Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

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九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第三話

 こんなことにあまり深入りしていたのでは、旅が先へ進まないのだけれど、乗りかかった船なのでもう少し調べてみたい。

 ぼくが興味を惹かれるのは、吉野が初期の天皇制の歴史と深くかかわっている点だ。たとえば「吉野」という地名は、すでに『古事記』の中つ巻、神武天皇のところに出てくる。言うまでもなく、神武は記紀が記すところの初代天皇であり、皇室の祖先にあたる。『日本書紀』によれば紀元前七一一年に生まれ、紀元前五八五年に齢百二十七歳(!)で崩御したと伝えられる。もちろん実在を確認することはできない。なにしろ天孫降臨によって地上に降り立った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫であるから、大部分は伝説によって彩られていると考えていいだろう。

 ご存知のように、瓊瓊杵尊が降り立ったのは宮崎県の高千穂である。そこから神武一行は東へ東へ、はるばる大和をめざして進まなければならない。宇佐を経由して稲作の先進地域である筑紫へ、さらに瀬戸内海を通って河内へ、ここで豪族たちの抵抗にあったため、迂回して紀州へ向かったと記紀は記している。最後は大和を平定し、橿原宮(かしはらのみや)にて神武が即位。ここに天皇の元年がはじまる。その道中、先住の人たちの抵抗にあった一行は、八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野川の河口(現在の奈良県五條市あたりか)にやって来る。「簗(やな)を使って川魚を獲る漁師がいた」といった記述が見えるから、いかにも田舎である。秘境といった趣だったのかもしれない。

 現在でも、吉野へのアクセスは楽ではない。前に訪れた高野山のほうが利便はいい。とにかく吉野へ。京都からでも大阪からでも、まず橿原神宮前を経由して近鉄吉野線で終点の吉野駅まで行く。そこからロープウェイに乗ると吉野山駅に着く。てくてく歩いて黒門をくぐり、吉野信仰の中心地である金峯山寺(きんぷせんじ)をめざす、というのが一般的なルートだ。今回、ぼくたちは時間と体力の関係で車を使って入山、改修中の仁王門から散策を開始した。

 仁王門は南北朝時代に創建(現在のものは一四五六年に再建)された高さが二十メートルもある巨大な門である。ここに安置された二体の仁王像(金剛力士像)は、有名な東大寺のものと同様に立派である。しばらく行くと金峯山寺の本堂であり、また吉野山のシンボルでもある蔵王堂が見えてくる。一五九二年再建と伝えられる国宝である。金峯山寺の執行長である五條永教さんから、堂内を案内してもらいながらお話を聞くことができた。

 金峯山寺は七世紀後半に、修験道の始祖とされる役行者(役小角<えんのおづぬ>)によって開創されたと伝えられている。役行者は幼少のころから仏心が篤く、葛城山で修行を重ねたのち、金峰山頂(山上ヶ岳)において千日の苦行の末に、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得した(祈り出した)。この金剛蔵王権現の姿を、役行者は桜の木に刻み、山上ヶ岳と吉野山の二箇所に安置した。これが山上の大峯山寺と、山下の金峯山寺、二つの蔵王堂の起こりであり、吉野山全体に広がる寺社・霊場である吉野一山(金峯一山)の草創であるとされる。(旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく