Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

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九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第十話

 その日は天理で一泊して、翌日は午前中しか取材の時間が残されていない。ぼくたちは再び車で五條市をめざし、南朝終焉の地とも言える賀名生を訪れることにした。賀名生と書いて「あのう」と読む。普通、読めないよね。もとの表記は穴生だった。これならわかる。改名したのは後村上天皇。京都奪還をめざす天皇は、「願いはかなう」ということで「賀名生(叶)」に変えたらしい。さすがは後醍醐の子、父に劣らず強引な男であったようだ。

 先にも述べたように、後醍醐の譲位を受けて後村上天皇があとを継ぎ、その後は長慶天皇とつづく。しかし新田義貞、楠木正成、北畠親房などの有力な武将を失い、南朝はしだいに衰えていった。一方、北朝は足利氏の援助のもとに勢力を強め、五代の天皇が即位することになる。一三九二年、足利義満は北朝の勢力を背景にして、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧める。京都に戻った後亀山天皇は後小松天皇に皇位を譲る。これにより六十年弱の南北朝の争いは収まり、南北朝の統一がなる。

 少し時代を遡ると、建武の新政の失敗のあと、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野へ入る前に、ここ賀名生に滞在したとされている(『太平記』)。また後醍醐のあとに即位した後村上天皇は、足利方の高師直に吉野を攻められ、行宮や社殿を焼き払われたために賀名生を皇居とした。一三四八年のことである。以後、一三五四年に河内金剛寺に移るまでの六年間が、後村上天皇賀名生皇居の時代ということになる。

 この時代も、いろいろあって面白い。一三五〇年、北朝の内紛に乗じて南朝側は京都奪回を開始する。一時は南朝軍が京都に入り、北朝の年号を廃して南朝の年号「正平」に統一するまでに至る。このとき北朝の公卿たちは争うように賀名生に参上したという。勝ち馬に乗ろうとするのは、いつの時代にも変わらぬ人の心情らしい。翌一三五二年には後村上天皇も賀名生を発ち、ここに南朝による統一がなったかに見えた。

 しかし足利軍の反撃は早く、たちまち京都は奪還され、後村上天皇の御陣も落ちる。このとき天皇は、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁を連行して賀名生に帰る。天晴れである。転んでもただでは起きないという感じだ。こうして賀名生の皇居には後村上天皇のほか、北朝の三上皇と皇太子が在居することになった。

 ところで天皇をはじめ高貴な人たちの在所であった賀名生の皇居だが、国の重要文化財として残る建物は藁葺き屋根の、見たところ普通の民家である。皇居というには質素だ。京都での華美な暮らしに慣れた公卿や女官たち、しかも不自由な山の暮らしとあっては不如意なことも多かっただろう。「あたし、もうイヤ!」と思ったのかどうか、天皇の女御が家臣と密通して逃走する、といった事件もあったようだ。

 そろそろ取材を切り上げなければならない。賀名生のもう一つの見所は梅林である。この梅が、いまちょうど見頃を迎えている。幸い天気もいい。ぼくたちは賀名生の歴史民俗資料館に車を停めて、しばし山里を散策。二万本とも言われる見事な梅が、丘陵の麓から中腹までを覆い尽くすように咲いている。この美しい梅を愛でながら、今回の旅は終わりとしたい。(旅日時:2016年3月9〜12日)

予告:次回より「裏ななつ星紀行」特別編 カリフォルニアを旅する「Senior Moter Drive」が始まります。