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第20回(最終回)

前回までのあらすじ

俊太の勤めるムーンヒルホテルは、アメリカのハミルトンホテルによる買収計画によって危機的状況に陥っていた。しかも、その裏では、兄のように慕っていた寛司が暗躍しているらしい。そんな状況下、俊太はアジア進出の新規事業を打ち立て、経営権を守ろうと奔走。その功績が認められ、ついに社長に就任することが決まるのだった。会社を裏切った寛司、そしてムーンヒルホテルの行く末は?

北畑の部屋を訪れたのは、臨時役員会で社長就任が内定した二日後の朝のことだった。

目的は、新体制に向けての役員人事である。

入社以来、何度となく訪ねてはいるが、自分がこの部屋の主人になるのだと思うと、やはり感慨深いものがある。

ここにはじめて足を踏み入れたのは、経理課で未収入金の回収をしていた頃、夏枯れ対策として行ったキャンペーンが、大反響を巻き起こした時のことだ。

あの日から自分の快進撃がはじまったのだが、それもいまにして思えばである。

野心など抱いたことは一度もない。

ただただ、月岡の恩に報いなければ。月岡の喜ぶ顔が見たい。月岡に褒められたい。

その一心で、懸命に知恵を絞り、働き続けてきただけだ。

それが、月岡の椅子に、自分が座ることになろうとは……。

社長室は月岡の在任中と何ひとつ変わってはいない。執務机も椅子も、備品も家具も、何もかもがそのままだ。

俊太は他の会社で働いた経験はない。それに、入社の経緯が経緯だ。サラリーマンには違いないが、月岡に仕える身だと思いこそすれ、組織に仕える身だとは考えたことがない。

しかし、端から企業に職を求め、入社してきた人間は、そうは考えないはずだ。ひとつでも上の役職を、果ては社長を目指して、組織の中で激烈な出世レースを繰り広げる。そして、社長になった暁には、前任者の色を排し、自分の色に染め上げる。まずそこから取り掛かるのが、権力を握った者の常だ。

確かに、月岡の失脚は突然だった。帝都銀行でキャリアを積み重ねてきた北畑にしても、ムーンヒルホテルの社長就任は、青天の霹靂ともいうべき出来事ではあったろう。数字に強いことは間違いないとしても、北畑はホテルの経営に関しては素人同然だ。ひょっとすると、事態が落ち着くまでのワンポイントリリーフであることを告げられた上での就任だったのかもしれない。

だが、一度手にすれば地位にしがみつこうとするのが人間の性というものだ。まして、社長は一国一城の主である。

月岡の時代から、何ひとつ変わっていない部屋の様子を見るにつけ、俊太は改めて不思議な思いに駆られた。

「小柴さん。本題に入る前に、まずこれを……」

北畑はソファーに腰を下ろすや、テーブルの上に封書を置いた。

なんのへんてつもない白地の封筒だが、表には墨痕鮮やかに『辞表』と書かれている。

紛れもない寛司の字だ。

「昨日の夕方、麻生さんがここを訪ねてきましてね……」

北畑は封筒に目をやりながら、切なげにほっと息をつく。「何もいわずにこれを差し出しましてね……」

寛司とは、一昨日の臨時役員会の場で別れて以来、会ってもいなければ、言葉も交わしてはいない。

俊太が社長に指名され、新しい事業計画までもが公表された上に、ハミルトンへの損害賠償金の支払いを命じられたとしても、自身が所有する株の売却代金で全てを賄うと月岡は明言したのだ。その引き受け先にも目処が立っているとあっては、もはや寛司になす術はない。

まして、謀反を起こした動機が動機だ。俊太の下で働く気などあろうはずもない。

思った通りの寛司の行動だったが、

「理由は訊かなかったんですか?」

それでもあえて、俊太は問うた。

北畑は首を振ると、

「辞める理由はふたつしかありませんからね」

低い声で言った。「ハミルトンと通じ、うちを傘下にした功績をもって、次期社長になる野望が潰えた。小柴さんの下で働くつもりはない。そのいずれか、いや両方でしょう。どっちにしたって、会社にはいられないし、いるつもりもないってことに変わりはないんですから……」

確かにその通りだが、理由を訊ねられなかったことの方が、寛司には辛かったには違いない。月岡も、北畑も、そして俊太も、寛司が何を考え、何を狙っていたか、とうに見抜いていたことを暗に知らしめるようなものだからだ。

「では辞表にも理由は何も?」

「ただひと言、一身上の都合とあるだけでしてね。まあ、そうとしか書きようがないでしょう」

北畑は、そこで視線を上げると、「で、どうします?」

不意に訊ねてきた。

「どうしますって……」

「辞表を受理するかどうかです」

「それは、前に社長にも同席したいただいた上で、三人で決めたはずです。カンちゃんが裏切ったことは事実やけど、会社に貢献してきたこともまた事実。首を取るのは忍びない。切腹させようって──」

「小柴さん」

日頃温厚な北畑が、厳しい口調で俊太の言葉を遮った。「いいかげん、月岡さんを社長と呼ぶのを止めませんか」

「えっ……」

初めて耳にする厳しい言葉に、俊太は言葉に詰まった。

「もう月岡さんは社長じゃない。あなたは、このムーンヒルホテルグループの社長になることが決まってるんですよ。それをいつまでも、親離れできない子供のように、ふた言目には社長、社長って。小柴さんは、月岡さんに忠義を尽くしているつもりでしょうが、そう考えているなら、全く逆です。あなたに、この会社を任せた月岡さんに対する立派な裏切り行為ですよ」

「いや……つい……、なんせ、会社に入ってからずっと──」

ぐうの音も出ない。

俊太は、目を伏せながら頭を下げた。

「確かに、小柴さんを社長に任命したのは月岡さんです。しかし、月岡さんは、新体制の人事には、一切関与するつもりはない。あなたと私に一任すると一昨日の臨時役員会の場で明言したではありませんか」

全くもって、その通りである。

無言のまま、ただ俯くしかない俊太に向かって、

「それだけじゃありません」

北畑は続ける。「自分が育てた部下に社長を任せることになったんです。本来なら、祝いの席のひとつでも設けるところです。月岡さんだって、そうしたい気持ちを抱いてもおられたでしょう。しかし、月岡さんは、そんなことはひと言もいわなかった。なぜだか分かりますか?」

北畑は、短い間を置くと言った。「小柴さんを社長に任命するのが、自分が会社にかかわる最後の仕事。今後は一切の関係を絶つ。ここから先は小柴さん、あなたが全てを決めるんだ。そういう意思の表れなんじゃないでしょうか」

はっとして、俊太は顔を上げた。

「小柴さん……」

北畑の声が穏やかになる。「在任期間が短い私でも、社長という職責の重さは身に沁みて感じるものがあります。社長というのは、孤独なものです。判断を誤れば会社が傾く。全従業員、そして家族の生活も、全て背負うことになるんですからね。もちろん誤ちを犯さぬよう、社長を支えるために、役員がいるわけですが、最終的に判断を下すのは、やはり社長なんです。聞く耳も持たなければなりませんが、場合によっては情を排し、心を鬼にして冷徹な沙汰を下さなければならないことだって多々あるんです。月岡さんは、そうやってこの会社を大きくしてきたんです。そんな大変な仕事でも、任せても大丈夫だ。自分がいなくとも、いや自分以上にうまくやれる。月岡さんは、そう確信したからこそ、小柴さんを社長に任命したんですよ」

月岡は情に厚い反面、仕事には厳しい。評価の基準は、あくまでも結果だ。会社のためになる働きをした人間しか評価しない。そして、兄弟同然の仲だった寛司の関係を知りながら、後継者のポストを競わせた。いまにして思うと、なんとも残酷な仕打ちだが、それも自分の後任として相応しい能力が、ふたりのどちらにあるのかを見極めるためであったのだ。

経営者ちゅうのは、会社のためなら、そこまでやらなあかん大変なもんなんや……。

俊太は、いま心の底からそう思った。

地位の重さ、責務の重さが、両肩にずしりとのしかかってくる。

しかし、その一方で、こうも思った。

幸い自分には月岡という手本がある。月岡がやってきたことを、まずは踏襲しながら改善すべきことを見つけ、実行していけば、この会社はきっと──。

強くあらねばならないと思った。

もちろん情は必要だ。しかし、時と場合によっては鬼にならねばならないとも思った。

「北畑さん。ありがとうございます」

俊太は、深く頭を下げ礼をいった。「カンちゃん……いや、麻生さんがいなければ、いまの私はなかったんです。麻生さんには月岡さん同様、返し切れない恩がある。いまでも、いや、一生麻生さんへの恩を忘れることはありません。これから先も、辛い判断を迫られることが幾度となくあるでしょうが、辞表を受理するのは、止めを刺すいうことです。切腹する人間の介錯をするのも同然です。恩義ある麻生さんの首を落とす……。正直いって、これほど辛いことは、そうあるものではありません」

もちろん、会社を辞めるのは、寛司の勝手だ。最終的に認める以外にないのだが、受理の断を下すのは上司である。副社長である寛司の上司は社長。正式に社長になるのはまだ先であるにせよ、内定した限りは断を下すのは、お前だ。そして、新体制には寛司は不要。月岡はもちろん、寛司がいなくとも、自分ひとりの力でムーンヒルホテルを率いていける。独り立ちする決意を新たにせよと、北畑はいっているのだ。

「麻生さんの辞表を受理します」

俊太は北畑の目を見据え、きっぱりといった。「去る者は追わずいいますし、有能な人材はどこでも欲しいものです。いや、そういう人間に限って会社を去るいうことは、これからも起こるでしょう。そのたびに、慌てるような組織では、成長なんか望めません。いなくなっても、それに代わる人間がなんぼでもいる。切磋琢磨させながら優秀な人材を育て、能力のある人間には、年齢も社歴も関係ない。入社してからが勝負。真の意味で、社員に働き甲斐を感じてもらえる会社にしなければなりません」

北畑が、笑みを浮かべながら大きく頷く。

「小柴さんも、いずれ次の世代に地位を譲る時が来ます。月岡さんは、ムーンヒルホテルの中興の祖といわれますが、小柴さんもそう称されることを目指さなければなりません。在任中に事業を拡大し、月岡さんに勝る功績を残せば、必ずやそう称されることになるんですから」

なるほど、うまいことをいう。

ビジネスは生き物だ。企業もまた同じである。

市場環境は常に変化するし、永遠の命を約束された企業などありはしないからだが、ただひとつ生き物と異なるのは、成長に無限の可能性があることだ。つまり、変化する環境に適応し、成長を続ける限り、生存し続けることができるのだ。そして、それを可能にするかどうかは、ただひとつ。中興の祖と称される経営者が、代々続くことである。

「お言葉肝に銘じて……。そして、そう称されるであろう人間に、バトンを渡す。それもまた、私の使命だと──」

北畑は、また一段と目を細めると、

「じゃあ、小柴内閣の閣僚人事をはじめましょうか。まず、空席になった麻生副社長の後任ですが──」

一転して、真顔になって切り出した。

小柴内閣という言葉を聞くと、なにやらこそばゆい気持ちになるのだが、役員は内閣でいえば閣僚であることは間違いない。

その陣容は、社長に内定した段階ですでに練ってある。

俊太は、傍に置いたファイルの中から、一枚の紙を取り出すと、

「北畑さんには会長として残っていただくとして、僭越ながら、こんな案を作ってみました。新しい、役員と組織案、そして今後グループが目指す方向性です」

テーブルの上に静かに置いた。

「社長、奥様がお見えです」

ノックの音とともにドアが開くと、秘書が告げた。

社長に就任して八か月が経つ。

俊太が提案した案に、北畑は異を唱えなかった。

というのも、役員は全員留任させたからだ。

大幅に入れ替えることも考えないではなかったが、大半は月岡の時代に役員に就いた者たちである。それに相応しい働きをしてきたことに違いはないし、明確な理由なくして役員を一新すれば、社内が混乱するおそれがある。

それに月岡がいかに信賞必罰、実力主義を公言しようとも、組織が大きくなればなるほど、必ず派閥ができる。部下の評価は上司が下すものである限り、そこには必ず私情が入る。真っ先に昇進していくのは上司の覚えめでたい人間となれば、茶坊主ばかりが会社の中核を占めるようになる。それでは地位に相応しい人材は育たないことを懸念したせいもある。

その代わり社長直轄の部署として、ふたつのプロジェクトチームを設けた。

ひとつは、アジア進出に向けて駐在員向けのマンションと、ホテルを併合した施設建設、および進出国のマーケティングを担うチームである。

まずは、是が非でも第一号店を成功させなければならない。アジアに巨大な市場があることは分かっている。そこで積み上げたノウハウをもって、一気に事業を拡大していくのが狙いである。

もうひとつは、ふたつの施設への集客を担当するチームだ。マンションについては、株主となった企業にニーズがあるのは分かっているから心配ないが、問題は旅行客の確保である。夏冬の長期休暇は、集客に苦労することはないとしても、問題はそれ以外の時期である。出張者だけでは常に満室というわけにはいかない。となれば、ハイシーズン以外の期間は観光客をいかにして集めるかが鍵となる。そのためには、現地の観光地や食、あるいは買い物などの楽しみ方を世に知らしめ、魅力あるパッケージを旅行会社と一体となって開発する必要がある。

しかし、海外案件は寛司が仕切ってきたという経緯もあって、これといった人材に心当たりはない。

そこで、俊太はこのふたつの部署を任せる人材を、社内公募によって選考することにした。

社歴、年齢は一切問わない。ムーンヒルホテルだけではなく、地方採用者含む、グループの全社員を対象にだ。

ふたつの案件を成功に導くための企画書、及びビジョンを提出させ、自ら人選を行ったのだ。

反響は驚くべきものだった。

そして、自らこのプロジェクトへの参加を志願するだけあって、熱意に満ち溢れているのはもちろん、知恵を絞ったことが窺えるものばかりだ。しかも、二十代半ばの若手から、三十代半ばの中堅社員が大半である。

やっぱり、チャンスを与えるっちゅうのは、大切なんやな。歳や学歴と、手本のない仕事を手がける力は別物なんや──。

いつだったか、月岡にいわれた言葉が、改めて身に沁みた。

俊太は、その中からそれぞれ五名の社員を選出し、プロジェクトチームを結成した。

リーダーはいずれも三十代半ばだが、一号店が成功すれば、この事業は急速に拡大していく。チームはいずれ部となり、やがて事業部となる。もちろん、その過程では、新しい事業プランを考えつく人間も出てくるだろう。

