第12回

前回までのあらすじ

俊太が勤めるムーンヒルホテルは、プロ野球球団の買収を計画していた。ある日、社長の月岡は、専務の寛司に球場建設のための資金繰りを命じた。社長が失敗を許さないことを痛感した俊太は、大恩ある寛司を助けようと、思いついた策を打ち明けた。しかし、寛司からは予想外の反応が返ってくるのだった。

突然の電話で月岡から呼び出しを受けたのは、それから三週間後のことだ。

要件は告げられなかった。

ただひと言、「すぐに来てくれ」と月岡は命じると、一方的に電話を切った。

思い当たる要件はひとつしかない。

球場の件だが、それにしたって、寛司が自分で解決してみせるといったのだ。

なんやろ……。

怪訝な気持ちを抱きながら、社長室を訪れた俊太に向かって、

「例の球場の件だがな、お前、なにか策を思いついたか」

ソファーに腰を下ろした途端、月岡は当たり前のようにいう。

「いや……そ、それは、カンちゃ……いや麻生さんが──」

ということは、寛司は案を出せなかったのか。

まさかの問いかけに、俊太は思わず口ごもった。

「幾つか案を出してはきたが、俺自身考えたことのあるもんばっかりでな。要はぱっとしねえんだよ。さすがの麻生も今回ばかりはお手上げだ」

月岡はふっと笑うと、「となると、残るはお前ひとりだ」

あるならいってみろとばかりの軽い口調で改めて促してきた。

その様子から、やはり川霧で「お前も考えろ」と命じてきたのはたまたまその場に居合わせたからであって、寛司に向けられたものであったのだと、俊太は思った。それに、月岡自身が策を見出せなかったというからには、期待に応えられなかった寛司を見切るというわけでもなさそうだ。

しかし、自分の考えた策は、話すまでもなく本質の部分を見透かされ、寛司に否定されてしまったものである。幾つか案を出してきたというからには、当然その中に含まれていたはずだ。話したところで、「ぱっとしない」の評価が返ってくるに決まっている。

「あの……社長。ひとつ伺ってもええでしょうか」

俊太はいった。

頷く月岡に向かって、

「もし、市長の願いを叶えられなんだら、球団買収の件はどないなるんです?」

俊太は訊ねた。

「もちろん、方針は変わらない。球団は持つさ」

「そしたら、球場は──」

「うちが市との間で長期使用契約を結んで、使用料を前払いするしかねえだろな。それしかないというのが、麻生が出した結論だし、俺もそれ以外にないと思う」

「建設費はどないしはるんです? 埋立地にはうちもホテルを建てるんですよね。さすがに、資金負担が重うなる。そやし、なんとか軽減する方法を考えっちゅうのが社長の命令やったはずですが?」

「広告費、ブランドイメージの向上、目に見えない部分での効果は大きいからな。長期的に見れば、十分間尺に合う投資だと割り切るしかないだろうな」

「長期的って、どれほどの期間で考えていはるんですか」

「そりゃあ、球団を持つからには十年、二十年ってスパンだ」

月岡は当然のようにこたえると、「麻生にいわれたよ。プロ球団を持つってのは、その分野では日本を代表する企業だって認められたことだ。逆にいえば、手放すのは落ち目になったと、自ら世に知らしめるようなもんだ。つまり、プロ野球が興行として成り立たなくなるその時まで、球団は持ち続けなければならん。それは、ムーンヒルホテルグループの経営が常に磐石でなければならないということでもあるってな」

さすがカンちゃんや。うまいことをいうもんや。

決定的な策が浮かばなんだら、理詰めで納得させたわけや。

どうやら、結論は出ているようだ。

ならば自分の策を持ち出すまでもない。

そんな気持ちの緩みが、俊太の口を滑らせた。

「そしたら、グループの経営もさることながら、球団そのものも強くせななりませんな」

瞬間、月岡の顔から笑みが消えた。

しまった……と思ったがもう遅い。

「どういうことだ」

月岡は硬い声で訊ねてきた。

「いや……広告やブランドイメージに効果が出るいうのも、チームが強ければこそやないですか。贔屓のチームが負けるのを見とうて、球場に足を運ぶ人はそうおらへんやろし、選手かて強いチームに入りたい思うやろし……」

月岡の目が鋭くなる。

まずい──。

「いや、わし、社長に策を考えいわれて、球場に行きましてん。そしたら、客はさっぱり入ってへんし、このチームを強うするためには、他所から人気の選手を引き抜いてこなならんやろし、新人かて有望視されてるのを入団させなならんやろしって、こらごついカネがかかるやろなあと……」

取り繕おうとすればするほど、ドツボにはまっていく。「いや、そやけど、投資でっさかい。そら早く原資を回収するに越したことはありませんけど、十年、二十年っちゅう長いスパンで考えてはるんなら、強いチームにすることは可能ですわな」

月岡は、むっとした顔をして一瞬の間を置くと、

「そりゃあ、投資の回収期間は短いに越したことはないさ」

低い声でいった。「だったら、それを短くする策はお前にあるのか?」

あかん。虎の尻尾を踏んでもうた。

月岡の視線から逃れるように、俊太は俯いた。

息苦しい沈黙がふたりの間に流れた。

「どうなんだ、テン」

口を開いたのは月岡だった。「対案もなしに、問題点を口するのは、能無しのするこった。お前、何か案があっていってんのか」

「いや……そやけど社長、考えとかなあかんとこを指摘するのも部下の役目やないですか」

俊太は慌てて反論した。「それに、いまゆうたことは、社長の案を聞いて、ふと思ったことが口を衝いて出てもうただけで、問題点を指摘するつもりなんか──」

「なかったってか?」

月岡は俊太の言葉を先回りする。

「はい──」

「いい加減なこというな!」

厳しい一喝が頭上から聞こえ、肩をすくめた俊太に向かって月岡は続ける。「確かに俺は、球場建設にまつわる資金を浮かせる方法を考えろと命じた。なぜか。資金需要を軽減したいからだ。だったら、いまお前が指摘した問題点を解決する策を出してみせるのが当然ていうもんだろが。お前を呼んだのは、それを聞きたかったからだ。どうなんだ、テン。お前、考えたのか? 考えたのなら、話してみろよ」

「さ、策はあります!」

先のことなど考える暇もなかった。

話さなければ、どんな沙汰を下されるか分かったものではない。

月岡の一喝には、それだけの凄みがあった。

「そやけど、球場使用料の先払いいうのは同じですが──」

話しはじめた俊太に向かって、

「前置きはいい。さっさと話せ!」

またしても月岡は一喝する。 

「シーズンシートを長期で買うてもろうたら、ええのんちゃうか思いまして……」

「シーズンシート?」

「ネット裏や内野席のええ席は、年間契約になってます。社長、いわはりましたやん。十年、二十年、いや、プロ野球が興行として成り立たなくなるその時まで、球団は持ち続けなならん。プロ球団を持ついうことは、その分野では日本を代表する企業と認められたことやって。そやったら二十年、いや、十年先でもええんです。うちのグループの取引先に声かけて長期でシーズンシートを買うてもろたらどないでっしゃろ。広告代理店、テレビ局、新聞社、雑誌社──、広告だけでも、うちは大金を使うとるんです。本業の取引先かて、ぎょうさんあるし、その下請け、孫請けいうことになれば、そら大変な数になると思うんです」

不思議なもので、窮地に追い込まれると、それまで思いもつかなかったアイデアが、次から次へと湧いてくる。

俊太は続けた。

「そら、十年分前払いいうことになれば、ごつい金額になりまっさかい、どれだけ協力してもらえるか分かりません。取引先に声かけても、無理やいう先もあるでしょう。そやけど、社長の力を借りれば、取引先でなくとも買うてくれる先はぎょうさんあるんとちゃいますやろか」

これもこの場で思いついたアイデアのひとつだ。

この策が受け入れられるなら、月岡でなければ達成できないノルマを与えてしまえば、万が一目標金額に届かぬ場合、罪一等を減ぜられる可能性が出てくる。つまり、保険をかけにかかったのだ。

「俺の力?」

「日頃の付き合いですわ」

俊太はいった。「社長は財界にも知り合いがぎょうさんいてはりますやろ。財界いえば、大企業の集まりやないですか。中小企業なら無理でも、大会社となれば、十年分のチケット代なんか安いもんやと思うんです。銀行、建設会社、保険会社、わしが思いつくだけでも、うちと持ちつ持たれつの会社だけでもまだまだあります。社長がその気になったら、そんなもんやないでしょうし、大会社には必ず子会社もあれば、販社いうもんがあります。親会社が買うたチケットをそっちに回すことやってできるわけですから、営業にとっては接待にはうってつけやないかと──」

月岡は口を開きながら、きょとんとした顔をして俊太を見つめると、一瞬の間を置き、

「お前……面白いこと考えるな」

感心したように漏らした。

その反応に意を強くした俊太は、

「それと、球場の建設費ですが、埋立地に建てるホテルの建設会社に、ふたつの物件の建設を任せたらどないか思うんです。でかい案件ふたつやるさかい、まとめてなんぼでやるいうたら、そら建設会社は仕事が欲しいに決まってます。ひとつ分の利益を値引いてでもっちゅう気になるん違いますやろか」

言葉に弾みをつけた。

「なるほどなあ。一括受注を条件に値引かせるか。確かにその手はあるな」

月岡の目元が緩む。

その反応に心が軽くなる。そしてまたひとつ──。

「もっとも、それだけでは市が球場をただで手に入れられても、恒常的な財源は得られません。そやけど、それも社長の力をもってすれば、解決できる思うんです」

「どうやって?」

「広告ですわ」

俊太はいった。「プロが使う球場は看板だらけやないですか。フェンスかて企業名とか、商品名で埋め尽くされてますやん。そら、市営球場ですさかい、広告集めんのは役所の仕事になるんでしょうけど、それにしたって、肝心の企業が広告出すことを同意させななりません。シーズンシートと同じですわ。うちが使うてる広告代理店を動かし、さらに社長に日頃お付き合いしてはる財界のご重鎮たちに声をかけてもらえば、広告主を集めんのはわけない思うんです。役所勤めの公務員に、そないなことをやらせたら、難儀するのは目に見えてますし、広告代理店に任せたらごついカネを取られます。うちが広告集めてくれば市の負担はゼロ。そら市長かて恩義に感ずるのとちゃいますやろか」

月岡は背もたれに体を預けると、前髪を掻き揚げながら、「う~ん」と唸った。

「それに、社長は、この球団を強うして、人気球団にせなならんと思うてはるんですよね」

俊太はさらに声に力を込めた。「球団が強うなれば客も集まります。テレビの中継も多くなるでしょう。広告効果が増せば、料金だって値上げできるやないですか。増えることはあっても減ることはない財源ができれば、市にとっては願ったり叶ったりいうもんでっせ」

話を聞き終えた月岡は、ぐいと身を乗り出すと、

「どうして、この策をさっさといわねえんだ」

俊太の目を見据え、ニヤリと笑った。「いや、素晴らしいよ。何もかも、いわれてみればというやつだ」

月岡の顔に笑みが広がっていく。

ふふ……ふふふ……。やがて肩を揺らしはじめると、ついに天井に顔を向け、大声で笑い出した。

「テン。でかした! 俺も麻生もこれぞという策を見出せなかった問題を、お前は見事に解決してみせたんだ」

信頼、慈愛、確信、おおよそ人間が持つ正の感情のすべてを宿す月岡の目に接すると、先ほど怒りの丈を容赦なくぶつけてきた同じ人間とは思えなくなる。

だが、そんなことはどうでもよかった。

月岡が、策に満足していることは明らかだ。

危機を乗り切った安堵の気持ちが胸中に果てしなく広がっていく感覚に俊太は浸った。

笑いの余韻が残る月岡の顔を見ながら、気づかれぬようにほっと小さく息をした時、握りしめた掌がじっとりと汗ばんでいることに、俊太ははじめて気がついた。

第六章

ムーンヒルホテルが、プロ野球球団を買収することが報じられたのは、それから三カ月の後のことである。

ホテル業界がプロ球団を持つのははじめてのことに加えて、買収したのがいまや日本最大のホテルチェーンの座を揺るぎないものにしたムーンヒルホテルだ。マスコミは大々的にこのニュースを報じ、特にスポーツ紙の紙面には、シーズンが終わった直後だというのに、ムーンヒルホテルの名前が上がらぬ日はない。

月岡の秘書から、明日の午後、本社に来るようにと電話があったのは、そんなある日のことだ。

秋が深まった東京は、色づいた木々に覆われ、ムーンヒルホテルに続く道の両側に並ぶ銀杏並木は黄色の塔と化し、晴天の秋空によく映える。ホテルに入ると、ロビー越しに見える庭園は、満天星やモミジの赤、芝生の緑、そして銀杏の黄色とまさに錦絵そのものの華やかさだ。

