第15回



前回までのあらすじ

ムーンヒルホテルの取締役になった俊太が立ち上げたビジネスホテル事業は、順調に業績を伸ばした。一方、寛司がロスで主導するハミルトンホテルとの共同事業も成功を収め、ムーンヒルホテルの株価も上昇し、その勢いはとどまるところを知らない。しかし、社長の月岡を訪ねた新聞記者のある指摘をきっかけに、事態は急変する……。

「お帰りなさい」

玄関のドアを開けた瞬間、廊下の先から文枝の声が聞こえた。

時刻は、すでに十一時半を過ぎている。

俊太の帰宅を待ち構えていたかのような反応の速さだ。

無理もないと思った。

毎朝新聞が昨日の朝刊で月岡の有価証券報告書の虚偽記載を一面トップで報じて以来、他紙はもちろん、テレビ、週刊誌が一斉に後を追い、メディアを挙げての凄まじい取材合戦が始まった。

特に速報性において圧倒的な優位性を持つテレビは、ニュース以外にも、朝夕の情報番組でも大きな時間を割き、今回の不祥事を詳細に報じた。

時代の流れを先読みし、世間の注目を一身に浴びながら急成長を続け、ホテル業界において不動の地位を揺るぎないものにしたムーンヒルホテルの一大スキャンダルである。これまで斬新なコンセプトに基づくホテルが開業するたびに、新規の事業に進出するごとに特集を組んで、大々的に報じ、さらには月岡の手腕に賛辞を送り、カリスマ経営者に仕立て上げたマスコミであったが、一夜にして彼らの姿勢は一変した。

まさに手のひら返しといえる豹変ぶりにも驚いたが、それ以上に衝撃を受けたのは、報道の内容が有価証券報告書の虚偽記載に止まらなかったことだ。

月岡家の複雑な家族関係、親子の確執からはじまり、果てはムーンヒルホテルに君臨する月岡を独裁者と断じ、グループが飛躍的成長を遂げた背景には、冷徹な人事、異論を唱える者は許さぬといった恐怖支配が背景にあったと報じる有り様だ。

月岡家の事情を知る者は少なからずいることだし、マスコミとて既に把握していただろうが、彼らがこれまでその事実に触れなかったのは、ムーンヒルホテルがマスコミと持ちつ持たれつの関係にあったからだ。映画やドラマ、情報番組を制作するに当たっては、施設の提供、宿泊費と多大な便宜をはかってきたし、活字媒体にとっては大口の広告主だ。つまり飯の種でもあったわけだが、良好な関係が続くのも、両者にメリットがあればこそ。有価証券報告書の虚偽記載を行った企業には上場廃止という重いペナルティーが課される。企業イメージも失墜すれば、資金調達もこれまでのようにはいかぬ。早い話が、相互利益の関係が崩れることが明らかになったからには遠慮はいらぬ。水に落ちた犬は格好の餌食。とことん叩くというわけだ。

マスコミとはそんなものだといってしまえばそれまでの話だが、何よりもショックだったのは、月岡を独裁者と断じる根拠である。

『月岡は、自分に絶対的な忠誠を誓い、意のままに動く人間を重用する。異を唱えればどうなるかを見せつけるために、能力が劣る人間を重職に就け、その下に仕えることを強いる。屈辱を味わいたくなければ、黙って従えというわけだ』

能力が劣る人材が、誰を意味するかは明らかだ。そして、この類の情報は、社内の人間に取材しなければ、外部に漏れるわけがない。

あんなやつが役員に就任したことが不愉快でならない。いや、我慢できない。

そう思っているのは、役員たちだけではあるまい。部長、あるいは課長クラスにだってごまんといるだろう。

だが月岡、いや会社が危機に直面したこの時に、こともあろうにマスコミに向かって、日頃の不満をぶちまける。そんな社員がムーンヒルホテルにいた。

その事実を突きつけられたことが、俊太にはショックだった。

「ただいま……」

だから、こたえる俊太の声も暗く沈んでしまう。

「お疲れ様」

文枝は労いの言葉をかけてきたが、表情はやはり𠖱えない。

困惑、不安、狼狽。どう内心を繕っていいのか、困っているように見える。

「えらいことになってもうた……」

俊太は靴を脱ぎながらネクタイを緩めた。「本社には、マスコミが殺到して、えらい騒ぎや。この騒ぎは当分の間収まらへんで」

「若旦那様は、大丈夫なの?」

文枝が不安気に訊ねてくる。

「さすがに、今回ばかりはな……。名簿を訂正して終いいうわけやないからな」

俊太はため息を漏らすと、脱いだ上着を手渡した。

「じゃあ、どうなるの?」

「社長、逮捕されるかもしれへん……」

「逮捕って……」

文枝は息を飲み、絶句した。

「上場企業は個人のもんやない。株主のもんやさかいな」

俊太はいった。「もちろん、株主いうても様々や。ようけ持ってる人は、それだけ金を出してはんのやし、選挙に例えれば株のひと株は、票の一票。ひと株でも過半数を上回れば、会社はどないにでも動かせる。ムーンヒルホテルはまさにそないな状況にあったのに、それを隠して、株式市場からカネを集めてきたんや。つまり市場、株主に嘘をついてきたんや」

「でも、社長は立派に会社を大きくしてきたじゃない。株価だって上がったし、株主さんに十分満足のいく結果を出し続けてきたわけでしょ?」

文枝のいいたいことは分かる。

しかしである。

「結果の問題やないねん」

俊太は、またひとつため息をついた。「どないな事業にでもええ時もあれば、悪い時もある。株価は経営者の通信簿や。株価が落ちれば株主は損すんねん。こいつには任せておけん。代わってくれいうことになって株主総会を開いても、なぜか留任が認められるいうことになってみい。投資家を騙してカネを集めたいうことになってまうやんか」

「さ……ぎ……っていうわけ」

詐欺。

その言葉が俊太の心に突き刺さる。

事の本質は、その通りに違いないからだ。

黙った俊太に向かって、

「若旦那様が逮捕されたら、会社はどうなるの? 代わりに社長をやれる人なんているの?」

文枝は矢継ぎ早に訊ねてくる。

「そないなことわしに分かるかい」

俊太は語気を荒らげた。「はっきりしてんのは、社長の退任は避けられんいうことと、ムーンヒルホテルは上場廃止いうことになる。そのふたつだけや」

「上場廃止って……どういうこと?」

「株式市場から資金を集めることができへんようになるいうことや」

俊太はこたえた。「まあ、そうはいっても、倒産したなら紙くずやけど、うちの場合は業績絶好調。ビジネスホテル事業もこれからやし、カンちゃんが担当してる海外事業もある。将来性は十分や。上場廃止になっても市場で売り買いができへんようになるだけで、個人間の売買はできるしな。それに、事業が拡大していけば、いずれ再上場いうことにもなるやろ。会社が消えてなくなるいうわけやないのは確かやけど、それも誰が新社長になるか次第やろな」

しかし、会社の存続と己の身の安泰は別物だと俊太は思っていた。

なぜなら、月岡の存在なくして、今日の自分はあり得なかったからだ。

まして、役員全員が自分の存在を疎ましく思っていることに間違いはない。

誰が社長になるにせよ、月岡が敷いた路線を踏襲しながら再上場を目指すことになるのだろうが、トップに立てば独自色を出したくなるのが人間の常だ。まして、絶対権力者として君臨してきた月岡を恐るるに足らずということになれば、彼の方針に不満、疑義を抱いていた部分を真っ先に正しにかかる。それが何かは明白だ。異物の排除である。

自分が解任されることは、間違いない。

俊太はそう確信していた。

だが、そんなことはどうでもいい。

問題は、月岡が職を辞した後のムーンヒルホテルだ。

上場廃止ということになれば、資金の調達も簡単にはゆかぬ。かといって、再度上場を果たすためには、失った信用を取り戻すことからはじめなければならない。信用とは、ムーンヒルホテルが上場企業にふさわしい体制を再構築することはもちろんだが、それ以上に十分な収益を上げ、洋々たる前途が開けていることを認めてもらわなければならない。

会社の再構築と、これからの事業計画。当面の間、混乱が続くであろうムーンヒルホテルで、この危機を乗り越えられるだけの能力を持った人材が果たしているのか。

そこに思いが至ると、俊太は暗澹たる気持ちに駆られた。

「当たり前に考えれば、梶原さんが社長に昇格いうことになるんやろうが、あの人も虚偽記載のことは知っとったはずやしな。それに歳が歳やし……」

梶原は月岡二代に使えてきた人物で、現在は副社長を務めている。これといったビジネス上の実績はないらしいが、月岡の信頼は厚く、会社の実務はもちろん、ファミリーの資産管理を行っていた時代があったと聞く。謂わば番頭というわけだが、今後月岡の取り調べがはじまれば、梶原も事情聴取を受けることになるであろうから、会社の経営に専念することはできない。それに、年齢も七十五歳。まして、経営手腕に関しては皆目見当がつかないとなれば、月岡の後任としては不適格だ。

「麻生さんがいるじゃない」

文枝は、ふと思いついたようにいう。

「わしも、カンちゃんなら、社長の後任は務まる思うねんけどな……」

俊太は、軽く息をついた。

「能力、実績共に十分だし、若旦那様だって、麻生さんのことは高く買っているんでしょう? 役員にだって異例の速さで抜擢されて、いまは専務。副社長を飛ばして社長って、世間ではよくある話なんじゃないの?」

「それがなあ……」

俊太は肩を落としながら、またため息をついた。「カンちゃんも、社長に目えかけられて、若くして役員になったんや。それを面白うなく思うてる人はぎょうさんおるし、これまでは副社長が最高の出世やったんや。それが社長になれるかもしれへんようになったんや。そら、他の役員たちの目の色も変わんで」

「会社が大変なことになってるってのに?」

文枝は信じられないとばかりに目を丸くする。

「なんやかんやいうても社長の下、会社が一枚岩で動いてきたいうのは幻想やったんやな。重石が取れた途端、急に役員室の動きが忙しのうなってな。表向きは不祥事の対策いうことになってるが、わしの見たところそうやないな。それぞれが、次期社長になれると見込んだ役員のところへ行って、何やら企んでんのや。ここで新社長になる人間のために尽力すれば、自分にも次の目が出てくるさかいな」

「派閥ができはじめてるってわけ? それじゃ政治の世界と同じじゃない」

「そうや。政治がはじまってんねん」

俊太は頷いた。「会社も政治も、てっぺん狙えるチャンスがきたら、戦がはじまんねん。わしも、そのことを思い知らされたわ。ほんま、出世がかかると、人っちゅうのは本性が剥き出しになるもんなんやな」

もちろん、俊太に声がかかるわけがない。

寛司は、ロスアンゼルスの合弁一号店が順調に軌道に乗って以来、二号店、三号店の出店計画が相次ぎ、ハミルトンホテルとの打ち合わせに忙殺されて頻繁にアメリカに出かける日々が続いていた。不祥事が発覚した日も、アメリカに出張中で、今後のことを相談しようにも、直接言葉を交わすことも叶わぬ状態である。

「あのな、文枝……」

俊太は向き直ると文枝の目を見つめた。「わし、会社を辞めんとならんようになるかもしれへんで」

意外なことに文枝は驚かなかった。

黙って頷くと、

「他の役員が、あなたをどんな目で見ているかは分かっているもの。若旦那様がいなくなったら、誰が社長になるにせよ、あなたを役員に置いておくわけがないものね」

それでも、どこか寂しげな口調でこたえた。

「社長がおらんようになってもうた途端にお払い箱やなんて、独り立ちしてへんようで情けないけど、こればっかりはどないもならへんのや。誰が新社長になろうと、周りは自分の意を汲む人間で固めるやろからな」

役員に相応しい仕事をしてきたという自負の念は抱いている。解任されるような理由はありはしないことも承知している。だが、人事というものは、実績だけで決まるものではないのは、紛れもない現実である。

月岡は、信賞必罰を明言し、その通りを実行してきた。しかし、こうした方針を徹底する経営者は極めて稀だ。好き嫌い、性に合う合わぬは、人間関係にはつきものだし、有能な人物とみなされても、必ずしも重用されるとは限らない。それどころか、自分の立場を脅かす存在とみなされれば、早いうちに芽を積んでおく、保身に動く上司すら組織にはごまんといるのだ。そして、こうした傾向はサラリーマン社長がトップに立つ企業で、より顕著に現れる。

俊太が望外の出世を遂げることができたのも、ムーンヒルホテルが全てのことが月岡の一存で決まるオーナー企業であればこそ。その絶対君主がいなくなり、代わりにトップに君臨するのがサラリーマン社長となれば、これまでとは全く異なる力学の下で、人事が決定していくのは明らかだ。

「すまんな……」

俊太は頭を下げた。「いまの暮らしも維持することが難しゅうなるかもしれへんし、お前にもいろいろ苦労させることになってまうかもな……」

「そんなこと心配しなくていいわよ」

文枝は、首を振りながら笑みを浮かべた。「だって結婚した当時は、あなたがまさか役員になるなんて想像だにしなかったもの。苦労は覚悟。ささやかでも、ふたりで幸せな家庭を築きたい。あなたとだったら、そういう人生が歩める。そう思ったから一緒になったのよ。それが役員夫人なんて、いい夢を見させてもらったんだもの。それだけでも十分よ。人生山あり谷あり。苦労を共にしてこその夫婦じゃない」

「文枝……」

どうやら、本心からの言葉のようだ。

俊太は、胸に暖かいものがこみ上げてくるのを感じながら、語尾を濁した。

「それより、その時がきたらどうするの? 二年や三年はびくともしないだけの蓄えはあるし、慎ましい生活をすれば、もっと長くやっていけるけど、あなたのことだもの、何か考えがあるんでしょう?」

もちろん、その考えはある。

「わし、社長と一緒にいたいねん」

俊太はいった。「生涯仕えようと決めた人やし、これで終わるような人やない。ムーンヒルホテルを追われても、絶対再起を図ると思うねん。もし、社長にその気があるのなら、社長が許してくれはんのなら、わし、側で働きたいねん。社長と一緒に一から出直したいねん」

文枝は、目元を緩ませる。

うんうんと何度も頷くと、

「大賛成……」

感極まったようにこたえた。

瞳が潤みはじめているように見えるのは気のせいではあるまい。

「私だって、若旦那様には恩があるもの。一生かかっても返しきれない。その気持ちに変わりはないわ。何ひとつとして不自由なさらない人だから、恩を返そうにも返せない。ずっとそう思ってきたけれど、その時がきたのかもしれないわね。あなたが、側で若旦那様を支える。私はあなたを支える。到底返せるご恩じゃないけれど、僅かでも力になれれば、苦労のしがいもあるってものだわ」

「ありがとう……。ほんま、文枝はわしに過ぎた女房や……」

俊太もまた目頭が熱くなるのを覚えた。

見つめ合うふたりの間に、しばしの沈黙があった。

暖かな沈黙であったが、文枝はふと思いついたように、

「でも、今回の虚偽記載って、どうして外に漏れたのかしら」

一転して怪訝な表情を浮かべ、ぽつりといった。

「新聞記者は株主名簿を洗ったいうてたで。自社で管理しとる上場企業は数えるほどしかないいうて──」

「それ、本当なのかしら」

文枝は小首を傾げる。

「どういうことや」

「だって、株主なんてそれこそ大変な数がいるわけでしょう? まして、若旦那様のものだった株って、OBや社員持ち株会とか、会社関係者のものが大半だって新聞に書いてあったわ。いままで、ムーンヒルホテルは不祥事なんて起こしたことはないし、それどころか業績絶好調。事業規模だって拡大する一方の絵に描いたような優良企業じゃない。そんな会社に目をつけて、いちいち名簿に名前が挙がっている人間を調べるものかしら。新聞記者って、そんなに暇なもんなのかしら」

確かにいわれてみればというやつだ。

考え込んだ俊太に向かって、文枝は続ける。

「ノンフィクションや小説を読んでると、新聞や週刊誌の記者って、タレコミがあって動く。裏付けを取ってみたら、その通りだった。それがスキャンダルに発展するってケースがほとんどのような気がするの。煙のないところに火は立たないっていうけど、そう考えればよ──」

「煙を起こしたやつがいる……ちゅうことか」

俊太は、文枝の言葉を先回りしながら、顔が強張るのを覚えた。

まるで、俊太の顔を鏡写しにしたように、文枝も表情を硬くする。

だとしたら、そいつは間違いなく社内の人間だ。しかも、その人間の目的は、絶対権力者としてムーンヒルホテルに君臨する月岡の追い落とし以外にあり得ない。

そんな人間、いや、裏切り者が社内にいるのか。

だとすれば、それは誰だ。月岡を追い落として、何をしようというのだ。

そこに思いが至ると、俊太は底知れぬ恐怖と煮え滾るような怒りを覚えた。

許せない──。そんなやつは絶対に許せない──。

かといって、この自分に何ができる。

握りしめた拳に力が入った。

やり場のない怒りと、無力感、そしてもどかしさが俊太の胸中で渦を巻く。

拳がぶるぶると震えるのを感じながら、俊太はその場に佇んだ。

「全ては計画通りに運んでいます。月岡の逮捕は時間の問題なら、ムーンヒルホテルの株価も連日ストップ安。あとは、上場廃止と同時に、次のアクションを起こすだけです。執行猶予がついても有罪判決は免れない。その上、資産も手放さざるを得ないとなれば、どうあがいたって再起なんてできませんよ」

ロスアンゼルス・ハミルトン・ムーンヒルホテルのレストランの個室で、ハミルトン親子を前にした寛司は、そういい放つなりシャンペングラスに手を伸ばした。

謀反を起こすと決めたからには、徹底的にやらねばならない。

僅かでも情にほだされ手を緩めれば、返り討ちに遭うのが謀反。それは歴史を紐解けば明らかだ。いまの時代、命を奪うことはできないまでも、完膚無きまでに叩きのめし、もはや再起不能な状態に追い込まずして謀反の成功はあり得ない。

「ツキオカもさぞや驚いただろうね」

デビットが愉快そうに目元を緩ませる。「株主名簿に虚偽がある。この秘密を知る者は、社内でもごく限られた人間だけ。それも、自分に絶対的忠誠を誓った人間しかいないはずなのに、突然新聞記者に質されたんだ。天国から地獄に叩き落とされるとは正にこのことだね」

