第19回

前回までのあらすじ

有価証券虚偽記載が発覚し、俊太の勤めるムーンヒルホテルは窮地に陥る。社長の月岡は退任し、アメリカのハミルトンホテルによる買収計画も浮上した。しかし、一連の騒動の裏では、どうやら大恩ある寛司が暗躍しているらしい。そんな状況下、俊太はアジア進出の新規事業を打ち立て、安定株主を確保する秘策を提案する。すると月岡から思いもよらない言葉が返ってくるのだった…。

「──というわけで、月光会のメンバー企業の持ち株は、全て買収する目処がつきました。月岡の所有分からすれば、大した株数じゃありませんが、彼らは、いわばムーンヒルホテルの親衛隊ですからね。連中に見限られたことを知れば、月岡は大変なショックを受けるでしょうね」

いまの寛司に、渡米する仕事はない。

深夜の自宅でソファーに座り、足を高く組んだ寛司は、薄笑いを浮かべた。

相手は、いずれ自分が仕えることになる人物だが、傲慢不遜な態度で会話を交わせるのも、国際電話であればこそだ。

「功に免じて、うちが経営権を握った後も仕事をくれか……」

受話器を通して、デビッド・ハミルトンの苦笑する気配が伝わってくる。「日本はサムライの国だ。従者は主人に絶対的忠誠を誓い、事あらば運命をともにするものだと聞いたが、日本もアメリカも変わらんのだな」

「サムライなんて、いまの日本にはいませんよ。それに、彼らは商人ですから」

「なるほど、サムライではなく商人か」

デビッドは、ひとしきり声を上げて笑うと、「まあ、出入り業者にとっては、取引先の規模が大きくなればなるほど、仕事を切られようものなら即、死活問題だ。新しい主人に尻尾を振って擦り寄って来るもんだからな」

お前も同類だとでもいいたげな、言葉に微妙なニュアンスを漂わせる。

「機を見るのに敏でなければ、ビジネスの世界では生き残れませんからね。ビジネスは食うか食われるかの戦いである以上、勝利しなければ意味がありません。それに、負けが見えた主人と運命をともにしたビジネスマンが評価されますかね。負けが見えていたなら、なぜ早いうちに仕える相手を替えなかったのか。己の判断力のなさを自ら証明するようなもんじゃないですか。そんな人間を、少なくともマネージメントクラスとして採用する会社なんて、あるわけがない。そうじゃありませんか?」

「確かに、その通りではあるな」

デビッドは、感心した様子で即座に同意する。

「それに、月光会が向こうから擦り寄ってきたのは、我々にとっても好都合です。彼らは、ムーンヒルホテルの経営方針や要求レベルを熟知しています。業者を一新すれば現場も混乱するでしょうし、ムーンヒルホテルの社員にしたって、経営がハミルトンに替わった途端、いきなりそんなことをやろうものなら、次は自分たちに何が起きるかと不安を抱くでしょう。なんだかんだいっても、事業は順調に拡大しているんです。人手はこれからも、ますます必要になることですし、経営権がハミルトンに移っても、何も変わらない。まずは業者、社員に安心感を覚えさせることが重要です。その点からいっても、株の譲渡と引き換えに、月光会にアドバンテージを与えるのは、理に適った戦略かと……」

「だからといって業者、社員ともに、甘やかせるつもりはないぞ」

ハミルトンの経営方針を熟知しているからこそいっているのだ。

「日本の諺に、急いては事を仕損じるというのがありましてね」

寛司は、ため息をつきたくなるのを堪えていった。「日本はかなり特殊な市場で、アメリカ流の経営が必ずしも通用するとは限りません。事実、ムーンヒル・インをはじめるにあたっては、ハミルトンのマニュアルを導入しましたが、その後、日本流に改良されたものを、逆にハミルトンが取り入れるようになったじゃありませんか」

紛れもない事実を突きつけられて、デビッドは黙った。

寛司は続けた。

「日本人は急激な変化は望まないのです。理屈の問題じゃなく、長く日本という島国の中で培われた文化、風習というものが身に染みついているんです。大丈夫、結果は出してご覧にいれます。業者も従業員も、徐々にハミルトンの流儀に染め上げてみせますので……」

「グローバル企業の組織というのは、軍隊にたとえると分かりやすい」

ハミルトンは、いささか唐突とも思える言葉を口にする。「大統領は全軍の最高司令官だが、実際に軍を率い、戦いを指揮するのは各エリアの司令官。さしずめ君は太平洋軍司令官になるわけだ。どんな作戦を立て、どう戦うかは、敵を熟知している君が決めることだが、負けることは許されない。もちろん、限りある武器弾薬、兵力をいかに効率よく使うかも問われる。それを理解した上で、私を満足させる結果を出し続ける限り、好きにやったらいいさ」

なるほど、大統領も社長も英語では同じ『プレジデント』だ。ハミルトン王国を支配するのはデビッドだが、世界に展開するホテルの指揮を執るのは、地域を任されたコマンダーというわけだ。その中に新たに生まれる太平洋地域の長となれば、アメリカ海軍でいうなら第七艦隊司令官。そして、その先にはペンタゴン、国防長官の椅子がある。

タワーの住人になるのはその時だが、席に座るまでの青写真はすでにできている。

「ご期待に背くようなことは、決してありませんので」

寛司は、声に自信を込めて返すと、「月光会の意向は、近いうちに月岡に伝わるはずです。そろそろ次のアクションを起こす時かと……」

決断を促した。

「示談のことかね?」

「素直に応じるとは思えませんが、月光会の会長の中江というのは、月岡が腹心の友と呼ぶほど信頼している男です。それに、中江はムーンヒルホテルのメインバンク、帝都銀行の頭取とも深い親交がありましてね。中江が売却に応じる姿勢を見せるからには、銀行の同意を取り付けているはずです。そして、頭取とも、月岡は公私にわたって極めて親しい間柄にある。つまり、月光会に銀行、これまで自分を支えてきた友人たちに、月岡は見放されたわけです。さすがの月岡も、心が折れますよ」

「友人、それも親友の裏切りは、何よりもこたえるものだからな」

デビッドが薄く笑う気配が、受話器を通して伝わってくる。「いいだろう。その旨、私の方から日本側の弁護士に指示を出しておこう。君に『ハミルトンにようこそ』といえる日が来ることを心から念じているよ」

その言葉を最後に、デビッドは受話器を置いた。

寛司もまた受話器を置きながら、正面のソファーに座る真澄に目をやった。

真澄も英語は堪能だ。寛司の言葉からだけでも、話の内容には察しがつく。

「いよいよね」

化粧を落とした真澄の瞳に、サイドスタンドの明かりが反射して、妖しい光が宿る。

「太平洋軍司令官だとさ」

寛司はこたえた。「ああ見えて、社長は妙な男気があるからな。絶対的信頼を置いていた人間に、見捨てられたとなりゃ、そりゃあこたえるさ。それに、不正行為にはとことん厳しいのがアメリカだ。向こうで訴訟を起こされれば、損害賠償に加えてペナルティのダブルパンチだ。さっさと示談に応じた方が、得だっていうことは馬鹿でも分かる」

「あなたが、その太平洋軍司令官に就任したら、誰がこの絵を描いたかって分かっちゃうんじゃない? 失望が怒りに変わらなければいいけど……。あの人、怒ると怖いわよ」

「怒ったところでどうなるよ」

寛司は鼻でせせら笑った。「その頃は、ムーンヒルホテルは、すでにハミルトンのものになっちまってるんだ。それに、俺が社長になったとしても、能力を買われただけだって見方もできる。これまでだって、海外事業は俺がひとりで仕切ってきたようなもんだし、能力を認められたやつだけが生き残れるのがアメリカ企業だ。社長だって納得するだろうし、俺が経営を任されると知りゃあ、組織、人事も含めて手荒なことはすまいと思うだろうさ。むしろ、安心するんじゃないのかな」

「それはいえてるかもね」

真澄は納得した様子で肯定すると、「で、その人事だけど、小柴さんはどうするつもり? 役員で置いておくの?」

何気ないふりを装いながらも、棘を含んだ口調で訊ねてきた。

「どうしたらいいと思う?」

真澄の意向は承知しているが、寛司はあえて問い返した。

「アメリカの会社になるんだもの、小柴さんは英語が全然できないんでしょう? いくら頑張ったって、意思の疎通を欠くんじゃ、いつまで経ってもローカルスタッフの一員。あなたの脅威になるとは思えないけど、世界有数のホテルグループの役員が中卒ってのは、さすがにねえ」

真澄は、あからさまに嘲り笑いを浮かべる。

「かといって、馘ってのもさすがに寝覚めが悪いしな。本社の役員からは下りてもらうが、ビジネスホテル事業を子会社化して、そこの役員にでもしてやるか」

「そんなの駄目よ」

真澄はとんでもないとばかりに首を振る。「実績だけで社長になろうかってところまで上り詰めてきた人よ。あなたはことごとく、あの人の後塵を拝してきたんじゃない。そんな人を子会社とはいえ、会社の中に置いておくなんて危険だわ」

ことごとく後塵を拝してきた、といわれると、さすがにプライドが傷つく。

それに、俊太が思いもよらぬ発想で、新しいビジネスをものにしてきたのは事実である。しかし、過去の経緯からして、こともあろうにこの自分が引導を渡そうものなら、不審を抱く人間も少なからず出てくるはずだ。

「じゃあ、こうしよう」

寛司は、ふと閃くままを口にした。「球団の社長ってのはどうだ。ハミルトンはプロ野球球団の経営なんかに興味を持つはずがない。黒字ではあるが、グループに大きな利益をもたらしているわけじゃないからな。無駄なコストだ、さっさと手放せといってくるに決まってる。まあ、そうはいわれても、高い買い物になるわけだし、買えば買ったで維持費もかかる。買い手だってそう簡単には現れるわけがない。短い期間にせよ、あいつに居場所を用意してやれるわけだ。そして、買い手が現れた時点でお役御免。後は野となれ山となれ。その先をどうするかは、あいつ次第ってことになる」

「球団ねえ──」

真澄は、目元を緩ませると、「それなら、いいかも」

口元に含み笑いを浮かべながら、心底愉快そうにいう。

「本社の役員を退任するにあたっては、応分の功労金も出るし、球団社長になりゃ、売却までの期間とはいえ給料も貰える。もちろん報酬は格段に下がるが、テンの生い立ち、学歴を考えりゃ、それでも出来過ぎの人生だ。あいつだって納得するさ」

「短い間っていうなら、あなたは大丈夫なんでしょうね」

真澄は、一転して顔から笑みを消し真顔で訊ねてきた。

「大丈夫って何が?」

「決まってるじゃない。あなたが社長になってからのことよ。ハミルトンがムーンヒルホテルを手に入れられたのは、あなたの功績に間違いはないとしても、そこから先は常に増収増益を求められるのよ。日本企業じゃ、上へ行けば行くほど仕事は楽になるものだけど、アメリカ企業は逆じゃない。期待通りの結果が出なけりゃ、あっさり馘でしょ?」

「心配するな」

寛司は苦笑した。「ビジネスホテル事業は当分の間拡大し続ける。それだけでも、全体の業績は右肩上がりで伸びて行くのは目に見えてんだ。どう考えたって、俺の評価が悪くなる要素はない。まっ、六年……いや、五年もすりゃあ、日本とはおさらばさ」

「アメリカに戻れるのね」

真澄はうっとりした目をして、熱に浮かされたかのようにいう。

「ああ……それも、タワーの住人としてね」

アメリカと日本のどちらの生活が快適かといえばこたえは明らかだ。

もっとも、それもカネ次第。持たぬ者には厳しいが、持てる者には望むもの全てを手にすることができる社会。それがアメリカである。

安全も、快適にして大きな住まい、ボート、果ては飛行機に至るまで、カネさえあれば何でも買える。しかも日本では到底考えられぬ破格の安さでだ。

ハワイで暮らしていた時分は、ムーンヒルホテルの駐在員に過ぎなかったが、それでも日本にいた頃に比べれば、格段に快適な生活を送ってきたのだ。ハミルトンの役員ともなれば報酬は桁違い。実績を上げれば上げるほど、報酬は格段に増えていく。そして、有能と見なされれば、さらなるステップアップへのチャンスがやって来るのがアメリカだ。それが、また報酬のアップにつながる。

あのドヤで生まれた自分にこんな日が来ようとは──。

寛司は、自分は神に愛されたひとりではないかと、ふと思った。

人生を振り返る時、「もし」を考えるのは人の常だが、何かひとつ欠けていても、いまの自分はなかったことは確かである。そもそも大恩ある月岡を裏切ることになったのが、あの俊太をこの会社に引き入れたことに端を発するとなると、もし、あの男の存在がなければ、自分は生涯月岡に仕える身であったろう。いや、仮に月岡が自分を次期社長に任命することはあっても、世界に冠たるハミルトンの役員に就任することなどあり得ないことであったのだ。

いったい、俺はどこまで上り詰めるのか……。

そこに思いが至ると、この先にどんな栄光が待ち受けているのか、寛司は身震いするような興奮を覚えた。

「乾杯しようじゃないか」

寛司はいった。「俺の将来に……天下人となる、その日を願って……」

「その言葉、信じていいのね」

真澄は嫣然と微笑む。

寛司は静かに、しかし、力強く頷くと、

「もちろんだ。どうやら。俺はそうなる星の下に生まれてきたらしい」

きっぱりと断言した。

芦沢が経営するミカドコンサルティングは、青山にある。

社長室の窓からは、表参道の欅並木が間近に見える。

月岡が株を売却するにあたって、芦沢の支援を取りつけるために、俊太が芦沢の下を訪ねたのは、社長就任を承諾した、ひと月半の後のことだった。

腹違いとはいえ、月岡と芦沢は兄弟である。本来なら、月岡が自ら話をつけるべきなのだが、生まれてこの方、ただの一度も会ったこともない間柄だ。まして、実父の葬儀にも列席は許されず、婚外子として生まれ育ってきたのだ。月岡が芦沢に仕事を与えてきたのも、当然と考えているかもしれないし、本家に対して複雑な感情を抱いているかもしれない。しかも、遺産の相続にすら与れなかったのだ。月岡の窮地を積年の思いを晴らすチャンス到来と考え、株を法外な値段で買い取れといい出すことも考えられた。

俊太が知る限り、芦沢が無理難題を突きつけてくるような男とは思えなかったが、人は状況によって豹変するものだということは、寛司が謀反を起こしたことからも明らかだ。まして、ムーンヒルホテルグループのこれからがかかった話である。そこで、次期社長に内定した俊太が、交渉役を担うことになったのだ。

「なるほど。月岡さんは、もはやご自分がムーンヒルホテルに絶対的影響力を及ぼせないことを客観的に証明するために、持ち株比率を三分の一以下にまで落とす。しかし、私の持ち株分を、月岡さんの持ち株と合わせれば三分の一以上を確保できる。ムーンヒルホテルの経営はいままで通り、月岡さんの承諾なしには何事も進まないってわけですか」

芦沢は、眉をぴくりと吊り上げると、「それじゃあ、また、世間を欺くことになるじゃありませんか」

肩をすくめながらいった。

「それは違います。これは、あくまでもハミルトンからムーンヒルホテルを守るための手段なんです」

俊太はすかさず返した。「会社の基礎を築かはったのは先代ですが、グループをここまで大きくしはったのは月岡社長。まさに、社長は中興の祖です。グループはまだまだ大きゅうなる。国内はもちろん、海外にも出よういう時になって、アメリカ企業に攫われる。それも、自分の過ちにつけこまれるような形でとなれば、そりゃあ、社長でなくとも、我慢できるものではありませんよ」

「しかし、月岡さんは、記者会見まで行って、きっぱり経営から手を引くといったじゃないですか。あの言葉に嘘偽りがないなら、どうしてこんな話を持ちかけてくるんですか。会社は株主のものです。絶対多数を握った者には逆らえないものなんです。私を味方につけようとしているってことは、社長が誰になろうとも、自分の意にそぐわないことをさせるつもりはない。それじゃあ、月岡さんが社長をやっているのと同じことじゃありませんか」

「そうじゃないんです」

どうやら、自分の説明が足りなかったらしい。「社長は以前から、月岡家がムーンヒルホテルの経営に携わるのは、自分の代で終わりだ。常々そういってはったんです。だから結婚もしなければ、子供を持ついうことも、一族の中からも、誰ひとりとして会社に迎え入れることもしなかったんです」

その言葉に、芦沢は驚いたように目を見開くと、何か言葉を発しかけたが、それより早く俊太は続けた。

「私……会社に入る前、社長の専属運転手をやってたんです」

俊太の経歴など知るはずもない芦沢は、

「専属運転手?」

耳を疑うかのように問い返す。

「社長のご自宅に住み込みで、どこへ行くにも車を使う限りご一緒させていただきました。車の中ではふたりきりです。そら、いろんな話を聞かせてもらいました。ですが、自分とは別に、先代に子どもがいることは、随分早いうちに聞かされておりました」

それが誰のことかは、改めていうまでもない。

芦沢は、小さく頷き先を促す。

「社長が生まれついたその時から、将来ムーンヒルホテルを率いる人間になることを約束されていたのは事実です。贅沢な暮らしをしてたのも、放蕩三昧、湯水のようにカネを使ってはったのも事実です。でも、家庭的に恵まれていたかといえばそれは違います。先代は、ほとんど家に帰って来ませんでしたから、大奥様との関係は、それはもう、傍目からも殺伐としたもので……。だから社長は、先代の轍を踏んではならない。いや、自分の体に先代の血が流れている以上、同じことをするかもしれない。それを恐れて──」

「そんなもの本人の、意志、決意の問題でしょう。別に、外に女性をつくらなければいいだけの話で、お母様が散々苦労なさった姿を目の当たりにしていれば、それこそ同じ轍を踏んではならない、妻子を泣かせない幸せな家庭を作らなければならない、という気持ちを持つのが当たり前ってもんですよ」

「月岡家のような家では結婚相手も自分では選べないのです……」

俊太は声を落とした。「結婚は家と家との結びつき。閨閥作りも結婚の目的のひとつなのは言わずもがなです。社長の元には、山ほど縁談が持ち込まれましたが、愛せればいい。しかし、そうでなかったらどんな家庭になるか。まして、相手だって、家と家の結びつき、閨閥作りの目的を持っての結婚かもしれないわけですから、自分を愛してくれるとは限らない。外に女性を儲けなくとも、先代と同じ殺伐とした家庭になる可能性だって十分考えられたわけです」

芦沢も、思い当たる節があったのだろう。

鼻で大きく息を吸い込むと、

「確かに親父には、うちのお袋も随分泣かされたからなあ……」

苦々しくいい、ほっと息を吐いた。

「社長が先代の経営手法を踏襲しなかったのも、その表れです」

俊太はいった。「人は、生まれ育ちや学歴で決まるものじゃない。力のある人間にはどんどんチャンスを与え、期待に応えれば、年齢にかかわらず昇進させる。信賞必罰、働きがいのある会社にするという経営方針を掲げ、それを社長は実行したんです。中卒の私が、役員になれたのが何よりの証で──」

「中卒?」

芦沢は、あんぐりと口を開けると、「いや、失礼……しかし……」

声を飲んだ。

「私は、横浜のドヤ生まれでして……。社長と初めて出会った頃は、新橋の料亭で下足番をしていたんです。そこで社長に拾われて運転手に、そしてムーンヒルホテルの債権回収を任されるようになりまして……」

「そうか……そうだったんですか……」

「社長は、ほんま情に厚い人なんです」

月岡のことを語りはじめると、どうしても地の言葉が出てしまう。「私の家内は、社長の家で住み込みの女中をやってたんです。先代が亡くなった時は、社長、芦沢さんにも財産を分与すべきやいわはって、そら、大奥様と揉めに揉めたと……」

「私たちに財産分与? それ、本当のことですか」

「ほんまです」

俊太は大きく頷いた。「家内は新潟の出で、中学を卒業してすぐに月岡家に奉公に上がりました。社長にも、奥様にも、それはようしていただいたご恩があります。家の中で見聞きしたことは、墓場に持って行こう思うてたんですが、事は大恩ある社長の危機です。そやし、はじめてわしに打ち明けたんです。芦沢さんかて、私生児として育ったんや。苦労なさったはずや。認知されてはいないいうても、相続に与る権利はある。社長は奥様に、そないいわはったと……」

芦沢は、なんとも複雑な表情をして押し黙る。

しかし、否定的な沈黙ではない。想像だにしなかった事実を聞かされ、戸惑っているのだ。

「そやけど、奥様は頑として社長の意見を受けつけなかったそうです」

俊太は続けた。「先代が芦沢さんに、株を与えられていたことが分かったからです。先代には、他にも女性がいたそうですが、株を与えられたのは、芦沢さんをおいて他にいません。先代にとって芦沢さんのお母様は特別な存在だったわけです。社長のことです。財産分与を頑として拒む、お母様の気持ちも分かる。かといって、ご苦労なさったであろう、芦沢さんを放っておくわけにもいかない。まして、訴訟を起こすこともできただろうに、そうした手段に打って出ることもない。何とか報いなならん。そない思わはったに違いないんです。となればできることはただひとつ。芦沢さんとムーンヒルホテルとの関係を継続することです。そやし、社長は奥様には内緒で……」

「確かに、月岡さんが社長になっても、お袋とのビジネスも、私とのビジネスも条件ひとつ変えることなく続けてくれたよな」

芦沢は、ぽつりといった。

「社長は嘘をいうような人ではありません。こうと決めたからには、自分の欲で前言を翻すような人ではありません」

俊太は、芦沢の目を見つめ断言した。「面と向かって口に出す人間こそいませんが、社長の経営方針を内心面白くなく思うてた社員は、そらぎょうさんいたと思います。私のような人間が、専務になるような会社になれば、そら──」

「分かります……」

その先は話さなくてもいいとばかりに、芦沢は俊太の言葉を遮ると、「さぞや、大変な思いをされてきたでしょうね」

そっと視線を落とした。

「持てる者は、持たざる者の気持ちは分からんものです。持てる者は、持たざる者を色眼鏡で見るのが世間やということも分かっています。正直、役職が上がるにつれて、自分はやっぱり異物として見られている。そないな思いが強くなるばかりであったことは否定しません。そんな中で、今日まで耐えてこれたのは、唯一わしを色眼鏡で見なかった人が社長やったからです。社長の恩に報いなならん。その一念があったからなんです」

俊太は、そこでぐいと身を乗り出すと、「生まれ育ちで人の一生が決まるもんやない。人の一生には運不運も必ずある。ならば、挽回のチャンスを与えるべきや。仕事は履歴書を首からかけてやるもんやない。真の実力、人間力が試されるのが仕事や。社長は、ムーンヒルホテルをそないな会社にしたいと思わはった。その一念で、これまでずっとやってきたんです」

声に力を込めて断言した。

短い沈黙があった。

やがて芦沢は、小さく息を吐き、口を開いた。

「ハミルトンのものになったら、月岡さんのこれまでの努力も水の泡か……。それじゃあ、他人の好きにさせないだけの株を持っておきたいと考えるのも無理はないな。アメリカはチャンスの国だ、実力主義社会だっていわれるけど、そんなのは嘘っぱちだ。学歴、コネ社会の最たるものだからね」

そして、改めて俊太をじっと見つめ、「ひょっとして、月岡さんはあなたを社長に据えるつもりなんじゃありませんか? そうなんでしょう?」

と訊ねてきた。

もはや隠し立てする必要はない。

「はい……」

俊太は躊躇することなくこたえた。

「そうか……。本当に、自分の夢を実現するつもりなんですねえ」

「正直申し上げて、私のような者に社長が務まるやろかとは思います。ですが、ムーンヒルホテルグループを、さらに拡大していくプランを出したからには、それを実現する義務が私にはあります。社長から受けたご恩に報いるためにも、ムーンヒルホテルをまずはアジア一、そして世界一のホテルグループに育てあげる。それが私の夢です」

「そうか……」

芦沢は、大きく頷くと、「月岡さんのお考えは分かりました。正直いって、ムーンヒルホテルがハミルトンの手に渡れば、私のビジネスだってどうなるか分かったもんじゃありませんからね。小さいとはいえ、五十人からの従業員を抱えているんです。切られようものなら、大変なことになりますからね。それに、月岡さんに見込まれた小柴さんが、これからどんな働きをするのかが見たくなってきたな」

「それでは」

「いいでしょう。株は絶対に手放しません。第一、父が亡くなったあの時、そこまで私たち親子のことを考えてくださっていたことを知ってしまったからには、断ることなんてできませんよ。それこそ、恩を仇で返すようなことになりますからね」

芦沢は、晴れ晴れとした笑みを顔いっぱいに浮かべると、「小柴さん、ひとつ、お願いがあるんですが」

一転して真顔になっていった。

「何でしょう」

「月岡……いや……兄さんに、お目にかかる席を設けてもらえないでしょうか」

芦沢は照れ臭そうに月岡を、はじめて兄さんと呼び、「いや、この歳になるまで、ただの一度も会ったこともなければ、言葉ひとつ交わしたこともないんです。妾宅の人間が本家に……それも跡取りに声をかけるわけにもいかないし、それに……」

そこで、急に口籠もった。

「それに……何でしょう?」

「いや、小柴さん、さっき私たちが、遺産相続の訴訟を起こさなかった。兄さんはそのことをどう考えたかは分からないが、実は、母はね、その訴訟ってやつを起こそうとしたんですよ」

「えっ……ほんまですか? じゃあ……」

「私が止めたんです」

芦沢はいった。「そりゃあ、月岡家の財産は莫大だ。誰だってカネは欲しいさ。でもね、私にだって矜持ってものがある。正直いって、私生児ってのは、いろいろ他人の憶測を呼ぶものでね。それこそ、色眼鏡で見られて、辛い思いをしたことだっていやというほどありましたよ。運動会、学芸会ともなると、クラスメートの家は、両親揃って観に来てるってのに、いつもうちはお袋ひとりだ。外車に乗った男が頻繁に家に出入りしてるってのにね。友達を家に誘っても、誰も来てくれない。遊びの場でも、仲間はずれだ。そんな経験が積み重なれば、いつの間にか父親は憎しみの対象になりますよ。そんなやつが稼いだカネを、訴訟まで起こしてもらうのは、あまりにも浅ましいじゃないですか」

