜びよりも、戸惑いの色が見て取れる。

「レストラン事業の道筋は見えた。ここから先は他の人間に任せても大丈夫だ。海外事業は引き続きやってもらうことになるが、専務昇格後はグループ全体の経営と、新事業の開発を担当してくれ」

それが何を意味するかは、いうまでもない。

月岡の右腕として、いままでにまして重要な役割を担うということだ。

「あ、ありがとうございます。ご期待に応えられるよう、全力を振り絞って……」

座椅子から退いた寛司は、畳の上に両手をついて深く体を折った。

またひとつ、階段を昇った。

恩人でもあり、兄とも慕う人間の出世の場に居合わせたことが何よりも嬉しい。

「カンちゃん、おめでとう」

俊太は心からいった。

しかし、頭を上げた寛司の顔に浮かんでいるのは、喜びではない。

困惑とも違う。緊張とも違う。いや、表情からは感情が窺えないのだ。

「今日は、そのことを伝えるために一席設けたんだ」

月岡は上着を脱ぎはじめる。「昇進祝いも兼ねてな。テンとお前は、昔からの馴染みだ。テンを引っぱったのがお前なら、お前を会社に引っ張ったのは俺だ。祝いの膳を囲むなら、三人でと思ってさ」

「お心遣い、ありがとうございます。こない目出度い席に呼んでもろうて、わし、嬉しゅうて──」

寛司の反応が気にかかったが、紛れもない本心である。

俊太は礼をいいながら瓶を持ち、月岡のグラスを満たしにかかる。

「失礼いたします」

襖が開き、女将が突き出しを持って現れる。

柚子が載せられた海鼠の酢の物を、それぞれの前に置くと、ふたたび部屋は三人だけになった。

「ところでな麻生。その新規事業のことなんだが、ひとつお前にやって欲しいことがある」

海鼠を咀嚼しながら、月岡が切り出した。

「それはどんな?」

寛司の顔が引き締まる。

緊張の色が宿るのが、今度ははっきりと見て取れた。

「実は、プロ野球の球団を持とうと思ってな」

「プロ野球ですか?」

話の当時者は寛司だが、俊太は思わず声を上げた。

「グループがこれだけの期間のうちに成長できたのも、他社に先駆けてブランドイメージを定着させることに成功したからだ。この先も、常に時代の先をいくビジネス展開をしていくことが必要になるのはいうまでもないが、これだけ消費者のニーズが多様化してくると、ブランドイメージを維持するのは容易なことじゃない」

それと、プロ野球がどない関係すんのやろ。

だが、月岡のことだ。緻密な計算があってのことに違いない。

麻生もまた同じ思いを抱いているらしく、黙って話に聞き入っている。

月岡は続ける。

「お前たちが手がけた事業は、マスコミがこぞって取り上げてくれたお陰で広告費はほとんどかけずに済んだが、いつまでも同じネタを追わないのがマスコミだ。いまじゃ取り上げられる機会もほとんどなくなっただろ? まして、これだけグループが大きくなると、関連会社各社が単独で広告を打っても経費が増すだけで、費用対効果は見込めない」

「グループ全体のイメージをいかに維持するか、さらに世間に浸透させるかが、肝心だとおっしゃるわけですね」

「その通りだ」

月岡は深く頷きながら、グラスに口をつけた。「テレビ番組のスポンサーになっても、コマーシャルは視聴者のトイレ時間。誰も関心を向けやしねえからな。そんなものに大金を使うのは愚の骨頂だ」

「そやけど、プロ野球球団なんか持ってもうたら、大変なカネがいるのと違いますのん。選手の年俸かてサラリーマンの比やないし、練習場や遠征費やらで──」

「いや、それは考えようだな」

寛司がすかさず俊太の言葉を遮った。「球団経営は立派なビジネスだ。本来観戦料収入で賄えるような仕組みにすべきだし、プロ球団を持てば、シーズン中の新聞には必ずムーンヒルの名前が載る。テレビ中継されれば、ムーンヒルの名前が連呼される。それを広告費と考えれば安いもんだ」

そう語る寛司は、俊太を見向きもしない。

そうか……そうやな──。

俊太は、恥じ入るような気持ちに襲われ俯いた。

「俺の狙いはそこにある」

月岡もまた、目をくれもしない。

それが俊太をますます惨めな思いに駆り立てる。

「ということは、身売り話があるわけですね」

月岡はある球団名を口にすると、

「なんせ、弱小チームだ。球団自体の経営も苦しいし、親会社の業績も芳しくない。それでオーナーがうちにどうかって話を持ってきたんだ。こんなチャンスは滅多にあるもんじゃない。それで、買収することにしたんだが、そこで問題になるのが、球団自体の収益をいかにして高めるかだ」

「私は、野球にはとんと関心がなくて……。とても球団経営の立て直しなんて──」

「いや、お前にやってもらいたいのは、球団経営じゃない。そちらはしかるべき人間を外部から招く」

「じゃあ、私に何をやれと?」

「球場の新設だ」

月岡はビールを一気に飲み干すと、空になったグラスをとんと卓の上に置いた。「球団の経営が思わしくないのはスター不在、成績がさっぱりってところにもあるんだが、球場が戦後間もなく建てられたもので、収容人数も少なければ、施設も老朽化している上に、地の利が悪いってところにあるんだ」

「確かに、あそこは最寄り駅からバスを使わないと行けませんからね。何万人もの観客を、バスでピストン輸送したって運べる人員には限度があります。試合が終われば停留所には一気に人が押し寄せる。長いこと待たされるのが分かってるんですから、客は寄り付きませんよね」

「実はこの話、政治がらみでな」

本題はここからだとばかりに月岡は声を潜める。「身売り話を小耳に挟んだ市長が、土地は用意するから他所に本拠地を移さないでくれ。そういってきてな」

「市長が? 何でまた」

グラスを口元に運んだ手を止め、寛司は問い返す。

「市だって知名度が上がるに越したことはない。なんせ、日本にはプロ球団は十二しかないんだ。球場は市営だ。試合のたびに、新聞、テレビで名前が報じられる。その点はうちと同じなんだが、球場に客を運ぶバスもまた市営。満員御礼になることは滅多にないといっても、平均すれば一万前後の客が集まるんだ。市営バスにとっては、馬鹿にならない収益源だ。他所に移られりゃ、それがゼロになる」

「しかし、社長。新設する球場が、またバスを使わなけりゃならないとなると、客の入りが伸びるとは思えませんが?」

「移設先の周辺を再開発する計画があるんだよ」

月岡はにやりと笑うと、「球場用地は埋立地なんだが、そこに臨海都市を整備して、最寄り駅から地下鉄を延長するって計画が決まっているんだ。そいつの終点を球場にしたいんだとよ」

空のグラスを、とんと卓に打ちつけビールを催促してきた。

「失礼いたしました。気がつきませんで……」

俊太は慌てて酌をした。

月岡は相変わらず目もくれずに続ける。

「まあ、市営バスの売り上げが減少するのは避けられんが、地下鉄も市営だ。トータルすれば市の交通局の売り上げはとんとん。うちがテコ入れをして、球団にスターが生まれ、強豪チームの仲間入りを果たせば人気も出る。観客数も跳ね上がる。それが市の収益アップに結びつく。だから、何がなんでも、市外への移転は阻止したいってわけだ」

「その球場建設を私にやれと?」

「いや、球場は市営だ」

「それじゃ、私の出る幕なんてないじゃありませんか。どんな球場を造るかは、市が決めることであって、球団は使用料を支払うだけで済むってことになりませんか?」

「カネがねえんだとよ」

月岡はあっさりといった。

「カネがない……と申しますと?」

「地下鉄工事、都市整備に大金を使うんだ。そこに持ってきて球場だ。原資は税金。財源には限りがある。ところが球団の売却話は待ったなし。買収に色気を見せている企業は他にもあるらしいんだが、いずれも本拠地を他所に移すのが条件だ」

どう考えても無理筋の話だと俊太は思った。

市にはカネがない。しかし、球団が移転するのは困る。しかも新球場は市営にしたい。

まさか、この難題を解決する策を寛司に考えろとでもいうのだろうか。

「もし、社長が球団を移転させずに、新球場を本拠地にしたいというのであれば、方法はひとつしか思いつきませんね」

「それは、どんな?」

月岡は、試すような眼差しを寛司に向けた。

「上物はうちが造って、土地は借地とするしかないでしょう」

寛司は硬い表情でこたえた。「試算してみたわけではありませんので、全くのドタ勘ですが、プロが本拠地にしている球場は民営も少なくありません。球場の償却期間を仮に四十年の等価とする。その年額分を球場使用料にすれば、市の建設費負担はゼロ。その間、うちの球場使用料もただになる」

「それが一番手っ取り早いんだが、買収するのは弱小球団だ。いまのままじゃ客入りは見込めねえ。戦力を補強し、スター選手候補生を入れて育てなきゃならん。二軍の練習場、合宿所だって老朽化が激しい。そこにもってきて買収費用だ。それに──」

まだあるのかとばかりに、寛司の顔が険しくなる。

月岡はいう。

「その埋立地を臨海都市にするにあたっては、うちにホテルを建ててくれないかっていってきてんだ」

「ホテルを?」

「マンション、商業施設に加えて国際会議場、展示会場も整備して、理想的な都市計画に基づいた街を作ろうってのが市の考えだ。人が集まりゃ宿泊施設の需要が発生する。うちにとってはこれも願ってもない話なんだが、お前が手がけている海外案件、レストラン、テンがやっているウエディング事業と資金需要は増すばかりだ。そこに球団買収とホテル建設が降って湧いてきたんだ」

「しかし、どれも前向きな事業じゃありませんか。採算性が確実に見込めるのなら──」

「市長ってのが、なかなかの狸でな。うちが新球場を本拠地にすれば、球場使用料が安定して入ってくる。それすなわち市の財源だ。土地使用料だけじゃもったいない。この際取れるものはとことん取ろうって魂胆なんだ」

月岡は苦々しげに呻きながら、座椅子に体を預ける。「臨海都市の開発計画さえなかったら、プロ球団を欲しがってる自治体はごまんとあんだ。さっさと本拠地を移すとこなんだがな」

「じゃあ、どうしろっていうんです。市長はあくまでも市営にこだわっている。しかし、市にはカネがない。うちが出そうにも、それは困るじゃ、どうしようもありませんよ」

ついに寛司は声を荒らげた。

「だからお前に考えて欲しいんだよ」

寛司は弱り切った顔になった。

当たり前だ、と俊太は思った。

寛司が有能であることに疑いの余地はない。こんな難題を突きつけるのも、寛司を買っていればこそのことだ。

だが、物事にはできることとできないことがある。

月岡の命を叶えようとするなら、方法はひとつ。野球場の建設資金相当分のカネをなんらかの形で市に齎すしかない。そんなの無理に決まってる。

「まあ、無理は承知だ。策が浮かばなかったとしても、責めるつもりはない。ただ、俺には考えつかなくとも、お前なら何か閃くものがあるんじゃないかと思ってさ」

月岡は身を起こし、グラスを手にすると、「それは、テン。お前もだ。この難題、どうしたら解決できるか、考えてみてくれ」

視線を向けながら、一気にビールを傾けた。

「はっ──」

俊太が頭を下げたその時、襖が開き女将と仲居が入ってきた。

綺麗に盛り付けられた刺身が載った皿が並べられる。

「小難しい話は終わりだ。今夜は無礼講だ。麻生の昇進を祝って、ぱぁーとやろうじゃないか」

月岡は、打って変わって明るい声を上げると、「女将、熱燗をくれ。じゃんじゃん持ってこい」

ワイシャツの袖口のカフスを外し、腕まくりをした。

〈次号は4月20日(木)に更新予定です〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。