「日本の歴史では、絶対的権力者に謀反を起こすのは、腹心中の腹心であることが多いんです。なぜだと思います?」

寛司はシャンペンに口をつけると、こたえを待たずに続けた。「君主が間違いを犯そうとしているのを未然に防ごうと諫言しても、聞く耳を持たないからです。そんな君主のおかげで、滅びた国は枚挙に暇がありません。だから、考える力、先を見通す力を持つ腹心が謀反を起こすんです。国は君主だけのものじゃありませんからね。会社だって同じですよ。経営者の判断ミスで会社が滅びようものなら、迷惑を被るのは何の罪もない社員たちです。それを未然に防ぐのは、役員たる者の義務ってもんです」

取ってつけたような理屈であることは、自分でも分かっている。

しかし、そうとでもいわなければ、義なき謀反。ただの裏切り者になってしまう。

まして、謀反を起こすに至った動機が、あの男に仕えることになるのは我慢ならない。それを防ぐ手段はただひとつ。月岡の首を取ること以外になかったなどとは、口が裂けてもいえるわけがない。

ドヤで燻っていたあの男をすくい上げてやったのは、親友の弟、まして自分を兄と慕う人間が道を踏み外し、堕ちて行く様を見るのは忍びない。裕福とはいえないまでも、せめて真っ当な人生を歩ませたいという純粋な思いからだ。

かといって、最終学歴が中卒では自分が紹介できる職業は限られている。そこで川霧の下足番を世話したわけだ。

ドヤで暮らしていた頃のあの男の行状を思えば、長く続くわけがないと思った。かといって、すぐに辞められたのでは立場がない。だから「石の上にも三年だ」ともっともらしい説教を垂れたわけだが、意外なことにあの男はそれを愚直なまでに守った挙句、社長に見込まれ運転手になった。やがてムーンヒルホテルの社員となり、管理職──。

あのテンが。

正直、嬉しかった。

中卒のあの男が、実力ひとつでこれほどまでの出世を遂げるとは。何よりも家庭を持ち、子供を持ち、人並み以上の人生を送れるようになったことが心底嬉しかった。

そんな気持ちになれたのも、これ以上の出世は考えられない。いや、そもそもが、課長にまでなったこと自体、出来過ぎ、奇跡以外の何物でもないと思えばこそだ。

ところがだ。

あの男は新規事業を打ち出しては、ことごとく成功を収め、やがて子会社の社長に、さらには本社の役員にまで昇り詰め、いまや自分を追い抜こうという勢いだ。しかも月岡は、あの男を後継者のひとりと考えていることを明言した。

誰を次期社長に据えるかは、月岡の意向次第だ。異を唱えることは許されない。まして、あの男が手がけるビジネスホテル事業は順調に軌道に乗り、ムーンヒルホテルの新たな基幹事業になろうとしている。

このままでは、次期社長の座をあの男に攫われてしまう。それも、自分が会社に引き入れた男にだ。

そんな馬鹿なことがあっていいのかと思った。自分が手を差し伸べなかったら、一生ドヤから這い上がることができなかったであろうチンピラまがいの人間が、こともあろうに俺の上に立つ。しかも、あの男は、とてつもない強運と、商才を持ち合わせている。その才を開くきっかけを作ってやったのが自分であることを思うと、それがまた我慢できなかったのだ。

そんな内心の思いを胸に押しとどめるように、またひと口シャンペンを口にすると、

「株主名簿の虚偽記載は先代社長が行ったことでしてね」

寛司はいった。「上場すれば創業者は莫大な富を得られますが、それも持ち株を売却すればの話。富と引き換えに、会社の経営に第三者が口を挟める余地が生じます。上場は創業者の夢ですが、会社を自分の意のままに動かせる体制は絶対に崩したくはないと考えるものです。そこで、先代は社員持ち株会やOBの名前を使い、自己株の所有比率を低く見せることにしたわけですが、こんな手口が通用したのも、名簿管理を自社で行う会社が多い時代であればこそ。時代は変わったんです。発覚するのは時間の問題だということは、月岡だって分かっていたはずです。なのに彼は、何の対策も講じてこなかった」

「対策を講じなかったというより、対策が見つからなかったんじゃないのかな」

ロバートがいった。「名簿に記載された株主に株を持たせようと思えば、カネが動くからね。持ち株会やOBが、それだけの資金を持っているとは思えないし、仮に持っていたとしても、今度はツキオカに巨額のカネが入るんだ。当然申告義務が生ずるわけだし、税務署だって何のカネかを説明しなければならなくなるからね」

「確かに──」

寛司は頷いた。「いずれにしても、虚偽記載が発覚するのは、時間の問題だったわけですが、その時ムーンヒルホテルは絶対的権限を振るってきた船長がいない船と化すわけです。月岡はカリスマ経営者として世に広く知られる人物です。ムーンヒルホテルの急成長は、事業、経営者双方に世間が抱くイメージ作りに成功したことが最大の要因のひとつです。そのイメージが毀損された上に、上場廃止は避けられないとなれば、株価は暴落。借入金への金利負担が重くのしかかり、業績は一気に悪化する。つまり、時限爆弾を抱えていることを知りつつも、コンティンジェンシープランを持たぬまま、月岡は闇雲に事業拡大に邁進してきたわけです」

コンティンジェンシープランとは、予期せぬ事態に備えて、予め定めておく緊急事態対応策のことだ。これもまた、己の謀反とを正当化するための方便ではあるのだが、一片の真実は含まれている。

株主名簿の虚偽記載を寛司が知ったのは、経営管理部に籍を置いていた時代のことだが、再三早期のうちに対策を講じる必要があると進言しても、これといった対策が見出せぬまま放置されてきたのだ。

ならば、発覚した時の策を立てておくべきなのだが、月岡の関心はもっぱら事業拡大にあり、こちらも放置。かくして、今日の事態を迎えるに至ったというわけだ。

「コンティンジェンシープランね」

デビットが苦笑する。「発覚すれば命取りになると分かっている爆弾を抱えながら、なんら策を講じない。そんな経営者と心中するつもりはない。それで君は我々に取引を申し出たというわけかね」

「ムーンヒルホテルを守る、いや少なくとも現在の事業を維持し、さらに発展させていくためには、この手しかなかったんですよ。従業員を路頭に迷わせないためにもね。部下の生活を守る。それも役員の責務には違いないんですから」

寛司は、苦渋の決断だったといわんばかりに、声のトーンを低くしながら視線を落とした。

「株価は不祥事が発覚して以来、連日のストップ安。最高値から三十パーセント以上も値を下げた。だが、この勢いはいずれ鈍る。一旦は上場廃止になっても、ムーンヒルホテルは必ず復活する。むしろ株価が安くなったいまが買い時だと考えている投資家がそろそろ出てくる頃だし、おそらく、銀行や大口取引先も同じように考えるだろうからね。何しろ、ホテル事業は好調。ビジネスホテルに至っては、まだまだ成長の余地が十分過ぎるくらいに残されている。ツキオカがいなくなっても、まだまだムーンヒルホテルは安泰だ」

「だからこそ、次のプランを打たなければならないのです」

寛司は、言葉に力を込めた。「今回の株価の値下がりは、虚偽記載にあることは明白です。そして、月岡はそれを承知の上で放置してきた。つまり、まっとうな経営を行ってきたのなら、株価はまだまだ上昇し続けたはずなんです。さらなる株の分割だって見込めたでしょう。今回の暴落によって、ハミルトンホテルは大損害を被った。損害賠償請求訴訟を起こせば必ず勝訴する。その時、誰がそのカネを支払うかといえば、月岡。カネを作るためには株を売るしかない──」

「そいつをファンドを使って安値で買い叩き、後にイロをつけた上で我々のものにすれば、ムーンヒルホテルをハミルトン傘下に置くことができるよな」

デビットは目に貪欲な光を浮かべると、口が裂けそうな笑みを宿した。

「こうした不祥事で、損害賠償請求訴訟が起きたケースは日本ではほとんどありませんが、その分だけ効果は絶大ですよ。まして、月岡の所有株が安値で買い叩かれるとなれば、再上場を期待していた株主だって、先を争って株を手放しにかかるでしょう。それは、銀行、大口取引先といった安定株主だって同じです」

「そのことごとくをファンドに買わせ、半分を上回ったところで、我々が引き取れば──」

含み笑いを浮かべながら、ロバートが口を開いた。

「一転、ムーンヒルホテルの株の価値は上昇する。なんせ、世界に冠たる大ホテルグループが経営権を握るんですからね。ビジネスホテル、海外展開をハミルトンの下で拡大していけば、再上場の際にはいままでの最高値を更新する初値がついたって不思議じゃありませんよ」

「もし、そうなれば、君は最大の功労者だ」

デビットは目を細めると、「なんせ、格安でムーンヒルホテルを傘下にできる上に、莫大な含み益を我々にもたらすことになるんだ。約束通り、君をハミルトンホテルに喜んで迎えるよ。もちろん、傘下になったムーンヒルホテルの社長としてね」

満足そうに頷き、高らかに明言した。

「ありがとうございます」

寛司は、グラスを掲げると軽く頭を下げた。

月岡の命運は尽きた。

会社を意のままに操れるのも、支配可能な株式を握っていればこそ。月岡家が莫大な資産を持っていることは事実だが、その大半はムーンヒルホテルの株式によるものだ。その株価が下がったところに、ハミルトンホテルが損害賠償請求訴訟を起こせば、銀行もまた貸付金の回収に走る。それどころか、ハミルトンに続けとばかりに損害賠償請求訴訟を起こすことだってあり得る。その額がどれほどのものになるのかはいまのところ分からないが、株の現物を差し出すか、あるいは売却して得られた現金を以て行う以外に術はない。

それ以前に、有価証券報告書の虚偽記載は経営者にあるまじき行為だ。

月岡の社長辞任はもはや秒読み段階。誰が後任になろうと、ハミルトンホテルの傘下になった時点で社長の座は自分のものだ。

その時、小里にムーンヒルホテルの秘密を漏らしたのが誰であったのか。さすがに月岡も気づくだろうが、もはやなす術はない。それどころか、後任を決める段階で、自分が新社長に指名されることもあり得ないわけではない。

安定株主は、銀行や大小様々の有力取引先企業だが、株式の保有比率は大企業が圧倒的多数を占める。新社長を選出するに当たって、彼らの意向は無視できない。となれば、選定基準はまずは現在のポジション、いまに至るまでの実績、年齢と様々だが、学歴も重視されるはずだ。ポジション、実績、年齢の三点において、現在の役員の中で自分に優るのはあの男だけ。しかし、あいつには学歴がない。銀行や大企業の人間から見れば、あの男はやはり『異物』。端から検討に値せずということになるに決まっている。

もし、そうなれば、願ってもない展開だ。なぜなら、誰が小里に情報を漏らしたのか。その謎を永遠に葬り去ることができるからだ。

「アソウさん」

デビットが改めて名を呼びかける。「改めていうまでもないが、我々はポジションに相応しい働きを求める。百パーセントのコストパフォーマンスは及第点。それ以上でもなければそれ以下でもない。逆にいえば、百パーセント以上のコストパフォーマンスを挙げればそれに相応しい待遇を与えるということでもある」

デビットのいうコストパフォーマンスが何を意味するかは明らかだ。

報酬である。

「承知しています。それがアメリカ企業の流儀だということも──」

寛司はいった。

「そして、優れた業績を挙げた人間には、さらなる挑戦の機会を与える。それもただちにだ。年齢、国籍は考慮の対象外。つまり、今後の働き如何では、本社のボードメンバーに名を連ねることも夢じゃないってことだ。だから、ムーンヒルホテルの社長になったくらいで満足してはいかんよ。さらなる高みを目指して、仕事に励むことだ」

デビットは、鋭い眼差しを向けてくると、「パレスの住人になると、見える世界が変わると皆一様にいうからね」

ふふっと笑った。

寛司は背筋が粟立つような興奮を覚えた。

パレスとは、ロスアンゼルスにあるハミルトンホテルの本社、最上階にある役員フロアーのことだ。まだ、一度たりとも足を踏み入れたことはないが、世界最大級のホテルグループの役員室である。眼下にロスアンゼルスの広大な街を見ながら、世界規模の事業を指揮するメンバーの一翼に名を連ねるのは、ホテル業界に身を置く者の夢だ。

「お言葉肝に銘じて──」

そうこたえた寛司に向かって、デビットは満足そうに頷くと、

「では、改めて乾杯といこうじゃないか」

ロバートに目をやった。

シャンペンが三人のグラスを満たしたところで、

「君の前途に幸運があらんことを──」

デビットが音頭を取る。

涼やかな音を立てて、三人のグラスが触れ合う。

金色のシャンペンの中に立ち上る無数の微細な泡が、間接照明の光を浴びて華やかな煌めきを放つ。

寛司には、それが己の輝かしい未来を祝福する花火のように思えた。

第八章

そこに、かつての月岡の面影はなかった。

テレビ画面に映っているのは、今日の午前中に行われた記者会見の様子である。

虚偽記載が毎朝新聞で報じられてひと月が経つ。

この間、マスコミの報道は収まるどころか、日を追うごとにエスカレートする一方となった。それこそ虚実ないまぜ。確たる裏を取ることもなく、ここぞとばかりに飛ばしまくる。もっとも、そのことごとくが虚報であればいいのだが、中には真実も含まれているから性質が悪い。

その典型的な例が大門会とのつながりだ。

磯川は既に亡いが、大門会は年一度の総会を相変わらずムーンヒルホテルで開いていた。磯川との付き合いは、先代の時代にはじまったことだが、その一点の事実を元に、あることないことを書き立てたのだ。

曰く、先代が一代にして現在のムーンヒルホテルの礎を築いた背景には、ホテル建設の際の用地確保に大門会が動いたとか、上場後も株主総会がただの一度も荒れることなく終えることができたのは、大門会が総会屋に睨みをきかせてきたからだといった具合にだ。

前者はともかく、そもそも株の名義を偽装した目的は、ムーンヒルホテルの絶対的支配権を月岡家が維持するためにあったのだ。つまり、総会屋がどんな行動に打って出ようが、総会前に過半数を超える委任状を集めているのだから無視することができる。大門会の力を借りる必要などありはしないことは、少し考えれば分かりそうなものだが、一度疑念を抱こうものなら、まだ暴かれてはいない秘密があるに違いないと見るのが世間というものだ。

『本日午前、有価証券虚偽記載問題で揺れているムーンヒルホテルの月岡光隆社長の記者会見が行われました』

ホテルの宴会場の一室に設けられた会見場にひとりで現れた月岡は、席に着くこともなく、そのまま直立不動の姿勢を取ると、

「この度は、株主様、お客様、そして世間の皆様の信頼を裏切る行為を働きましたこと、この場を借りて深くお詫びいたします」

深々と頭を下げた。

その瞬間、ひっきりなしに瞬いていたフラッシュが、怒涛のようなシャッター音と共に一斉に光り、画面が白くなった。

画面が切り替わり、着席した月岡が発するコメントが流れ出す。

「今回の責任を取りまして、私はムーンヒルホテルグループの経営から一切身を引きます。後任についてはまだ決まってはおりませんが、株主、お客様、世間の皆様の信頼を一刻も早く回復すべく、最善の体制を以て望む所存です」

淀みなく、毅然とした態度で話す月岡ではあったが、さすがに憔悴の色は隠せない。

続いて画面は記者の質問の場面に変わったが、もはや見るに忍びない。

俊太はテレビの電源を切った。

役員室の中に静寂が訪れた。

スキャンダル発覚後、月岡とは一度も言葉を交わしてはいない。いや、姿さえ見かけてはいない。小耳に挟んだところによると、月岡はほとんど出社することなく、自宅で弁護士と今後の対応策を練っているらしい。

それも無理はない。

すでに東京地検が有価証券虚偽記載容疑で捜査を進めており、月岡自身も何度か事情聴取を受けているとマスコミが報じていたし、ここに来て逮捕間近という見方も出てきた。

いったい、どないなんのやろ。わし、何ができるんやろ……。

会社を去る覚悟はできている。

気になるのは、月岡のこれからだ。

月岡が卓越した能力を持つ経営者であったことに疑いの余地はない。しかし、彼の場合、経営者としての能力を存分に発揮できたのも、先代が築き上げた会社があればこそ。生まれながらにして、跡を継ぐことが決まっていたからだ。

その全てを失おうという時、果たして月岡に、ゼロから再起を図る気力はあるのか、能力はあるのか。彼がこれから歩む道は、間違いなく荊の道となるであろうし、今までとは比較にならないエネルギーが必要になる。

もちろん、あくまでも月岡の側に仕え、支えていきたい。その決意に変わりはない。だが、それも本人にその気があればの話である。

思いがそこに至ると、ため息が漏れた。

電話が鳴ったのはその時だ。

短く二度ずつ鳴るのは内線である。

「はい……」

俊太は受話器を取り上げるなりこたえた。

「すまんが、部屋に来てくれるか」

名前を確かめるまでもない。月岡の声だ。「いますぐにだ」

「はい!」

俊太は受話器を置くと、上着を身につけ部屋を出た。

社長室は目と鼻の先だ。

それでも小走りに廊下を駆けた俊太だったが、胸中は複雑だ。

月岡に会える。直接言葉を交わすことができるのは嬉しいが、自分を呼びつけて何を話すのか。まして、辞任の意思表示を行った当日にである。

敗軍の将は兵を語らずというが、月岡は泣き言めいたことは絶対に口にしない男だ。まして過去を振り返り、経営者としての名声を欲しいままにしてきた日々を懐かしむような男でもない。

とすれば……。

そや、敗軍の将といえば何の本やったか、同じような言葉があったで。敗軍の将は以て勇を言うべからず。亡国の大夫は以て存を図るべからず。滅んだ国の家老は、国の存立を考えるべきやないいうことや。

やっぱり、後任社長を選定する過程で、わしの処遇が問題になったんやないやろか。誰が新社長になるにしても、役員をそのままにしとったら、世間に示しがつかん。人を入れ替えるいうなら、真っ先に候補に上がるのはわしや。社長はわしを引き立てた張本人や。自ら引導を渡すつもりとちゃうやろか……。

元より覚悟はできている。

俊太は社長室のドアをノックした。

「入れ」

中から月岡の声がこたえた。

「失礼します」

俊太はドアを開けた。

月岡はひとりではなかった。

部屋の中央に置かれた応接セットのソファーに、月岡と向かい合って座るひとりの男がいた。

歳の頃は六十歳前後か。オールバックに固めた頭髪。血色はいい。細身の体に見るからに高価そうなスーツを纏った姿からは一分の隙も窺えない。

男は銀縁眼鏡の下の大きな目で、まるで俊太を値踏みするかのように、じろりと一瞥すると、ゆっくりとした所作で立ち上がり名乗った。

「はじめまして。帝都銀行の大坪です」

仰天した。

銀行の人間とはとんと縁がないが、帝都銀行はムーンヒルホテルのメインバンクだ。サシで月岡と会える人物といえば、頭取の大坪克正に違いない。

「は、はじめまして。小柴でございます」

俊太は慌てて頭を下げると、「ちょっ、ちょっとお待ちいただけますでしょうか。名刺を持ってこなかったもので……」

すぐに踵を返そうとした。

「いいんだ。名刺の交換はしなくていい。ちょっとお前を交えて話をしたいことがある」

月岡は俊太を制すると、「まあ、そこに座れ」

空いたソファを目で刺した。

いったい何事や。

怪訝な気持ちを抱きながら、俊太が腰を下ろすと、

「テン、お前を呼んだのは他でもない。俺の後任についてだ」

月岡は切り出した。「俺はそう遠からず逮捕される。執行猶予はつくだろうが、有罪は免れないし、俺自身も控訴して争う気はさらさらない。つまり、前科持ちになるわけだ」

「前科持ちって……」

当たり前の話だが、実際に月岡の口をそんな言葉が衝いて出ると、やはり重みが違う。

俊太は、胸が重苦しくなるのを感じながら言葉を飲んだ。

「しかも経済事犯だ。そんな経営者の復帰を許すほど世間は甘くはない。マスコミの中には、誰が次期社長になったとしても月岡は院政を敷き、これから先もムーンヒルホテルを支配するつもりだと報じる向きもあるが、そんなつもりはこれっぽっちもねえんだ。俺は、事業の一切からすっぱりと手を引くと決めた」

穏やかな口調だった。

経緯を考えれば、無念、未練と覚える感情はいくらでもあるだろうに、そんな気配は微塵もない。達観しているというか、どこか他人事のような口ぶりですらある。

それが、俊太には切なかった。

「社長……」

思わず漏らした俊太に向かって、

「だがな、そうはいっても会社の今後は気にかかる」

月岡は続けた。「親父がはじめたこととはいえ、不正行為を承知で放置してきたんだ。責任を問われるのは当然なんだが、トップに君臨してきた人間の不祥事で、会社、ひいては従業員の人生が狂うことだけは断じてあってはならない。そのためには、ムーンヒルホテルが名実共に生まれ変わったことを世間に認めてもらわなければならない。そこでまずは手始めとして、俺は持ち株の一定数を売却することを決めた。その一定数を引き受けるのが帝都銀行。よって、次期社長は帝都銀行から出してもらうことになった」

「そうですか……」

やっぱり──と俊太は思った。

会社が名実共に生まれ変わったことを世間に認めてもらうためには、役員の刷新も不可欠だ。それを告げるためだったのだ。

「もっとも株を手放した、社長が替わった程度ではブランドイメージの回復は難しい。月岡色を払するためには、大幅な役員の入れ替えが必要だ」

果たして月岡はいう。「誰を残し、誰を入れるかは、新社長の仕事になるが、お前には引き続き役員に留まってもらうことになった」

「わしに留任せいいわはるんですか?」

俊太は耳を疑った。

銀行というところは、学歴主義の典型的な業界だ。役員を大幅に替えるというからには、真っ先に解任されても不思議ではないのに、いったいこれはどういうわけだ。

「月岡さんの強い要望でしてね」

大坪が代わってこたえた。「ウエディング事業、球場建設、それにビジネスホテルと、いまやムーンヒルホテルの中核事業のことごとくを発案し、成功に導いたのは、小柴さんだとおっしゃる。新社長には、ムーンヒルホテルを再生する十分な能力を持った人間を就任させることはいうまでもありませんが、経営というものはマネージメント能力に長けているだけでは務まりません。大切なのは、事業を創出する力、それをものにする力なんです。銀行にそんな能力を持った人間がいるのか? そもそも、そんな能力を持った人間が役員になるまで銀行に残るのか? 月岡さんにそういわれたら、返す言葉がありませんよ」

大坪は、苦笑を浮かべる。

ありがたい言葉だった。月岡が自分をそこまで買ってくれている。素直にそれが嬉しかった。

だが、必死に知恵を絞り、身を粉にして働いてきたのは、学もない自分に目をかけてくれた月岡の恩に報いなければならないと思えばこそだ。第一、誰が社長になるにせよ、その時点で一国一城の主だ。月岡の意向など意に介さないであろうし、大坪にしたところで一役員がどうなろうと知ったことではないとなるに決まっている。

「もったいないお言葉やと思います」

俊太はいった。「でも、わし、決意したんです。社長が辞めはんのなら、わしも会社を辞めます。思う存分働かせてもらえたんも、役員にまでなれたんも、すべては社長がチャンスを与えて下さったからです。社長には恩があります。わし、その恩をちっとも返しとらへんのです。そやし、わし、これから先も社長の側で仕えたいんです」

黙って俊太の言葉に聞き入る月岡の目前で、大坪が目を丸くして、驚きを露わにする。

無理もない。役員に名を連ねるのは、サラリーマンの夢だ。地位にしがみつこうという人間はいても、自ら進んで君主に殉ずる人間などいようはずもないからだ。

「わし、さっき、テレビのニュースで社長の辞任会見を見ました」

俊太は続けた。「立派やったと思います。いいたいことは山ほどあったやろうに、弁解は一切せん。何に書いてあったかは忘れてしまいましたが、敗軍の将は以て勇を言うべからずいう言葉があります。社長はそれを実行しはったんです。でも、この言葉には続きがあります。亡国の大夫は以て存を図るべからず。わしかて、ムーンヒルホテルの家老のひとりですわ。会社が新体制の下で生まれ変わるいうなら、わしが残るのは──」

「テンよ」

俊太の言葉を月岡が遮った。「お前の気持ちはありがたいがな、俺がいま、心底望んでいるのは、ムーンヒルホテルグループがこれから先も成長を続けていくことなんだ。新体制の下で、新しい目標を抱き、社員が一丸となって働く。そして、努力して成果を挙げた社員は必ずや報われる。そんな会社であり続けることなんだ。お前は、俺に恩義を感じているようだが、それは違うぞ。俺は別にお前に特別目をかけてきたわけじゃない。誰よりも優れた功績を挙げた。だからそれに相応しいポジションを与えただけに過ぎないんだ。期待にこたえられなければ、容赦なく切り捨てる。それが俺の流儀だってことを、お前も知ってるだろ」

確かに、その通りかもしれない。

しかし、そうはいわれても、すぐに納得できるものではない。

俊太は返す言葉が見つからず、口を噤んだ。

「敗軍の将は以て勇を言うべからずか」

月岡はふっと笑うと、「史記の淮陰侯を引用してくるとは、運転手をやってた頃から比べりゃ、大した学を身につけたもんだが、その言葉をここで使うのは間違いだ。敗軍の将は以て勇を語らずってのはその通りだが、その軍を会社に置き換えれば、別にムーンヒルホテルが潰れちまったわけじゃない。城主が勝手にこけちまっただけだ。会社はまだ立派に存在してるし、これから大勢を立て直そうってんだぞ。新しい城主を誰が支えるかっていやあ、大夫じゃねえか。ホテル業界のビジネスを全く知らない素人に経営を一任しちまうのは危険だ。それを納得してくれたからこそ、大坪さんもお前の留任に賛成してくれたんだ」

諭すような口調でいった。

「そらわかります。そやけど──」

「それにな、お前は俺の側で仕えたいっていうが、いったい何をやろうってんだ?」

そう訊ねられても、こたえられるわけがない。

月岡は、ふっと息を漏らすといった。

「残念だが、テンよ。俺は新しい事業を起こす気持ちはない。今回の件を以て、引退だ」

「引退って……そしたら、毎日なにしはるんですか」

「やるこたあ、たくさんあるさ。代を継いでからは、ヨットやゴルフにうつつを抜かしている時間なんてなかったからな。どうしてもっていうなら、つき合わせてもいいんだが、そんな生活にお前が耐えられるわけねえだろ?」

月岡は、さすがに寂しそうに笑うと、「もっとも、今回の件では安定株主の皆さんには、大変な迷惑をかけた。株価の暴落で、多額の含み損を抱えさせてしまったからな。本来なら、損害賠償請求訴訟を起こされても仕方がないところだが、皆さん、ムーンヒルホテルが再び上場する日が来ることを信じて、株は手放さない。そうおっしゃって下さったんだ。それはなぜだか分かるか?」

一転して問いかける言葉に力を込めた。

俊太は首を振った。

「小柴さん。その大きな理由のひとつは、あなたの手掛けられたビジネスホテル事業が、ますます大きなビジネスになる。ムーンヒルホテルには、成長の余地がまだまだ十分にある。そう考えているからです」

大坪が代わってこたえた。「小柴さんは、月岡さんを救ったんです。もし、この事業がなかったら、我々だって黙っちゃいません。損害賠償請求訴訟も起こしましたよ。月岡さんがそれに応じるためには、株を売却したカネを当てるか、あるいは株の現物を以って弁済するしかなかったわけです。うちが月岡さんの所有株の買収に応じたのも、再上場の暁には、買取価格を遙かに上回る初値がつくと思えばこそ。我々だって、目論見ってものがあるんです。いまここで、あなたに抜けられたら、私も困るんですよ」

「その点からいえば、お前は十分な恩返しをしたってことになるんだが、それでもまだ返しちゃいないと思っているなら、再上場を目指して会社のために働くことだ。恩を返したと思うなら、俺に殉ずる理由はない。つまり、どっちにしたって、お前は会社を辞めるこたあねえんだよ。麻生とふたりで、新社長の下で存分に働け」

恩を返し終えた、返し足りぬ。どちらにしても結論は同じ。

なんだか、禅問答のようで、いいくるめられてしまった気になったが、それよりも寛司の名前が出たことで、俊太の気持ちが一変した。

「カンちゃんも、留任しはるんですか?」

「ああ」

月岡は頷いた。「ハミルトンとの合弁事業の将来性を株主の皆さんが認めて下さってね。ハミルトンとの事業は麻生の功績だ。いまここであいつに抜けられたら困る。大坪さんも、それを理解して下さったからお前と麻生、ふたりの留任は認める。そうおっしゃって下さったんだ」

「カンちゃんは、そのことを知ってはるんですか?」

「さっき決まったばかりだぞ。帰国後に、俺の口から伝えるよ」

月岡は、力の籠った声でこたえると、「これからは、麻生とお前が中心になってムーンヒルホテルを引っ張っていくんだ。お前らふたりは兄弟同然の仲だ。最強のコンビには違いないんだからな。麻生も、お前が残ると聞いたら、さぞや喜ぶだろう」

運命とは面白いものだと俊太は思った。

同じドヤ育ち、兄と慕い、自分がここで働くきっかけを作ってくれた寛司と、ふたりして新しいムーンヒルホテルを築き上げる命を授かる日がくるとは──。

月岡が会社を去ることへの寂しさ、無念は、拭い去ることはできない。だが、その一方で、猛烈な闘志が胸中にこみ上げてくる。

「精一杯やらしてもらいます! 会社をますます繁栄させることが、社長の恩に報いることになるいわはんのなら、わし……」

なぜだか分からない。

急に胸にこみ上げるものを感ずると、目頭が熱くなり、俊太は絶句した。

社長への恩は、一生かかっても返せるもんやない。それに恩いうなら、カンちゃんにもある。これからは、カンちゃんを支えていかなならん。

俊太は、涙を必死の思いで堪え、決意を新たにした。

しかし、そんな俊太の思いとは裏腹に、事態は思わぬ展開を迎えることになったのである。

〈次回は9月20日(水)に更新予定です。〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。