電話では要件は告げられなかったが、悪い話ではないことは明らかだ。

球場建設の件については、誰が担当しているのか、どこまでプラン通りに進んでいるのか、月岡からは何も聞かされてはいない。ただ、球団買収を報じる紙面で、新球場建設の件も大きく扱われたし、シーズンチケットの販売と、広告のスポンサー探しに広告代理店が動いていることは、木暮から聞かされていた。それも、月岡自ら広告代理店の上層部に依頼があったというから、すべてはプラン通りに進んでいるのだ、と俊太は考えていた。

さて、そうなると、今日の呼び出しの目的はなんであるのか。

思い当たる節はない。まさか、また新しい課題でも突きつけられるのだろうか。

月岡の性格からすれば、それもあり得る話ではある。

ひとつ、ハードルをクリアすれば、また一段高いハードルを突きつけてくる。

月岡はそんな男だ。

エレベーターを使って、地下に向かう。役員室に通じる扉を開くと、いち早く俊太を見つけた社長秘書が、

「小柴さん、今日はこちらに──」

と別の部屋に案内する。

秘書はノックすると、返事を聞くまでもなく扉を開いた。

俊太は仰天した。

役員会議室である。

居並ぶ会社の重鎮たちが、一斉に俊太に目を向けてくる。

その場で固まった俊太に向かって、

「小柴、入れ」

月岡が声をかけてきた。

両側に役員がずらりと並ぶ中、部屋の一番奥の席にひとり座るその様は、御前会議そのものだ。

何事や。何がはじまるんや──。

かつて覚えたこともない緊張感に襲われ、動きがぎこちなくなる。

俊太はそれでも歩を進め、部屋の中に入った。

背後で扉が閉まる気配を感じたその時、

「さて、そこでだ。みんなに伝えたいことがある」

月岡が口を開いた。「実は、球場建設という難題が解決できたのは、この小柴のおかげでな」

再び、一同の視線が俊太に向く。

みな一様に目を見開き、声にならぬどよめきが起きた。

俊太は急に気恥ずかしくなって、思わず俯いた。

「俺を含めて、誰も解決できなかった難題を、こいつは見事に解決してみせたんだ」

月岡の口調はまさに賞賛だ。

褒め言葉を聞くのはもちろん嬉しい。しかし、なにもこんな場に呼ばなくても……と、俊太は身の置き場に困って身を小さくするばかりだ。

「改めていうまでもないが、小柴は中卒だ。縁あって俺の運転手になり、そこから子会社を任されるまで這い上がってきた男だ」

月岡は続ける。「小柴がいまの地位にあるのは、もちろん会社に大きな貢献をもたらしたからだ。夏枯れを解消して見せ、ウエディング事業を会社の大きな柱に成長させ、今度は会社のカネを一銭も使うことなく、球場建設に目処をつけた。ここにいる君たちもまた、優れた実績を上げてきた者ばかりだ。しかしだ。それも、与えられた仕事の中での話だ。小柴の実績は、本来の職務とは別、創意、工夫、いかにして会社が抱えている問題を解決するか、業績を向上させるか、知恵を絞った結果だ。この中で、小柴に優る貢献を、会社にもたらした人間がどこにいる」

月岡の厳しい言葉に役員が押し黙り、重苦しいばかりの沈黙が会議室を満たす。

しばしの間の後、さらに月岡は続ける。

「大学まで行って勉強し、知識を身につけたのは何のためだ。なぜ、ムーンヒルホテルに入社してきたんだ。うちに入れば、定年を迎えるその日まで安定した暮らしが送れると思ったか? 餅屋は餅屋。ホテル業にだけ専念していれば間違いは起きないとでも思ったか? ホテルが持つ機能を応用すれば、こんなビジネスをものにできる。そこに知恵を絞った人間が、いったいこの中に何人いるんだ?」

俊太はそっと視線を上げて、役員の様子を窺った。

もはやこちらに目を向ける者はいやしない。

皆一様に背筋を伸ばして正面を向き、身を硬直させるばかりだ。

その中に寛司の姿がある。

寛司は、紛れもなく知恵を絞った人間だ。月岡が「この中に何人いる?」といったのは、彼の功績を認めているからに他ならない。ならば、誇らしげな表情を浮かべても良さそうなものだが、寛司の顔にそんな気配は微塵も見えない。

他の役員たちとは違って、緊張感こそ覚えていないようだが、一切の感情を消し去り、やはりじっと正面を向いたまま、ちらりともこちらを見ようとはしない。それどころか、月岡の言をどこか面白くなさそうに聞いているように感じるのは気のせいだろうか。

「はっきりといっておく」

静寂を破ったのは、またしても月岡だった。「ムーンヒルホテルは信賞必罰。功を挙げた者には厚く報いる。学歴も職歴も関係ない。会社のためになる人間を重んじる。俺は、社長就任以来それを徹底させてきたわけだが、グループが成長するにつれ、会社の将来への危機感、事業拡大に向けての貪欲さが欠けてきているように思えてならない」

月岡の舌鋒は鋭さを増すばかりだ。

「考えてもみろ。大金使ってプロ球団を買収したのは、ムーンヒルホテルの企業イメージを高めるためだけじゃないんだぞ。名前を知らしめるためだけでもない。真の狙いはこれをどうグループの成長に結びつけるか。つまり、事業拡大の武器にしようと考えたからだ」

まさか、この場でその事業拡大の案を考えいうつもりやないやろな。そないなことになったら、一難去ってまた一難。今回は、うまいこと乗り切ったものの、難儀な仕事を抱えてまうで──。

いや、月岡の性格からすれば、あり得る話だ。

思いがそこに至った瞬間、体がますます硬くなり、胃にじわりと鈍い痛みが湧いてくるのを俊太は覚えた。

「危機意識を持たん人間はいらん。事業拡大に貪欲になれない人間は去れ……といいたいところだが、うちは客商売だ。あまり厳しいことをやって悪い評判が立とうものなら元も子もない。となればだ。結果を出せば報われる。学歴や年齢は関係ない。会社に貢献した人間が、誰よりも早く昇進できる。若くして役員になるのも夢じゃない。信賞に重きを置くことを明確にすれば、社員の意識も変わるだろうし、新入社員にしたって野心に溢れた人材が集まるようになると俺は考えた」

月岡は、断固とした口調で宣言すると、「そこで、小柴!」

突然、俊太の名を呼んだ。

き、きた──。

「は、はい!」

弾かれるように背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取った俊太に向かって、

「お前を本社の取締役に任命する」

月岡はいった。

「はあ?」

俊太は耳を疑った。

いま、なんちゅうた……。わしが本社の取締役やて?

想像だにしなかった言葉に、呆然とするばかりだ。

「経営企画担当の役員だ」

月岡は、満足そうに目を細める。

部屋の中にどよめきが起きた。再び役員たちの視線が俊太に集中する。

しかし、彼らの顔に宿っているのは、月岡が下した沙汰への肯定ではない。異議を唱えこそしないものの、ある者は愕然とし、ある者は眉をひそめ、到底受け入れられないという心の中が如実に現れている。

無理もない。

経営企画は、その名が示す通り、ムーンヒルホテルグループの事業戦略を立案する会社の中枢部署で、これまでは月岡の直轄であったのだ。もっとも、これまでムーンヒルホテルが手がけた新規事業は、月岡と寛司、そして俊太の発案によるものが大半で、それをいかに実現するか、あるいはサポートするか、つまり月岡の指示の下で動く組織であったのだが、社長に最も近いところにある花形部署と目されていたのは間違いない。

それが子会社の、しかも中卒、途中入社の俊太に攫われたのだから、面白かろうはずがない。

そこに気がついた時、俊太の中に古い記憶が蘇った。

かつて、月岡の専用車の運転手だった自分が、経理課に採用されたあの時、池端や滑川、そして周囲の同僚たちが同じような目で見ていたことに気がつくと、ひとつの言葉が俊太の脳裏に浮かんだ。

『異物』

彼らからすれば、学歴といい、キャリアといい、まさに自分は異物そのものだ。月岡の命に異議は唱えられないものの、決してこいつを仲間とは認めることはできないと思っているのだ。

あんな環境に耐えられたのは、誰も自分になど期待してはいない。仕事だって未収入金の回収業務。とどのつまりは借金取りだ。好きでそんな業務をする人間がいるわけもなく、妬み嫉みといっても知れたものだったからだ。それでも、直属上司に冷たくされ、不愉快、かつ屈辱的な目に遭わされたのだ。

加えて駄目で元々。働きぶりが認められなければ再び月岡の運転手に戻ればいい。そんな甘え、開き直りもあった。

しかし、経営企画、それも役員となれば話は別だ。

常に結果を出し続けなければならないことはもちろん、厳しい出世レースを勝ち抜いてきた人間たちと伍して戦わなければならない上に、異物を排除しにかかるのは、組織の常だし、役員は会社の顔である。その顔のひとりに中卒が並ぶ。そんな現実を素直に受け入れられる人間がいるわけがない。