アジア進出が軌道に乗った後の新事業は、なにもホテルに関係せずとも構わない。ムーンヒルホテルの名を冠せずともいい。会社の資本と人材を使い、企画した社員を中心にしたプロジェクトチームが事業を育てる。そんなことが、当たり前にできる会社になれば、事業は多角化していくし、何よりも若くして小さいながらも一国一城の主となれるのだ。結果的に経営者としての資質も磨かれれば、経験も積める。

もちろん、実績を上げれば厚く用いはするが、そこで満足するようならばそれまでだ。改善なきビジネスは存在しない。常に何ができるかを考え、結果を出し続けた者が、将来ムーンヒルホテルグループを率いることになるのだ。そして、そのチャンスは全社員にある。

それが俊太が考えた、今後のグループが目指す形だった。

ふたつのチームが設立されてから三か月が経つが、それと同時に、俊太が手がけたことがあった。

社長室の改装である。

長くムーンヒルホテルに君臨してきた月岡の部屋に手をつけることに、抵抗を覚えなかったといえば嘘になる。しかし、月岡は二度と経営に関与することはない。これから先の全てを託されたからには、独り立ちの証として、この部屋からは、月岡の存在を窺わせる痕跡を、可能な限り消し去るべきだと俊太は考えたのだ。

もちろん、月岡には仁義を切った。

伺いを立てたのではない。

ただひと言、「社長室を改装します。机と椅子はどうなさいますか?」と問うただけだ。

「そんなもの、いらんよ。捨ててくれ」

月岡もまた、そう返しただけだったが、「改装が終わったら、呼んでくれ。新しいお前の部屋で祝いの酒を飲もうじゃないか」

と穏やかな声でいった。

明日からは、この部屋で執務を行うことになる。

書類や備品を収めるのに二日を要したが、作業も夕刻になってようやく終わった。

最初にこの部屋に招き入れたいのは、やはり文枝だった。

社長に内定したと告げた夜、文枝は「ええっ……」と声を上げたきり絶句し、その場で固まった。月岡がそうした意向を持っていることは話してあったが、まさか現実になるとは思えなかったのだろう。

しかし、それは僅かな間のことで、次の瞬間文枝の目から、涙が溢れた。

「……本当に……本当に、よくここまで頑張って……」

ドヤ生まれで学もない俊太が、周囲からどんな目で見られてきたか。どれほど酷い仕打ちを受けてきたかは、文枝が誰よりも知っている。

祝いの言葉でもない。喜びの言葉でもない。真っ先に「頑張った」という言葉が先に口を衝いて出たのが何よりの証だ。

「お前がいてくれなかったら、ここまでこれへんかった……ほんまやで……知恵を授けてくれのもお前やし、わしのようなもんと所帯を持ってくれたしな……そやし、ここまで頑張ってこれたんや……」

その言葉に嘘はない。

文枝に出会わなかったら、文枝が結婚を承諾してくれなかったら、月岡との出会い同様、いまの自分はなかったのだ。

だから、社長室の改装を決心した時、真っ先にこの部屋に迎え入れるのは文枝と決めたのだ。

会社をはじめて訪れる文枝は、ドアの傍に立つ秘書に向かって丁重にお辞儀をすると、部屋の中に視線を向けた。

「まあ……」

次の瞬間、文枝は目を丸くして驚きの声を上げた。

壁紙には淡い山吹色を、絨毯は薄い浅葱色を用いた。応接セット、執務机、そしてキャビネットの類は無垢の木製で、表面にニスを塗っただけのものだ。見た目はシンプルだが、素材は上質なもので、ムーンヒルホテルの社長室に置くのに相応しいものを揃えてある。

「随分、明るい部屋ね。もっと重厚感漂うものにするのかと思った」

「月岡さんの部屋は、壁も家具もマホガニーっちゅう上等な木材で統一されとったからな。そら、豪勢なもんやったし、部屋に入った途端、途方もない威圧感を覚えたもんや。そやけど、それも月岡さんの風貌と相まってのことや。わしが、そないな部屋に座っていても様にならん。遠慮せずに、会社のためになると思うなら、誰でもええ。遠慮のうここへきたらええねん。取り上げられるかどうかは別の話やけど、必死に知恵を絞ることが大切なんや。そないな会社にしたい思うてな。そやし、思い切り、明るくしてん」

それは紛れもない俊太の本心だったが、実はこの部屋にはモデルがあった。

しかし、さすがの文枝もそれに気がつかないと見えて、

「いい部屋じゃない」

文枝は目を細めた。「明るいし、開放感もあるし、とても地下にあるとは思えないわ。社員のみなさんが、新しい事業の提案を、ここで話す姿が目に浮かぶようだわ」

「八か月しか経っとらへんけど、社長ちゅうのは大変な仕事やで」

俊太は、本心からいった。「最終的に、全ての経営判断をせなならんこともあるけど、考えなならんのは、今年、来年のことだけやない。どないして、グループが成長し続けるか、わしがこの地位を離れた後のことにも備えなならんのや。そやけどなあ、こない大きな組織になると、どこにダイヤモンドの原石が埋まっているか分からへん。それに、仕事と上司は選べへんのが会社や。向かん仕事かて、やれいわれたらやらなならんのや」

俊太がここまでに至る経緯が脳裏に浮かんだのだろう。

文枝は、感慨深げな眼差しを向け、静かに頷いた。

「仕事は好き、嫌いでするもんと違う。そのことは重々承知やけどな……」

俊太は続けた。「どんな才があるか、やらせてみないことには分からへんのが人間や。日本を代表する大会社かて、創業者がたったひとりではじめたいうのがぎょうさんあんねん。新しいことを考える才はあっても、他はさっぱりやいうのもおるやろし、帳面見るのが得意やいうのもおるやろ。そういう社員を拾い上げ、うまいこと組み合わせてチームを作る。その中から、次の経営を任せられる人間を見つけていく。そないしたいと思ってな」

「若旦那様からお預かりした会社だものね……。大変ね、あなたも……」

そういう文枝の顔には、いつの間にか笑みが浮かんでいる。

ドアがノックされたのはその時だ。

秘書が姿を現し、「月岡様がいらっしゃいました」と告げた。

「えっ、若旦那様が?」

文枝は驚きを露わに、俊太に視線を向けてくる。

俊太は、秘書に「お通しして」と伝えると、

「改装が終わったら、呼んでくれいわはってな。それにちょっとお願い事をしてん」

開け放たれたドアの向こうから、月岡が姿を現した。

あの臨時役員会以来だから、月岡に会うのは十か月ぶりになる。

「ほう……。こりゃまた、思い切ってやったもんだなあ。ここに俺の部屋があったなんて考えられないほどの変わりようじゃないか」

月岡は、すっかり様変わりした部屋をぐるりと見回す。

「ご無沙汰しております……。まさかここでお目にかかるとは……」

「なんだテン、お前、俺が来ることを文枝にいってなかったのか?」

「わしが社長になると決まった時から、ご挨拶に伺いたいといってたんですが、御礼いうのも変やし、なんといってええのか分からんいうもんで、文枝、ずっと気にしてたんです。会うてまったら、あれこれ考えんでも済むやろ思いまして」

「ちょっと、あなた──」

文枝は、すっかり狼狽して、視線を泳がせる。

「ははは」

月岡は、愉快そうに笑い声をあげると、「まあ、そうだよな。社長を降りた経緯が経緯だ。文枝も気を使うよな」

文枝は、すっかり恐縮した態で、目を伏せる。

「でもな、文枝。こいつはなるべくして社長になったんだ。それだけの能力もあるし、人の気持ちを汲む力もある。特に、人の気持ちを汲むってのは、社長になる人間には大切な要素なんだが、俺にはちょっとばかり、欠けていたからな……。しかし、こいつは違う。俺が見込んだ目に間違いはなかった」

月岡はそこで、俊太に視線を転ずると、「よくやった、テン! 安心したよ。お前の決意が籠もった部屋だ。立派なもんじゃねえか」

心底嬉しそうに目を細めた。

やっぱりそうだったのだ、と俊太は思った。

公言したことは絶対に守る。月岡はそういう男だ。経営を委ねたからには、何があろうと口出しはしない。まして、後任を決めたのは月岡自身となれば尚更のことだ。

しかし口にこそ出さなかったものの、月岡は内心でそう思っていたに違いない。

これからは、ムーンヒルホテルグループを率いていくのはお前なのだ。しかし、これまでの関係を考えれば、お前の頭の中には常に俺の存在がある。俺を頼るな。自分の足で立つ時がきたことを自覚せよ──。

その決意の証を、いま月岡は目にしたのだ。

「茶室か……」

月岡は唐突にいった。

「分かりましたか」

俊太は、思わず照れ笑いを浮かべた。

「金は山吹色って称されるし、絨毯の浅葱色は畳だろ。秀吉の茶室は、金貼りの壁に緋毛氈だが、さすがに社長室を金ピカにするわけにはいかねえもんな」

「ひ・で・よ・しって……」

文枝が、目を剥いて驚愕する。

「いいじゃねえか」

月岡は満足そうにいう。「考えてみりゃあ、川霧で下足番をやってたお前を、俺がブッ叩いたところからはじまったんだ。学もないお前が、俺の運転手から、ひとつひとつ這い上がり、ついに天下を取った。まさに、秀吉そのものじゃねえか」

「月岡さんの期待に背かぬよう、ムーンヒルホテルグループを、ますます大きな会社に育てる決意を表すために、秀吉にあやかろう思いまして」

俊太は、月岡の目を見つめながらいった。「ただし、秀吉に倣ういうても、秀頼に跡を継がせるつもりはありません。優れた人間を育て、グループをますます大きゅうしていく、確かな力を持った人間を育てるのも、わしの務めやと思うとります」

「その点は、心配してねえよ」

月岡は、ふっと笑いながら首を振ると、「おおい、額を運んでくれ」

開け放たれたままのドアに向かって声をかけた。

表具屋か、作業着を着た中年の男が箱を持って部屋に入ってきた。

長さは一メートル半、幅も一メールほどある大きな箱だ。

独り立ちを決意したが、月岡とともにありたいという気持ちはやはりある。

だから、新装した社長室にかける額に、月岡の揮毫を願ったのだ。

内容は月岡に任せるといっただけに、俊太も何が書かれているかは分からない。

男が箱の蓋を開く。額を覆っていた薄紙を取り去る。

そこには、ただ一文字、『天』とだけ、太く、堂々と、そして勢いのある筆さばきで、墨痕鮮やかに記してあった。

目にした瞬間、俊太は背筋が粟立つのを覚えた。腕に鳥肌が立った。

傍で、文枝が息を飲む気配がある。

男は額を手にすると、あらかじめ壁にしつらえてあった、鉤に書をかける。

漆塗りの額縁の中に浮かぶ『天』の文字。

部屋の雰囲気が一変した。

月岡の思いが、月岡の魂が、部屋にみなぎり、命が吹き込まれたような気がした。

「正直、なかなかいい案が浮かばなくてな。それで、啓太郎の知恵を借りたんだ」

「芦沢さんに?」

「あいつ、すぐに『そりゃ兄さん、これ以外に考えられませんよ』っていってな」

月岡は書を見ながらいった。

「天は、果てどもない。行けども行けども、限りなく広がっている。人間には終わりがあるが、天に終わりはない。ビジネスも同じなら、どこまで高みを目指せるか、それがこの部屋の主には課せられた使命だ。だから、これほど相応しい字はないと……」

「あ……ありがとうございます」

俊太は、深々と頭を下げた。

文枝もまたそれに続く。

「礼をいうのは、俺のほうだ。腹違いでも、やっぱり兄弟ってのはいいもんだ」

月岡は、しみじみとした口調でいうと、「テンか……」

ふっと笑った。

顔を上げた俊太に向かって、月岡は続ける。

「前にもいったが、誰がつけたもんだか、本当にうまい渾名をつけたもんだ。テンのテンは天下の天だ。名は体を表すというが、渾名にもそれはいえるんだな」

「お気持ちに応えられるよう、頑張らさしてもらいます!」

「頼むぜ。訴訟は結局示談になったが、日本で大金を支払った上に、アメリカでの合弁事業は解消、ホテルはそっくりそのまま、ハミルトンのものになっちまったんだ。これから先の生活は、株の配当が頼りだ。楽隠居ができるかどうかは、お前の経営手腕ひとつにかかっているんだからさ」

ハミルトンが示談を持ちかけてきたのは、俊太の社長就任が、株主総会で承認された直後のことである。

ムーンヒルホテルを傘下に置く目論見が、叶わぬことになったこともあるが、そもそも合弁事業を行っている一方が、敵対行為を働いたのだ。パートナーとして、ビジネスを継続するのは不可能だし、株主名簿が発覚した経緯を追及すれば、そこに寛司が噛んでいることが明らかになる。そんなことになろうものなら、寛司は背任、ハミルトンだってただでは済まない。

ならば、示談に持ち込み、取れるものを取って、終戦にしたいと考えたのだろう、というのが交渉に当たった弁護士の見立てである。

どれほどの額で合意したのかは分からないが、それでも、月岡がムーンヒルホテルの筆頭株主であることに違いはない。莫大な資産もある上に、今後、再上場を果たせば含み資産は膨れ上がる。配当だけでも、いまの生活を維持することは十分可能だ。

「さて、額も納まったことだし、杮落としには酒がつきものだな」

月岡はいった。

「用意してあります」

俊太はこたえると、ドアの外に向かって、「酒を持ってきてくれるか」

と秘書に命じた。

ワインクーラーの中にびっしりと詰まった氷から突き出したボトルは、シャンペンである。キャップシールの色は黒。ボトルは緑を帯びた黒である。

「ドンペリか。随分張り込んだな」

「後戻りできへん、長い航海への門出の席です。それに、月岡さんと酒を飲むのは、ほんま久しぶりでっさかい……」

俊太はボトルを手にすると、キャップシールを取り去り、純白のナプキンを被せ、栓を抜きにかかった。

ぽんと軽やかな音を立てて、コルクが抜けた。

ナプキンを外すと、ボトルの中から朝靄のような柔らかな煙が立ち上る。

俊太は、テーブルの上に置かれた三つのグラスにシャンペンを注ぎ入れると、月岡に視線をやった。

「では、小柴君の新しい航海への門出を祝って……」

グラスを目の高さに上げる間に、月岡は一瞬の間を置くと、「乾杯!」

力の籠もった声を上げた。

小柴君──。

はじめて月岡は俊太をそう呼んだ。

いまこの瞬間、月岡との間を結んでいた舫は完全に解かれた。

母港を離れ、船は大海に向けて終わりなき航海に乗り出したのだ。

「ありがとうございます」

俊太は月岡の目を見据え、礼の言葉を述べながらグラスを掲げた。

グラスを通して、壁に掲げられた『天』の字が見える。

黄金色の液体の中に立ち上る、無数の微細な泡が反射して、『天』の文字が神々しい光を放つ。

その残像とともに、俊太はグラスを口に運ぶと、『天』を飲み込んだ。

エピローグ

「次の信号を左に……」

社用車の後部座席に座った俊太は、運転手に命じた。

車窓から見る国道沿いの光景にかつての面影はない。建て替えられた駅の周辺には、商業施設やスーパー、コンビニもある。行き交う人々の服装も、洗練されているとはいえないまでも、違和感を覚えるほどではない。