先代の庇護の下、経済的には何ひとつ不自由することなく暮らしてきたはずの芦沢にして、やはり出自というものに苦しんできたことを、俊太は改めて知った気がして、返す言葉が見つからず沈黙した。

「東大に合格できたのも、勉強以外にやることがなかったからだし、色眼鏡で見る連中を黙らせるためには、それしかなかったからなんですよね」

芦沢は、遠くを見るような目で続けた。「でもね、勤めていた会社を辞めて独立したはいいが、事業なんてものはそう簡単にうまくいくものじゃない。結局、親父に助けを仰ぐことになったんだ。あれは、本当に惨め、いや屈辱以外の何物でもありませんでしたからね。その上、遺産をくれだなんて、口が裂けてもいえるもんじゃありませんよ」

「ご苦労なさったんですね……」

「苦労? それは、小柴さんが味わってきたものに比べれば、苦労のうちには入りませんよ」

芦沢は、自嘲めいた笑いを浮かべた。「おかげで経営も軌道に乗った。会社もそれなりに大きくなった。それもこれも、親父が、いや兄さんが、仕事を与え続けてくれたからです。惨めだ、屈辱だといいながら、もね……」

「五十人からの社員を抱えれば、そら経営者として責任がありますから……」

「そんな立派なもんじゃありませんよ。財産分与を放棄したからには、この程度のことは、当たり前だ。私の中に、そんな甘え、傲慢不遜な思いがあったんだな」

芦沢は、改めて俊太を見据えると、「その点、小柴さんは違う。自分の実力ひとつで、のし上がってきたんですからね。失礼を承知でいえば、私には学歴、それも日本最難関の大学を出たという勲章があります。東大を卒業したといえば、人の見る目は一変します。別の色眼鏡で見られるようになるものです。だけど、小柴さんは勲章ひとつ持つことなく、周囲を黙らせた。偉いと思いますよ。本当に大したものです。いや、小柴さんだけじゃない。小柴さんを認めた兄さんも、大したものだ」

「いや……そないいわれると、わし、なんとおこたえしたものか……」

あまりの褒め言葉に、俊太は恥ずかしくなって、下を向いた。

「分かってくださいますよね。私の気持ち……」

芦沢の声に、俊太は顔を上げた。「きっかけが欲しいんですよ。多分、兄さんもそう思ってくださっていると思うんです。そうでなければ、異母兄弟とはいえ、これだけ大事な話なら、きっと兄さん自身が出向いてきたはずなんです。私のためだけじゃない。兄さんのためにもなることです。小柴さんが、兄さんに恩を感じておられるのなら、これも立派な恩返しのひとつになるじゃありませんか」

もちろん、端から断るつもりなどあろうはずもない。

母親が違うはいえ、実の父親の血を分けた兄弟が、長い年月を経てはじめて言葉を交わす。ふたりの間を隔てていた短くも深い溝に橋を渡す役割を担うのは、俊太にとっても、喜び以外の何物でもない。

「喜んで! 社長もきっとお喜びになると思います! 会社に戻りましたら早々に連絡を取らせていただきます」

そうとなったら、一刻も早く会社に戻らなければならない。

胸の中を、沸き立つような喜びが満たしていくのを覚えながら、俊太は席を立った。

臨時役員会が開催されたのは、それから半月後のことだった。

役員会では、事前にその日の議題が配布されるのが常である。臨時となればなおさらなのだが、今日に限っては現社長の北畑と俊太を除いて、会議の目的を知る者はひとりとしていない。

会議の開始は、午後一時。続々と会議室に姿を表す役員たちは、皆一様に怪訝な表情を浮かべ、無言のまま着席する。面子が揃うにつれ、部屋は異様な緊張感に包まれた。

しかし、ただひとり、寛司だけは違った。まるで今日の議題を知っているかのような落ち着きぶりで、その姿からは、威厳さえ感じるようである。

全員が揃ったところで、上座に座る北畑が、

「では、臨時役員会をはじめます」

重々しい口調でいい、「本日の会議の議題は、月岡前社長の持ち株売却に関しての報告です。ついては、異例のことですが、直接月岡前社長ご本人から、ご説明をいただくことにいたします」

部屋の片隅に控える秘書室長に目で合図を送った。

ドアが開き、月岡が入ってくると、部屋の空気が一変した。

議題もさることながら、退いたとはいえ、やはり月岡の威光はいまもなお健在である。全員が姿勢を正し、月岡の言葉を待つ姿は、かつての役員会の光景そのものだ。

「では、月岡前社長、お願いいたします」

隣の席に座った月岡に向かって北畑が促した。

「まず最初に、役員会議に出席することをお許しくださった北畑社長に、お礼を申し上げます」

月岡は深々と下げた頭を上げ、改めて前を見据えると、本題を切り出した。「みなさん、ご承知の通り、株主名簿の虚偽記載に端を発する上場廃止によって生じた損害を巡って、ハミルトンホテルから訴訟を起こされております。裁判自体は、まだはじまっておりませんが、この度、ハミルトンホテル側から、示談の打診がありました。条件は、私個人が所有する全株式の二十パーセント分の株をハミルトン側に譲渡する。さらに二十パーセント分をハミルトンが私から買い取るというものです。この申し出に同意すれば、事実上、双方ともにカネのやりとりは生じない。私は全株式の四十パーセントを手放すだけで済み、ハミルトン側もまた、一銭のカネも使うことなく、合弁事業を始めた際に取得した株と合わせて五十パーセント以上となり、ムーンヒルホテルの経営権を手に入れられることになるわけです。まだ先方には返答しておりませんが、事はムーンヒルホテルグループの今後に関わる問題です。まず私の結論を、役員の皆様にご報告させていただくべきだと考え、ご報告に参上した次第です」

示談という言葉に次いで、事はムーンヒルホテルグループの今後に関わる問題といわれれば、月岡は応ずることにしたのだと誰しもが思うだろう。

果たして、役員たちの顔は凍りつき、声にならないどよめきとともに、室内の緊張感は極限に達した。しかし、その中でひとりだけ違った反応を示す者がいた。

寛司である。

一瞬だが、込み上げる笑いをすんでのところで堪えたかのように、微かに口元が歪むのを俊太は見逃さなかった。

カンちゃん。悪いが、思い通りにはならへんのやで。地獄を見るのは社長やない。あんたや。

内心でそう呟きながら、俊太は月岡の次の言葉を待った。

「結論からいうと、私は示談に応じない」

月岡がそういった瞬間、寛司はぴくりと肩を動かし、「えっ!」というように口を開けた。顔から血の気が引き、信じられないとばかりに目を見開き、呆然とした面持ちで月岡を見る。

「訴訟は、間違いなくハミルトンの勝訴になるでしょう。そして、次はアメリカで同様の訴訟が起こり、そこでも同じ判決が出るはずです。私には莫大な賠償金を支払う義務が生ずるわけですが、それは株の売却で得たカネを当てることにします」

月岡は、そこでちらりと寛司に目をやった。

慌てて表情を繕う寛司だったが、月岡はすぐに視線を戻すと、話を続けた。

「さて、そうなると私の持ち株を誰に売却するのかですが、引受先については、まだ完全には決まってはいないものの、帝都銀行を通じて国内の有力企業に私の意向を打診してもらった結果、数多くの企業が強い関心を示し、目処がつきつつあります。帝都銀行をはじめ、なぜ彼らがこの話に乗ったのか。それは、ムーンヒルホテルがこれから手がけることになる新たなビジネスプランが、極めて有望だと判断したからです。それについては発案者である小柴専務に説明してもらいます」

俊太は、静かに立ち上がった。

寛司の驚くまいことか。

なにしろ、示談に応じないという結論も想定外なら、新たなビジネスプランを立案したのもよりによって俊太なのだ。

すっかり血の気が引いた顔が、さらに蒼白になり、愕然とした面持ちで、俊太を見上げるばかりだ。

「ご説明申し上げます」

俊太は、それからしばらくの時間をかけて、アジア地域への展開、それもホテルのみならず、駐在員向けのマンションを併設した新事業計画を一同の前で話して聞かせ、

「──この事業が軌道に乗れば、アジア地域に駐在する日本人ビジネスマン家族に、ムーンヒルホテルの質の高いサービスが受けられる、快適な住居が提供できるだけでなく、各地への出張者、観光客の需要も見込めることになります。特にマンションは全て賃貸ですから、一旦入居者が決まれば、最低でも数年間にわたって家賃収入が得られるわけです。しかも全戸高額物件ですから、利益率は日本国内の賃貸事業に比べて格段に高い収益性が見込めます。同時に、国内においては、ビジネスホテル事業を拡大していくとともに、さらにアジア地域へと進出すれば、少なくともアジアにおいてムーンヒルホテルは、唯一無二の一大ホテルグループの座をゆるぎないものにするでしょう。これだけの短期間のうちに、月岡前社長の持ち株の売却先に目処が立ちましたのも、これら事業の可能性を東都銀行、及び企業各社の皆様にご理解いただけたからです」

経営の独立性が保たれた安堵の現れか、居並ぶ役員たちの間から、ため息が漏れた。しかし次の瞬間、全く想像だにしなかったことが起きた。

ひとりの役員が手を叩きはじめると、それはすぐに満場の拍手となったのである。

「凄い……さすがは専務だ」

「このビジネスはいける。成功は間違いない」

口々に賞賛の声が上がる。

ため息は、俊太が発案したビジネスプランへの驚嘆のものであったのだ。そして拍手は、ハミルトンの乗っ取りから会社を救った、俊太の働きに対するもので、ついに、彼らが俊太の実力を認めたことの証でもあった。

それがなによりも嬉しい。

目を細める月岡と視線が合った。満足そうに、大きく何度も頷く月岡の姿が喜びを倍増させる。

しかし、寛司は別だ。

拍手はしているものの、仕方なくといった様子が明らかだし、なによりも、上目遣いに俊太を見る寛司の瞳には、もはや隠しようのない敵意、いや憎悪とも取れる感情が、ありありと浮かんでいる。

「小柴専務、ありがとうございました」

北畑の言葉をきっかけに、拍手が鳴り止んだ。「そこで、私から提案があります。月岡前社長の持ち株を、多くの企業が引き受けてくださったのは、小柴専務が発案なさったアジア進出計画なくしてあり得なかったわけです。それは同時に、我が社には全力を上げて、この計画を実行に移し、成功させなければならない義務が生じたということでもあります。直ちに着手したとしても、アジア一号店を開設するまでには、おそらく三年、状況次第では、四年はかかるでしょう。その間、一貫して陣頭指揮を執るとなると、年齢的に私は難しいと思うのです」

北畑が何をいわんとしているかは明らかだ。

寛司の顔から表情が消えた。

しかし、内心で渦を巻く、激しい感情の揺らぎを、肉体の反応を意思の力で制御することはできない。蒼白だった顔色が、徐々に赤くなり、やがてこめかみがひくつきはじめる。硬く結んだ口元からは、歯噛みの音が聞こえてきそうだ。

「これを機に、小柴専務に経営を委ねたいと思うのです」

北畑は続けた。「そもそもビジネスホテル事業にしても小柴専務の発案ですし、これまで陣頭指揮にあたってこられたのも小柴専務です。アジア進出と合わせて、ふたつの事業にムーンヒルホテルの今後の飛躍がかかっているわけですから、最適の人選だと考えるのですが、いかがでしょう」

経営から退いたとはいえ、月岡の影響力は絶大だ。その本人を前にしてのトップ人事となれば、事前承認を受けていることは明らかだ。まして、北畑は帝都銀行の出身である。メインバンクも同意しているに決まっているのだから、異を唱える役員などいようはずもない。

果たして、「異議なし!」という声が一斉に上がると、再び盛大な拍手が沸き起こった。

「ありがとうございます」

北畑は頭を下げると、「正式には、改めて役員会議を開き、株主総会で承認をいただいた上での決定となりますが、本日の臨時役員会で内諾をいただいたからには、小柴新社長には、存分に力を発揮していただけるよう、私とともに新体制に向けての人事も含め、ただちに準備に入っていただきます」

高らかに宣言した。

これもまた、異論が出るはずもない。

政治の世界にたとえるならば、企業の役員人事は組閣そのものだ。誰を大臣に据えるかは、総理大臣の専権事項。いまこの時点から、誰を残し、誰を外すかは、俊太の思うがままだ。

それが証拠に、俊太を見る役員たちの表情は、これまでとは一変し、笑みを浮かべる者もいれば、媚を売るかのような眼差しを向ける者すらいる。

すでに、政治がはじまっているのだ。

「では、新社長から一言──」

北畑が発言を促してきた。

「いや……それは、正式に社長就任が決定してからにさせてください」

俊太はいった。「次の取締役会では、私の社長就任はもちろん。退任、新任を含む、新体制の承認が議題になるはずです。挨拶は、それが決定してからというのが筋だと思いますので」

「それもそうですね」

北畑は、苦笑しながら同意すると、「では、本日の会議は、これで終わりといたします。みなさんご苦労様でした」

閉会を宣言した。

俊太は立ち上がりざまに、寛司に目をやった。

寛司は椅子に座ったまま、机の一点を見つめ微動だにしない。

しかし、視線を感じたのか、寛司は恐る恐るといった体で目を上げる。

その瞳に、先ほどまで宿していた敵意や憎悪の色はもはやない。そこに浮かんでいるのは絶体絶命の窮地に陥った人間が見せる恐怖の色である。そして、その中に、許しを乞うかのような感情が混じっているようにも思えた。

それが証拠に、寛司のこめかみの辺りから噴き出した汗が、一筋の流れとなって頬を伝っていく。

俊太は、その場に立ち尽くしたまま、寛司の視線をしっかと捉え睥睨すると、ゆっくりと、小さく首を振った。

カンちゃん……。どないな沙汰が下るか、分かってるやろ。あんたは、社長を裏切ったんや。謀反を起こして、主人の首を取ろうとしたんや。武士の世界では大罪や。打ち首いうのが決まりやけど、情けをかけてやったんや。この場で糾弾されへんかったことだけでも感謝せなあかんで。どないけじめをつけるかは、いわんでも分かるやろ。

寛司を問い詰め、謀反を起こした償いとして、馘をいい渡すのは簡単だ。しかし、寛司にも恩がある。月岡にしたって、自分の右腕として信頼し、ともに歩んできた腹心中の腹心である。馘は、武家社会では斬首。最大の恥辱だ。ならば、せめて最後は己で命を絶つ切腹をもって、名誉ある死を遂げさせたい。つまり、自らムーンヒルホテルを辞すことにさせようと、俊太と月岡の意向が一致したのだ。

どうやら、寛司も俊太の気持ちを察したらしい。

力なく瞼を閉じると、がっくりと肩を落とし、俯いたまま一切の動きを止めた。

まさか、カンちゃんとの仲が、こんな形で終わりを迎えるとは……。神様っちゅうのは、なんと酷いことをしはんのやろ……。

寛司との日々が思い出されると、なんだか俊太は泣きたくなった。

こんな寛司の姿を見るのが、たまらなく悲しく、何よりも忍びない。

カンちゃん……。さいなら……。

俊太は、胸の中で別れを告げると、会議室の出口へと歩きはじめた。

〈次回は1月22日(月)に更新予定です。〉

※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。