第13回

前回までのあらすじ

俊太が勤めるムーンヒルホテルグループは、プロ野球球団の買収を計画していた。球場建設の資金繰りについては、社長の月岡も専務の寛司もお手上げだったが、俊太は見事にその問題を解決し、本社の取締役に抜擢された。他の役員から冷ややかな視線を向けられるなか、入社のきっかけを作ってくれた寛司だけは、喜んでくれるはずだと思っていたのだが……。

十一月も終盤になると師走の声が聞こえはじめ、街は俄に活気づく。

一年の締めだ。好不況に関係なく、繁華街は人で溢れ、夜遅くまで賑わうようになる。この時期は、商売人にとっては最大の商機到来だ。忘年会、クリスマス、お歳暮と、イベントは目白押しだし、ボーナスで懐も暖かくなるのだから消費も活発になる。

ホテル業界もその例外ではなく、人の移動が活発になれば、宿泊客が増加すれば、宴席も増えるし、クリスマスにはレストラン、客室も若いカップルで満席満室となる。さらに、近年になって正月をホテルでゆっくりと過ごす家庭が増えたおかげで、目ぼしいホテルは早いうちから予約で埋まる。

特にムーンヒルホテルの人気は凄まじく、高額なシーズン料金を設定しても、予約開始の半年前には、あっという間に満員御礼。レストランも客室も、予約で埋まってしまうという盛況ぶりだ。

それもこれも、社長就任以来、月岡が行ってきた経営戦略があってのことだ。

いまやムーンヒルホテルは、国内最大のホテルチェーンの座を揺るぎないものとし、その勢いは留まるところを知らない。まさに前途洋々、破竹の勢いで成長を続けている。

しかし、寛司の心は冴えない。

いま降りたばかりのタクシーが走り去る音を聞きながら、寛司はマンションのエレベーターホールに入った。

すでに日が変わった時刻である。

ロビーの明かりは落とされ、常駐している管理人室の窓もカーテンで閉ざされている。

自宅がある三階もまた同様で、人が起きている気配は感じられない。

すでに、家族は寝ているはずである。

寛司は自ら鍵を開けると、室内に入った。

明かりを灯し、リビングに入る。

脱いだコートと上着をソファーの上に投げ捨て、ボードの中からショットグラスとバーボンを取り出す。

体が揺らぐのは、酷い酔いのせいである。

銀座のバーで、ろくなつまみを口にすることなく、延々と飲み続けたのだ。

それも、マスターに止められるまでだ。

だが、それでもなお体が、いや、得体の知れぬ何かが、飲まずにはいられない気持ちを駆り立てる。

ジャック・ダニエルの四角い瓶を傾け、琥珀色の液体でショットグラスを満たすと、寛司は立ったまま一気にそれを喉に流し込んだ。

もはや味など分からない。ただ強いアルコールの刺激を喉に覚えるだけである。

返す手で二杯目を注いだその時、

「お帰りなさい。今夜も随分遅かったのね」

ネグリジェの上にカーデガンを羽織った真澄が入ってきた。

「年末は、何かと忙しいんだよ」

深酒のせいで、呂律が回らない。

それでも寛司は、グラスを一気に呷った。

怪しいのは呂律ばかりではない。手元がくるい、口からこぼれた酒が、顎を伝って滴り落ち、ワイシャツの胸元を濡らした。

「そんなになるまで飲んで。もう、止めなさいよ」

化粧を落とした真澄が、眉を顰めて慌てて制する。

「いいんだよ。飲みてえんだよ、俺は」

ボトルとグラスを手にした寛司は、ソファーに歩み寄る。足元がふらつくのを必死で堪え、そのままどさりと腰を下ろした。

「どうしたの? あなた、最近変よ。毎晩酔っ払って帰ってきて……。何かあったの?」

真澄が変化に気がつくのも当たり前だ。

度を越した酒に溺れた姿が、傍目にどう映るかは、寛司自身が誰よりも知っている。

なんせ、ドヤで暮らしていたあの時代、泥酔して路上に転がる日雇い労働者の姿を日常の光景として目にしてきたのだ。

脂と埃に塗れた頭髪。垢が浮いた肌。真っ黒な爪。伸び放題の髭に、服の汚れだって酷いものだ。中には、小便を漏らし、それが体や衣服が放つ臭いと相俟って、発酵臭というか腐敗臭というか、酷い臭いを放つのだ。

ドヤに身を置くまでには、様々な理由があるにせよ、そこにあるのは社会の、人生の敗北者の姿以外の何物でもない。

それは普通の社会においても同じた。

同僚と酒を酌み交わすのは楽しいものだが、深酒をする者に限って口にするのは愚痴と不満だ。誰かに話したところで、どうなるものでもない。不満を解消するのは誰でもない。自分自身以外にいないのだ。

同僚、時に上司の醜態を見るにつけ、胸に込み上げてくるのは酒に逃げ場を求めた人間への哀れさであり、嫌悪である。そして敗残者という言葉が脳裏に浮かぶ。

だから、これまで酒で憂さを晴らしたこともなければ、まして逃げ場を求めたことはただの一度たりともなかったのだが、今回ばかりは別だ。もはや、そこに思いが至らぬほど、寛司は正気を失っていた。

「テンがな……」

名前を口にした瞬間、それまでじっと胸に秘めていた感情が迸った。「あのテンが……本社の取締役になったんだよ」

「小柴さんが? 取締役に?」

真澄は目を見開くと、口元に笑みを浮かべた。「よかったじゃない。あれだけ可愛がって──」

「よかった?」

寛司は言葉を遮ると、「お前、本気でそう思ってんのか」

片眉を上げ真澄の顔を睨みつけた。

「だって、小柴さんは……」

真澄は言葉を返そうとしたが、寛司の語気の激しさに気圧されたのか、語尾を濁した。

「しかも、経営企画担当役員だ」

寛司はグラスにバーボンを注ぎ入れ、一気に飲み干すと、「経営企画ってのは、社長直轄の部署で、これまで担当役員はいなかったんだ。まさに会社の中枢。いや頭脳といえる部署だ。それをテンに任せるってことは、社長がテンを自分の右腕。役員の中で最も有能、かつ信頼の置ける人間だって認めたってことだぞ」

グラスをテーブルの上に叩きつけるように置いた。

「どうしてそんな重要なポストを? 小柴さん、社長に評価されるような大きな仕事をしたの?」

「まあな……」

寛司は奥歯を固く噛み締め、一瞬の間を置き、続けた。「うちが買った球団の新本拠地になるスタジアムの建設資金調達って難題を、あいつは解決してみせたんだよ」

「どうやって?」

真澄の問いかけに、寛司は事の経緯を簡単に話して聞かせると、

「だからって、この人事はどうかしてるぜ。テンが考えた策は、とどのつまり球場使用料の先払いだ。市は恒常的な財源を欲している。会社のカネをびた一文使うことなく、それを可能にする策を考えろ。社長は、そう命令したんだ。シーズンシートの長期契約で上がる収益を建設費に当てりゃ、契約期間が終わるまで、本来会社に入るはずだったカネがびた一文も入ってこなくなっちまうじゃねえか。それじゃ、会社のカネを使ったのも同然ってもんだろ?」

こみ上げる怒りのまま吐き捨てた。

だが、事実は違う。

俊太が考えついた策は、自分には思いもつかぬものであったし、聞いた瞬間、なるほどその手があったかと、着眼点といい、発想といい、呆然とするほど見事なものだった。

真澄には、社長の命とは異なるといったが、それも違う。

市には、広告収入という恒常的な財源も発生するし、球場の建設費用もまた、シーズンシートの長期契約料で賄える目処が立った。それに加えて、ホテルと球場、ふたつの新設物件を、一括してひとつの建設会社に請け負わせることで、大幅な値引きが可能になったのだ。つまり、こと会社のカネをびた一文使うことなくという大命題を俊太が解決してみせたことに間違いはない。

それは分かっている。

しかしだ。

「テンが会社に入れたのは俺のお陰なら、子会社の社長になれたのだって、俺が知恵をつけてやったからなんだぞ」

「それは、小柴さんだって十分分かっているわよ。あなたには感謝してもしきれないほどの恩義を感じているわよ」

「恩義ね」

その言葉がまた癪に障る。

寛司は鼻を鳴らした。

「あいつ、この策を思いついた時、俺に入れ知恵しようとしやがったんだ」

「えっ?」

「いい策を思いついたっていってな」

「あなた、それ、聞いたの?」

「聞くか! そんなもん!」

「どうして?」

真澄は非難めいた口調でいう。「小柴さんは、あなたの力になれると思ったんでしょ?。実際、あなた、社長を満足させる策が思い浮かばなくて困ってたんでしょ?」

「なんで俺が、あいつに知恵を授けられなきゃならないんだよ」

寛司はボトルに手を伸ばすと、グラスにバーボンを注ぎ入れた。「いまいったろ。あいつを会社に入れたのも、子会社とはいえ、社長になれたのも、すべては俺のお陰だったんだ。俺がいなけりゃ、あいつはあのままドヤ暮らし。今頃刑務所に入ってたって不思議じゃない。それどころか、とっくに野垂れ死んじまってこの世から消えちまってたかも知れないんだ。そんなやつが俺に知恵を授けるって? 冗談も休み休みいえ。調子に乗るな。分をわきまえろってやつだ」

「つまり、プライドが許さないってわけ?」

「プライド?」

寛司は、バーボンを一気に呷ると、「ああ、そうだよ。プライドの問題だ。当たり前だろ? 満足に字も書けない、読めもしない。中卒で学もない。ないないづくしのあいつが、俺を救おうなんて気になること自体、思い上がりもここに極まれりってもんだ!」

空になったグラスをがんとテーブルの上に叩きつけるように置いた。

「でも、そこから這い上がってきたのは小柴さんが結果を──」

「よく他人事のようにいえるもんだね」

寛司は再び真澄の言葉を遮った。「テンが経営企画を任されたってことは、これから先、会社が手がける事業の企画立案、それに伴う組織改編、人事にも大きな影響力を持つってことなんだぞ。これまでは、新しいことをはじめるに当たっては、社長は真っ先に俺に相談してきたが、これからはテンってことになるんだ。社長は信賞必罰、会社に貢献した人間を重用するといったが、なにをやるにしても、これからはテンを通すことになるんだ。中卒の、それも俺が引き入れてやった、あのテンが、絶大な権力を持つことになるんだ。それで、どうして俺が平気でいられるんだよ」

さすがに真澄も、事の重大性に気がついたらしい。

顔を硬くして押し黙る。

寛司は続けた。

「役員は皆一様に、担当する仕事を持っている。そこで結果を出すので精一杯。いまのところ、あいつは平取だが、新しい企画を立案、あるいは審査し、実行するに当たっての戦略を立てるのが役目となりゃ、他の役員と比べて遙かに実績は上げやすい。早晩常務となり、やがて専務、果ては俺を抜いて副社長に就く可能性だってあるんだ」

「小柴さんが副社長……」

真澄は視線を落とし、テーブルの一点を見詰めると、低い声で呟いた。

「副社長は、うちの会社じゃ望み得る最高の地位だ。テンが副社長になれば、文枝さんは副社長夫人だ。あのふたりが、俺たちの上に立つんだぞ。それで、君は我慢できるのか? 君にもプライドってもんがあんだろが」

寛司は己の胸の中に渦を巻く、得体の知れないものの正体に気がついていた。

川霧の下足番からはじまった、俊太の出世を我が事のように喜んでいたのは、紛れもない事実だ。夏枯れの解消、ウエディング事業への貢献──。働きぶりが月岡に認められ、子会社の社長になった時も同じ思いを抱いた。

しかし、まさかあの俊太が、本社の役員に抜擢され、自分の地位を脅かす存在になったとなれば話は別だ。

俊太に目をかけてきたのは、決して自分と同じ土俵に立つことはない。生涯自分が主であり、俊太は従者であり続ける。この関係は、どんなことがあっても覆ることはないと確信していたからだ。

それが、いま逆転しようとしている。しかも、俊太自らの才覚を以てしてだ。

それを認めるのは、寛司にとって己の敗北を認める以外の何物でもない。

俺があの俊太に劣るって? 俺があいつに負ける? 

そんなことはあり得ない。いや、あっていいはずがない。

それが寛司には我慢ならない。

もっと我慢ならないのは、俊太がどうやら強運の持ち主であることだ。

出世は才覚や実力だけでは成せるものではない。巡り合わせと運に恵まれて、はじめて可能になるものであることを、寛司は知っている。

運──。それは、どれほど欲しても、運のあるや無しは、神のみぞ知るというもので、どれほど努力を積み重ねても、決して手に入れることはできない。謂わば、神の天命。神に愛された者だけに与えられる特権である。

あの俊太がそうだというのか──。

でなければ、俊太がここまでの出世を遂げられるわけがない。

そこに思いが至ると、寛司の胸中には俊太に対する猛烈な嫉妬の念が込み上げてくるのだ。

「文枝さんが、副社長夫人……」

短い沈黙の後、真澄は冷え冷えとした声でぽつりといった。

「文枝さんだって中卒だぞ。しかも、社長の家の女中上がりだ。君だって文枝さんに何かと目をかけてきたのは、俺とテンの立場が逆転することはない。そう信じてきたからなんじゃないのか。テンが俺の上に立つってことは、君と文枝さんの立場も逆転するってことなんだぞ。それでも君のプライドは、傷つかないとでもいうのかね」

真澄はすぐにこたえを返さなかった。

しかし、何を考えているかは、能面のように一切の表情を消し、陰鬱な光を宿す真澄の瞳を見れば明らかだ。

「それで、あなたどうするの? あの人が経営企画担当の役員になったら、社長に認められるような功績をあげるのは難しい。そういったじゃない。このままじゃ、あなたのいう通りになってしまうんじゃないの」

長い沈黙の後、真澄ははじめて俊太を『あの人』と呼び、硬い声で問うてきた。

「方法はひとつしかないな」

寛司はこたえた。「あいつには到底考えもつかないような新しい事業をぶち上げることだ」

「考えはあるの?」

「あるさ」

寛司は頷くと、「伊達に長くアメリカで暮らしていたわけじゃない。あの国は、ビジネスの宝庫だからな。そして、アメリカで受け入れられたビジネスは、必ず日本でも受け入れられる。それさえ、思いつけば──」

歯噛みをしながら、空になったままのグラスを見つめた。

それから半年。

定期株主総会を終え、俊太は正式に取締役に就任した。

全てが月岡の一存で決まる会社である。まして、業績は絶好調とあっては、俊太の取締役就任に異議を唱える者などいようはずがない。

寛司は、合弁で経営することになった海外事業の打ち合わせに忙殺され、アメリカと日本を頻繁に行き来する日々が続くようになっていた。

そのせいで同じフロアの住人となった俊太とは、滅多に顔を合わせずに済んだのは幸いだったが、こうしている間にも、月岡との間で新しい事業計画が進んでいるのではないかと考えると気が気ではない。

何か新しい事業を考えなければ。それも、俊太には到底思い浮かばない、起死回生の一発となる事業を──。

しかし、気が急くだけでそれほど筋のいい事業となると、そう簡単に思いつくわけがない。

ようやく、「これだ!」という確証を得るビジネスが閃いたのは、その年の八月。アメリカのロスアンゼルスでのことだった。

それは全くの偶然だった。

合弁会社が経営するホテルの一号店は、ロスアンゼルス近郊のディズニーランドの近くに建設することが決まっていた。

すでに、誰もが気軽に海外に出かける時代である。ハワイの観光客は日本人が主流となり、「まるで熱海」と称される有り様だ。海外旅行に慣れた旅行者は、さらに遠方へと出かけるようになり、いまやアメリカ本土も大変な人気となっていた。

中でも、日本人にとって古くから映画や絵本を通して馴染みのあったディズニーの巨大遊園地は、アメリカ西海岸の観光の目玉ともいえる存在で、そこにムーンヒルの名前を冠したホテルを設ければ千客万来。どう考えても失敗するはずのない鉄板事業になると踏んだのだ。

いつものようにロスアンゼルスに到着するや、空港からレンタカーでホテルに向かい、チェックインをしようとしたところ、予約がないという。

現地には、ムーンヒルホテルの駐在員がおり、出張に際しては彼が全ての手はずを整えるのが決まりだ。彼が空港に迎えに来なかったのは、寛司が必要はないと伝えていたからだ。

アメリカでの暮らしが長いせいもあったが、上司の迎えに部下が出向くことを当たり前と考えているのは、日本企業ぐらいのものだからだ。

アメリカの企業では、たとえ社長であろうとも、ホテルまでは自力で行くのが当たり前。そんなことに時間を費やすくらいなら、自分の仕事に精を出せというわけだ。

もっとも、予約がないといわれれば、連絡を取らないわけにはいかぬ。

もちろん、彼は「確かに予約はした」とこたえた。

アメリカではこうしたトラブルはまま起こる。

当事者間のやり取りがあった後、果たしてホテル側の瑕疵であったことが判明したのだが、問題は部屋に空きがないということだ。

何しろ、夏休みの真っ最中である。周辺の同等クラスのホテルは全て満室で、ようやく探し当てたのが、五十キロほど離れたところにある、系列のホテルだ。

二、三階立てのテラスハウスが敷地内に十棟ほど集まり、看板がなければ宿泊施設というよりも集合住宅といった趣で、各棟にはそれぞれ六から十の客室がある。

こうした宿泊施設は、アメリカでは珍しくなく、長期滞在者やビジネスマンを対象としているだけあって、宿泊料金もモーテル以上、ホテル以下の設定になっている。

実際、寛司もこれまで同様のホテルを何度も利用したことがあったし、目新しい発見などあろうはずもないと考えていた。

ところが、このどこにでもある宿泊施設に、ムーンヒルホテルが新しいビジネスに乗り出すヒントがあったのだ。

帰国して三日。

そしていま、あの時、脳裏に浮かんだ新しい事業は企画書として仕上がり、寛司のデスクの上にある。

寛司は、時計に目をやった。

時刻は午後三時になろうとしている。

時間だ。

寛司はロッカーから取り出した上着を着用すると、部屋を出た。

社長室は、副社長室を挟んだ、ひとつ先にある。

ドアをノックすると、「入れ」という月岡の声が聞こえた。

「失礼いたします」

寛司は、頭を下げ部屋の中に入った。

月岡が立ち上がり、応接用のソファーに歩み寄る。

「どうだ。ロスの方はうまく行っているのか」

月岡がソファーに腰を下ろしながら訊ねてきた。

「全て順調に行っております」

それからしばらくの時間をかけて、建設中のホテルの進捗度合いを報告した寛司は、「ところで社長。ひとつ面白い事業を考えつきまして」

満を持して切り出した。

「面白い事業?」

「新しい形態のホテルです」

寛司はいった。「実は、今回の出張で予約のトラブルがありまして、常宿とは違うホテルに泊まることになったのです。社長もご存じでしょうが、アメリカのホテルチェーンは、利用者の経済力、目的、嗜好に応じて、形態を変えた宿泊施設を運営しています。私が今回宿泊したのは長期滞在者、ビジネスマンにターゲットを絞ったもので、その分料金が格段に安いのが売りなのです」

「つまり、うちのセカンドをやろうってわけか」

さすがは月岡だ。分かりが早い。

「うちの宿泊者のメインは都市部だとビジネスマン、それも上級管理職。あるいは外国人。リゾート型は若者ですが、これは遊興施設が整備されていることに加え、社長が行ってきたイメージ戦略の成果です。一方の地方はビジネスマンよりも、団体観光客が中心です。これは、旅行会社がムーンヒルホテルでの宿泊をプランの中に謳うと、格段に集客力が上がるからで、これもまた社長のイメージ戦略の賜物であることは間違いありません」

寛司は、まずは月岡を持ち上げてみせると、「ですが、ホテル業界最大の顧客は、ビジネスマンです。そして、上級管理職者はどこの会社でもひと握り。うちに泊まりたくても泊まれない。そんなビジネスマンが圧倒的多数なのです」

言葉に弾みをつけた。

「なるほど……」

気の無い返事だった。

その反応に、寛司は戸惑いながらも、

「ムーンヒルホテルの経営による気軽に泊まれるホテル。要はビジネスホテルですが、たとえば名前をムーンヒル・インとすれば、ブランドイメージには傷がつきません。ターゲットはビジネスマン、一般旅行者ですから、目的は宿泊のみ。プールやジム、レストランを入れる必要はありません。結果、客室数も増やせれば、人件費も抑えられるというメリットが生じます。その代わり、宿泊客を対象にした無料朝食サービス、それもバイキング形式の食べ放題とすれば、、ビジネスマンにとっては、間違いなく魅力的なサービスと映ると思うのです」

声に力を込めると、どうだとばかりに胸を張った。

全ては、アメリカで宿泊したホテルで改めて気づいたことである。

それ以前にもモーテルに宿泊し、チェックアウトの際にフロントで、コーヒーとドーナツの無料サービスを受けたことはあるが、今回泊まったホテルでは、管理棟の一室に設けられていたのはブッフェである。数種類のパン、ジャム、バター。そしてシリアル。保温器の中にはハム、ソーセージ、ベーコン、ハッシュドポテト。スクランブルエッグに目玉焼き。ヨーグルトにサラダ、フルーツもある。果ては、ワッフルの材料と調理器具までが用意されており、宿泊客はセルフサービスでそれらのものを好きなだけ食することができる。

こうしたサービスが一流ホテルで行われることはまずない。朝食といえども、ホテルのレストラン部門にとっては貴重な収益源だし、そもそもが高額な宿泊料を支払える経済力を持った客が多数を占めるからだ。

だが、ターゲットを平均的なビジネスマン、一般客に定めると話は違ってくる。規模の大小にかかわらず企業には、宿泊料の上限が定められているのが常である。出張手当を支給する企業も多いが、サラリーマンにとっては、それも貴重な臨時収入だ。出張先での飲み代の足しに、帰りの電車の飲み代にと思うのが人情というもので、朝食が無料で提供される。しかも種類豊富な料理が食べ放題となれば、大人気になるのは間違いない。

何よりも、レストランをはじめとする施設を持つ必要がないというのがいい。夕食を宿泊先のホテルでというビジネスマンはそう多くはない。それは一般客とて同じだろう。まして、朝食だけのサービスに絞れば、近場のムーンヒルホテルで調理した料理をケータリングで運び込むことが可能なわけで、仕入れの量が増えれば、食材の調達コストも安くなる。結果、朝食を無料にしても十分採算に見合うどころか、最も頻繁にホテルを利用する客層に、「宿泊するなら、ムーンヒル・イン」という意識が定着すれば、とてつもない市場を手にすることができるというわけだ。

ところがである。

「随分高くついたアイデアだな」

「えっ……」

月岡のひと言に、寛司は凍りついた。

「ブッフェスタイルの朝食無料サービスなんて、いまや日本のビジネスホテルの定番サービスじゃねえか。アメリカに行かなくたって思いつくだろ」

「しかし、実際にうちはやっていない……いや、ムーンヒルホテルの名前の下ではやろうにもやれないサービスじゃありませんか。ですから──」

「ビジネスホテルに特化したセカンドブランドを立ち上げるってところは確かに、新しいっちゃ新しい。日本では、そんなことをやってる一流ホテルはないからな」

月岡は皆まで聞かずにいうと、「だがな、それだってアメリカのホテルチェーンは、とっくの昔からやってることじゃねえか。いったい何年かかって、そこに気がついたんだ?」

今度は寛司の感性、いや能力を疑わんばかりの言葉を口にした。

「それは──」

全く想像だにしなかった反応に寛司は口籠った。

微妙ないい回しではあるが、セカンドブランドを立ち上げることについては、「新しい」と肯定しておきながら、まるで能力を疑うような言葉を投げかけてくるとは──。

どういうことだ。何が気に食わないんだ。

「実はな、お前が考えたこのプラン、もう動きはじめているんだよ」

「動きはじめているって……」

寛司は顔面から血の気が失せていくのを感じながら、「いったい誰が……」

思わず問うた。

「テンだよ」

名前を口にした瞬間、月岡の目元が緩んだような気がした。

「テンが?」

「あいつ、春に新球団のキャンプの視察に出かけようとしたんだが、近場のホテルはマスコミやら観光客でいっぱいでな。空き部屋がなくて、球場からはかなり離れた場所の、それもビジネスホテルに泊まったんだが、そこで朝食の無料サービスに出合って、ピンときたってんだ。宿泊料は格安なのに、朝飯は食べ放題。しかも和食、洋食のどちらも用意されている。こいつをうちでやったら、どえらいビジネスになるってな」

信じられない。

どうして、テンがそんな発想を──。

夏枯れ対策にしても、ウエディング事業にしても、周囲の人間の発した言葉がヒントとなったものばかりだ。格安ウエディングにしたって同じだ。俺が入れ知恵をしなければ、あいつはあんな事業を思いつくはずがなかったのだ。

つまり、無から有を生み出す力はない。それがテンという男であったはずなのだ。

「あいつ、セカンドブランドのことも、同時に提案してきてな」

月岡の目が、掌中の珠を愛でるように細くなる。「あいつ、パレスをムーンヒルホテルのセカンドブランド、ウエディングをサードブランドにしたことで、ブライダルビジネスを飛躍的に拡大させただろ。そいつをビジネスホテル事業にそっくりそのまま応用できるんじゃねえか。そういってきたんだよ」

あっと声を上げそうになった。

やはり、ヒントはあったのだ。

それも、よりによって、自分が与えたアイデアが元になっているとは──。

無意識のうちに握りしめた拳が震え出すのを覚えながら、寛司は唇を噛んだ。

「お前は、アメリカのホテルではっていうがな、それならなんでもっと早く、このプランを出してこなかったんだ? いったいお前は、何年アメリカにいたんだよ。帰国してから何年経つんだよ。テンは、アメリカには一度も行ったことがねえんだぞ。それが、地方のホテルのサービスに、これだと閃いて、お前と寸分違わぬプランを出してきたんだ。大したやつだと思わないか?」

明確に言葉にこそしないものの、先の「随分高くついたアイデアだな」という感想と、いまの話からすれば、月岡が何をいわんとしているかは明らかだ。

アメリカ駐在という大きなチャンスを与えられ、しかも勤務先は提携先のホテルである。アメリカの一流ホテルが、セカンドブランド、サードブランドを持っていることはいまにはじまったわけではない。それをいまになって大発見のようにいう。その点、テンは違う。たった一回。しかも、地方の格安ビジネスホテルに宿泊しただけで、同じプランを思いついた。

テンの才は、明らかにお前に優る。

月岡はそういっているのだ。

「はい……」

肯定するのは、屈辱以外の何物でもないが、そうこたえるしかない。

視線を落とした寛司に向かって、月岡はいう。

「このプランは、すでにテンが中心になって実現に向けて動き出している。国内のめぼしい都市にはあらかた進出を終えて、ここから先、どうやって事業を拡大するかを思案していたところへこのプランだ。客層もダブらんし、従来型のホテルを新設することに比べりゃ建設費も安くつく。それでいて、遙かに大きな市場、それもうちが全く手をつけていなかった市場に進出できるんだ」

月岡は、そこで満面に笑みを浮かべると、仰天するような言葉を口にした。「それが実現すれば、あいつの大手柄だ。その後の働き如何では、俺の後継者になるかもしれんな」

「後継者……ですか?……」

寛司は我が耳を疑った。

まさか……。あのテンが、ムーンヒルホテルの社長になるって?

「俺は生涯家庭を持つつもりはない。つまり、いずれムーンヒルホテルの経営は誰かに委ねなければならなくなるわけだ。もしテンが、この事業を成功裏に導けば、これは次期社長に相応しい立派な功績になる」

いわれてみればというやつだ。

月岡はいまだ独身だ。実子がいないとなれば、後継者探しの問題にいずれ直面する。しかし、社名に月岡を英語に直訳した名前をつけたことからして、本家のみならず一族にとっても、ホテル事業に覚える愛着は深いものがあるはずだ。おそらくは身内の誰かを後継者に据えるのだろうと考えていたのだが、とんでもない思い込みをしていたものだ。

そういえば、と寛司は思った。

月岡は、いまに至っても一族の誰ひとりとしてムーンヒルホテルに引き入れてはいない。

創業家というものは早くから後継者を育てるべく、早くは学業を終えた時点で会社に迎え入れ、現場で鍛え、経営を学ばせ、あるいは、敢えて他人の釜の飯を食わせて、頂点に君臨する人間に相応しい資質を身につけさせるものだ。

月岡は前者の部類であったのだが、いまに至るまで、そうした動きを見せたことは一度たりともない。

なんてことだ。俺はとんでもない思い違いをしていた。

副社長が上がりのポジションではなかったのだ。もうひとつ先への道は、開かれていたのだ。

「テンが、社長になったら面白いことになるだろうな」

月岡はいう。「経営者にはカリスマ性が必要だ。伝説となるエピソードがあればなおいい。中卒のテンが、ムーンヒルホテルの頂点に君臨する。それも、学歴の点では、遙かに優る人間たちを実力で退けてだ。こんな話は、いまの時代に滅多にあるもんじゃない。世間の耳目を集めもすれば、世の中には、経済力、あるいは親の不理解で進学できなかった若者も数多いるからな。運悪く受験に失敗し、二流三流の大学に甘んじなければならかった若者だって大勢いるんだ。それが己の才覚次第で、社長にだってなれるとなりゃ、我こそはと思っている人間が、わんさか門を叩くようになるだろうからな」

月岡の言葉に、背筋に戦慄が走った。恐怖を覚えた。

その読みに間違いないこともある。

いや、それ以上に、月岡が自分の後継者として俊太を育てようとしている。

そう確信したからだ。

あのテンが社長になる? 俺にその下で仕えろというのか?

冗談じゃない。

とても受け入れられる話ではなかった。

何よりも衝撃的だったのは、「経営者にはカリスマ性が必要だ」という月岡の言葉だ。

中卒の人間が、並み居る高学歴者を押しのけて経営トップに立つ。それがカリスマ性につながると月岡が考えているのなら、少なくともこの一点を満たす役員は皆無だ。滅多にあることではないにせよ、その気になれば何歳になっても得ることができるのが学歴だ。しかし、一度獲得した学歴は、捨てることはできない。つまり、組織で働くにあたっては、絶対的に不利と考えられている低学歴が、後継者選びという段になって逆に作用することになってしまったのだ。

月岡の真意を知ったいま、この状況を覆すのは容易なことではない、と寛司は思った。

月岡が退くまでには、まだ時間がある。俊太が期待にこたえられず、見切られる可能性だってないわけじゃない。しかし、少なくともすでに着手しているビジネスホテル事業への進出はまず間違いなく成功するだろう。その功績を以て俊太は常務、いや、一足飛びに専務になることだってあり得る話だ。そこで、さらなる功績をあげれば副社長。その時点で、月岡と共に役員を管理し、経営全般を見渡すのが役目となるのだから、次期社長は決定だ。

「麻生」

名を呼ばれて視線を上げた寛司に向かって月岡はいった。「この際だからはっきりいっておくが、俺はお前も後継者候補のひとりだと考えてきた。だがな、お前には、テンとは比べものにならないほどのチャンスを与え、様々な経験を積ませてきたんだ。だから、テンと同じレベルの仕事じゃ俺を満足させることはできねえんだよ。もっと知恵を絞れ。テンには到底思いもつかないプランを持ってきてみせろよ。俺を失望させるな」

失望?

そのひと言が寛司の胸に突き刺さった。

確かに、今回のプランは俊太のものと同じではあったさ。

しかし、ほんの僅かな時間差で、俊太が先に提出しただけの話じゃないか。

ならば、俺がテンに先んじて、このプランを提出していたら、お前はどう評価したんだ? 「さすが麻生だ」ということになったんじゃないのか。

俺だって、精一杯知恵を絞ったんだ。目を皿のようにして、新しい事業をムーンヒルホテルにと、その一心で働いてきたんだ。

それをもっと知恵を絞れだと? 失望させるなだと?

どの口がいってんだ。

球場の件といい、ビジネスホテルの件といい、発案者はテンじゃねえか。

勝手なこというな! テンと同じレベルの仕事じゃ満足できねえって、だったらお前はどうなんだ!

猛烈な反発心。怒りが、胸中に込み上げてくる。

それは、いま月岡が発した言葉のせいばかりではなかった。

そんなプランが、そう簡単には見つかるわけがない。それも数を出せばいいというものではない。採用されなければ、評価を落とすだけ。つまり、月岡を唸らせるような「筋のいい」プランを提示して見せなければならない。自分に要求されているハードルが、俊太よりも遙かに高いといっているのも同然だからだ。

これじゃ、テンが圧倒的に有利じゃねえか。

月岡には恩がある。生涯仕える君主だと思ってきた。これまで忠実に、かつ精一杯働いてきたのは、そう信ずればこそだ。だが、仕える君主が代わるとなれば話は別だ。しかも、こともあろうに、あのテンに仕えるだなんて、絶対にあり得ない。

こうなれば、取るべき手段はひとつしかない。

寛司の脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。

それは瞬く間に形となって、寛司の脳裏にひとつの策が浮かんだ。

一か八かの賭けだが、勝算はある。

寛司はそんな内心をおくびにも出さず、

「申し訳ありませんでした……」

丁重に頭を下げると立ち上がった。

第七章

カリフォルニアの空の色は独特だ。

突き抜けるような青は、長く暮らしたハワイよりも美しい。何よりも光の透明度が違う。そしてそれは、眼に映るものの全ての色を、鮮やかにする魔力を持つ。

花の色、芝の緑はいうに及ばず、ポンコツ同然の自動車の塗装ですらもだ。

活力溢れるこの地の光景を眼にする度に、新しい文化や産業の多くが、何故にカリフォルニアから誕生するのか、その理由が分かるような気がする。

色彩の鮮やかさ、透明感溢れる大気は、この地に集う人々に開放感を覚えさせ、想像力をかきたてる。それが既成概念に縛られない、時に狂気とも思えるほどの新しい文化、産業を生む源となっているのだ。

「……というわけで、建設の進捗状況は、全てオンスケジュール。開業日も予定通りだ。半年後には、営業開始となるわけだが、日本側のセールスプロモーションは順調に進んでいるんだろうね」

ラルフ・ラッセルは、合弁会社を設立するにあたってのパートナー、ハミルトンホテルの経営戦略担当副社長だ。

ロスアンゼルスにあるハミルトンホテル本社の執務室で、建設中のホテルの進捗状況を話し終えたラッセルは、寛司に向かって訊ねてきた。

「ご心配なく」

寛司は頷いた。「日本人の海外旅行熱は高まるばかり。すでに、このホテルの開業は、旅行会社に告知しておりますし、各社ディズニーランドをメインに据えたツアー企画の準備を進めておりますので……」

「激増する日本人観光客をいかにして掴むかは、業績に直結する重大事案だ。絶対に失敗できんのだが、開店したはいいが、肝心の客がいまひとつじゃ話にならんからね」

念を押してくるラッセルに、

「開業日さえ確定すれば──」

寛司は訊ねた。

アメリカ人の仕事には、駐在中に何度も痛い目にあったことがある。

何しろ、契約社会である。不都合があっても、自分の職分以外のことには手を出さない。それも、完璧に仕事をこなすのならまだしも、手を抜くのが当たり前なのだから油断も隙もあったものではない。

「心配は分かるが、こと我が社においては、全てがオンスケジュール、オンバジェットで進むのが決まりでね」

ラッセルは肩を竦める。「遅れは一日たりとも許されない。多額の資金を必要とする新規物件に関してはなおさらでね。当たり前だろ? 開業が遅れれば、その間の収益はゼロ。にもかかわらず、人件費、光熱費その他諸々、経費は発生するんだ。結果、投資効率に狂いが生じる。そんなことになろうものなら、私はクビだ」

「それを聞いて安心しました」

寛司は、笑みを浮かべた。「では、開業日は決定ということで……」

「楽しみだね」

ラッセルは満足そうにいう。「今回の合弁事業には、我々も大いに期待していてね。日本製品は世界を席巻しているし、その一方で貧富の格差は、それほど大きくはない。所得レベルがある一定の枠内に集中しているという世界でも稀有な国だ。そんな国で海外旅行が身近なものになったんだ。この市場はとてつもなく大きいよ」

アメリカの対日貿易格差は拡大する一方だ。

半導体、自動車と、かつてアメリカの経済を支えてきた産業に、昔日の面影はなく、もはや日本企業の独壇場だ。そして、国民の九割以上が中流と認識しているのがいまの日本である。もはや、海外旅行は国内旅行と同じ感覚で気軽に出かけられるほど身近なものとなっており、日本人旅行客をいかにして獲得するかは、ハミルトンホテルにとっても最重要事案のひとつであることに間違いはない。

そうした現実からすれば、ハミルトンホテルがムーンヒルホテルとの合弁事業に乗り出したのは、極めて合理的、かつ戦略的な経営判断だったといえるのだが、双方の株式の十パーセントを持ち合うという条件には、別の思惑があってのことに違いないと寛司は確信していた。

「それは、我が社にとっても同じですよ」

寛司はいった。「国民の所得が上がる一方で、海外旅行は逆に安くなる一方です。それに円もかつてに比べると格段に高くなって、買い物にも割安感が出てきた。かくして、どうせ旅行に行くなら海外へ。日本人はどんどん海外にでかけるわけです。こんな状況を指を咥えて見ているわけにはいきませんからね」

「それでも、ムーンヒルホテルの経営は、順調なんだろ?」

「もちろんです。イメージ戦略の効果もありますし、リゾート型のホテルの建設にいち早く取り組んできたのは、こうした時代の到来を見越してのことなんですから」

寛司は、話の展開が思い通りになってきたことを内心でほくそ笑みながら、「ただ、従来型のホテルは、日本国内ではこれ以上増やせません。進出すべきところには、進出し尽くしましたからね。そこで、さらなる事業拡大のために、いままで我々が手掛けてこなかった形態のホテル事業に進出する計画があるんです」

満を持して切り出した。

「それは、どんな?」

「ビジネスホテルです」

寛司はいった。「ハミルトンホテルもハミルトン・レジデンス・イン、ハミルトン・コートヤードといった、セカンド、サードブランドを立ち上げ、利用者のニーズに応じて、ホテルよりも気軽に泊まれる価格の宿泊施設を展開していますが、実は日本では一流ホテルがこうしたビジネスを行っている例は皆無なのです」

「それは興味深い話だね」

「複数のホテルを経営していても、全国に四、五軒、というのが日本の一流ホテルで、ターゲットにしている客層は皆同じ。つまり、どこへいっても同じ設備、同じサービスを受けられる。利用者も安心して使ってくれれば、ブランドイメージの維持につながると考えているんでしょうね」

「分からんな」

ラッセルは首を捻る。「そのままずばりの名前を使うわけじゃないんだ。まして料金も安いとなれば、系列店であって、ホテル本体とは似て非なるものであることは誰にでも分かろうってもんじゃないか。むしろ、ホテル本体の名前がつけば、酷い代物じゃない。客だって安心して使ってくれるものだよ」

「日本人は、保守的なんですよ」

寛司は大げさに両手を上げて首を振ると、「その点、うちは違うんです。一流ホテルがビジネスホテル市場に乗り出したことはない。これは、日本で圧倒的なブランド力を持つムーンヒルホテルには、新たな客層を掴むビッグチャンス。海外ではハミルトン・ムーンヒルホテルで、日本国内ではビジネスホテルで事業を拡大していこうと考えたわけです」

さて、どういう反応を示すか。

寛司は、ラッセルの目を見つめた。

「素晴らしい。ムーンヒルホテルをパートナーに選んだ我々の目に狂いはなかったね」

目元を緩ませなからも、一瞬ラッセルの瞳に怪しい光が灯るのを寛司は見逃さなかった。

やはり狙いはそこか。

「本当にそう思っているんですか?」

寛司は問うた。

「えっ?」

駆け引きも必要だが、それも時と場合による。

虚を突かれれば、必ず感情の揺らぎが表情や仕草に現れる。それが人間というものだ。

「ハミルトンホテルは、日本への進出を狙っているんでしょう? ムーンヒルホテルとパートナーシップを持ったのは、いずれムーンヒルホテルを支配下に置く。それが狙いなんじゃないんですか?」

果たして、ラッセルは顔を強張らせ、眉をぴくりと動かした。

しかし、それも一瞬のことで、

「いきなり何をいい出すんだ。我々が、ムーンヒルホテルを支配下に置くだなんて、そんなことは──」

歪んだ笑みを浮かべ、首を振りながら瞼を閉じる。

「考えていないとでも?」

寛司は、続く言葉を先回りすると続けた。「そうですかね。あなた方の狙いは端からそこにあると考えていましたが?」

ラッセルは、短い沈黙の後、

「驚いたな。見当違いもいいところだ」

肩を揺らしながら笑った。「考えてみたまえ。確かにムーンヒルホテルは、日本最大のホテルチェーンだが、それも国内に限っていえばの話だ。こういっちゃ失礼だが、世界中にホテル網を持つ我々からすれば、極東の一ホテルグループに過ぎない。そんなものを手に入れるメリットがどこにある」

「大ありでしょう」

寛司はすかさず返した。「日本製品は、世界中を席巻している。その一方で貧富の格差は、それほど大きなものではない。所得レベルがある一定の枠内に集中しているという世界でも稀有な国だと、いまご自身でおっしゃったじゃないですか。日本製品は今後ますます、世界中の国々に浸透していくのは間違いありません。それは、国民の所得レベルを押し上げていくということです。まして、新幹線、高速道路の建設計画は目白押し。それは、人の移動が飛躍的に活発になることを意味するんです。当然、宿泊施設への需要も高まる。ハミルトンホテルが、世界中で事業を展開しているといっても、アジアにはまだ進出していません。日本はアジアの中でも、すでに突出した市場だし、将来性も十分だ。あなた方が黙って指を咥えて見ているわけがない」

「確かに日本は魅力的な市場ではある。それは認めるよ。しかしね、ムーンヒルホテルは、上場しているとはいえ、事実上はツキオカさんのオーナー会社だ。支配下にだなんて、彼が同意するわけないじゃないか」

ラッセルは、あくまでも白を切るつもりらしいが、目論見は読めている。

「じゃあ、なぜ合弁会社を設立するにあたって、十パーセントの株をハミルトンホテルが持つことを条件にしたんです?」

寛司は訊ねた。

「それは、揺るぎないパートナーシップを結ぶためで──」

「パートナーシップね」

寛司は口の端を歪ませながら鼻を鳴らし、ラッセルの言葉を遮ると、「私の読みはこうです」と前置き、続けていった。「日本国内で新たにホテルを設けようにも、めぼしい場所にはあらかた建て尽くした。もちろん、都市の再開発によって、新設が可能になるとしても、出店速度が頭を打つことは避けられない。当然、業績も頭を打つ。ならばどこに、業績拡大の道を求めるかとなれば、ひとつしかない。海外です。つまり、ムーンヒルホテルが海外事業が拡大すればするほど、ハミルトンホテルへの依存度は増すということになる」

ラッセルは、言葉を返さなかった。

感情を消した表情で、じっと寛司の目を見据えたまま沈黙する。

それが何を意味するかは明らかだ。

肯定である。

「日本人の海外旅行は、今後ますます盛んになる。ところが、日本人の大半は英語が喋れない。ホテル、旅行者双方が、言葉という問題に直面するわけです。もちろんハミルトンホテルが日本語のできる従業員を雇えばこの問題は解消されますが、ホテルマンとしての教育を受けた人材となると、現地で探すのは簡単な話ではありません。だから合弁事業に合意した。ムーンヒルの名を冠したホテルなら、日本人も安心して使ってくれるだろう。日本国内での客集めも、ムーンヒルホテルがやってくれるのだから一石二鳥だ。そうお考えになったんじゃありませんか?」

またしても、ラッセルは沈黙する。

しかし、今回はそれも長くは続かない。

「ツキオカさんには、君の見解を話したのかね?」

「もちろん」

寛司は、大げさに肩を竦めながら首を傾げた。

「で、彼はなんと?」

「絶対に支配下に置かれるような事態には陥らない。発行済株式に占める安定株主の割合が、ハミルトンホテルに奪われることはあり得ない。新たなホテルの建設は、早晩頭を打つことになるだろうが、ホテル以外の事業に進出し、経営の多角化を推し進めれば、国内でも十分成長の余地はある。ムーンヒルホテルのブランド力を以てすれば十分可能だし、成長し続ければ株価は上がる。役員のひとりやふたり、迎え入れることはあっても、支配下に置くことなど不可能だと……。社長は、アメリカ人の怖さを知りませんから」

「アメリカ人の怖さね」

ラッセルは、苦笑を浮かべながらも、目に怪しい光を宿す。

「でも、私は嫌いじゃありませんよ。ビジネスの本質は、食うか食われるか。知恵と知恵のぶつかり合いですからね。能力に優る者が全てを掴み、敗者には何も残らない。ドライですが、物凄く分かりやすい。嫌いじゃないどころか、気に入ってるんです」

寛司はラッセルの視線をしっかと捉えながらこたえた。

「つまり、ビジネスホテル市場での成功が間違いない以上、我々の思惑通りにはいかない。君はそういいたいのかね?」

「このままでは、そういうことになるでしょうね」

ここからが本題だ。

この取引にハミルトンホテルが乗るかどうかで自分の将来が決まる。

そして、一旦それを口にしてしまえば、もはや後戻りはできない。

なぜなら、月岡に俊太が次期社長候補だと告げられたあの日、寛司の脳裏に浮かんだ言葉は「謀反」だ。月岡の首を取り、己がその地位につくための策を話すことになるからだ。

だが、すでに腹は決まっている。

「でも、方法はあるんです。それも、あなた方が考えているよりも、ずっと早く、ムーンヒルホテルグループを、そっくりそのまま手に入れる方法がね」

寛司は躊躇することなくいった。

「ほう……それはどんな?」

ラッセルは片眉を吊り上げた。「是非聞かせてもらいたいものだね」

「ただし、それには条件があります」

「だろうね」

ラッセルは頷きながら、身を乗り出してきた。「その条件とやらを、まずは聞かせてもらおうじゃないか」

彼の背後の窓越しに、芝で覆われた広大な庭が見える。

スプリンクラーの散水が、カリフォルニアの日差しに反射し、まばゆいばかりの光を放つ。その中に潜む狂気に駆り立てられるように、寛司は己の野心を解き放った。

〈次号は7月20日(木)に更新予定です〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。