しかし、車が狭い路地に入った途端、雰囲気が一変した。

両側に密集して立ち並ぶ建物は建て替えられてはいたものの、住宅の中に粗末な造りの飲食店が目立つようになる。それも『立ち飲み』であったり、『定食三百円』であったりと、滅多に目にすることのない文言ばかりが並んでいる。

三階、四階建てのビルもあるが、ほとんどの看板には、『空室あり テレビ、冷蔵庫つき』とか、『一泊二千五百円』とある。

午後三時になろうというのに、道の両側では早くも酒盛りがはじまっている。

いや、酒盛りは朝から続いているのだ。なぜなら、ここの住人がありつける仕事は、ほぼ日雇い以外にないからだ。

その日の仕事がなければ、やることは三つしかない。酒を飲むか、博打にふけるか、寝るかのいずれかだ。酔い潰れれば、寝ているうちに時は過ぎる。朝が来れば、仕事にありつける。

もちろん、そんな保証はないのだが、そうとでも考えなければ生きてはいけない。それがドヤなのだ。

ここを訪れる気になった特別な理由はない。

横浜にあるムーンヒルホテルで、地元財界人との会合があり、ふと自分が生まれ育った町がどうなっているのか見てみたいと思っただけだ。

社長になって五年になる。

ムーンヒルホテルは、順調に事業を拡大し、グループが経営するビジネスホテルは、今や全国の県庁所在地はもちろん、中規模都市も網羅しようという勢いだ。アジアでの海外事業も、シンガポールに設けた一号店が成功し、バンコク、クアラルンプールに二号店、三号店を開業すべく、すでに準備は佳境に入っている。二年前には、再上場も果たした。

中卒、かつ途中入社の社長誕生は、世間の注目を浴び、いまや俊太は時の人だ。

日本を代表する、大企業の経営者、果ては政界、官界の人間たちとの付き合いも増えた。

何もかもが順風満帆。事業への欲は尽きないが、少なくとも自分の人生において、これ以上望むものは何もないとさえ思えるほどの成功ぶりだ。

だからこそ、恐怖を覚えることがある。

もし、あの時寛司に会わなかったら。月岡に出会わなかったら──。

あのドヤの片隅で、日雇い仕事を日々求め、あぶれれば酒と博打にうつつを抜かし、世間の片隅に埋もれて暮らす人生を送っていたに違いないのだ。

好事魔多し。人生一寸先は闇という言葉が時々脳裏に浮かぶ。絶頂期にある時こそ、足元をすくわれることは間々ある話だし、時に残酷な沙汰を下すのが神である。

寛司との決別は、その好例だ。

兄と慕い、恩人と思っていた寛司との仲を、あんな形で引き裂くとは、いかに神様が気まぐれで、残酷なものか──。

寛司があれからどんな道を歩むことになったのかは分からない。

経緯が経緯である。こちらから連絡を取るわけにもいかないし、寛司もまた完全に音信を絶ったからだ。

もっとも、会社を去るにあたっては、功労金を支払ったし、いままでの蓄えだってあるはずだ。それに有能な人間であったことは事実だし、寛司が職を求めれば、喜んで迎える会社もあるだろう。

これから先、どれほど困難な局面に立たされようとも、いまこの時の成功を思えば、大変な幸運を味わった時期もあったのだと諦めもできるだろう。しかし、ただひとつ、あんな形で寛司と決別した悔いだけは、生涯消え去ることはない。

そう思う時、決まって脳裏に浮かぶのは、「テン」、「カンちゃん」と呼び合い、貧しくとも、お互いが兄弟同然に付き合っていたこのドヤでの日々だ。

多分、ここを訪ねる気になったのは、そのせいかもしれないと、俊太はふと思った。

「社長……大丈夫ですかね……。こんなところに入ってしまいましたけど……」

ドヤの光景を目の当たりにするのは、はじめてなのだろう。

運転手が不安げにいう。

「道も狭いですし、酔っ払いが寝てるわ、ふらついているわ……。もしこんなところで事故でも起こしたら……」

俊太は噴き出しそうになった。

かつて、当たり屋稼業を生活の糧にしていた人間を後ろに乗せていることを知ったら、どんなに驚くだろうと思ったからだ。

「大丈夫、心配せんでええ。まっ、そうはいっても、人を轢いたら厄介なことになるさかいな、ゆっくり行ったらよろし。それから、気をつけなならんのは、人だけやないで。猫とか、鶏とかもな」

「鶏って……こんなところに、鶏がいるんですか?」

運転手が怪訝そうに問い返していたその時だ。

ふいに右側から、飛び出す人影が見えたかと思うと、次の瞬間サイドミラー越しにボンネットの上に身を投げてきた。

ドスンという音に重なって、急ブレーキの音が短く、鋭く鳴った。

当たり屋なんか、まだやっとるやつがいるんや。

次の瞬間、

「痛え、痛えよう」

と芝居がかった男の声が聞こえてきた。

運転手が、慌ててドアを開けようとするのを、

「君は出んでええ。わしが話をつけるよって」

俊太は制すると、ドアを開け、路上に立った。

見れば、汚れたティーシャツに、ジャージ姿の少年である。

まだ十代か。つるつるに剃り上げた頭をアスファルトの路面につけ、顔に苦悶の表情を浮かべながら、体をくねらせる。

「おい、兄ちゃん。若いうちから、こないな稼業に手を染めたらあかんで。そのうち、警察の厄介になるようになってまうで」

俊太は、苦笑いを浮かべながら声をかけた。

「なんだ、こら!」

想像だにしなかった反応だったのだろう。少年は凄まじい目つきで俊太を睨みつけると、ドスを利かせた声でいい、ゆっくりと立ち上がった。「人を撥ねといて、そのいいぐさはなんだ。立派な人身事故じゃねえか。警察呼ぶか? 目撃者は、ごまんといんだぞ!」

周囲にたむろしていた労働者に目を向ける。

「呼べるもんなら、呼んだらよろし」

「なんだと、ごるらああ!」

まるで、かつての自分を見るようで、俊太はふふふと肩を揺すって笑った。

「なに、笑ってんだよ!」

俊太はそれにこたえずに、

「お前、ここの住人か?」

おもむろに問うた。

「そ、それがどうした」

「仕事辞めて、ここで日雇い。汗水たらして小銭を稼ぐより、当たり屋やってあぶく銭を稼ぐほうが手っ取り早い。それで、獲物を探してたんやろ?」

どうやら、いつもと勝手が違うと感じたのだろう。

男はぐっと言葉に詰まり、俊太を睨みつけるばかりとなる。

黒目の位置のバランスが悪い。中央に寄っているのだ。

なぜか不良は寄り目になることが多いことを俊太は思い出した。

かつて自分もそうであったからだ。

なるほど、人生はなにがあるか、一寸先は闇いうのはほんまやで。

なんだか、俊太はこの少年を放っておけなくなった。

神様がかつての自分と、引き合わせてくれたような気がしたからだ。

拾われて、お前はここまできたんだ。今度はお前が拾ってやる番だと……。

「お前、相当荒んだ暮らしをしとるな」

俊太はいった。

「すさんだ、って……」

「何だ、荒むっていう言葉も知らへんのか。学校は中学で終わりか?」

少年が、恥ずかしそうに目をそらす。

「荒むっちゅうのはな、生活や気持ちが荒れる、捨て鉢になるってことをいうんや。お前の目を見りゃ分かる。不良の黒目は、なんでか分からんが寄るもんやからな」

「この……ジジイ……」

精一杯、声を荒らげてみせる少年だったが、もはや勢いはない。

「お前も、こないな車に乗りたいか?」

「乗れるわきゃねえだろ! 中卒にろくな仕事があるわけじゃなし──」

「わしも中卒や」

「えっ……」

少年は目を丸くして絶句した。

「このドヤに生まれてな。お前と同じことをして日銭を稼いでいた時期があってな」

「う・そ……」

「ほんまや」

少年が愕然として、口を開ける。その瞳から、人を威圧する光が急速に消えていく。

「ある人に拾われてな……」

俊太はいった。「人の出会いちゅうのは大切なもんでな。お前とこんな形で会うたのも、何かの縁やろ。まっとうな仕事に就きたい思うなら、仕事世話してやるが、どうや?」

「仕事って……どんな?」

「わしは会社の社長や。中卒でもできる仕事はなんぼでもある。『荒んだ』の意味も分からんほどや。勉強もからっきしなんやろが、わしかてそうやった。最初は雑用仕事になるが、それも同じ。そこから這い上がれるかどうかは、お前次第や」

「努力ったって、俺は……勉強できねえし……」

「勉強はできるに越したことはないが、人間の全てを決めるもんやない。誰でも、得手不得手があるもんや。不得手なものを嫌々やる必要はない。得手の部分を伸ばしていけば、必ず道は開ける。わしは、そない思うけどな」

「じいさん……本当に中卒なのか? 中卒で、運転手つきのベンツに乗れるようになったのか?」

「ほんまや。わしは嘘はいわん」

俊太は静かにいいながら、こくりと頷くと、「わしの話を聞きたいか?」

少年に問うた。

「うん……」

「長い話になる……。場所を変えて話そうか。わしを拾うてくれはった、ふたりの恩人との話をな……」

俊太は少年の肩にそっと手を置くと、開いたままになっていた車のドアに誘った。

〈了〉

※長い間、ご愛読ありがとうございました。本作品は小社より刊行される予定です。
※本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。