第16回

前回までのあらすじ

毎朝新聞が有価証券虚偽記載を報じたことで、ムーンヒルホテルは上場廃止の危機に直面し、社長の月岡は退任を余儀なくされた。月岡に大恩ある俊太は、自らも会社を辞めることを決意したのだが、留任して寛司とともに会社を引っ張っていくよう言い渡される。しかし、この騒動の裏には思いもよらない人物の裏切りがあった……。

それは月岡が退任してから、八ヶ月が過ぎた頃に起きた。

帝都銀行専務からムーンヒルホテルの社長に転じた北畑智成が就任早々取り掛かったのは役員人事だった。実に三割もの役員が入れ替わるという大改革であったのだが、寛司は副社長、俊太は専務にと昇格し、北畑を支える重要な役割を担うことになった。

北畑はホテル経営に関してはずぶの素人だ。

海外事業担当を外れた寛司は、北畑と共に経営全般を指揮する立場になったわけだが、月岡が引退を決めた以上、これが何を意味するかは明らかだ。

いずれ寛司が北畑の後継者として、社長に就任することが濃厚になったと見て間違いあるまい。

海外に出かける機会がなくなり、本社での仕事が大半ということになれば、顔を合わせる機会が格段に増す。ましてビジネスホテルは、再上場を目指す上で肝となる事業だ。俊太が寛司の部屋を訪ね、寛司が俊太の部屋を訪ねているうちに、ふたりの距離は以前のように縮まった。

月岡が去った寂しさは拭えないものの、寛司と共に会社の舵取りを担うことになった。それが俊太には心底嬉しい。

第一、寛司には恩がある。

寛司が引き上げてくれなければ、いまの自分はなかったのだ。

カンちゃんを支えていかなならん。この難局を乗り越えれば、社長への恩返しにもなるし、カンちゃんは社長になるんや。

「月岡さんが相談したいことがあるそうでね。急な話だが、麻生君と一緒に今夜自宅に来てほしいというんだ」

北畑を通じて月岡の依頼を告げられたのは、そんな最中のことだった。

証券取引法違反で逮捕されてから五ヶ月。保釈され、判決待ちの身ということもあって、社長の座を退いてからは、一度も会っていないこともある。

どんな生活を送っているのか。元気でいるのだろうか。

月岡のことは常に頭の中にある。

俊太がふたつ返事で応じたことはいうまでもない。

元麻布の自宅には、寛司の社用車で向かった。

黒塗りのクラウンの後部座席に並んで座る寛司が、

「まさか、俺たちにこんな日が来るとはなあ」

感慨深げに口を開いたのは、車が走り出した直後のことだ。「ドヤ育ちの俺たちが、いまやムーンヒルホテルの副社長と専務だ。ほんと、人の一生には何が起こるか分かんねえもんだな……」

「ほんまやなあ……」

俊太も本心から応じた。

ドヤで荒んだ日々を送っていた自分が、どうしてここまで上り詰められたのか──。

もし、旋盤工としての道を真面目に歩んでいたなら。当たり屋稼業に身を落としていなければ。あの日、寛司と会っていなければ。

何かひとつでも欠けていたなら、こんな日がやって来ることはなかったのだ、という思いを抱いたことは何度もある。

「まあ、カンちゃんは一流の大学出てはるし、ドヤ育ちいうても中卒のわしとは大違いや。偉うなっても不思議やないけど、自分のことを考えると、わし、ほんま怖なることがあんねん。わしがまともな人間やっても──」

そう続けた、俊太の言葉を遮って、

「お前が、そう思うのも無理はないさ。俺だって同じ気持ちになることがあるからな」

寛司はしみじみとした口調でいった。「もし、家が大学に行かせる余裕がなかったら。社長が同じ教室の先輩でなかったら。そりゃあ、俺の家はドヤの中では金持ちだ。だがな、世間にはあの程度のゼニを持ってる家はごまんとある。生まれついた環境を恨めしく思ったこともあれば、失敗もしたし挫折もあった。なんで思い通りにならないんだ。いったい俺はどうなるんだ。途方に暮れる思いに駆られたこともある」

そんなことは初めて聞いた。

「カンちゃんが?」

「だけどな、いまになって振り返ってみると、なるほどそういうことだったのか。俺がドヤに生まれついたのも、あの失敗や挫折があったのも。全てはこうなるためだったのか。人生ってのはうまくできているもんだなって思うようになってな」

寛司は視線を落とし、ふっと笑った。「人生が思い通りに行くやつなんて、この世にはいやしないんだよ。失敗や挫折にも意味がある。人生のレールはあらかじめ敷かれてんだよ。もちろん、当の本人にはそれが分からない。なぜなら、それを作ったのは神様だからだ」

「なるほどなあ……わしらは、神様が敷いたレールの上を走ってるだけか……」

寛司の言葉がすとんと腑に落ちる。

「だがな、テン」

寛司は口を結び一瞬の間を置くと続けた。「そう思えるのは幸せな人間なんだぜ。神様は万人に優しいってわけじゃない。この世を呪い、神様を恨むような人生を送る人だって大勢いるんだ。そして、いつ冷酷な仕打ちを下すか分からないのが神様だ。ほら、人生一寸先は闇っていうだろ? 俺たちだって、いまは日を浴びちゃいるが、いつ闇の中に叩き落とされたって不思議じゃないんだぜ」

その言葉に俊太ははっとなって、思わず寛司に目をやった。

いつの間にか寛司は横目でこちらの顔を見ている。

暗く沈んだ瞳だ。それでいて、何か得体のしれないものが瞳の奥で冷たい光を放っている。

話の内容が自戒を込めたものだけに、そうした気持ちの表れなのかもしれないが、同じ瞳の表情をどこかで見たことがある。

それは、どこだ──。

しかし、俊太が記憶を辿るより早く、寛司はすぐに視線を元に戻すと、

「社長を見ていると、そのことがよく分かる」

小さな吐息を漏らす。「あの人は、銀の匙をくわえて生まれてきた人だ。生まれついたその日から、将来ムーンヒルホテルを率いることを宿命づけられ、帝王学を学び、見事日本一のホテルグループに育て上げた。富も名声も地位も得た。これ以上望むべくもない人生を歩んできたんだ。それが一瞬にして暗転。会社を追われ、いまや判決待ちの被告だ。誰がこんな運命が社長に待ち受けているなんて思うよ」

「そやなあ……。ほんま神様は残酷なことをするもんや……」

「もっとも社長の場合、堕ちたとはいっても地位を失っただけで、暮らし向きが変わるわけじゃないから、まだマシだ。だがな、その点俺たちは違う。這い上がってやっといまの地位を手にした分だけ、堕ちた時のダメージは大きい。俺の人生にも良かった時代があっただけまだマシだ。良かったといえる時代もなく、終わっていく人が大半なんだなんて、思えるわけがねえからな」

「カンちゃん、そら考えすぎやで。どう考えたって、昔のような生活に戻るわけないし、収入が減ったら減ったで、身の丈に合わせた生活をすればええだけやん。そら、カンちゃんとこは裕福やったけど、ドヤの中での話やん。ここまできたら、堕ちたいうても、ドヤにいた時に比べれば──」

「その身の丈に合わせた生活ってやつを、いつの間にかしちまってるからいってんだよ」

寛司は眉間に皺を刻み、首を振った。「会社だって大きくなるに従って、従業員も増えればオフィスだって大きくなる。つまり固定費がその分だけ膨らんでいくだろ? 暮らしだって同じだ。収入が増えりゃ、それ相応の家を買う。子供だって学費が高い私立に行かせんだろうが。家がでかくなれば、光熱費もかかる。別荘だ、車だってやってたら、維持費もかかる。気がつけば、減らそうにも減らせない固定費がかかる生活をしちまってるんだよ」

「わし、別荘なんて持ってへんし」

「お前のことをいってるんじゃねえよ。一般論としていってるんだ」

寛司は少し苛ついた口調でいった。「たとえば、一千万の貯金があるといやあ、年収二百万やそこらの人は、十分じゃねえかっていうよな。だがな、三千万あったカネが一千万になっちまったら、『しか』ないって気持ちになるんだよ。収入はがた減りする。貯金は増えない。減る一方。なのに、固定費がいままで通りにかかるってことになったらどうなるよ。なまじ、いい暮らしをしちまったがゆえに、元に戻すのは難しくなるもんなんだ。身の丈に合った暮らしをすればなんてのは、カネを持ったことがねえやつがいうことだ」

「そやなあ……」

俊太は語尾を濁した。

月岡の側に仕えたいといった時、文枝は慎ましい生活をすれば、当分の間はなんとかなるといった。決して贅沢をしているわけではないが、収入が増えればそれに応じた暮らし向きになってもいるし、母親には十分な暮らしができるだけの仕送りもしている。慎ましくとはいっても、減らすに減らせぬ固定費がそれなりに生じているのは確かである。

「俺たちだって、どうなるか分かんねえぞ。今回の騒動はまだ終わっちゃいない。社長が大株主であり続けるのは変わらないとしても、これだけの事件になったからには、もはや会社の経営に口出しはできない。となれば、誰が力を持つんだよ。現に新社長は帝都銀行から迎え入れたし、役員の三割はいきなり退任だ。そして一旦社長になれば、独自色を出したくなるのが経営者だ。古株は邪魔だとばかりに、残党狩りがはじまったって不思議じゃないんだぞ」

それは違う。

寛司は、月岡の真意を知らないようだ。

自分たちふたりが、解任どころか昇進できたのは、月岡の強い意向によるもので、大坪がその意向を汲んだからこそだ。

俊太がことの経緯を話そうとしたが、芝から元麻布は僅かな距離だ。

早くも、月岡の屋敷の門が行く手に見えてきた。

「面倒な話じゃねえといいがな……」

寛司が呟くと同時に、車が止まった。

懐かしい光景だった。

門を入ってすぐのところには、かつて運転手を務めていた時代に暮らしていた部屋がそのまま残っている。

もっとも、長い年月を経たいま、人が住んでいる形跡はなく、部屋に続く小径も伸びた枝葉に遮られ、薄汚れたドアの一部が見えるだけだ。

ここで暮らし、ここで文枝に出会った。

いまの自分に至る道のりは、ここからはじまったのだと思うと、俊太の脳裏にあの時代の情景が鮮明に蘇る。

しかし、感傷に浸る時間はない。

邸内を歩き、玄関に入ると、お手伝いの女性の案内で、ふたりは応接室に入った。

「おう、久しぶりだな」

上座に座る月岡が、ひょいと片手を上げた。

明るい声だ。顔色もいい。

「社長……」

それ以上の言葉が出ない。

絶句した俊太に向かって、

「社長はねえだろ。北畑さんを前にして、失礼じゃねえか」

月岡は、苦笑いを浮かべる。

その通りには違いないのだが、かといって何と呼べばいいのか、適切な言葉が浮かばない。

「オーナーでいいんじゃないですか。会社が月岡さんのものであることには変わりないんですから」

そういったのは、大坪である。

月岡に目が行ったせいで気がつかなかったが、部屋の中には三人の男がいた。

大坪と北畑、残るひとりには会った記憶がない。

「麻生は大坪さんに会うのははじめてだったな」

月岡は寛司に問いかけ、「帝都銀行の大坪頭取だ」

と紹介した。

ふたりが名刺を交わし終えたところで、

「そして、弁護士の山城さんだ」

月岡は、残るひとりを紹介した。

差し出された名刺には、「山城国際弁護士事務所・カリフォルニア州弁護士・山城英輔」とある。

銀行の頭取に弁護士って、何がはじまるんや。

裁判のことなら自分たちには関係ないし、かといって他に思い当たる節はない。

ますますもって、この会合の目的が分からなくなる。

「ふたりとも、そこに座れ」

月岡は椅子を勧めると、「実は、損害賠償請求訴訟が持ち上がってな」

一転して、重い口調で切り出した。

「損害賠償請求訴訟って……なんのことです?」

俊太は思わず問い返した。

「今回の件が発覚した途端、うちの株価は暴落だ。原因は株主名簿の虚偽記載。インチキした俺に、損失分を支払えってわけだ」

「そやけど、再上場した暁には、株価はいままで以上に上がる。株主の皆さんは、そう納得なさってくれはったんと違いますのん」

「国内の株主さんはな」

「えっ?」

「訴訟を起こしたのは、ハミルトンホテルだ」

月岡は硬い声でいい、「今回の件は麻生を通じて説明させたが、ハミルトンは、はっきりとした見解は示さなかった。そうだよな?」

と寛司に問うた。

「ええ……。しかし、まさかいきなり訴訟を起こすとは……」

顔を強張らせる寛司の様子からすると、どうやら相当に深刻な事態のようだ。

「アメリカは、不正に厳しい社会ですからね。それに、ビジネスにも極めてシビアだし、不利益を被ろうものなら、これまでの経緯などなかったように掌を返すのがアメリカ企業です。経営も日本とは違って短期的視点で見ますからね。再上場よりも、まずは落とし前をつけろ。話はそれからだってところなんでしょうね」

表情を曇らせる大坪に続いて、山城が口を開いた。

「これはただの損害賠償請求訴訟ではないと思うのです」

「といいますと?」

問い返したのは寛司だ。

「大坪さんがおっしゃったように、アメリカ企業は損得に極めて敏感です。カネへの執着は凄まじいものがありますし、相手の窮地は絶好の好機。取れるものはとことん毟り取ろうとするのが常です。そう考えると、今回の訴訟の目的は、損害賠償のみにあらず。もうひとつ別の狙いがあるように思えるんです」

「別のと申しますと?」

寛司は先を促す。

「この機に乗じて、ムーンヒルホテルを傘下に置くことを狙っているんじゃないかと──」

室内が重苦しい沈黙に包まれた。

山城は続ける。

「ハミルトンホテルは世界各国で事業を展開していますが、アジアには一店舗もありません。もちろん現時点では、ビジネスになりそうな国が限られていることもありますが、アジアの中では日本は突出して豊かな国であり、巨大な市場です。政治も安定していれば、これから先も経済が成長し続けるのも間違いない。大変魅力的な市場と映っているはずです」

「ムーンヒルホテルは、日本一のホテルグループ。ましてビジネスホテル事業は、まだまだ拡大の余地が残されている。しかも、こちらはハミルトンホテルのノウハウを導入もしていれば、海外で合弁事業を行ってもいる。何よりもハミルトンは、すでにムーンヒルホテルの株を大量に所有している。傘下に置くには、理想的な条件が揃っていますからね」

腕組みをする大坪は、思案するように天井を見る。

「しかし、株の過半数以上は、社……いやオーナーのもんやないですか。オーナーが手放さなんだら──」

「理屈の上ではその通りなんですが、もしハミルトンの狙いがそこにあるとしたら、彼らにはまだ手が残されているんです」

「アメリカでの訴訟ですね」

山城の言葉に反応する寛司の声に緊張感がこもる。

「間違いなく、この訴訟はハミルトンの主張が認められるでしょう」

山城は頷く。「賠償額はオーナーの資産でカバーすることは可能でしょうが、ムーンヒルホテルとハミルトンは、双方の名前を冠したホテル事業も合弁で行っているわけです」

「事業は順調に行っとるやないですか。ハミルトンには、何ひとつ迷惑かけとらへんやないですか」

「小柴さん。理屈なんていくらでもつけられるんですよ。それがアメリカの訴訟の恐ろしいところなんです」

山城は冷ややかな声でこたえた。「不正を隠してハミルトンの名前を冠した合弁事業契約を結んだ。こんなことを行っている会社だと、事前に知っていたら、ハミルトンはムーンヒルホテルをパートナーには選ばなかった。おかげでハミルトンのブランドイメージは毀損されてしまった」

「そないアホな話がありますかいな。客が寄りつかんようになってもうたいうならともかく、影響は全くないのに、それでブランドイメージが毀損されたって、どないして証明するんですか? 難癖そのものやないですか」

「ですから、難癖が通るのがアメリカの訴訟なんですよ」

山城は、ぴしゃりと返してくる。

「分かります」

同意したのは寛司だった。「アメリカで訴訟を起こすにあたっては、合弁事業の解消を通達してくると見るべきです。そうすれば、事業をはじめるまでに費やした時間、マンパワー、投下資金、それにかかる金利、毀損されたブランドイメージへの損害賠償。ありとあらゆるものをぶち込めますからね」

しかし、俊太には納得がいかない。

「なんで資金だとか、金利だとかが訴訟の対象になるんですか。開業したホテルを閉めなならんいうわけやあるまいし、イメージが悪うなったいうんやったら、うちの名前外せばええだけですやん」

声を荒らげた俊太に向かって、

「さっき、山城さんがおっしゃっただろ。取れるもんはとことん毟り取るのがアメリカ企業だって」

寛司は、分からんやつだといいたげに、俊太を横目で睨む。「まして、アメリカの裁判は陪審制だ。法律に素人の、抽選で選ばれた一般市民が有罪、無罪を決めるんだ。それも、弁護士同士のやり取りを聞いてだぞ。山城さんには失礼だが、要は弁の立つ弁護士を抱えた方が勝つんだよ。ハミルトンは、名うての弁護士をわんさか抱えているし、まして日本企業相手の訴訟となりゃ、判決が限りなく満額回答になるのは目に見えている」

「満額回答って……なんぼになりますのん……」

「それは実際に訴訟が起きてみないと分かりませんが、日本人の常識からは考えられない額になるのは間違いありません。一流企業にはそれ相応の社会的責任が伴うと考えられているのがアメリカですからね。信に背いたとなれば、とてつもないペナルティを課せられるのが通例なんです」

話を聞くだに恐ろしい相手と組んだものだ、と俊太は思った。その一方で、こんな深刻な話をなぜ自分たちに聞かせるのか、ここに呼ばれた理由がますます分からなくなった。

「アメリカで訴訟が起き、ハミルトン勝訴となれば、莫大な賠償金の支払いが生じます」

山城は続ける。「最終的に誰がそのカネを用立てるかとなれば、月岡さんです。かといって、現金だけでは足りるかどうかは分かりません。となれば月岡さんが保有している株式を売却して賠償金を捻出するか、あるいはハミルトンに譲渡するかしか道はない。いずれにしても、ムーンヒルホテルの経営基盤が根底から覆る可能性が出てくるわけです」

「お前たちを呼んだのは、そうなった場合のことを話しておきたかったからなんだ」

月岡が口を開いた。「ハミルトンがアメリカで損害賠償請求訴訟を起こせば、国内の株主も動揺する。上場廃止になったにもかかわらず、皆さんがいままで通り、株を持っていて下さるのは、必ずムーンヒルホテルに再上場する日が来る。そう思っているからだ。だが、ハミルトンの傘下になれば、再上場はまずあり得ない」

なんで、そないなことがいえるんやろ。再上場時にいままで以上の値がつけば、ハミルトンが所持した株の価値は格段に増すやないか。それは、資金の調達が格段に楽になるということとちゃうんか。

「ハミルトンはアメリカの株式市場だけでも、十分な資金を調達できますからね」

俊太が口を開くより先に、寛司がいった。「まして、損害賠償の対価として、うちの株を手に入れたとなれば、事実上びた一文使うことなく、優良企業を買収したことになる。ハミルトンの株価は、間違いなく跳ね上がるでしょうからね」

俊太は愕然として言葉を失った。

びた一文使うことなくって……。それも、実害があったわけやない。難癖そのものの理屈をつけて、欲しいものを手に入れるって、まるでヤクザやないか。いや、ヤクザかてこんな悪どいことはせえへんで。

「そうなれば、日本の株主さんだって躊躇しない。損得となれば、人が豹変するのは洋の東西を問わない。一斉に損害賠償請求訴訟を起こすだろうからな」

月岡は重いため息を漏らしながら寛司を見ると、「麻生のいう通りだったな。ハミルトンとの合弁事業を行うにあたって、アメリカ人を甘く見ない方がいいっていったお前の忠告は正しかったよ……」

力なく目を伏せ、悄然と肩を落とした。

月岡のこんな姿ははじめて見る。

「何をいうとんのです!」

切なさもあった。悲しさもあった。ハミルトンの狙いのあまりの浅ましさに怒りを覚えたせいもある。

「まだ起こされてもいないアメリカでの訴訟のことを、あれこれ考えたってしょうがないやないですか。いま、わしらが考えなならんのは、ムーンヒルホテルを一日も早く再上場することとちゃいますのん」

俊太は内心に渦を巻く、複雑な思いを言葉に込め、月岡に激しく迫った。

「それはそうなんだが、ハミルトンの狙いが山城さんの読み通りだとすれば、彼らはどんな手段を講じてでも目的を遂げようとするのは間違いないんだ」

「目的を遂げるためなら手段を選ばないのがアメリカ人なら、彼らは冒険、ギャンブル、ファイト──戦いが大好きなんです。成功した時に得られる対価が大きければ大きいほど、周到な準備を行った上で戦いをしかけてくる。それが顕著に現れるのが訴訟なんです」

異論を口にする人間がひとりも現れないところを見ると、どうやらいまの山城の説明は、自分に向けられたものであるようだ。

「小柴さん」

果たして、山城は俊太に向かっていった。「第二次世界大戦のことを考えてみてください。諸説ありますが、アメリカは日本が開戦に踏み切ることを知っていたと私は思っています。その上で、真珠湾を攻撃させた。つまり、不正行為を働かせたわけです。それが、アメリカ人の怒りを掻き立てた。戦争がはじまっても、すぐに反撃に出なかったのは、態勢が完璧に整うまでに準備が必要だったからです。あの人たちを甘く見てはいけません。やるからには徹底的、かつ容赦なくやる。勝利を収めるまでの、道筋がはっきりついてから行動を起こす。それがアメリカ人なんです」

室内を再び重苦しい沈黙が満たす。

「オーナー。ひとつお訊きしていいでしょうか」

口を開いたのは寛司だった。

寛司はじっと月岡の目を見ると、驚くべき質問を投げかけた。

「オーナーは、これからのムーンヒルホテルはどうあるべきだと考えていらっしゃるのですか? 引退にあたっては、経営には一切タッチしないと宣言なさった。事実、ムーンヒルホテルは北畑さんを社長に迎え、新体制の下スタートを切りました。ですが、今回の一件で株の一部を帝都銀行さんに売却したとはいえ、オーナーが圧倒的多数の株を持つ、大株主であるという構図は変わってはいません。つまり、引退したとはいえ、その気になればムーンヒルホテルを支配できる立場にあることに変わりはないのです。この体制をいかにして維持するかが、一番の望みなのでしょうか。それとも他に、望んでいるものがおありなのでしょうか」

ただでさえ重苦しかった部屋の空気が凍りつく。

寛司が発した問いかけが、今回の事態収拾にあたって、はからずも生じてしまった歪な経営体制の本質をついていたからだ。誰も触れない、いや触れてはならない、タブーに正面から切り込んだからでもある。

「俺は……」

暫しの沈黙の後、月岡は重い声でいった。「ムーンヒルホテルグループが、このまま成長を続け、他の追随を許さない日本一のホテルグループの地位を揺るぎないものとし、やがては世界一のホテルグループに成長してほしいと願っている」

「でしたらハミルトンの傘下に入れば、夢の実現にはむしろ早道。そう考えることもできると思いますが?」

「傘下に置いた会社を、いままで通りにしておく経営者がいると思うか?」

月岡は、片眉を吊り上げると、「ハミルトンにはハミルトンのやり方ってものがある。事業戦略も変われば、仕事のやり方も組織だって変わる。経営者の思い通りに会社を動かそうとするなら、経営陣も入れ替えるだろうさ。そして、経営トップはアメリカ人だ。となれば、ムーンヒルホテルは全てアメリカの流儀で動く会社になるわけだ」

月岡は、そこで一旦言葉を区切ると、「経営権を握られるってのはな、国を取られたのも同然なんだ。城という器は残っても、家臣はそうはいかねえ。新しい領主が真っ先に首を挿げ替えにかかるのは、お前たち役員だ」

激しい言葉で断じた。

「ハミルトンはそれほど愚かな会社ではないと思いますよ」

寛司は動ずる様子もなく、落ち着いた口調で返した。

「なに?」

「彼らは海外での事業の仕方を熟知しています。考えてもみてください。世界中で事業を展開しているハミルトンが、なぜこれまで日本に出てこなかったのか。合弁事業を行うにあたって、なぜ株の持ち合いを条件にしたのか」

月岡は言葉を返さなかった。

鼻から深い息を漏らすと、ソファーの背もたれに身を預ける。

寛司は続ける。

「日本が大きな市場であることは、彼らも熟知しています。しかし、日本のビジネス環境は独特なんです。まず英語が通じません。本国からマネージャーを派遣しても、従業員と意思の疎通が図れないのでは会社の体をなしません。英語が話せる日本人をマネージャーに据えても、アメリカの流儀がそのまま通じる社会でもない。それは、ビジネスホテルをはじめる際にハミルトンからマニュアルの提供を受けましたが、多くの部分を日本流にアレンジしなければならなかったことからも明らかです。それどころか、我々が改良したマニュアルを、逆にハミルトンが取り入れているではありませんか」

「つまり、ムーンヒルホテルを傘下に収めても、会社の経営形態には手をつけない。日本人に経営を任せると、麻生さんは考えているわけですか」

大坪が、念を押すような口ぶりで訊ねた。

「経営形態どころか、名前すら変えないかもしれません」

寛司は声に確信を込める。「日本にこれだけ定着している名前をどうして変える必要がありますか。第一、事業自体は極めて順調に推移していますし、まだまだ拡大していく可能性も十分にある。彼らの狙いが、高収益企業を手に入れることで、業績の向上を図ることにあるとすれば、結果を出し続けているものを、あえて自分たちの色に染め上げるなんて愚を冒すとは、私には思えません」

アメリカ企業が、どんな考え方をするのか、俊太には皆目見当がつかない。その点、寛司はアメリカで長く生活した経験を持つし、ハミルトンと共にビジネスを行ってきたのだ。いっていることは正しいのだろうが、月岡が欲しているのはそんなこたえではない。

ムーンヒルホテルが世界一のホテルグループに成長してほしいという願いもあるにせよ、それ以上に、パートナーシップを結んだハミルトンが、相手の窮地はチャンスとばかりに、掌を返して牙を剥く。そのえげつなさ、浅ましさはまさに謀反そのもの。しかも、つけこむ隙を与えたのは己自身の不始末からだ。そこに忸怩たる思いと、やり場のない怒りを覚えているのだ。

もはや、呼称などどうでもいい。

「社長!」

俊太はいった。「会社の名前が残るかどうか、経営体制がどうなるかなんて、どうでもええ話です。アメリカではどうだか知りませんが、日本ではやってええことと悪いことっちゅうもんがあります。ハミルトンがやろうとしていることは、ビジネスの上では正しいのかもしれません。そやけど、一緒にやろうと契りを結んだ相手の窮地につけこんで、一切合切を奪い取ろういう魂胆は、わしは許されるもんやないと思います。こんなことがまかり通るなら──」

「じゃあ、お前に策はあるのか」

言葉を遮る寛司の声は冷静だ。「山城さんがおっしゃるように、日本での裁判に勝ち目はない。アメリカで訴訟が起これば、まず間違いなく負ける。そして、誰がそのカネを支払うかとなれば被告。オーナーなんだ」

そのカネを用立てるには、株を売り払って調達するか、株の現物を差し出すしかないといいたいのだろう。

そんなことは分かっている。

「そやったら、判決が確定する前に、再上場を果たせばええやん」

考えがあっていったわけではない。言葉が先に出ただけだ。「裁判は三審制やんか。地方で負けたら高裁、最高裁と上告していけば、判決が確定するまで長い年月がかかるやん。その間に業績が順調に伸びて再上場を果たせば、ハミルトンが持っとる株の価値かて跳ね上がるやんか。そうなれば──」

「そんなことは、ここにいる皆さんは承知してるよ。分かってないのは、お前だけだ」

寛司は、心底呆れたように深いため息を漏らすと、「一旦上場廃止になった企業の再上場までの期間は明確には定められてはいないのは確かだ。だがな、再上場を認めるにあたっては、上場廃止に至った要因が全て解決された。つまり、上場するのに相応しい会社だと認められなければならないんだよ。ムーンヒルホテルの場合、それはなんだと思う? まずはオーナーの持ち株比率を減らすこと。そして、間違いを正した。つまり、罪を認め、償ったってことが、世間に認められなきゃならないんだ。それが、上訴すればって、そんなことしようものなら、罪を悔い改めてはいないといっているようなもんじゃねえか。それで、どうして再上場が果たせるってんだ」

憐れむような目で、俊太を見た。

「何もかも、お前たちのいう通りだ」

月岡は、寛司と俊太の顔を交互に見ると視線を落とした。「テンがいうように、俺も人の、しかもパートナーシップを結んだ相手の窮地につけこむハミルトンのやり口は許せない。かといって、麻生のいうように、再上場で株の価値を高めればという手も使えない」

月岡は、そこで一旦言葉を区切ると、視線を上げた。「そもそも月岡家がムーンヒルホテルを経営するのは、俺が最後だと決めていた。独身を貫いたのは、子供ができれば決意が揺らぐと考えていたからだ。もはや創業家の人間が当然のように代を継ぐ時代は終わってるんだ。経営者に相応しい資質を持った人間が、会社を率いていかなければ生き残れない時代になってるんだ。確かに麻生のいうように、ハミルトンの手に落ちても、ムーンヒルホテルの名前は残るかもしれない。正しい資質を持った人間が経営していくことになれば、俺の願いは叶えられるといえるだろう。だがな、ムーンヒルホテルは戦後の復興と共に成長してきた会社だ。日本の復興のシンボルだという自負の念を俺は抱いている。だから、アメリカ企業の手に落ちるのだけは避けたい。俺が見たいのは、自分が育てた人間がムーンヒルホテルを率い、ますます成長を続けていく姿なんだ」

そんな考えを抱いていたとは、はじめて知った。

月岡家に複雑な事情があることは、先代が亡くなった際に聞かされていたが、創業家が代を継ぐことをよしとしないと自ら語る当代はまずいない。直系でなければ血縁者にと、あくまでも我が物とせんとするのが当たり前なら、月岡のいうように経営者としての正しい資質が欠如しているがゆえに、消え去った企業は数多ある。

月岡が、ずば抜けた経営の才を持っていることには疑いの余地はない。だが、才ばかりではない。真の意味での経営とはどんなものか、企業とはどうあるべきか。確たる信念と哲学を持ち、それを体現すべく、自己の幸せすらも犠牲にしてきたことに、俊太は改めて感服した。

そしてなによりも心に響いたのは、ムーンヒルホテルが日本の復興のシンボルなんだ、といった月岡の言葉だ。

戦中の記憶はほとんどないが、戦後の貧しい時代のことは覚えている。当時のことを思えば、いまの日本の繁栄を誰が想像できただろうか。自分にしてもそうだ。あのドヤで荒んだ生活を送っていた身に、こんな日が来るとは──。

こう考えると、ムーンヒルホテルが日本の復興と共にあるというなら、自分だって、ムーンヒルホテルの成長と共に歩んできたことに、俊太は気がついた。

それが、こないな手段で、ハミルトンの手に落ちてまうやて? アメ公にまんまとやられてまうやて?

あってはならないと思った。何がなんでも、阻止しなければならないと思った。

しかし、策は浮かばない。

俊太は己の無能さを思い知ったような気がして、きつく奥歯を噛んだ。

「専務、ちょっと妙な話を小耳に挟みまして」

浜島が俊太の執務室を訪ねてきたのは、会合が持たれた二週間後のことだった。

いまや浜島もウエディングパレスの社長だ。俊太の担当部門ではないが、本社にやって来るたびに、ここを訪ねるのが常であったが、話の内容はといえば、ビジネスのことであったり、世間話であったりと、雑談に等しいものに終始する。

ところが、今日はいつもとは様子が違う。

浜島の顔に笑みはない。なにやら、ただならぬ気配が漂ってくる。

「なんや、その妙な話って」

「実は、うちとの取引業者に、ムーンヒルホテルの株を売ってくれないかという引き合いが来ているらしいんです」

「業者に?」

「最初にこの話を教えてくれたのは、三日月興産の澤野社長なんですが、一週間ほど前に、聞いたこともない相手から、いきなり打診があったというんです」

「三日月興産いうたら、パレスが何件か式場を借りてる貸しビル業者やな」

浜島は頷くと、

「澤野さん、ムーンヒルホテルは再上場することはないと聞いたが本当かと、いきなり訊ねてきましてね。そんな話は知らない。どこから聞いた話なんだと問い返しましたら、ケイマンブラザースと──」

俊太の反応を窺うように語尾を濁した。

「ケイマンブラザース? なんやそれ」

「調べたところ、アメリカの投資銀行のようです」

俊太は背筋に冷たいものが走るのを覚えながら、

「なんで、再上場なんかないいうねん。売ってくれへんかいうからには、理由を話したんやろ」

低い声で訊ねた。

「ハミルトンホテルが損害賠償請求訴訟を起こしたのが、その理由です」

声の変化からただならぬ気配を察したのだろう、浜島の声にも緊張感がこもる。「ムーンヒルホテルへの訴訟は、これだけでは終わらない。アメリカ本国でも訴訟は起きる。それも莫大な額になるはずだ。保証金を捻出するためには、月岡前社長は、株の多くを手放さなければならない。我々は、ある会社から依頼を受けて株を買い集めている──」

そこまで聞けば察しがつく。

「株の購入を依頼した会社は、上場する気はない。あんたが持ってる株は、自分で買取先をさがせなんだらカネにはならん。いまのうちに売った方が得でっせちゅうわけか」

俊太は浜島の言葉を先回りすると、「で、澤野社長はどない返事してん」

こたえを促した。

「返事は保留したそうです。だから、問い合わせてきたんですよ。本当の話なのかって」

「やっぱりそう来たか」

俊太は漏らした。

「ってことは、本当の話なんですか」

浜島は顔面を蒼白にしながら、身を乗り出した。

「株を買い占めようとしてるのは間違いなくハミルトンや。あいつら、うちの買収を目論んでんねん。実は、訴訟の狙いはうちを傘下に置くのが狙いやないかと、ついこの間、社長を交えた会合が持たれたばっかりでな」

俊太が事の次第を話して聞かせるうちに、蒼白だった浜島の顔に朱が差してくる。

「酷い……酷すぎますよ」

果たして、浜島は怒りを露に声を震わせる。「昨日の敵は今日の友って言葉がありますけど、それじゃあまるで昨日の友は今日の敵じゃないですか。大戦で日本の敗色が濃厚になった途端、日ソ中立条約を破棄し攻め込んできたソ連ですよ。そりゃあ、合法だし、ビジネスは食うか食われるかだっていいますけど、人の道に外れてますよ。あの人たち、信仰心に厚いって聞きますけど、よくもこんなことを平気でするもんだ」

「あいつらが信じてる神様は、許しを請えば許すんだろ。でなけりゃ、原爆落とすかよ」

俊太は捨て台詞を吐くと、「こうなったら、ぐずぐずしとられへんで。早いとこ策を打ち出さんと、あいつらの思惑通りになってまうで」

「三日月興産に話が行っているくらいです。大手企業には、もう話が行っていると見るべきでしょうからね」

あり得る話だと思った。

三日月興産は、ムーンヒルホテル同様、澤野のオーナー会社だ。利には敏いが、長年の取引先にいきなり義理を欠くような真似はまずしない。

だが、大企業となれば話は別だ。サラリーマン社長は、会社に不利益をもたらすと思えばその相手への裏切り行為も厭わない。必ずや保身に走るものだからだ。再上場が遠のいたと判断すれば、株の売却に応じる可能性は大だ。

「しかし、専務の話を聞く限り、この手際の良さは端から絵図ができていたとしか思えませんね」

浜島が漏らした。

「それや」

俊太は、顔の前に人差し指を突き立てた。「わしもな、ずっとそれを考えとってん。そもそも株主名簿の虚偽記載なんてもんに、なんで新聞記者が目をつけたんやろ。火のないところに煙は立たんいうけど、新聞記者どころか警察かて、火を見つけられんのも、立たんまでも煙の臭いを嗅ぎつければこそや。それが、今回の場合、いきなり火や。誰かが教えたとしか思えへんねん」

「密告者がいるってことですね」

「そうとしか考えられへんやろ」

「となると、目的はなんでしょう」

「分からん」

俊太は首を振った。「会社は業績絶好調。まだまだ成長する余地はある。まして、実力次第で、年齢、学歴に関係なく、結果を出せば上を目指せる。こないやり甲斐のある会社は、他にないで」

「しかしねえ、専務。うちの会社は、そうした社長の経営方針を肯定的に捉えている社員ばかりではありませんよ。私だって、若くしてパレスの社長を任せられているんです。本当にやり甲斐のある会社だと思います。だけど、同期の中には面白くなく思っているやつらもいるんです。一流大学出の自分が、あんな二流、三流の大学出に先を越されるんだ。むしろ、そう思っているやつが大半かもしれません」

「そら分かるわ。中卒のわしが専務やからな……」

「ひょっとして、それかもしれませんね」

「それってなんや?」

「いや……」

浜島は口ごもる。

「なんやいうてみい」

浜島は、気まずそうに上目遣いで俊太を見ると、

「実は、専務が次期社長になるんじゃないかって、評判があったんです」

ぽつりといった。

「わしが社長?」

仰天のあまり、俊太の声が裏返った。「アホなこといいなや。わしが社長になんかなるわけないやろ」

「いや、側から見てると十分その目があるように思えるんですよ」

浜島は、真剣な眼差しを向けてくる。「社長には子供がいません。月岡家に連なる人を次期社長に据えるのなら、とっくの昔に会社に迎え入れ、修行させておくものなのに、社長はそんな動きを一切見せない。となれば社内。それも、実績重視となれば、いの一番に候補となるのは──」

「ないない」

俊太は顔の前で手を振った。「あのな、こない大きな会社の社長となれば、外との付き合いもあるんや。それこそ、名だたる大会社の会長、社長を相手にせなならんのやで。みんな一流大学出のエリートや。まして、社長いうのは会社の顔や。それが、中卒だなんて、世間に笑われんで」

「専務は、私のような人間からすれば希望の星ですよ。だいたい一流大学出なんて、世間じゃほんの一握り。二流三流の大学出、高卒の人間が大半なんですから」

「えっ?」

「世の中には、学歴で人の価値を推し量る風潮が確かにあります。そして、高い学を収めた人間は、将来を嘱望され、入社当初から出世しやすい仕事が与えられる。それが当然だとも考えられている。でも、これっておかしな話ですよね。履歴書ぶら下げて仕事をするわけじゃなし、本来入社から先は実力勝負であるべきなんです。そして個々の人間の才覚と熱意、執念なくして結果は出ないのが仕事なんです。それを経営者として有言実行してみせたのが月岡社長なんです。二流、三流と見下された人間たちにとって、実績を上げさえすれば挽回の余地はある。それどころか、役員にもなれる。ムーンヒルホテルは人生を懸けるに値する、とてつもなく魅力的な会社なんですよ」

そういえば──。

小里という新聞記者が取材に訪れた時、部屋を辞そうとした自分に月岡はこういって留まるよう命じた。

「お前の入社の経緯、いまに至るまでの経歴を知れば、今太閤そのものだ。こんなおいしいネタをマスコミが放っておくわけねえだろ。ムーンヒルホテルは実力、才覚次第で出世できる会社だなんて知れてみろ。世間は立身ネタを好むからな。うちの企業イメージもますます上がれば、我こそはと思う人材が集まってくるようにもなんだろが」

「専務」

浜島の声で俊太は我に返った。「専務がそんな野心を抱いていないのはよく分かります。だから怖いんですよ」

「怖い? わしが?」

「人間誰しも欲がある。会社に入った限りは、ひとつでも上のポジションに就くことを渇望するものです。もちろん、優れた実績を上げずして昇進が望めないことは誰もが知っています。でも、うまく行けば良し、失敗すれば道は断たれるとなれば、自ら進んでリスクを取りにいく人間はそういません。ところが専務は違う。リスクを取ることを恐れない。そして自ら発案し、手がけた事業をことごとく成功させてきた。端から見れば異物、いや怪物そのもの。このままでは、専務に天下を取られてしまう。そんな危機感に駆られている人間が、この会社にはいっぱいいるんですよ」

異物──。

自分の存在がそういう目で見られていることは百も承知だ。だが、それはあくまでも中卒という学歴に起因するものだと思っていたのだが、浜島の言葉を聞いて、どうやらそればかりではないことに俊太ははじめて気がついた。

新事業を提案するにあたって、失敗した時のことなど考えたことはなかった。まして、成功が昇進につながるなんて野心は、露ほども抱いたことはない。ただ、月岡の恩に報いたい。その一心で必死に知恵を絞り、懸命に働いてきただけだ。

もし、ここまでの出世を遂げた自分をひと言でいい表す言葉があるとすれば、『無欲の勝利』となるのだろうが、欲がある人間からすれば、確かに異物に見えることだろう。

「そない思われているなんて考えもせなんだ……」

俊太はぽつりと漏らした。

「男の嫉妬ほど怖いものはないといいます」

浜島はまたしてもぎょっとするような言葉を口にする。「このままでは、専務が社長になるかもしれない。しかし、後任を決めるのは月岡社長。誰も意向には逆らえない。しかも、代替わりしても会社を支配できるだけの株を握っているとなれば、反旗を翻そうものなら返り討ちにされるかもしれない。ならば、残る手段はただ一つ。月岡社長の首を取るしかないってことになりませんかね」

俊太は鳥肌立った。

人間の心の中に潜む闇を見た気がしたせいもあるが、それ以上に、なぜ株主名簿の虚偽記載を小里が掴むことができたのか、ハミルトンがこの機に乗じて株の買い占めに走っている背景が、浜島のいまの言葉で明確になった気がしたからだ。

「そやけどな、うちがハミルトンの手に落ちてもうたら、誰を社長にするかは向こうが決めることになんねんで。役員かて同じやし、経営方針、社内組織かてがらりと変わる。謀反を起こしたはええが、自分がどうなるかはハミルトン次第や。社長同様、会社辞めんようになってもうたら、元も子もないやんか。そないアホなことするかいな」

「専務、それは違うと思いますよ」

浜島は眼差しに悲しげな色を浮かべると、静かに視線を落とした。「毎朝新聞に情報を漏らした人間は、ハミルトンとの間で事前に話をつけていたのではないでしょうか。ハミルトンからすれば、うちは喉から手が出るほど欲しい会社です。それを労さずして手に入れることができたとなれば大手柄。いまのポジションどころか、社長にしてやったって、ハミルトンにとってはお安い御用ってもんじゃありませんか」

まさか……と思った。

しかし、ハミルトンと密約を交わせ、かつ株主名簿の虚偽記載を知る人間といえば、ひとりしか思い当たらない。

あり得へん。そないなことがあるわけがない。

俊太は脳裏に浮かんだ、名前を必死にかき消そうとしたが、もしそうだとしたら全て辻褄が合う。

心臓が重い拍動を刻む音が、耳の奥に聞こえる。嫌な汗が背中に噴き出す感覚がある。掌が、じっとりと湿り気を帯びていく。

カンちゃん、あんたなんか。カンちゃん、ほんまにそないなことやったんか……。なんでや……。

俊太はついに脳裏に浮かんだ名前を胸の中で呟いた。

〈次回は10月20日(金)に更新予定です。〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。