Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

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九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第二話

 天武天皇(大海人皇子)の后である持統天皇(在位六九〇〜六九七)は、頻繁に吉野へ行幸した天皇として知られており、記録によると三十一回も出かけている。もちろん桜を見に行ったわけではないだろう。たしかに吉野には離宮が設けられ、山遊びや船遊びが催されたことは、人麻呂の歌などからもうかがえるが、それだけが目的だったとは思えない。白川静は持統期の吉野行幸について、神事的な意味あいのものであったと述べている(『初期万葉論』)。

 柿本人麻呂がつくったとされる阿騎野の歌については、以前にも書いたことがある。そのときも一連の歌をめぐる白川静の解釈を紹介した。簡単にまとめておくと、軽皇子(かるのみこ、のちの文武天皇)が安騎野(阿騎野)に冬猟に出かけたのは持統六年(六九二年)のことで、当時、皇子は十一歳だった。天武崩御のあと、持統は息子の日並皇子(ひなみしのみこ、草壁皇子)を即位させようと考え、それまで地位を保全するために自らが女帝の位に就く。ところが日並皇子は皇太子にまでなりながら、天武が崩じた三年後に、即位をまたずして亡くなってしまう。そこで彼女は孫である軽皇子に皇統を継承させようとする。

 こうした意図のもと、持統の手によって周到に画策されたのが安騎野の冬猟だった、というのが白川の説である。猟が行われた安騎野は、父である日並皇子の、かつての猟地だった。その父は、天皇霊の保持者たる資格をもちながら急逝してしまった。父が狩猟を楽しんだ地へ赴き、日並皇子が保持していた天皇霊を呼び起こし、それと合一することで天皇霊を継承しようとした。つまり安騎野の冬猟は、血のつながった孫を天皇の位に就けるという、女帝持統の願いを成就するための儀式であった。同じように持統の度重なる吉野行幸も、多分に儀礼的・呪的な意味をもつ行動だったのではないか。白川は持統期の頻繁な行幸について、「それまでの吉野の歴史のなかでは説明することのできない異常さをもっている」と記している(前掲書)。

持統の吉野行幸は、ある間隔をおいて年中行事的な形で行われているが、白川によれば、このような季節的行事は、古代の中国においては招魂(魂振り)の儀式である。先に述べたように、吉野は古くから神聖な場所として崇められてきた。その土地に住まう神霊を呼び寄せる儀式によって、壬申の乱(六七二)の後の動乱期に、天皇王権を神聖なものとして絶対化しようとする意図があった、というのが白川の見立てである。吉野は記紀の昔から、天皇を現人神(あらひとがみ)とする王権を支えるための聖地として認知されていた、ということかもしれない。

ちなみに持統のあとの文武天皇(在位六九七〜七〇七)と元明天皇(在位七〇七〜七一五)の時代には、吉野行幸はあまり行われなかったようだ。再開されるのは元正天皇(在位七一五〜七二四)の時代で、つづく聖武(在位七二四〜七四九)で打ち止めとなる。こうした歴代天皇に随行した歌人が、人麻呂であり、金村や赤人、旅人、家持ということになる。(旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく