Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

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九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第八話

 午後からはまず𠮷水神社を訪れる。吉野に逃れた後醍醐天皇の一行が、最初に居を構えたとされるところで、豊臣秀吉の花見の宴では本陣にされるなどの歴史をもつ。食事をしたお店から十分ほどのところと聞いて、腹ごなしにてくてく歩きはじめた。

 吉野山の入口にあたる黒門のあたりから、ずっと商店街がつづいており、食堂の他に吉野葛やお菓子を売る店などが細々と商いをしている。酒屋さんの店先に、地酒と一緒に二日酔いに効くという漢方薬が並べてある。用心のために両方買う人もいるんだろうか、などと思っているうちに、𠮷水神社の石の鳥居が見えてきた。鳥居を抜けて急勾配の坂道を下ると、今度は上り勾配の石段があらわれる。

 石段を登りきったところが山門で、門を潜ると右手に「一目千本」と書かれた看板があらわれる。吉野の山を一望できる観光スポットである。吉野山が桜の名所となったのは、役行者が修行の末に感得した金剛蔵王権現を桜の木に刻み、蔵王像の本尊としたことに由来しているという。このために吉野の人々は、桜を権現様の御神木として大切に愛護してきたらしい。いまはシーズンオフなので、広場には人影もなくひっそりしているが、桜の季節にはさぞかし賑わうことだろう。

 神門をくぐって境内に入ると、右手に後醍醐天皇を祀る社殿、正面に日本最古と言われる書院造りの建物が並んでいる。足利尊氏の武家政権に対抗して南朝を開いた後醍醐は、この場所で多難な日々を送ることになる。そのころ天皇が詠んだとされる歌。

 花にねてよしや吉野の吉水の 枕の下に石(いわ)走る音

 宮司の佐藤素心さんに書院を案内していただいた。神職に就く前は、大阪府警の機動隊で指揮をとっておられたという、ちょっと変わった経歴の持ち主だ。吉野山には古くからの死者が数多く眠っている。死んだ者の魂が吉野の桜を美しくしているのだ。そんなお話が印象深かった。

 いまでは桜の代名詞にもなっているソメイヨシノだが、品種的には吉野とは関係がなく、徳川末期に江戸は染井の植木屋が「吉野桜」の名で売り出したものが、明治時代になってから「染井吉野」と改名されたらしい。三万本に及ぶと言われる吉野山の桜は、平安時代から人の手で植えられたもので、ほとんどは白山桜(シロヤマザクラ)と呼ばれる種類である。ソメイヨシノに比べると、名前のとおりちょっと白っぽい。その淡い色合いは、死者の魂が吉野の桜を美しくしているという、佐藤宮司の話にふさわしい気がする。

 書院には安土桃山時代に造られた「後醍醐天皇玉座の間」や、室町時代に造られた「義経潜居の間」が残されており、いずれも国の重要文化財に指定されている。ここで義経と静御前が過ごしたのは、たったの五日間だったと伝えられる。恋人と別れた義経は、さらに逃避行をつづける。

 能楽の「二人静」は、菜摘女に取り憑いた静御前の霊がシテとツレとなって一緒に舞うものだが、この「義経潜居の間」くらい舞台としてぴったりのところはないだろう。鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』には、鶴岡八幡宮で頼朝に舞を命じられた静御前が、義経を慕う歌をうたって頼朝を激怒させるというエピソードが出てくる。

 吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき

 (旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく