第18回

前回までのあらすじ

有価証券虚偽記載が発覚したことで、俊太の務めるムーンヒルホテルは窮地に陥る。社長の月岡は退任し、さらに共同事業を行なっていたアメリカのハミルトンホテルによる、ムーンヒルホテルの買収計画も発覚する。そんな中、俊太は一連の騒動が、大恩ある寛司の月岡に対する謀反ではないかと疑念を抱く。俊太と寛司の関係、そしてムーンヒルホテルの行く末は…!?

「麻生さん。忙しい中、時間を割いてもらったのは他でもない。ムーンヒルホテルの今後について、正直なところを聞かせてほしいんだ」

それまで笑みを絶やさなかった中江宗俊の表情が一変すると、真剣な眼差しを向けてきた。

高層ビルの最上階にあるフレンチレストランの個室の窓からは、新宿の夜景が一望できる。

世間話に終始したコース料理も、メインディッシュが用意され、この皿を平らげればあとはデザートを残すばかりだが、フルボトル一本のワインでは飲み足りない。ハーフボトルを追加し、「後は勝手にやるから」とボーイに告げたところで、いよいよ本題を切り出したというわけだ。

「うちの今後って、どういうことです?」

寛司は、赤ワインが入ったグラスに手を伸ばしながら訊ね返した。

「ケイマンブラザースって会社を知ってるかい?」

口元にグラスを運んだ手が止まった。

しかし、それも一瞬のことで、

「もちろん知っています。アメリカの投資証券会社ですね」

寛司は、中江の視線を捉えたままワインを口に含んだ。

「実は、そこからムーンヒルホテルの持ち株を売ってくれないかという打診があってね」

「そうですか……やはり、中江さんのところにも──」

「私のところだけじゃない。ケイマンブラザースは月光会のメンバー全員に、この話を持ちかけてきてるんだ」

「月光会の全員に?」

寛司は意識して眉を吊り上げ、驚いてみせた。

月光会はムーンヒルホテルグループの仕事を請け負う会社の親睦団体だ。食材、備品はいうに及ばず、建設、不動産に至るまで業種は広く、事業規模も押しも押されもせぬ大企業から吹けば飛ぶような中小企業と様々だ。

中江は国内不動産最大手のひとつ、スミダ興産の社長であると同時に、月光会の会長を務めている。出会った当時、寛司は経営管理部の係長、中江は営業部の次長であった。付き合いは長い。まして、二人とも順調に昇進を重ね、今の地位に就いたという共通点もある。知り合った時分には、頻繁に酒席を共にしたものだし、お互い会社の重責を担うようになってからは、頻繁にとはいかないものの、今に至ってもなお、年に何度かは酒を酌み交わす付き合いが続いている。

「会のメンバーにとって、ムーンヒルホテルは重要な取引先だし、先代も含め月岡さんには、お世話になってきたんだ。おいそれと株の売却に応ずるわけにはいかないが、再上場が果たせなくなるといわれるとねえ……。なにしろ、株価はずっと上昇し続けてきたし、分割もあったからな。持ち株の価値がますます膨れ上がって喜んでいたところで不祥事発覚だ。それでも文句が出なかったのは、必ずや再上場の日がやってくると確信していたからだ。その目が潰れるかもしれないとなりゃ、持ち株はただの紙屑になっちまう。そりゃあ慌てるさ」

「ケイマンが動いているのは、すでに我々の耳に入っています」

寛司はグラスを置くと、「で、私に何を訊きたいのですか?」

改めて訊ねた。

「再上場は、本当にないのか」

寛司は、短い沈黙の後、口を開いた。

「どうして私に訊くんです。中江さんは、社長と昵懇の仲じゃないですか。月光会のメンバーが動揺している。持ち株をどうするつもりなのか、直接お訊ねになればいいじゃありませんか」

暑気払いに忘年会と、年に二度開かれる月光会のパーティーには、月岡も必ず顔を出す。主役である二人は、会員の応対に追われ、料理を口にすることはできないから、パーティーが終わると、ホテル内のレストランで改めて食事をするのが常である。加えて、中江の唯一の趣味はゴルフで、月岡が遊び惚けていた時代には頻繁にコースを回ったこともあって、双方が『刎頚の友』といってはばからない間柄だ。

直接月岡に連絡を取ることもできれば、要件が要件だ。月岡とて、会うことを拒むわけがないし、問われれば正直に話もするだろうに、どうして俺に訊くのか。

「さすがに、今回ばかりはね……」

中江は、気まずそうに口をもごりと動かして語尾を濁すと、「再上場をするためには、まず月岡さんの持ち株比率を減らすことが必要だ。それは、ムーンヒルホテルが月岡さんのものでなくなるってことじゃないか。親子二代でここまで大きくした会社だぞ。創業家ってのは、そりゃあ自分の会社には深い思い入れを持ってるもんだ。経営権を手放すってのは、子供を亡くすも同然だ。麻生さんだって、うちの会社の創業家がどういう経緯で経営から身を引いたか知ってんだろ? 俺は、その当事者だった人間だぜ」

今でこそ中江が社長も務めているが、それ以前のスミダ興産は、創業家に連なる人間が代々経営を行ってきた典型的な同族会社であった。

不動産ビジネスは巨額のカネが動く。しかも、スミダ興産は、都市部の商業地、それも小さな土地をまとめ上げ、大きな物件として再開発を行い、テナントを集め家賃収入を得るというビジネスと、土地そのものを転売するふたつの事業を柱としている。特に後者の場合、まとまった土地であるだけに、転売時の価格は格段に高くなる。当然、実入りもよくなるわけで、それが不動産ビジネスの醍醐味ではあるのだが、スミダ興産の三代目というのが、とんでもない人物で、経営を部下に任せ放蕩三昧。会社のカネは自分のカネとばかりに、まさに酒とバラの日々を送ったのだ。

「確かに、あの時は大変でしたものね」

寛司はいった。「三代目がやったのは、経費の流用そのもの。それも、目ん玉が飛び出るほどの使いっぷりでしたからね。しかも、こともあろうに暴力団の女に手をつけた。仕組まれた罠だったとしても、それをネタに脅されて、莫大なカネを毟り取られることになったんですからね」

「事態を放置すれば、社員全員が路頭に迷うことになる。三代目には社長を辞めてもらった上で、一族が経営に一切関わらないようにしてもらうしかない。その大役を仰せつかったのが私だ」

中江は、当時のことを思い出したかのように、ほっと小さく息をする。「いや参ったよ……。辞任を迫った途端、三代目はもちろん、墨田一族は猛反発だ。交際費をどれだけ使うかは、社長が決めること。別に会社を赤字にしたわけじゃなし、余計なお世話だ。番頭ふぜいが何をいう。役員になれたのは、誰のお陰だといわれてさ──」

「それで、帝都銀行にすがったんでしたね」

「不動産事業には多額のカネがいる。事案ひとつがまとまるまでは、時間がかかるし、その間カネも寝る。銀行の融資なくして成り立たないビジネスだ。三代目の行状、まして暴力団に食いつかれたとあっちゃ、銀行にとっても一大事だ。事情を聞いた大坪さんの顔色が変わってね。全面的に我々を支援することをその場で約束してくれたんだ」

「退任に応じなければ、横領罪で告訴すると脅したんでしたね」

「隅田一族は名家だからな」

中江はワインを一口飲むと、ふっと笑った。「横領で逮捕者が出たなんてことになれば家名に傷がつく。そりゃあ慌てるさ。しかし、株を手放してもらわんことには、一族の影響力は排除できない。それに暴力団だって、せっかく手にしたカネ蔓だ。そう簡単に諦めるはずがないし、手元のカネを吸い上げたら、今度は株をよこせといいだしかねない。そこで、大坪さんが取ったのが、一族の持ち株を、安定株主に売却することだ」

「三代目は莫大なカネを手にする。あとは暴力団に毟り取られようがどうなろうが知ったこっちゃない、勝手にしろってわけですね」

「そのお陰で、会社は残ったし、私もその功績をもって社長になれたんだが、決していい思い出とはいえないからね。なんせ、栄枯盛衰は世の常だとはいえ、三代目の末路は哀れなもんだったからな。月岡さんに直接訊けばいいじゃないかって麻生さんがいうのはもっともなんだが、どうもあの一件とかぶっちまってさ……」

改めてそういわれると、中江の気持ちは分からないではない。

中江はさらに続ける。

「それに、月光会の中には、再上場が見込めないなら、ハミルトンに倣って、損害賠償請求訴訟を起そうかって声も上がっていてさ」

「損害賠償?」

さすがにこれには驚いた。

麻生は思わず問い返した。

「いくらなんでも、これまで世話になった月岡さん相手に、訴訟はないだろうと私自身は思うんだが、なんせ上場廃止になった理由が理由だ。中には騙されたというやつもいる。中小企業ともなれば、本当に持ち株が紙屑になろうものなら、しゃれにならん金額になるからね。それに──」

「それに、なんです?」

「ケイマンの背後には、ハミルトンがいるんだろ?」

寛司は、なんとこたえたものか言葉に詰まった。

「いや、状況を見ていれば分かるよ」

中江は、苦笑を浮かべる。「ハミルトンは、ムーンヒルホテルを手に入れたがっている。訴訟を起こしたのもそれが狙いなら、ケイマンが株を買い占めにかかっているのも、ハミルトンの意向を汲んでのことに決まってるよ」

中江だって、海千山千の経営者だ。まあ、その程度のことは察しがつくだろう。

「まず間違いなく……」

寛司は頷いた。「ただ、訴訟は日本だけでは終わらないかもしれませんよ。ハミルトンとは、アメリカで合弁事業をやっていますからね。向こうで同様の訴訟が起こされる可能性は十分あり得ます。そして負けた時の賠償金額は、日本の比ではない──」

「もし、そうなったら、月岡さんどうなるんだ」

「さあ……」

寛司は首を傾げたが、「月岡さんにどれほどの資産があるか分かりませんが、いずれにしても、株を手放さない限り、再上場は果たせない。しかし、ハミルトンはアメリカの株式市場で十分資金を調達することができますから、日本で上場する必要はない。ムーンヒルホテルを手に入れる。彼らの狙いはその一点にあるのは確かなんですから」

と断じてみせた。

中江は、何事かを思案するように、眉間に深い皺を刻むと、

「もし、ムーンヒルホテルがハミルトンの手に落ちたら、ビジネスのやり方もこれまでとは変わるよな」

テーブルの一点を見つめ、低い声で訊ねてきた。

「そりゃあ、外資になるわけですから、何事も本社の意向次第ってことになるでしょうね。経営陣も一新されるでしょうし、組織や業務のやり方を含め、何から何まで……」

中江は深刻な顔をして押し黙る。

「当たり前の話じゃないですか。それが何か?」

寛司はいった。

「それが何かじゃないだろう。麻生さん、平気なのか?」

中江が何をいわんとしているかは改めて訊くまでもない。

「そりゃあ、心中穏やかならざるものがありますけど、どうすることもできませんよ。買った側の自由にされる。それが買収されるってことなんですから。お前に居場所がないといわれれば、どうすることもできませんよ。まして、相手はアメリカ企業ですよ。その場でいきなりクビをいい渡されるなんて、日常茶飯事。そんな光景を、何度も目の当たりにしてきたんですから、覚悟してますよ」

中江は、まじまじと寛司を見ると、

「君はいいなあ……」

はあ~っとため息をついた。「日本でのビジネス展開が本社の意向次第ってことになりゃ、いま現在進行中の出店計画も、見直される可能性だってないわけじゃない」

「まあ、可能性というならありでしょうけど、それを私に訊かれても……」

「そうなったら、ビジネスホテルの展開計画だって、どうなるか分からないじゃないか」

「いや、順調に展開している事業を潰すほど、ハミルトンは間抜けな会社じゃありませんよ。それはご心配ないと思います」

「しかし、ビジネスには厳しいのがアメリカ企業だ。出店は計画通りに進めるとしても、ビジネスホテル事業がこれから先も拡大していくとなりゃ、厳しい条件を突きつけてくるんじゃないのかね」

「まあ、それもないとはいえないでしょうね……」

寛司はこたえた。

「麻生さん……」

中江の口調が改まった。「正直にいうがね、ムーンヒルホテルの取引は、他所に比べてかなり条件が厳しい。それでも、仕事をやらせてもらっているのは、事業の拡大に勢いがあるからだ。だからみんな黙ってついてきたんだ。まあ、月岡さんだってその辺のことは承知していたから、無茶とはいえない線ぎりぎりで抑えてくれたが、アメリカ人相手となると、そうはいかない。月光会の中には、切られようものなら即倒産ってくらいに、ムーンヒルホテルに依存している会社だってある。その上さらに取引条件が厳しくなるなんてことになったら……」

「私はハミルトンのやり方を知っていますからいうのですが、正直、かなり条件は厳しいです。その点は覚悟しておいた方がいいと思います」

麻生はいった。「同じものを買うなら、同じ仕事をさせるなら、一番安い値段を提示してきたところに任せるのがハミルトンのみならず、アメリカ人のやり方です。できないというなら、できるというところに任せる。代わりはいくらでもいる。彼らがそう考えているのは確かです」

中江の顔が強張るのが分かった。

焦燥とも緊張とも取れる表情である。

だが、嘘をいったわけではない。

長年、現地で働いてきたのだ。ハミルトン、いやアメリカ企業の経営手法は熟知している。

ホテルひとつ建てるにしても、社内にはそれを専門とする組織があり、コンセプトを固め終えると、そこから先は業者の選定と完成までの施工管理が彼らの主な任務となる。もちろん業者に丸投げするわけではない。用地の確保、設計、施工、内装、備品、全てのプロセスにおいて、ハミルトン側が提示した仕様書に基づく入札が行われることになる。そこに日本流の馴染みの業者といった概念が入り込む余地もなければ、まして接待を通じてお互いが親交を深めるといった、情が入り込む隙間もない。それが、アメリカ企業の流儀なのだ。

「ドライな国だからな……アメリカは──」

「ドライではありますが、逆に分かりやすいともいえるでしょうね」

「分かりやすい?」

「要求は厳しいですがその分結果、つまり会社に貢献したと認められれば、それに相応しい地位と、報酬が与えられる。それは、従業員だけではありません。業者……といっては失礼ですが、貢献が認められればそれなりの扱いをするものです」

「貢献ってのは、ハミルトンにどれほどのメリットを与えたか。つまり、どれほど我々が身を削ったかってことだろ?」

中江は、深いため息を漏らすと、「麻生さん……」

硬い声で名を呼び、沈黙した。

「何か?」

寛司はグラスに残っていたワインを一気に空けた。

「月光会の持ち株を纏めたら、そのそれなりの扱いってのを期待できるかな」

寛司は驚いて、中江の顔を見つめた。

「纏める?」

「みんな動揺してるなんてもんじゃないんだ。もし、本当に株が紙屑になろうものなら、訴訟が相次ぐことは間違いない。それだけ、今回のことにはみんな怒りと失望を覚えているんだ。まして、ムーンヒルホテルがハミルトンの手に落ちた挙句、厳しい商売を強いられるとなりゃ、もはや月岡さんに義理立てする理由はないからね。月光会のメンバーの持ち株を纏めれば、そこそこの量になる。ケイマン、ひいてはハミルトンにとっても、魅力的な話になるはずだ。ただし、その条件として、月光会のメンバー企業には、ハミルトンに経営権が移った後も、それなりの扱いをしてほしい。そう持ちかけてみようかと考えていてね」

面白いことになった、と寛司は内心でほくそ笑んだ。

日本のビジネス風土は独特だ。義理と人情がいまだにものをいえば、当事者同士がお互いの立場を推し量り、程よいところで落とし所を見出そうともする。その点、アメリカは違う。自分のためになるかならないか、商談を決するのはその一点にあるといっても過言ではない。

だが、そんな日本人でも、実害を被るとなれば話は別だ。特にサラリーマンの場合、その傾向は顕著に現れる。なぜなら組織に身を置く限り、必ずや評価というものがつきまとうからだ。

だから、会社が損出を被るような事態に直面すると、法に触れない範囲でなら人の道に外れるような行為に出ることも厭わない。なぜなら、部下の不始末は上司の不始末とみなすのが組織だからだ。そして、上司の命には逆らえない。それがサラリーマンの宿命であるからだ。

中江とて、社長とはいえ、所詮は雇われ社長だ。業績を上げ続けることを、常に強いられている。ムーンヒルホテルのビジネスをなくそうものなら、不動産大手のスミダ興産にとっても大打撃だ。それすなわち、己のクビが危なくなるということを意味する。

となれば、義理も人情もあったものではない。いかにして、被害を最小限に抑えるか、保身に走るのがサラリーマンの常。まさに背に腹は代えられないというわけだ。

双方が刎頚の友と呼んではばからない仲にしてこれだ。

中江もやはり所詮はサラリーマン。危機に瀕すれば、ものの見事に本性を現す。もっとも、それは自分も同じだ。

寛司はその時、初めて中江が自分の同類だと思った。

「それは、私には何ともおこたえしかねますね。ハミルトンがどんな返事をするかなんて、分かりませんよ」

「だから、この席を設けたんだ」

中江は、身を乗り出した。「麻生さん、ハミルトンと一緒に仕事をしてたんだろ?」

「ええ……それは、まあ──」

「その伝手で、私の意向をハミルトン側に話してはくれないか」

「冗談じゃ、ありませんよ」

麻生は、驚愕したふりを装った。「それ、私に社長を裏切れっていってるようなもんじゃないですか。そんなこと──」

「麻生さんの手柄にもなるじゃないか」

中江は大真面目な顔をして、麻生の言葉を遮った。「月光会の株を纏めたとなれば、ハミルトンにとっては功労者だ。となれば、買収されたって、麻生さんは役員として残れるかもしれない。いや、それどころか、麻生さんのこれまでの実績を考えれば、社長にだってなれるかもしれないだろ」

もう、社長になることは決まってるんだ。

早晩、ハミルトン側の弁護士が、月岡に示談をもちかける。条件は、ただひとつ。株の譲渡だ。示談が成立すれば、月光会の持ち株など、どうでもいい。まとめてみせたとて大した土産にもなりはしない。

「私はねえ。月岡さんを説得してみようと思うんだ」

中江はいった。

「説得?」

「株を、ハミルトンに差し出せとね」

中江はボトルを手にすると、寛司のグラスにワインを注ぎ入れる。「何も、持ち株の全てを手放す必要はない。三分の一を割れば、月岡さんはただの大株主。影響力は行使できないが、二度と経営に携わらないと決めたからには、それで十分じゃないかとね。となればだ、月岡さんが考えなければならないのは、いまムーンヒルホテルで働いている従業員たちの今後だ。ムーンヒルホテルの経営権がハミルトンに移れば、役員はもちろん、経営方針、組織、仕事のやり方、人事考課、全てが変わるわけだからね」

寛司は黙って、グラスを傾けた。

中江は続ける。

「うちのお客さんにも、最近アメリカ企業が増えていてね。彼らとビジネスをしていて、何に一番困惑するかというと、彼らは自分たちのやり方が絶対的に正しい。そう信じて疑わない点にある。つまり、郷に入っては郷に従えという考えが端から欠落してるんだ」

「それは、国のあり方が違うからでしょうね」

寛司はグラスを置きながらこたえた。「ご承知のように、アメリカは多民族国家です。世界中の全ての国からやってきた移民で構成されている社会なんです。日本も多民族国家ではありますが、圧倒的多数の日本人はそのことを意識していません。そして、共通の言語、文化を持った人間たちで構成されているのは紛れもない事実。これをアメリカ社会に置き換えれば、日系人の社会でなら通用するビジネスを行っているわけです。しかし、アメリカは違うんです。全ての人種、異なった文化の全てに通用するビジネスを行わなければならないのです。それがアメリカのやり方は世界に通用すると考えている理由なんです」

「しかし、ここは日本だ」

中江はいった。「そんな理由でアメリカの流儀を持ち込まれたのでは、我々どころか、ムーンヒルホテル自体の経営がズタズタにされてしまうかもしれない。月岡さんだって、絶対にそんなことは望まないはずだし、ハミルトンのためにもならない。ならば、そうならないようにするための方法はひとつしかない。株を譲渡するにあたっては、当面、ムーンヒルホテルの経営に手をつけないことを確約させることだ」

「しかし、買収されれば、全てはハミルトンが決めることになるんですよ」

「満足のいく働きをする人間には、それに相応しい道が開けるのが、アメリカ企業なんだろ?」

中江は、じっと寛司の目を見据える。「麻生さんならやれる。君だって、自信があるんだろ?」

当たり前だ。

しかし、その言葉を出すのは傲慢に過ぎる。

寛司は、黙って中江の視線を捉えた。

「麻生さん、社長になれよ」

中江はいった。「月岡さんは俺が説得する。麻生さんはそれを手土産に、ハミルトンのものになったムーンヒルホテルの社長になれよ。ビジネスホテル事業は、まだまだ拡大の余地がある。数字は難なく達成できるはずだ。その実績が買われれば、さらに上を目指せるじゃないか」

中江が何を狙っているかは、改めて聞くまでもない。

自分が社長になれば、月光会のメンバーとの関係もいまのまま。スミダ興産に至っては、月岡の持ち株を譲渡させることに成功したとなれば、その功績をもって優遇されると踏んでいるのだ。

そう思う一方で、「さらに上を目指せ」といった中江の言葉が引き金になって、かつて、デビッドがいった言葉が脳裏に浮かんだ。

『パレスの住人になると、見える世界が違うとみな一様にいうからね』

「月岡さんだって、負けると分かっている訴訟をいつまでも抱えたくはないに決まってんだ」

中江は続ける。「まして、アメリカで訴訟なんか起こされてみろ。そっちは遙かに厳しい判決が出るのは目に見えてんだ。ムーンヒルホテルのいまの経営形態には当分手をつけないのを条件に、株の譲渡に応じるといやあ、間違いなく応ずるさ」

中江は、そういい終えると、ワインを一気に飲み干した。

今度は、寛司がボトルを手にし、空いたグラスにワインを注ぎ入れる。

「本当に月岡さんが同意すると思ってるんですか?」

寛司は訊ねた。

「でなければ、こんなことをいうかね」

中江は、ニヤリと笑った。「実は、この件に関しては月岡さん本人から、何度も相談を受けていてね。最終的に株は誰かに渡さなければならないのだが、ハミルトンのやり方が強引に過ぎる。アメリカの流儀でやられては、ムーンヒルホテルが滅茶苦茶になるかもしれない。それを一番案じているのは、月岡さんなんだ。なんせ、ムーンヒルホテルグループはあの人の城だからな。城を明け渡した途端、全て新しい城主の色に塗り替えられたんじゃ、これまでの全てを否定されたも同然だ。それが、我慢ならないんだよ」

確かに、中江は月岡にとって友といえる唯一の存在だ。相談を持ちかけるとしたら、中江だろうし、その言葉に嘘偽りはないはずだ。

しかし、それにしても皮肉な話だ、と寛司は思った。

刎頸の友とは、お互いに首を切られても後悔しない仲という意味だが、本当に言葉の通りになってしまうとは──。

「中江さんが、そこまでおっしゃるのなら、いいでしょう。この話に乗りますよ」

寛司はいった。「ハミルトンの目的は、月岡社長個人を追い詰めることじゃない。ムーンヒルホテルを手に入れたいだけの話なんです。それが判決が下される前に実現するとなれば、それくらいの条件は、絶対に呑みますよ」

中江はワイングラスを手に取ると、

「ただし、麻生さん。月岡さんが株を手放すことに同意した途端、月光会の話はなかったものにじゃ困るよ。絶対に約束は守る。あなたを社長に据えるって確約をハミルトンから取り付けた上でないと、私たちの目論見も水の泡だ。交渉をうまく纏める自信はあるんだろうね」

上目遣いで寛司を見ると、低い声で念を押した。

「その点はご心配なく。オーナー親子とは、直接話ができますので」

寛司もまた、グラスを手にすると、「ハミルトンもムーンヒルホテルと同じでしてね。全てはオーナー家の一存で、物事が決まるんです。彼らは絶対にこの条件を呑みますよ。任せておいてください」

ふっと笑みを浮かべ、乾杯を促した。

終章

中江の話を聞くのが辛かった。

やっぱりと思う一方で、「なんでや……」と、何度も俊太は胸の中で問いかけた。

あれだけ社長に恩があるといっていた寛司が、なぜ謀反を起こしたのか。やはり、理由はただひとつ。月岡がいうように、到底競争相手とはなり得ないと歯牙にもかけなかったこの自分に、仕えなければならないことが現実味を帯びてきたことが我慢ならなかったからだ。

わしがおらへんかったら。余計なことをせなんだら──。

このひと月の間、何度そう考えたか。

文枝にも話せない、秘密を抱え、悶々とする日々がいかに辛かったか。

しかし、それ以上に中江の口を衝いて出る、寛司の言葉は俊太の心を痛めつけた。まして、月岡が刎頚の友と呼んではばからない中江を使って、寛司を罠にかけるのと同然の行為をもって確かめたとあっては、心情はますます複雑だ。

「嫌な役目をさせちまったな……」

月岡は悲しそうな眼差しを中江に向けると、深く頭を下げた。「申し訳ない……この通りだ……」

「あの麻生さんがねえ……」

中江もまた、やるせない顔になり、ため息をつく。「社員は家族だという経営者がいますが、それは違うと思うんですよ。評価というものがつきまとうのが会社です。当然、そこには競争が発生する。そして、評価を決めるのは上司です。人が評価するんです。どんな上司につくか、どんな仕事を与えられるか。運もあれば、評価には私情も入る。だから、誰もが納得する評価もなければ、人事もない。妬み、嫉み、ありとあらゆる人間の負の感情が渦を巻いているのが会社。足の引っ張り合いだって当たり前なんですが、オーナー企業では、出世してもナンバーツー。それが、月岡さんの退任によって、トップになれる目が出てきた。それを小柴さんに攫われるとなれば、やはり我慢ならなかったんでしょうなあ……」

そういわれると、癒えぬ傷から、鮮血が噴き出すかのように、胸が張り裂けそうになる。

俊太は肩を落とし、ただただ俯くしかない。

「中江さん……」

月岡は、重々しい声で名を呼んだ。「人間には得手、不得手ってものがある。優秀な成績を上げた人間を、いち早く管理職に就かせても、そいつが期待通りの働きをするか、その上司や部下から、評価されるかといえば、必ずしもそうではない。現場仕事なら目覚ましい働きを見せるが、人を使うとなるとさっぱりだってやつも必ず出る。日本の会社の多くは、それでもある一定の年齢に達すると、しかるべき役職と報酬を与えてきた。所謂年功序列ってやつだが、俺は、それは誰のためにもならないと考えた。管理職はさっぱりだが、現場なら能力を発揮するというなら、そこで存分に力を発揮すればいい。そう思ってきた」

「分かります」

中江は頷く。「管理職の能力に劣る人間を、年功だけをもって職につければ、そこに生まれるのは良くて停滞、大抵の場合はマイナスの効果しか生まないものですからね」

「それでは、本来もっと大きな成果を得られるはずだったビジネスも伸びない。新たなチャンスを与えれば、育つはずだった人材の芽も摘んでしまう。結果的に、全社員が不利益を被ることになるんだ」

「理屈の上ではその通りなんですが、部下だった人間に抜かれるとなると、やはり、そこは人間ですから……」

語尾を濁す中江に向かって、

「それでも断を下さなければならないのが、経営者なんですよ」

月岡はいう。「社長は上がりのポジションじゃない。業績を維持するだけじゃ駄目なんだ。前任者を上回る実績を上げ、会社の基盤をますます強固なものにしていく。そして、その座を明け渡す時には、将来を託せると見込んだ人間を選ぶのが社長の務めなんです。麻生は確かに有能な男だ。経営を担う能力も十分にある。しかし、それに優る才を持つ人間がいるとなれば、麻生に任せるわけにはいかないんです」

身の置き所がないとはまさにこのことだ。

俺は、そんな器やない。ただ、「これ、いけるんとちゃうか」と思ったことを提案してみただけや。そのことごとくが当たっただけの話なんや。

俊太は、ますます身を小さくして、俯く角度を深くした。

「それが証拠に、こいつは、この難局を乗り切る策を出してきやがった」

月岡の口調が急に柔らかくなった。

俊太は思わず顔を上げた。

月岡は続ける。

「中江さん。こいつはね、ハミルトンがうちを手に入れたいのは、日本を足がかりにして、アジア市場に乗りだそうとしているからだといいやがってね。まあ、そこは誰もが気づいていたことだが、面白いのはそこからでね。ハミルトンが目をつけたくらいだ。ならば、先手を打ってうちがアジアに進出したらいいじゃないかといい出してね」

「先手を打つといっても、月岡さんは経営から退いたじゃないですか。それに、ハミルトンは、日本での訴訟が終われば、次はアメリカ。莫大な損害賠償を請求されれば──」

「カネで払えばいいだけの話じゃないですか。アメリカで賠償金を支払えって判決が出たところで、株を全部売り払わなければならないほどの金額になるわけがない。株を譲渡したカネで支払えばいいだけの話です」

「しかし、その株を誰に引き受けさせるんです? そこに頭を痛めていたわけでしょう?」

「いままでお付き合いしてきた企業。それから、これからお付き合いが深まるであろう企業です」

「これから……といいますと?」

「アジアに進出するに当たっては、ただホテルをやったんじゃ芸がない。マンションを一緒に建設すべきだというのがこいつの提案でしてね」

瞬間、中江が息を飲んだ。

何を目的とするか、悟ったのだ。

月岡はニヤリと笑うと続けた。

「アジアには商社、金融、建設、プラント、メーカーと多くの企業が進出しています。当然、駐在員も数多くいる。彼らが真っ先に探さなければならないのが住居です。しかし、治安、教育、買い物と、すべての条件が整った物件は限られている。そこで、ツインタワーを建設し、一棟はホテル、もう一棟はマンションにする。ジムやプールはホテルと共用。地下、および地上階からある一定階までは商業施設、それも日本のデパートを誘致すれば、駐在員にとっては魅力的な物件になるんじゃないかと」

「確かにそれはいえてますね」

中江は唸った。「そうした造りにすれば、セキュリティーは万全だし、外に出る必要もほとんどなくなりますからね。もちろん、マンションの住人には掃除とかクリーニングとかのホテルで行うサービスが提供されるんでしょうから、奥様方にはとてつもなく魅力的な住まいになりますよ」

「そこに日本人が集中して住むようになれば、出張者やお客さんをアテンドするのも楽になる。観光客だって、うちが経営するホテルとなれば、部屋のクオリティ、サービスの内容は重々承知。何があっても日本語で対応可能となれば、旅行客の需要も見込めるわけです。となれば、パック旅行を販売している旅行会社、航空会社にとっても、ムーンヒルホテルとの関係を深めておきたい。そう考えるんじゃありませんか?」

「なるほどねえ……」

中江は目を丸くして、俊太を見た。「それを小柴さんが?」

「そういうやつなんですよ。こいつは」

月岡は目を細めると、白い歯を覗かせた。「アジアに次々にそうした施設をとなれば、建設会社だって受注したいと思うでしょう。商社やメーカーにしたって、持ち株数によっては、優待割引が受けられるとなれば、魅力的な話です。そして、このビジネスが拡大していけば、ムーンヒルホテルの業績は格段にアップする。それすなわち、株価が上がるということです。その一方で、国内ではビジネスホテル事業が順調に伸びていけば、月光会のみなさんだって、うちの株を買い増ししたいと思うでしょう?」

「もちろんです! 是非に!」

中江の喜ぶまいことか。

当たり前だ。この計画が実際に動き出す頃には、ムーンヒルホテルは再上場を果たしている。それまでの間に、ビジネスホテル事業が順調に拡大していけば、株価は間違いなく過去最高値を上回る。そこに、アジア事業が加われば、それこそどこまで値が伸びるか分からない。そこで、株式の分割をしようものなら、資産価値は増すばかり。いいことずくめ以外の何物でもない。

「実はこの話、すでに大坪さんにも話してあってね」

月岡はいった。「もちろん大賛成だ。ただ単に安定株主でいてくれってお願いしても、そこは経営者だ。これから先の成長性を見極めないことには、二つ返事で引き受けるわけがないからね。だが、この事業計画を聞いた途端、それならいけるとおっしゃって、いま各企業に声をかけてくださっている最中なんだ」

「それは、良かった」

中江は、声を弾ませると、「しかしさすがですね。ハミルトンの狙いを先取りして、ムーンヒルホテルの事業拡大に結びつけるとは……。窮地に陥ると、どうしても守りに入るものなのに、攻めることで活路を見出すなんて考えはまず抱かんものですよ。しかも、敵の目論見を逆手に取るとは──」

改めて俊太を見る。

「やはり、お前には天性の才があるんだな」

月岡は、感慨深げにいいながら目を細めた。「大したもんだ。大坪さんも感心してたぞ。なぜ、俺がお前を後継者と見込んだのか。その理由がはっきりと分かったと──」

「そんな……わしが後継者やなんて──」

日本最大級のホテルグループに成長したムーンヒルホテルを自分が率いていくなんてことは、いまに至るまで露ほども考えたことはない。

本来ならば、喜びを覚えるところだろうが、そんな気持ちは、微塵も湧かない。むしろ、その時俊太が覚えたのは、戸惑いと恐怖である。

「社長……わし……これまで色々新しい事業の提案をしましたけど、それは、社長がいればこそですがな。提案するのは簡単です。だって、そやないですか。断を下すのは社長なんですから。駄目で元々。正直、そない安易な気持ちも、わしの中にはあった思うんです。そやけど、社長いうたら、今度は自分で考えたことは自分で決断せなならんし、部下が上げてきた案に断を下さなならんわけやないですか。どう考えても、わしにはそない重い役は務まらんと……」

「テンよ」

月岡は穏やかな声でいった。「提案しただけだっていうがな、大半の人間はそれができないんだよ。まして、お前は子会社の社長もやった。本社の役員もやった。十分に考える力もあれば、判断する力も身についているはずだ。あとは、自分に与えられた才と自らの判断を信じる力を身につけるだけだ。このアジアの事業は、絶対に成功する。それは、間違いなくお前の自信につながるはずだ」

「そやけど……」

俊太は、一瞬口籠もると、「アジアで事業いうても、わし、英語が分からへんし……」

情けなくなって視線を落とした。

「英語?」

月岡は、声を裏返させる。

視線を上げた俊太の前で、月岡は中江と目を合わせると、大声を上げて笑った。

「そんなもの、できるやつにやらせりゃいいじゃねえか」

「でも、社長……。正直いいますけど、このアジアの案を考えたのは、わしやないんです」

俊太は、必死の思いで訴えた。

「お前じゃない? じゃあ、誰なんだ」

「文枝……です……」

なんだかばつが悪くなって、俊太は視線を落とした。

「文枝が?」

また、月岡の声が裏返る。

「文枝いうのは、びっくりするような才があるんです。今回の一連の経緯を話したら、要は安定株主をみつければいいんでしょう。それなら、ムーンヒルホテルがさらに業績を伸ばせる事業をやる計画を立てればええだけの話やいうて……。それで、その場でこの策を──」

「そうか、文枝がなあ……」

月岡は、感心したように唸った。

「文枝のどこにこないなことを考える力や、知識があったんかと、そらびっくりしたなんてもんやありませんで。感心するより先に、なんや、わし空恐ろしゅうなりまして──」

「あいつは、うちにいた頃から勉強家だったからな。世の中のことに、常にアンテナを張り巡らしてんだろうな。それに、亭主の一大事だ。これまでは亭主を立てるいい女房に徹してきたが、いまこそ力になる時だ。きっとそう思ったんだよ」

「そやし、わしが危機を救ったちゅうわけやないんです。文枝がおらなんだら──」

「つまんねえこというんじゃねえよ」

厳しい声で俊太の言葉を遮りながらも、月岡の目は笑っている。「それも、お前に運があるってことの証じゃねえか」

「運?」

「そう運だ」

月岡は断じる。「考えても見ろよ。俺との出会いは、料亭川霧だ。下足番をやってたお前が、誰に命じられたわけでもないのに、客の靴を磨くなんてことをしてなけりゃ、俺の運転手になるなんてことはなかったんだ。文枝とだって一緒になるどころか、出会うことすらなかったんだぞ」

そういわれると、返す言葉がない。

黙った俊太に向かって、月岡は続けた。

「先のことは誰にも分からんが、人生ってのは、振り返ってみると、よくできているもんなんだよ。あの時、あの場所にいなかったら、あの時、あの人と出会わなかったら……人はそれを偶然っていうがな、俺はそうは思わない。全てのことは、あらかじめ決められているんだよ。そして、そのおかげでいまの自分があると思えるやつは、神様に愛されたやつ。つまり、運に恵まれた人間ってことなんだ」

月岡の言葉が、すとんと腑におちる。

「小柴さん。月岡さんのいう通りだ」

中江がいった。「小柴さんは、素晴らしい奥さんをお持ちのようだ。亭主の危機に、こんな策を思いつく女房なんてまずいるもんじゃありません。周りの人間に恵まれる。危機という時に、助けてくれる人間が現れる。それ自体が強運の持ち主ってことなんです。これはね、本当にいくら欲しても手に入れられるものじゃないんですよ。そして、経営者にとって、もっとも必要なもののひとつが運なんです」

「テンよ……」

月岡が改めて呼びかけてくる。「株の件に目処がついた時点で、お前、社長に就け。この件については、大坪さんも同意している。新たに株主になってくださる方々も、反対はせんだろう。月光会のみなさんもだ」

「もちろんです」

中江が、即座に同意する。

「お前は、そうなるために生まれてきたんだ。社長になって、ムーンヒルホテルを率いるのが、お前の天命なんだ。もっとも、お前の運がそこから先も続くのかは分からない。だから、お前が不安に思うのは分かる。でもな、それは考え次第だぞ。だってそうだろ。成功が約束された将来なんてもんが分かっちまったら、人生なんて面白くもなんともねえだろ」

月岡は、そこでしげしげと俊太の顔を見つめ、「テンか──。テンってのは、お前の顔が動物の貂に似てるからってつけられたあだ名だったな」

と問うてきた。

「はい……」

「確かに、似てるっちゃ似ているが、どうやら別の意味もあるのかもしれないな。テンは動物の貂じゃない。天下人になる。だからテンなのかもな……」

月岡は、考え深げにいった。

天下人のテン──。

その言葉を聞いた瞬間、俊太は鳥肌が立った。

あの劣悪極まりない環境の中で、一歩、また一歩と階段を登り、気がつけばムーンヒルホテルの社長の座に就こうとしている。信じられないほどの立身出世だが、それが予め己に課せられた運命だとしたら、確かに納得がいく。いや、そうとしか思えない。

ならば、この運がどこまで続くか。その先に待ち受けているのは、何なのか。その結末をとことん見てみたい。

そんな気持ちが、急速に俊太の中で頭をもたげてきた。

「社長──」

俊太は腹を決めた。「わし……やらしてもらいます。社長のご期待にこたえられるよう、精一杯働かせてもらいます」

俊太は、声に力を込めると立ち上がり、直立不動の姿勢を取ると、深々と頭を下げた。

〈次回は12月20日(水)に更新予定です。〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。