第17回

前回までのあらすじ

有価証券虚偽記載が発覚したことで、ムーンヒルホテルは窮地に陥る。社長の月岡は退任し、人事改革で俊太は専務に昇進して、新体制の重要な役割を担うことになった。そんななか、共同事業を行なっていたはずのアメリカのハミルトンホテルによる、ムーンヒルホテルの買収計画が明らかになる。そして、俊太はこの騒動の裏に、もっとも信頼していたある人物の裏切りがあったことに気付く……。

時間が止まった。

正面に座る月岡が、鋭い目で俊太を睨む。

瞬きもせず、瞳も微動だにしない。

その姿は、まるで彫像のようだ。

物音ひとつ聞こえない。

どれくらい時間が経ったのか。

「麻生か……」

月岡が沈黙を破った。「虚偽記載を知り、かつハミルトンと通じる人間といえば、麻生しかいない。この一連の騒動の絵を描いたのは、麻生だといいたいのか」

浜島と会ってから三日が経つ。

投資証券会社が株の購入に動き出しているからには、一刻も早く対抗策を取らねばならない。まして寛司がハミルトンに情報を流したのなら、こちらの動きは筒抜けだ。それどころか、寛司はムーンヒルホテルの全てを知っている。まさに獅子身中の虫。一刻も早く伝えなければならないところだが、躊躇したのは、やはり寛司がハミルトンと通じていると思いたくはなかったからだ。

しかし、考えれば考えるほど、そうとしか思えない。

念のため、旧知の取引先に電話をかけ、株式売却の引き合いがなかったかと探りを入れると、どんな条件を提示されたかは話さなかったものの、大半が事実を認めた。なかにはいい機会だとばかりに、「うちはお断りしましたが専務、再上場は本当にできるんですよね?」と、今後の見通しを訊ねてくる者もいた。

ハミルトンの動きは、思ったよりも早い。

そこで月岡の邸宅を訪ね、浜島同様、寛司の名前を出さず、あくまでも推測として、ハミルトンと通じている者がいるのではないかと話したのだが、該当する人間といえばひとりしかいない。

肯定するのは、さすがに憚られた。

俊太は無言のまま視線を落とした。

それがこたえだ。

「お前の気持ちは分かる。俺だって、そうは思いたくなかったからな……」

「えっ……」

俊太は視線を上げた。「社長、そしたら──」

月岡は眉間に深い皺を刻み天井を仰ぐと、苦渋に満ちた表情を浮かべ、深いため息を漏らす。

「あいつは俺が心を許せる数少ない人間、腹心中の腹心だ。株主名簿のからくりを知ってもいれば、ハミルトンと合弁事業を行うにあたっては、交渉の全てもあいつがやったんだ。なぜ、毎朝が虚偽記載を嗅ぎつけたのか。それからのハミルトンの動きと合わせて考えれば、内通者がいたとしか思えない。となれば、思い当たる人間はあいつしかいないからな……」

やはり月岡も気がついていたのだ。

しかし、そうなると寛司の動機が分からない。

寛司が重用されてきたのは確かだが、月岡は仕事に私情を挟むような人間ではない。寛司がいまの地位を得られたのも、月岡の期待にこたえる働きをし、実績を上げ続けてきた結果である。

それは、寛司だって重々承知のはずだ。まして、社長には恩義を感じている、ムーンヒルホテルのために、身を粉にして働かなければならないと、ことあるごとに口にして憚らなかったのは誰でもない、寛司である。

「……なんで、カンちゃんが……」

俊太は思わず呟いた。

「思い当たる節がないわけじゃない」

月岡は、またひとつため息をついた。

「それは……どんな? 何かあったんですか」

月岡は俊太の顔を見つめると、一瞬の沈黙の後、

「お前だ」

といい、視線を逸らした。

「わしが? 何でわしが?」

俊太は仰天のあまり目を剥いた。

寛司の謀反の原因が、どうして自分にあるのか、皆目見当がつかなかったからだ。

「お前が、ビジネスホテルの事業プランを出してきた直後、麻生も全く同じ案を出してきてな」

「カンちゃんが?」

「これには伏線があってな……。お前、市営球場を建設した時のことを覚えてるか?」

はて……。

首を傾げた俊太に、月岡はいう。

「俺は、あの難題の解決策の立案を麻生に命じた。お前にも考えろとはいったが、たまたま同席していたからいってみただけで、正直、麻生にできないものが、お前にできるはずはない。そう考えていたんだ」

はっきりいうものだとは思ったが、べつに失望は覚えなかった。

話の経緯からして、俊太自身もそうに違いないと考えていたからだ。

「麻生は無理だといった。そんな策はないと断言した」

月岡は続ける。「まあ、その通りだ。市のカネを一切使わず、球場を建設するなんて、どう考えたって無理筋の話だからな。それに俺自身、妙案が浮かばないから麻生に考えるように命じたわけだ。無理だといわれても、麻生に対する評価が変わるわけじゃない。しかし、このままでは新球場の建設は実現しない。そこで、お前にも命じていたことを思い出してな。それで念のためにと──」

「わしの出した案は、市に入る収益を先払いしてもらうだけのことで、市が建設費をびた一文使うことなく、球場を新設する方法を考えっちゅう社長の命令とは違うもんです。実際、カンちゃんにもそないいわれて──」

「いわれた?……。じゃあお前、麻生にあのアイデアを話したのか?」

月岡は驚愕したように、身を乗り出しながら、念を押すように問うてきた。

「カンちゃん、随分困ってはったみたいやったんで……」

「そうか……」

月岡は確信したかのように頷くと、身を乗り出したまま続ける。「お前の出してきた案は、俺が突きつけた命題のこたえではなかったが、対案という点では満点だ。命題に百パーセント沿うこたえを考えるのは大切だが、できなければできないで、命題そのものを変えるという発想も必要なんだ。お前はそれをやってのけた。麻生は酷い屈辱を味わったろうさ。ましてあの当時、お前は自ら発案した、ウエディングビジネスをムーンヒルホテルの中核事業に育て上げ、子会社の社長にもなっていたしな。このままじゃ並ばれる。焦っていたに、違いないんだ。だから、ビジネスホテル事業なんて案を出してきたわけだ」

「そやけど、社長。カンちゃんだって、同じ事業を思いついたんやし──」

月岡は、またため息をつく。

「確かに麻生の目のつけどころはよかったさ。だがな、タッチの差とはいえ、すでに同じ案を俺に持ってきたやつがいるとなりゃ、いまさら何をってことになる」

月岡は、そこで遠い目をすると、「あの時、俺はこういったんだ。お前はアメリカでこの事業を思いついたっていうが、テンは球団キャンプの視察に行っただけで同じことを思いついた。いったいお前にどれだけのカネをかけてると思ってんだ。テンと同じレベルの仕事じゃ俺を満足させることはできねえんだよってな……」

自らの言葉を後悔するかのように、唇を結んだ。

そりゃあ、カンちゃん傷つくで……。何もそこまでいわんでも──。

返す言葉がない。

「そして、こうもいった」

黙った俊太に向かって、月岡は続ける。「この事業が成功すれば、あいつの大手柄だ。今後の働き如何では、俺の後継者になるかもしれんとな」

そういうなり視線を戻し、じっと俊太を見据えた。

「後継者って……」

それが何を意味するかは明らかだが、そんな大それた野心は微塵も抱いたことがなかっただけに、俄にはピンとこない。

俊太はぽかんと口を開けて、言葉を飲んだ。

「決まってるだろ、次期社長だ」

「そないなこと、あるわけないでしょう。いくら何でも、わしが社長やなんて」

俊太は首を振りながら、思わず苦笑した。

ところが、そんな言葉は耳に入らないとばかりに、

「俺は真剣に考えていたよ」

月岡は断言する。そして、どこか悲しげな表情を瞳に宿すと、

「お前は、麻生の上に立つなんてことは考えたことすらないだろうが、麻生にしてみりゃ、ただでさえも球場建設の一件で、お前に負けてんだ。なんとかして新しい事業をものにしなければと、必死の思いで考えついたビジネスホテルでもお前に先を越されたとなりゃ、次期社長の目は潰えたも同然だ。実際、お前は、球場建設の功績をもって本社の役員に昇進したじゃないか。信賞必罰、論功行賞は俺の経営理念のひとつだ。お前との差は、ないも同然。このままでは、本当にお前が社長になるかもしれない。そんなことになろうものなら、麻生が我慢できるか? あいつがお前の下で働くなんて耐えられると思うか?」

こたえは聞くまでもないとばかりに、目を閉じた。

本社の役員に就任した直後から、自分に対する寛司の態度がなぜよそよそしくなったのか。その謎が、いま分かった。

俊太は返す言葉もなく俯いた。

「下足番とはいえ職を世話してやったのは、ドヤでろくでもねえ暮らしをしていたお前の将来を麻生が心底心配していたからだ。その気持ちは純粋なものだったには違いない」

月岡の声が頭上から聞こえる。「だがな、それもこれも、どう逆立ちしたって、お前が自分を脅かす存在になるとは考えられなかったからだ」

これも、また反論する言葉がみつからない。

俯く頭の角度が深くなる。

「同じ土俵に立って、勝負する存在になることすらもな」

月岡の声に、諦念というか、悲しみというか、えもいわれぬ複雑な感情が籠もる。「人間ってのは悲しいもんでな。自分を脅かすことはない人間には優しくもなれれば慈悲深くもなれるが、脅威になると思った瞬間、敵とみなすようになるんだよ。まして、お前がいまの地位を手にするきっけを作ったのは麻生自身だぞ」

「でも、わしとカンちゃんとではモノが違います。第一、カンちゃんは立派な大学を出てはるけど、わしは──」

「その学歴ってやつが、麻生にとっては唯一の拠り所だったのかもしれないな」

ぽつりと漏らした月岡の言葉に、

「えっ……」

俊太は思わず顔を上げた。

「世間じゃ人間は皆平等っていうが、そんなものは嘘っぱちだ。職業、学歴、様々な尺度で人を見て序列化する。相手が持っていないものを自分は持っている。優るものを見つけると、それだけで上に立った気分になるんだよ。そして、同格、あるいは劣るとなると、最終的に目を向けるのが出自だ」

月岡はやるせないとばかりに首を振る。「世の中は差別だらけだ。ドヤに生まれたってだけで、色眼鏡で見るやつが世の中に少なからずいる。いわれなき差別を受ける人間が這い上がるには、まずは学を修めることだ。多分、麻生は若くしてそれに気づき、そして学歴を手にした」

月岡は、そこで暫しの間を置くと、

「実はな、テン。俺が麻生を会社に引っ張ったのは、まさにその出自ってもんが理由のひとつだったんだよ」

すっと視線を落とした。

「生まれ育ちを理由に色眼鏡でみる世の中は間違うとる。社長にそないいわれて会社に誘われたと、カンちゃん、いうてはりました」

「確かに俺はそういって、麻生を誘った。だがな、本当の理由は、傷ひとつないピカピカのエリートよりも、実力はあるのに自分ではどうすることもできない負い目を背負っている人間にチャンスを与えてやれば、死に物狂いで仕事に取り組み、目覚ましい働きをするに違いない。そう思ったからなんだ」

「実際、その通りになったわけやないですか。カンちゃんは、社長の期待にこたえて、目覚ましい働きをした。そやさかい、若くして役員にもなったわけやないですか」

「それもこれも、大学に進めたからだ。少なくとも、学歴という点では、同期の社員と優るとも劣らない勲章を手に入れていたからだ。そうじゃなかったら、親父が会社を牛耳っていた時代のことだ。ただの大学出じゃ採用されることはなかったろうさ。ところがお前は違う。学歴と実力は別ものだ。地位は力で勝ち取るものだと麻生に突きつけたんだ。麻生にしてみりゃ、こんな現実は到底受け入れられるもんじゃないよ」

「わし……」

俊太は悲しくなった。「わし……カンちゃんを差し置いて、偉うなろうなんて、これっぽっちも考えたことはなかったし……なんや、そういわれると、わしが会社に入らなんだら、社長もこないなことにはならへんかったやろうし、カンちゃんかていずれ社長に──」

「お前がいなかったら、いまのムーンヒルホテルはない」

月岡は断言すると、「これも運命ってもんだ。過去を振り返って、もしなんてことをいっても、起きちまったことは変えられない。考えるだけ無駄だ」

決意の籠もった目で、俊太を見た。

カンちゃんをどないするつもりなんやろ。

そこに思いが至ると、今度は恐怖を覚えた。

「そやけど、社長。いまの時点では、虚偽記載を知り、ハミルトンとつながる人間は、カンちゃんしかおらへんいうことだけで、裏切ったっちゅう証拠はないんです。可能性だけでは──」

「分かってる」

月岡は、ぐいとまた身を乗り出すと、「それについては俺に考えがある」

誰が聞いているというわけでもないのに、声を潜めた。

月岡は、考えを明かさなかった。

どうやら謀反を起こしたのが寛司であるかどうかを自ら確かめるつもりであるらしい。

それに考えの内容が、俊太にやれるものであるならば、任を負わせることになる。

これまでのふたりの関係を考えれば、そんな任務を俊太に課すのは酷に過ぎる。月岡はそう考えたのかもしれない。

もっとも、謀反を起こしたのが寛司だという確証を得ても、問題が解決するわけではない。

すでに投資証券会社が株式の買収に動き出している上に、口では売らないといっておきながら、売却交渉に応じている、あるいは売却してしまった株主だっていないとは限らない。まして、アメリカで損害賠償請求訴訟を起こされようものなら、額によって月岡は株の現物か、あるいは持ち株を売却したカネをもって、賠償に応じなければならなくなるかもしれないのだ。

そうなれば、ハミルトンの思う壺だ。

しかし、どうしたらそれを防げるのかとなると、これといった策が浮かばない。

「はあ~」

ため息が漏れたのは、月岡と会って一週間、自宅で夕食を済ませた直後のことだ。

「どうしたの、ため息なんかついて」

日が変わろうという時刻である。

とうに、夕食を済ませた文枝が、ほうじ茶を淹れながら訊ねてきた。

「ややこしいことになってんねん」

俊太はこたえた。

「やっぱり、何か起きたのね」

文枝は顔を曇らせる。

この一週間は、極端に帰りが遅い。それも素面での帰宅となれば、難しい問題に俊太が直面していることを察していただろうに、それを敢えて訊ねてこないところがいかにも文枝らしい。

「実はハミルトンホテルが、うちの株を買いに走り回ってるらしくてな」

「ハミルトンが?」

俊太は箸を置くと、差し出されたほうじ茶を飲みながら、ことの経緯を話して聞かせた。もちろん、寛司に謀反の疑いがかかっていることには触れずにだ。

「そう……そんなことになってたの──」

文枝も事の重大性に気づいたようで、眉を顰める。「若旦那様も大変ね。株を手渡すか、売って現金を用意するか、いずれにしても、他人に持ち株の大半を渡さなければならないわけか……」

「株を売ろうにも、とうの昔に上場廃止や。市場では売れへんし、ケイマンブラザースいう投資証券会社は、ハミルトンが経営権を握れば、再上場はせんとふれ回ってんのや。株主にしてみれば、そんな株を持っててもしゃあないしな。中には買い手がいるうちに、売ってもうた方がええちゅう人も出てくると思うねん」

「実際に売却に応じた人はいるの?」

「それが分からんのや」

俊太は湯飲みを置いた。「まあ、安定株主いうても、社長の持ち株は五割ちょい。社長が売らへんかったら過半数は握れへんから、すぐにうちとこがハミルトンの手に落ちるいうわけではないんやが、ハミルトンは、すでに十三パーセントもの株を握ってるし、社長が株を手放さん限り、再上場は難しい。どっちにしても社長は持ち株を売らなならんのやけど、売った先がケイマンブラザースと転売の密約を交わしてるとも限らへんしな。どないしたもんかと頭を痛めてんねん」

「でも、どうしてハミルトンは、ムーンヒルホテルに目をつけたのかしら。あれだけ大きなホテルグループなら、直接日本に進出することだってできるでしょうに」

「そら、買収した方が手取り早いからや。まして、損害賠償のかたにとなれば、事実上ただみたいなもんやないか」

「それは分かるけど、じゃあなぜいまなの?」

文枝はいう。「日本が経済大国っていわれるようになって随分経つのよ。大きな市場だってことは、ハミルトンだってとうの昔に気がついているはずじゃない。なのに、いまに至るまで、日本には進出してこなかった。確かにムーンヒルホテルは、日本一のホテルチェーンだけど、競合相手だっていないわけじゃないのに」

「それは、日本をアジア進出の拠点にしたいからやろ」

俊太はいった。「アジアでは日本は突出した経済大国やし、日本企業もどんどんアジアで商売しとるさかいな。出張者だってぎょうさんいれば、旅行者かて増えてんのや。わけのわからんホテルに泊まるなら、名の知れた──」

「それなら、アジアはムーンヒルホテルにとっても、大きな市場ってことになるじゃない」

「そりゃそうや」

「だったら、先にムーンヒルホテルがアジアに進出すれば?」

文枝がいわんとしていることが、俄にはぴんと来ない。

「アジアに進出? それが、いまの話とどないな関係があんねん」

俊太は問い返した。

「ビジネスホテル事業は、まだまだ拡張の余地が残されている。業績も上がれば、ムーンヒルホテルが右肩上がりで成長していくのは間違いない。そうなれば、再上場の日も遠からずやってくる。株主さんが、そう期待している限り、売却には簡単に応じないはずだっていうなら、もっと大きな事業を打ち出したらいいじゃない」

「なるほどなあ」

俊太は唸った。「でかい花火を打ち上げて、株主さんたちに、いま売ったら損するいう気にさせるっちゅうわけか」

文枝のどこにこんな大胆な発想をする力が潜んでいたのか。

しかし、それでも問題は残る。

月岡の株の引き受け手だ。

市場で売買ができない以上、引き受け手は自分たちで探さなければならない。

それも経営権を確保するためには分散するに限るわけだから、引き受け手の数はその分だけ増す。

果たして、そんなことが可能なのか。購入に同意する先が、そう簡単に見つかるものなのだろうか。

「損害賠償請求訴訟の判決が出るまでには、時間がかかるんでしょう?」

「そら、日本の裁判はそう簡単に判決が出えへんしな。二年、いや三年はかかるやろうなあ」

「それまで、ハミルトンが待つかしら」

「そら待たな。裁判所かて、判決を下すまでには、入念な審査をせなならんのや。なんぼハミルトンかて、どないにもならんで」

「でも、ハミルトンが動き出している以上、若旦那様も迂闊には株を手放せない。ムーンヒルホテルの業績が好調に推移したって、再上場は果たせないってことになるわよね」

「そら……そうやけど──」

「時間がかかれば、ムーンヒルホテルが、なんらかの防衛策を講じてしまうかもしれない。ハミルトンはその前に、ムーンヒルホテルを手に入れたいと考えているでしょうし、ムーンヒルホテルは、一刻も早く再上場を果たしたい。ことこの点においては、両者の思惑は一致しているわけだ」

「そうやなあ……」

確かにいわれてみれば、その通りではある。

「だとしたらよ。ハミルトンは示談を持ちかけてくるんじゃないかしら」

「えっ……」

そんなこと考えてもみなかった。

しかし、これもまた文枝のいう通りだ。

「争えば争うほど、若旦那様への世間の印象は悪くなるし、裁判だって敗訴の可能性が高いんでしょう?」

「そら、満額回答とはいかへんやろけど、負けることは間違いない」

「それに、アメリカでの訴訟に負ければ、そんなものでは済まないわけよね」

「そうや」

「だったら、示談を持ち出してくるわよ。アメリカでの訴訟を取り下げる代わりに、一定割合の株の売却に応じろって」

どうして、そこに気がつかなかったのか。

より多くの株を持った株主の発言権が高まるのが株式会社だ。そして、持ち株比率によって、株主が行使できる権利はおのずと決まる。

月岡家が所有している株の割合は、五十パーセントを僅かに超える。過半数を持てば、任意の議案に関して拒否権が行使できる。だからこそ、月岡はムーンヒルホテルを支配してこれたのだ。彼の影響力を削がずして再上場が果たせないとなると、最低でも最重要事項の特別決議の阻止、つまり任意の議案に拒否権が行使できない比率、三分の一以下にまで月岡の持ち株を減らす必要が生じるのだ。

もちろん、それはハミルトンにもいえることで、三分の一を握れば、拒否権が行使できる。すでにハミルトンは十三パーセントもの株を所有しているわけだから、残るは二十パーセント強。不正記載が発覚する直前の株価で換算すれば途方もない金額だが、上場廃止となったいまでは、いくらになるかはそれこそ交渉次第。まして、アメリカで損害賠償請求訴訟を起こすにあたって、ハミルトンがいったいどれほどの額を請求してくるのか分からない上に、アメリカの裁判所では、満額判決になる可能性が高いのだ。

そこに示談となれば、月岡だって背に腹は代えられない。

応ずる可能性はなきにしもあらずだ。

「どないしたらええんやろ。渡さなんだら、アメリカで訴訟起こすでいわれたら……」

俊太は、生唾を飲み込んだ。

「ハミルトンの影響力を排除するためには、どれくらいの株をこちら側で持っておけばいいの?」

「そら、過半数を持てば、何があっても影響力を排除できるけど、三分の一を持たれたら、拒否権が行使できるようになるさかいな」

続けて俊太が比率によってどんな権利が生ずるか説明すると、

「つまり、防衛ラインは三分の一の株をハミルトンに握られないようにすればいいわけね」

「理屈の上ではな」

文枝は、暫し考え込み、

「それは、若旦那様にもいえることよね」

念を押すように訊ねてきた。

「そうや」

「それなら、なんとかなるかもしれないわよ」

「なんとかなるいうて、どないすんねん」

文枝はしばらく沈黙し、また何事かを考えている様子だったが、

「若旦那様のお家の中のことだから、たとえあなたであろうと、絶対に口外できないと黙っていたんだけど、状況が状況だもの、仕方ないわね」

そう前置くと、意を決したように話しはじめた。「大旦那様がお亡くなりになった後で、相続を巡って若旦那様と奥様が揉めたのよ」

「奥様と?」

「大旦那様がお妾さんを囲っていて、その方との間に子供がいたことは知っているわよね」

「ああ……」

「若旦那様は、財産をその方にも分与すべきだっておっしゃって、それを聞いた大奥様がとんでもない。妾の家になんか、びた一文やれるものかって、それは凄い剣幕でお怒りになったの」

そういえば、と俊太は思った。

自宅で倒れた龍太郎が救急車で病院に搬送される際、付き添った敦子からは慌てる様子が一切窺えなかった。それに、月岡が独身を貫いている理由を、父親の血を引き継いでいるがゆえに、同じようなことをしでかしかねない。それでは、不幸な人間をつくることになると漏らしたことがあった。

寛司は月岡を「生まれながらにして、銀の匙をくわえてきた人だ」といったが、傍目からは何ひとつ不自由ない恵まれた暮らしを送っているように見えても、家庭内はさぞや冷え冷えとしたものであったのだろう。

それは、あの時の敦子の様子からも、父親が亡くなったと告げた時、平然としていた月岡の反応からも明らかだ。

「お前は、住み込みの女中やったからな。見んでもええもんも見てまうやろし、聞かんでもええことも、耳に入ってまうわな」

文枝は俊太が漏らした言葉を無視して続ける。

「大旦那様はね、お妾さんとの間に生まれた子供を認知していなかったのね」

「えっ? そしたら婚外子っちゅうことになるやんか」

「奥様が財産分与なんかとんでもないっていったのは、それが理由のひとつだったの。認知をしないってことは、自分の子とは認めていない。財産分与の権利は生じないってことになるからね」

「しかし、お妾さんかて黙ってへんやろ。月岡家の財産いうたら──」

「そこよ」

文枝はここからが本題だとばかりに、俊太の言葉を遮った。「大旦那様は、お妾さんと、その息子さんに、ムーンヒルホテルの株を持たせていたのよ。それが、相続の過程で分かったの」

「株を?」

「大旦那様だって実の子を儲けたんだもの、そりゃあ親子の将来が気にかかるわよ。認知しなかったのは、相続争いを防ぐため。その代わり、生涯親子が食べていけるような仕組みを整えてあげたんでしょうね」

「そやけど、株を持ってたって、売らなカネにはならへんし、配当かて知れてるやんか」

「それは、どれほどの株を持つかによるわよ」

「いったい、どんだけの株を持ってんねん」

「三パーセント──」

「三パーセント?」

声が裏返った。

確かにそれだけの株を持っていれば、配当だけでも親子ふたりが生活するには十分過ぎる。

しかし、それだけの株を買うには元手がいる。

「そんな大金をどないして。大旦那様が株を現物で渡したら譲渡や。当然、税金が──」

「大旦那様、お妾さんに銀座で画廊を経営させてたのね」

「画廊?」

「美術品の価格なんてあってないようなものじゃない。ホテルには書画、壺、置き物、様々な装飾品が必要だし、勘定は会社に請求だもの。極端な話、真贋だって素人には分からないでしょ。ムーンヒルホテルに一括納入してれば、そりゃあ毎月大変なおカネが入ってくるじゃない。その収入で、株を買わせていたわけ。しかも、大旦那様の時代は未上場の期間が長かったし、資金需要も旺盛だったでしょ。増資を行うにあたって、その一部をお妾さん、そして息子さんが事業をはじめるようになると、その方名義で株を買わせるようになったのよ」

「息子? その息子いうのは何をやってはんの」

「ミカドコンサルティングって会社を知ってる?」

「もちろん」

ミカドコンサルティングは、都市計画やビル建設の構想から、設計、施工の監査、監督を行うことを生業としている会社だ。ムーンヒルホテルが新たに自社物件を建設する際には、主に建設業者が提出してきた見積もりや、設計、建設資材の内容をミカドコンサルティングが精査することになっている。

「ミカドコンサルティングの社長が、大旦那様の息子なの」

「えっ……そしたら、芦沢さんが?」

初めて聞く事実が次から次へと出てくる。「ほんまの話か、それ」

俊太は、思わず問い返した。

「本当よ」

「そやけど、芦沢さんは、社長とほとんど歳が変わらへんのと違うか」

「ひとつしか違わないそうね」

なるほど、龍太郎が倒れても敦子が慌てる素振りも見せなければ、月岡が父親の死を知らされてもけろりとしているはずだ。

一歳しか歳が離れていないというなら、敦子の腹の中に月岡がいた最中、あるいは出産直後に龍太郎は不義を働き、しかも妊娠させたことになる。

女性、それも妻としては、到底許すことができない行為なら、息子にしたってそれは同じだ。

「芦沢さんって、ものすごく優秀な方のようね」

文枝はいう。

「確か、東大出てはったはずやわ。建築士の資格を取りはって、若くして会社を立ち上げて、うちの仕事を一手に引き受けはるようになったいう話を聞いたことがある」

芦沢啓太郎とは、ウエディングパレス、ビジネスホテル事業に進出する際に、何度か会ったことがある。

東大という最高学府を出ているにもかかわらず、偉ぶったところもない、性格も温厚で、仕事もきっちりする極めてまともな人間だという印象しか持っていない。

それが、龍太郎の子供? 社長と腹違いの兄弟だって?

「奥様は、ミカドコンサルティングが大量の株を持っている。それが芦沢さん親子だって知った時の怒りようったら、そりゃあ大変なものでね。弁護士を呼んで、訴訟を起こそうとしたのよ」

「そんなん、訴訟を起こしたって、どないにもできへんやろ。カネは一旦、お妾さんのところに入ってんのやし、立派に売買は成立しとんのや、まして、認知されてへんのやから、戸籍上月岡家とは赤の他人や。そやし、息子さんかて相続なんてことをいわへんかったんやろ」

「だから、なんとかなるかもしれないっていったのよ」

文枝はいった。「芦沢さんにしたって、ムーンヒルホテルが再上場を果たして、株価が以前にも増して高くなった方がいいに決まってるし、株価が上がるってことは、高い配当も見込めるわけだから、株主でいる限りは安定収入が得られるってことにもなる。もちろんハミルトンに売却すれば、大金を得ることはできけど、一時金で終わっちゃうんだもの、どっちが得かは、明らかじゃない」

「そうか……そうやな」

俊太は感心して唸った。

「ってことはよ。社長は芦沢さんの持ち株と合わせて、三分の一を確保すれば、ムーンヒルホテルがハミルトンと伍して戦えるってことになるじゃない」

俊太は、改めて文枝の顔をまじまじと見つめた。

文枝は賢い。知恵もあれば知識もある。

出会った直後に気づいていたし、一緒になってからも、いまに至るまでずっとそう思ってきた。

しかし、文枝にはいままでついぞ見せたことのない別の才もあったのだ。

策士としての才である。

「お前……凄いこと考えるな──」

驚愕のあまり、言葉が続かない。

「若旦那様と芦沢さんが異母兄弟だってことは、おそらく誰も知らないはずだわ。そうじゃなければ、不正記載が発覚した時点で、ミカドコンサルティングの存在が指摘されるはずだもの」

それもまた、文枝のいう通りだ。

虚偽記載を裏付けたのは、真の株主の氏名を記した、『株主名簿台帳』だが、もし、芦沢母子と龍太郎の関係を知る者がいれば、その時点で彼らもまた、月岡家に連なる人物とみなされていたはずだ。

それに、龍太郎に婚外子がいるという話は、寛司からも聞かされたことはないし、俊太もまた、月岡のプラバシーに関わる問題だけに話したことはない。

運転手とはいえ、文枝同様、それが側に仕える者の矜持だと考えていたからだ。

「梶原さんは、知ってはったんとちゃうやろか。あの人は、親子二代にわたって仕えた大番頭やし」

「そうね。梶原さんは知っていたかもしれない」

文枝は肯定すると、「でも、梶原さんだって、大旦那様の意向は百も承知。だからこそ、余計なことは喋らなかったんじゃないのかしら。それに──」

ちょっと複雑な表情を浮かべ、続けようとした言葉を飲んだ。

「それに、なんや」

文枝は一瞬言葉に詰まると、

「実は、大旦那様には他にも女性がいたの……それも何人も……」

瞳に暗い影を宿しながら視線を落とした。

「ほんまか……」

驚きのあまり、言葉が出ない。

古来から『英雄豪傑色を好む』とはいうし、閣僚を務める政治家や名を馳せた財界人にも愛人がいることは珍しくはない。だが、女性、それも妻の立場からすれば、とうてい容認できるはずもなく、不義を働くことは家庭内に自ら波風をたてるようなものだ。

それは、俊太にとっても同じこと。文枝という伴侶を得、幸せな家庭を手にした身には、考えられない行為以外の何物でもない。

「大旦那様に女性が何人もいたことは多くの人が知っていたけど、外に子供を作ったのは、芦沢さんひとりだけ。そして、その事実を知る人は、ほんの僅か。つまり、大旦那様にとっては、芦沢さんのお母様は特別な存在だったのよ」

「そら、奥様が怒るのは当然や。社長が大旦那様に反発を覚えるのも無理ないわ」

「若旦那様が、大旦那様にそうした気持ちを覚えていたことは、家での様子を見ていればよく分かったわ。でもね、芦沢さんに対しても同じ思いを抱いていたかといえば、絶対にそんなことはない。むしろ、逆の思いを抱いていたと思うの。でなかったら、財産分与だなんていい出すわけがないもの」

「そうか。そうやな」

「実際、若旦那様が社長になってからも、ミカドコンサルティングを使い続けてるんでしょ?」

「確かにそうや」

俊太は小首を傾げながら、思いつくままにいった。「しかし、なんでやろ。異母兄弟、それもお妾さんとの間にできた弟がいるとなれば、面白うないやろ。母親の側につくのが普通と違うんか」

「母親の側に立つというなら、芦沢さんだって同じじゃない。大旦那様の実の子だって名乗り出て、財産分与に与ろうって考えるものじゃない?」

「それもそうやなあ」

「でも、芦沢さんはそんな行動に出なかった。そして、若旦那様もミカドコンサルティングを使い続けた──」

俊太は緩くなったほうじ茶を口に含むと、ふうっと息を吐きながら、腕組みをした。

ムーンヒルホテルに飾る美術品を、母親が経営する画廊から購入していたというからには、芦沢も裕福な暮らしをしていたことは間違いあるまい。しかし、カネが絡むとなれば、豹変するのが人間だ。僅かなカネを巡って実の兄弟でさえ、骨肉の争いを繰り広げるのは世間によくある話だ。

それなのになぜ。まして、莫大な財産が月岡家にあることを知っていながら、どうして──。

「これは、私の推測だけど」

考え込む俊太に向かって文枝はいう。「大旦那様の心が、早いうちから奥様から離れていたことは、若旦那様も気がついていたのは間違いないし、大旦那様のことは、父親とは認めてはいなかったでしょうから、さぞや寂しい思いをなさったと思うの」

「そやなあ……。社長になる前は放蕩三昧。カネ持ちのドラ息子を演じていはったしな。あれも、大旦那様への反発心の表れやったんやろな。実際、社長にならはってからは、もうこんな生活は今日で終わりだいわはって、仕事に専念しはるようになったし、会社の経営方針も一新しはったもんなあ」

「芦沢さんだって大旦那様には、同じ思いを抱いていたんじゃないかしら」

「それ、どういうことや」

「認知してもらえないってことは、実の子じゃないっていわれているのも同然じゃない。そりゃあ、お母様には不自由ない暮らしをしていけるだけの収入をもたらしてもくれれば、会社を起こした後も、仕事を与えてもくれはしたでしょう。でもね、芦沢さんは、ずっと婚外子として育ってきたのよ。それがどれほど辛いことか。若旦那様は、そこに思いが至ったからこそ、財産分与なんてことをいい出したんじゃないかと思うの。芦沢さんだって、自分と同じ大旦那様の犠牲者に変わりはないんだって……」

そういう、文枝の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

おそらく、文枝の考えに間違いはあるまい、と俊太は思った。

月岡は厳しい人間だが、情に厚い一面があることは、自分が誰よりも知っている。

「そうか……。そうかもしれへんなあ」

なんだか切なくなって、俊太はため息を漏らした。「ミカドコンサルティングを使い続けたのは、そんな気持ちもあったんやろうなあ。それに、芦沢さんの仕事はしっかりしてはるし……」

「もし、そうだとしたら、芦沢さんは絶対に若旦那様の側についてくれるわよ」

「社長と芦沢さんは、付き合いがあるんやろか」

「それは私にも分からない。家では一切、芦沢さんのお話はなさらなかったから……」

文枝は声を落とした。

「そやろな。奥様がそんな調子じゃ、社長かて芦沢さんのあの字も口にできへんやろな……」

俊太は声を落とすと、はたと気がついて話を戻した。「ただな、文枝。ハミルトンかて、こんな手を使うてまでうちを手に入れようとしてんのや。三分の一を握られれば、思うように経営ができへんいうのは百も承知のはずや。社長の影響力を削ぐために、どないな手を打ってくるか、分からへんで。あいつらが目指してんのは半分以上の株を握り、ムーンヒルホテルを乗っ取ることや。半分以上を握られたら、任意の議題には拒否できるねん。三分の一では対抗できへんのや」

なにしろ、ハミルトンには買収のプロがついているのだ。

こちらがどんな策を講じてくるかは、先刻承知と考えておくべきだ。動きが分かってから対策を講じても手遅れになりかねない。

「だったら、先手を打てばいいじゃない」

文枝は、あっさりという。

「先手って……」

「ハミルトンは示談を持ちかけてくるんじゃないかって、さっきいったわよね」

「ああ……」

「示談を蹴ったら、アメリカで訴訟を起こされるかもしれない。そうなれば、莫大な賠償金を支払わなければならなくなる可能性が大きいんでしょ?」

「そうや」

「だったらどっちにしても、若旦那様は賠償に応じなきゃならない。そのためには株を売却しなければならないわけよね」

「それで?」

俊太は先を促した。

「どうせ株を手放すなら、絶対ハミルトンへの売却には応じない。ずっと株を持っていて下さる、安定株主に売ればいいじゃない」

「そんな先、そない簡単に見つかるかいな」

「あると思うけどなあ」

「どこに?」

「たとえば──」

文枝の話を聞くつけ、俊太は心底驚いた。

先のアジアへのホテル展開もさることながら、この短い間に自らが発案したプランをさらに魅力的なものへと高めただけではなく、確かに安定株主になってくれるかもしれないと期待を抱ける安定株主をあげてきたのだ。

ほんま、こいつは恐ろしい才覚を持っとったんや……。こりゃ、わしなんか束になっても敵わんわ──。

もはや返す言葉もない。

俊太は唖然として、文枝の顔をただただ見つめた。

〈次回は11月20日(月)に更新予定です。〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。