Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

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九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第六話

 ここで南北朝の動乱について簡単に整理しておこう。まず語るべきは後醍醐天皇だろう。在位は一三一八年から一三一九年。剛毅な性格にして才智に長け、しかも反抗的。この人が政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、各地の武士や有力者を扇動する。そして実際に政変を成し遂げ、短期間とはいえ公家政権を樹立してしまったわけだから、有言実行の人であったと言える。

 機を見るに敏なる人でもあったようだ。蒙古襲来ののち、鎌倉幕府は弱体化していた。幕府に不満を募らせる御家人も多かった。この機に乗じて彼らを結集し……だが倒幕の計画は事前に察知されて失敗する(正中の変)。天皇の意志は固い。ひそかに二回目を計画する。これも密告によって露顕。初犯には寛大だった幕府も、さすがに今回は見過ごしにはできぬと、六波羅探題に後醍醐の捕縛を命じる。身の危険を感じた天皇は、三種の神器を持って京都を脱出、笠置山に潜行して畿内の武士に決起を呼びかける。なんだかアクション映画なみの行動力である。しかし呼びかけに応じるものはなく、頼みの僧兵も動かず、圧倒的な兵力を擁する幕府軍の前に落城して捕らえられる(元弘の乱)。

 元弘二年(一三三二)、後醍醐天皇は隠岐島に流される。普通はここで諦めるだろう。後鳥羽上皇も流刑になった島で、ひっそりと余生を過ごそう。そう考えても不思議はない。年齢的にも四十代半ば、当時の感覚では出家や隠居を考えてもいい年格好である。だが彼は諦めなかった。下世話なことながら、生涯に十七人の皇子と十五人の皇女を儲けたと言われる多産な天皇である。生命力も旺盛だったのだろう。翌年には隠岐島を脱出して伯耆の船上山で挙兵、足利尊氏や新田義貞らの力を借り、ついに鎌倉幕府を滅亡に追いやる。その年(一三三三年)の六月、天皇は京都に戻り、皇居に入って、いわゆる建武の新政を開始する。

 こうして念願であった公家政治の復活を果たすわけだが、結果的に、新政は三年ほどしかつづかなかった。性急な改革や政策に無理があったと言われる。政務は停滞し、新政に期待した人々の失望と不満は高まった。これが尊氏の離反を招く。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、楠木正成や北畠顕家らの活躍もあり、一度は尊氏軍を打ち破るが、九州に落ち延びた尊氏は態勢を立て直し、大軍を率いて東上、摂津の湊川で楠木、新田の両軍を破り(正成は戦死、義貞は敗走)、ついに京都を制圧してしまう。

 このとき尊氏は後醍醐天皇を廃し、光明天皇を擁立する。一方、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗する。一時は尊氏と和睦をした後醍醐だが、わずか二ヵ月後に神器を携えて京都を出奔、吉野にこもって自らが正統な天皇位にあると主張した。不屈の人である。打たれても、打たれても立ち上がる。しぶといというか、往生際が悪いというか。こうして京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝の時代が幕を開ける。やれやれ。

 京都を脱出した後醍醐天皇が河内経由で吉野に入ったのは、建武三年(一三三六)の年の瀬も押し迫った寒い日だったという。天皇がまず身を寄せたのは、金峯山寺から少し離れた𠮷水院(現在の𠮷水神社)であった。ここが手狭になったために、実城寺あらため金輪王寺に移ったとされるが、詳しいことはわからない。明治維新の神仏分離令によって金峯山寺は一時廃され、大きく衰退してしまったために資料が散逸してしまったらしい。南朝の皇居となった金輪王寺も、廃仏毀釈の嵐のなかで廃寺となってしまった。

 人の計らいによってなされたことは儚い。世界各地に無数に残る遺跡や廃墟は、人為の儚さをいまに伝えているとも言える。吉野の山だけが、いまも昔と変わらず人を惹きつけつづけている。あとひと月もすれば山は桜に彩られ、今年も大勢の人が押し寄せるだろう。後醍醐天皇が一時身を寄せたとされる𠮷水神社には、「一目千本」と称される桜の名所があるそうだ。まだ開花ははじまっていないけれど、午後から足を延ばしてみることにしよう。(旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく