Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

http://ura7tsuboshi.com

九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第五話

 蔵王堂を出たぼくたちは、西に石段を下って南朝妙法殿と呼ばれる八角堂へ向かう。右手に「吉野朝宮址」と彫られた石碑が立っている。このあたりに南朝の拠点となった皇居が置かれていた可能性が高いと考えられている。もともと金峯山寺(きんりんのうじ)運営の中心だった実城寺というお寺があったが、京都を逃れた後醍醐天皇が身を寄せた際に寺号を金輪王寺と改めた。「金輪」とは最高の位、すなわち天皇のことである、と五條さんが説明してくれる。

 吉野が最初に歴史の舞台に大きく登場するのは、六七二年の壬申の乱の前後と言っていいだろう。騒乱の原因は皇位継承であったとされる。ときの天智天皇は息子の大友皇子に皇位を継がせようとするが、これを不満とする大海人皇子(天智の弟で後の天武天皇)は地方豪族を味方に付けて反旗を翻した。反乱を起こしたほうが勝利するという、日本の歴史では珍しいケースである。しかし決着がつくまでには、いくらか紆余曲折もあったようで、一時は天智の意向を尊重して、大海人皇子は権力争いから身を引こうとする。そして出家して都から遠く離れた吉野に入る。『日本書紀』の記述は、いくらか大海人皇子に好意的かもしれない。実際は、大友皇子派の攻撃を恐れて仏教修行を名目に吉野に逃れた、といったところではないだろうか。

 時代は下り、源平の戦いが終わったあとの一一八五年には、源頼朝から追われた義経が静御前とともに滞在したという記録もある(『吾妻鏡』)。歌舞伎や浄瑠璃で有名な『義経千本桜』の中心をなすエピソードである。吉野の山奥に隠れている義経を、静御前が訪ねていく場面は、「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」や「吉野山」の題目でも知られている。「・・・題名にもかかわらず、原作の「道行初音旅」には、桜が咲いている場面は 一つも出てこない」ついでに言うと、『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説のなかにも、スクリームやシャウトのシーンは出てきません。悪しからず。

 それはともかく、こうした都落ち(あわよくば巻き返し)の歴史的文脈を踏襲するかのように、後醍醐天皇は南朝の本拠地を吉野に置く。もちろん現実的な利点も考慮されたはずだ。いまの感覚からすると、こんな辺鄙なところに都を置いてどうするんだと思うけれど、鉄道も自動車もない時代には、山奥は交通や情報網の面でかならずしも不利ではなかった。後醍醐の寵臣である楠木正成は河内を本拠としているし、紀伊・和泉の豪族、各地でゲリラ的な抵抗をつづけていた反幕勢力の支援も期待できたのかもしれない。また吉野を拠点とする僧兵や山伏を頼みとするところも大きかったと思われる。

 さらに前述のように、吉野は古来神霊のすまう霊地として崇められてきた。古くから天皇の行幸が繰り返された由緒正しい聖地でもある。役行者にまつわる不思議な伝承のことも知られていただろう。都を追われた天皇としては、吉野という土地に宿る霊力に縋る思いだったのかもしれない。(旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく