Yoshino 吉野|南朝終焉の地をめぐる旅

『世界の中心で、愛をさけぶ』の
片山恭一が行く

http://ura7tsuboshi.com

九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星」に疑問を持ち、真の旅を追求する「シニア・モーター・ダイアリーズ」今回は片山・小平のシニア二人組が吉野を旅した。

第九話

 𠮷水神社を見学したあと、ぼくたちは車に戻って如意輪寺へ向かう。歩くには少し距離がある。吉野山は桜にちなんで、入口の吉野山駅のあたりから山頂へ向かって、下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれるエリアに分かれている。商店や人家が建ち並ぶ尾根から東に谷を下ったところ、中千本の森に囲まれた場所に寺はひっそりとたたずむ。もとは金峯山寺の僧坊だったところで、裏山に後醍醐天皇の塔尾陵(とうのおのみささぎ)が残されている。如意輪寺が後醍醐天皇の勅願寺であったことから、ここに御陵が設けられたのだろう。

 後醍醐が吉野で過ごした期間は三年に満たない。しかもこの間、楠木正成や新田義貞といった忠臣を戦で失い、皇子たちもつぎつぎに絶命していく。天皇にとっては暗い悲痛な日々であっただろう。劣勢を覆すことができないまま、心身ともに疲れきり病床に伏す。余命を悟った後醍醐は、延元四年(一三三九)、十二歳の義良(のりよし)親王を後村上天皇として即位させる。そして自らは五十二歳の生涯を閉じる。京都奪回を悲願とした後醍醐の遺志により、その御陵は京都のある北を向いている。

 もう一つ、如意輪寺にちなんだ故事を紹介しておこう。正平二年(一三四七)、楠木正成の長男正行(まさつら)は足利尊氏との戦いに先立ち、死を覚悟の一族郎党を引き連れて如意輪寺を訪れる。後醍醐天皇陵に参ったあと、本堂の壁板に矢の先で辞世の歌を刻んで、自らの遺髪を奉納したと伝えられる。そのとき詠んだ歌を刻んだ壁板が宝物殿に残されている。

 かえらじとかねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる

 後日、旅から戻ったぼくは、八十二歳の母に吉野の話をした。後醍醐天皇や楠木正成にゆかりの地を訪れたことを話すと、さすがに皇国史観を叩き込まれた戦前の学童だけのことはある。後醍醐や正成にまつわる話をじつによく知っている。しかもそれをいまだ明快におぼえているのだから驚く。

 たとえば有名な「桜井の別れ」のエピソード。いま「有名な」と書いたけれど、ぼくは全然知らなかった。母に教えてもらって調べたところ、建武三年(一三三六)、湊川の決戦に向かうにあたり正成は長男正行に今生の別れを告げる。正行は父と一緒に戦に出向くことを願ったが、正成は「あとに残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて母の待つ河内へ帰す。時に正行は十一歳。このときの場面をモチーフとしたモニュメントが、そういえば如意輪寺の境内にもあった。

 母が別室からなにやら取り出してきた。『懐かしの歌謡曲集』という文庫本サイズの歌本で、副題に「明治・大正・昭和のヒット曲集」とある。ページを開いてうたいだした。

 青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
 木の下かげに駒とめて 世の行末をつくづくと
 しのぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か

 以下、歌詞は六番までつづく。歌のタイトルは「大楠公」、明治三十二年(一八九九)に発表されている。三年ほど前に亡くなった父の持ち物らしい。ボールペンで歌詞の訂正などが施され、明らかにうたった形跡あり。ページをめくると「鉄道唱歌」や滝廉太郎の「花」、「荒城の月」などが出ている。まさに流行歌だったのだろう。そういう時代、そういう世代だったのだなあ。  (旅日時:2016年3月9〜12日)>>つづく