えらいことになってもうた──。

俊太は戸惑いを覚えながら、無意識のうちに寛司に目をやった。

ムーンヒルホテルに入社するきっかけを作ってくれた恩人である。課長に、子会社の社長に就任した時は、我が事のように喜んでくれた寛司だ。

他の役員とは、違う反応を見せるに違いない。

ところが──。

寛司の顔に表情はない。その様は、まるで能面のようだ。そればかりか、横目で俊太を見る瞳には、冷え冷えとした光すら宿している。

なんでや? どないしてん、カンちゃん──。なんでそないな目でわしを見るねん?

心臓が重い拍動を刻みはじめる。

嫌な汗が背筋に滲み出す気配を感じる。

そんな俊太の内心の揺らぎが月岡に分かるわけがない。

「正式な発令は株主総会を経てのことになるが、小柴には今日をもって、役員の待遇を与える。ウエディング事業は、経営企画部の管轄にするから、お前が見ることになるが、経営を誰に任せるか、早々に案を上げるように」

月岡はそう命じてくると、会議を終わらせた。

役員一同が立ち上がり、深々と頭を下げる中、月岡は悠然とした足取りで部屋を出た。

扉が閉まるのと同時に、役員たちは書類をまとめ、次々に部屋を出ていく。

声をかけてくる者は唯のひとりもいない。それどころか、一瞥すらしない。

皆一様に、俊太の存在など無きもののように、憮然とした表情をあからさまに浮かべ、部屋を後にする。

月岡に最も近い席に座っていた寛司は、列の最後尾だ。

きっと何か言葉があるはずだ。

しかし、俊太の淡い期待もものの見事に裏切られた。

寛司は、無言のまま俊太の目の前を通り過ぎようとする。

「カンちゃん──」

俊太は戸惑いながらも、思わず声をかけた。

寛司の足が止まった。

「カンちゃん、わし──」

「まさに一夜城ってやつだな……」

寛司は言葉を遮るようにいう。「よかったじゃねえか、テン。大した出世だ」

しかも、前を見据えたままだ。

硬い声だった。冷たい声だった。

「カンちゃん……」

もはやそれ以上の言葉も出ない俊太を残して、寛司は足早に部屋を出ていく。

俊太は、その場に立ち尽くし、寛司の後ろ姿を呆然と見つめるしかなかった。

「あのな、文枝。わし、本社の役員になってん」

俊太がそう切り出したのは、その日の夕食の席でのことである。

あれから会社に戻り、通常の業務をこなしたせいで、帰りが遅くなり、光子はすでに寝てしまって、文枝とふたりだけの夕食となった。

今夜の主菜は、文枝手製のトンカツだ。副菜はポテトサラダ、他にマグロの刺身と、小松菜のお浸しが並んでいる。

「えっ……本社の役員?──」

「取締役や。経営企画を担当することになってん」

文枝は目を丸くし、まぶたをしばたたかせながら、手にしていた茶碗と箸を置くと、

「どうして早く知らせてくれないの。あなた、ウエディングの社長になった時もそうだったじゃない。知らせてくれれば、お祝いのお料理も用意したのに」

非難めいた口調とは裏腹に、瞳を輝かせながら顔をほころばせる。

当たり前だ。 

子会社の社長になっただけでも望外の出世だというのに、本社の役員である。立志伝中の人物と称えられても不思議ではない大慶事だ。

しかし、そんな文枝を見るにつけ、胸に重く垂れ込めた霧は深くなるばかりだ。もちろん、ひっかかっているのは、寛司の反応である。

はあ──っと俊太はため息をついた。

「どうしたの? おめでたい話なのに、ため息なんかついて」

文枝は、怪訝そうな顔で訊ねてくる。「そういえば、今日はお酒はいいなんていうし、あなた変よ。何かあったの?」

「それがなあ──」

俊太は、役員就任を告げられた時の他の役員たちの様子、そして会議が終わった後の寛司の反応を、何を以て月岡がこんな断を下したのか、球場建設費用の捻出も含めて話して聞かせると、「そらな、他の役員にしてみたら、わしのような人間が、本社の役員になるいうのは、おもろうないと思って当然や。そやし、そのことはええねん。気になってしゃあないのはカンちゃんや」

胸の内を正直に吐露した。

「気のせいなんじゃないの。他の役員の方たちの手前、喜ぶ顔なんか見せられなかったのよ、きっと。あなたが会社に入るきっかけを作ってくださったのは、麻生さんじゃない。それが役員に引き立てられるような仕事をしてきたんだもの、中には余計なことをと思っている人だっているだろうし──」

「そやけどなあ。球場建設の一件以来、なんか様子がおかしいねん」

「おかしいって、どんなふうに?」

「あのな、実はわし、今回の策を思いついた時に、真っ先にカンちゃんに聞いてもらおう思うたんや」

俊太はこたえた。「考えいわれたんはカンちゃんで、わしはついでや思とったしな。それにカンちゃんにいわせると、社長は〝鳴かぬなら殺してしまえホトトギス〟の信長や。甘く見とったら、ばっさり切らてまうぞ、いわはったし。カンちゃんには、大きな恩がある、そないなことになったら大変や。少しでも役に立ちたい思うて──」

「そしたら、麻生さんは?」

「それがなあ……俺に恩を売るつもりか、いわはってん──」

俊太は肩を落とした。「それに、どうせ球場使用料の先払いやろいわれてな。わしが考えついた策っちゅうのは、方法こそ違うけど、先払いちゅうことに変わりはないし、話す前にカンちゃんにそういわれてまうと、それ以上なにもいえへんようになってもうてん」

「ところが、その前払いのおカネの工面の仕方が、若旦那様には目から鱗だったってわけか」

「そうなんや」

俊太は頷いた。

文枝は、何か思い当たることがあるのか、複雑な表情を浮かべながら、視線を落とし、テーブルの一点を見つめる。

「どないしてん、そないな顔して──」

促す俊太に、

「ううん」

文枝は慌てて首を振る。「まあ、世間にはつまらないことにこだわる人がいるんだけど、麻生さんはそんな人じゃないし──」

「つまらんことって、どないな?」

文枝は、困惑した顔になって一瞬押し黙ったが、

「あのね、あなたには相談しなかったけど、光子が小学校に上がる時、私、私立を受験させようと思ったのね」

声を潜め話しはじめた。「家計にもだいぶ余裕があるし、あの子には私が叶わなかった、学問を身につけさせてやりたいと思ったの。でも、いろいろ調べてみると、私立の小学校に入るには試験があるっていうし、それも専門のお教室に通わないと無理だってことが分かって──」

「試験? 幼稚園児に、どないな試験をやんねん?」

「お絵描きとか工作とか、行動観察といって、子供を集めて先生の指示通りに動けるかとか」

「幼稚園児にそないなことやらせて、何が分かんねん。小っちゃな子供のやることなんか、大差ないやろ」

「そんなことないわよ。絵や工作だって幼児教育のひとつだし、幼稚園でだって、やっぱり上手い下手はあるし、指示を守れるかどうかは、きちんと躾がされているかどうか。つまり子供を見れば親も分かれば、家庭環境だって分かるじゃない」

そうはいわれても、ドヤ育ちの俊太には、全くピンとこない。

「光子は絵も上手いし、礼儀だってしっかりしとるやないか。どこへ出したって恥ずかしゅうないやん」

俊太は、釈然としない思いを抱きながらこたえた。

「でもね、やっぱりちゃんとした教室に通った子供とは、あからさまな違いが出るっていうのよ。それに、親の面接もあるっていうから、それで私、お教室に行って相談してみたの」

それが、寛司の態度とどういう関係があるのか分からない。

俊太は、黙って先を促した。

「光子は訊かれることにはきはきこたえるし、ご挨拶もしっかりしてるって、先生はすごく褒めてくれてね。試しに、その場で授業を受けさせてもらったら、光子も楽しそうにしてるし、それで申し込みをしたんだけど……」

文枝は悲しげな眼差しを浮かべて語尾を濁した。

「で、なんで止めたん?」

俊太の問いかけに、文枝は暫しの間を置くと、

「親の学歴を書く欄があってね。正直に書いたら、先生が困った顔をして……」

ぽつりと漏らした。

「両親ともに中卒じゃ、あかんてか」

「はっきりいわれたわけじゃないけど、入会するにあたっての心構えを聞かされるうちに分かったの。自分が学んだ学校に入れるために、子供が生まれた時から準備をはじめている親もたくさんいる。入学すれば、親、特に母親は学校に頻繁に行かなければならないようになる。親同士の付き合いも密になる……要するに、私立の小学校に子供を通わせるには、共通したバックグラウンド、同じような価値観、家庭環境がなければ、子供、親の双方が苦労するっていいたいんだって……」

つまり、首尾よく入学にこぎつけたとしても、今度は光子や文枝が異物として扱われ苦労することになるというわけだ。

文枝は続ける。

「だから、役員のひとたちがあなたのことをよく思わない気持ちはすごくよく分かるの。小学校の件にしたって、誰もが合格できるってわけじゃない。同じようなバックグラウンドを持った人たちが争って、合格を勝ち取ろうと必死になってるわけじゃない。子供が不合格になろうものなら、妬み、嫉みもするでしょう。それって、会社だって同じでしょう? 役員になった人たちは、同期、先輩、後輩、学歴は皆甲乙つけがたい。そんな人たちが横一線に並んでヨーイドン・レースに勝ち抜いて、いまの地位に就いたんだもの。そんな人たちが、麻生さん、いや若旦那様だって解決できなかった問題を、あなたが解決してみせて、おまけに同じ地位に昇りつめてきたのよ。それも、経営企画って会社の最重要部署の担当よ。そりゃあ妬みもすれば、嫉みもするわよ」

文枝がそんな辛い思いを経験していたことははじめて知ったが、役員たちの心情をいい当てていることに間違いはない。

「そやけど、カンちゃんはわしを妬んだりするわけないで」

俊太は首を捻った。「昔、カンちゃんいうとったわ。世の中には、ドヤ育ちいうだけで色眼鏡で見る人はぎょうさんおって、大きな会社には入れへん。カンちゃんがムーンヒルホテルに入れたんは、社長の引きがあったからやけど、だからいうて、周りには色眼鏡で見るやつもおったと思うで。カンちゃんも、苦労しはっていまの地位を手にしたんや。他の役員たちとは、わしを見る目が違う思うねんけど……」

「私もそう思うわ」

文枝は即座に同意する。「だから、麻生さんは違うっていったじゃない」

「そしたら、あのカンちゃんの態度は説明つかへんやん」

「何か難しい仕事を抱えてて、頭がいっぱいだったんじゃない?」

文枝はいうと、「あなたはなんでも、カンちゃん、カンちゃんっていうけど、麻生さんはあなたのことばかり考えているわけじゃないと思うの。とっくに独り立ちしたんだし、こっから先は自分の力で歩め。敢えて突き放すのも、親心ってものじゃないかしら」

にっこりと笑った。

難しい仕事といえば心当たりはある。

寛司が担当していたアメリカのホテルチェーンとの合弁事業の件だ。

契約に際して、先方に十パーセントの株を渡すことを寛司は懸念し、異を唱えたといった。それに耳を貸さなかった月岡に、不満を抱いていた様子であったことは確かだ。

海外進出は、ムーンヒルホテルにとっては、伸るか反るかの大勝負。まさにグループの将来が懸かった最重要案件で、これに勝る事業計画はいまのところ社内にはないはずだ。

ひょっとして、あの件でなにか厄介なことが起きてんやろか──。

もしそうだとしたら、寛司の対応にも説明がつくような気もする。

そんな内心を察したかのように文枝はいう。

「自分では気がついていないでしょうけど、あなただって難しい顔してる時もあれば、話かけても上の空って時も結構あるのよ。でも、私は何があったのかなんて聞かないわ。だって、聞いてほしいことなら、あなたは絶対話してくれるはずだもの。話さないってことは、私に聞かせたところでどうなるものでもないってことじゃない」

そして、俊太の目をじっと見つめ、「それだけ、あなたを信頼してるのよ、これでも……」

照れ臭そうに微笑んだ。

信頼という言葉がすとんと腑に落ちる。

俊太も文枝に同じ気持ちを抱いているし、信頼あっての夫婦というものだ。同様に兄同然と慕う寛司に対しても揺るぎない信頼を抱いていることは間違いない。

「そやな、カンちゃんも難しい仕事抱えてはるからなあ」

胸中に垂れ込めていた霧が消えていく気配を感じると、頬が緩み、俊太ははじめて顔に笑みを浮かべた。

「お祝いしましょう」

文枝は腰を浮かしながらいうと、「今夜は私も付き合うから」

俊太がこたえるまでもなく、祝杯を上げる支度をはじめた。

〈次号は6月20日(火)に更新予定です〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。